Ⅴ
食器を洗い終えたタイミングでお母さんが台所に入り、代わりに食器を拭いてくれた。
キヅナさんから大事なお話がある。
それが私に関する問題だと食事中に伝えられたから気を遣ってくれたのだと思う。食器を片付ける音がいつもより小さいことから、お母さんも耳を傾けているのが分かる。
「それで、キヅナ様」
「呼び捨てでいいですよ。全く偉くないですし、まさかと勘繰っておられる神なる者でもありませんから」
「ハハ。若者のようで神聖とも取れる容姿から、どうにも崇高な存在に思えてならないのですよ。……それなら、キヅナさんでどうか?」
男性二人はもう打ち解けている。というより、二人とも初対面の相手を受容する器量がずば抜けているのかもしれない。私とお母さんはともかく、キヅナさんとお父さんが揉めるような展開はこの先もないように思える。
そう、この先。
食事中、キヅナさんは自分の『正体』と『理由』について問われるのを避けるように話題を操作していたけど、「鍵を握っているのは一華ちゃんなのですよ」と私を特別扱いする発言が目立った。
それだけなら聖職者として信仰と奉仕を全うするのは当たり前だ、とされてきた今までと大きな違いはない。
だけど、ついさっき出会ったばかりの彼が、私のこれまでの人生になかった存在であるからには期待を寄せてしまう。
朝、学校に向かい、夜遅くまで聖堂を預かる責任を負って心身共に疲れがピークに達している。特に金曜日の夜。明日は学校が休みで、教会が開く三十分前まで毛布に包まってやると企む以上、早くシャワーを浴びて部屋に戻りたい気持ちは強い。
いつもならそうしているけど、今日はリビングに残る時間が長くなっている。
それを不満に感じていない自分も珍しい。
「キヅナさん、あなたが何者なのかを教えてもらえませんか?」
やっと切り出してくれたお父さんも明らかに疲労が溜まった顔。神父役も都市の代表も臨んでやっているとはいえ、おじさんの体力には限りがある。
……両親が無理をしているのを知っているから、私も今の生活をかなぐり捨てることができないでいる。
「三人とも、とても疲れている様子だ。確か金曜の夜はほとんどの人が眠そうな顔になるのでしたか」
「ええ。ですが、私は本望です。教会を守る大義を負い、家族も守れる。皆さんにも頼ってもらえる」
お父さんがいつにも増して優しい眼差しを向けてきて、思わずテーブルに視線を落とした。
こういうことを思春期の娘と未だにキヅナさんを警戒しているお母さんの前で堂々と言えてしまうから、お父さんこそ生粋の聖職者なのだと思う。
滅多に他人を疑わないせいで、キヅナさんの正体を本気で問い詰めてくれないんだけどね……。
「俺が何者かについてですが、さっきも言った通り『天使』で間違いありません。ただ、今回の問題にはあまり影響しないはずですので、浮世離れしたお兄さんくらいに思ってもらっても構いませんよ」
……また心を読まれてしまったの? キヅナさんはお父さんではなく、私を見てそう言った。
私たちが『人間』とは何なのかと問われても正確に答えられないように、彼も自分の正体を詳細に語る気はないみたい。
お父さんは今の回答に頷いた。私も、思うところはあるけど受け入れるしかない。彼をここへ案内したのも私だし……。
台所から傍観しているお母さんもキヅナさんから無垢な笑顔を向けられて「まあ、何もなければね……」と、少し頬を赤らめながら認めた。お母さん?
お母さんも元は信徒で、今や神父役のお父さんと肩を並べる聖職者だけど、怪しいものはちゃんと疑ってくれる。甘いお父さんとでバランスが取れているのだ。
お母さんこそ本来なら活発に外へ出掛けるタイプのはずだけど、体力がないから教会にこもる日がほとんど。私たちの食事も、食材は宅配サービスを利用している。
お母さんの体が弱いのは子供の頃からずっとではなく、私を産んでしばらく経ってかららしい。
「一華は何も悪くない」と言ってくれたけど、原因は私に決まっている。この時間に起きて行動している姿もなるべく見たくない。
私に『責任』はない。あったとしても、解決なんてできない。
それならもう、この煮え切らない気持ちと、献身をモットーとする芳野家の性を受け入れるしかなくなり、キヅナさんの言う雨を止める話が本当だとしても、それで何かが変わるなんて……。
「雨はいつから降り続けていますか?」
唐突に問うキヅナさん。心地良い声音でも私はつい目を見開いた。
「十年前からです。原因は不明。とにかく雨は十年間、一度も止んだことがありません。洪水などの災害や疫病が起きていない程度というのは幸いですが……」
お父さんは、まるで自分のせいで世界がこんな状況に陥ってしまったように申し訳なく答えた。片付けはもう終わったはずなのに、お母さんも台所で立ち尽くしている。
間違っても二人の責任なんかじゃないはずなのに。……でも、責任って何だろう?
「なるほど。お母さんの体力が衰えたのもその頃でしょうか?」
「そ、そうですけど……」
お母さんも不意を突かれて平静を装い切れない。
「十年間降り続ける雨、弱る人々、五つの教会……なるほど、なるほど」
キヅナさんは腕組み、ウンウンと頷く。
それから、今夜だけでも何度目かの円らな瞳で私を射抜き「良かったね、一華。同時に親孝行もできるよ」と言った。
何度も頷く彼とは逆に私は首を傾げるばかりだけど、お父さんは既にキヅナさんから希望を見出しているようで「あなたは、変えられるのですか?」と目を輝かせた。
嬉々とした様子のお父さんも珍しい。お母さんがこれだけ動揺しているのも珍しい。
私がこれだけ誰かに期待しているのも……。
ただ彼が目の前に現れただけで、私の世界は変化の兆しを見せていた。
「青空を取り戻す方法ならあります。ただ、俺がそれをやってしまうと物語性がなく、肝心の一華の心を救済することも叶わなくなるので、あえて手間を取りたいと思っています。三人が根っからの聖職者であるのなら、結果よりも道中が大切なのだと理解いただけるはずです。この世界は一華に救わせます」
キヅナさんが立ち上がり、一歩で私のすぐ傍に立つ。ちゃん付けをやめた彼の、私を特別扱いする発言も相まって急激に照れてしまう。
「ほいじゃ、失敬して」
「わっ」
彼の両手が私の首筋に回ると、そこから温かい熱を感じた。
その熱が感じるだけのものではなく、触れられるものとして形を成す。
数秒の閃光の後、私の胸に十字架のネックレスがあった。
見たこともないのに「星のよう」と思える穢れのない黄金色だった。
「これは……?」
「一華専用のアイテムだよ。それを駆使して君がこの世界を救う。俺はその手伝いをするだけ」
十字架に触れると高熱が感じられて短く悲鳴を上げるも、その熱が私を傷付けることはないと分かり丁寧に確かめた。とても綺麗で高価なものに思えるけど、これで世界が救えるなんて……本当に?
前に座るお父さんは十字架を凝視して固まっていた。多分本気にしている……。
「日付が変わったら外に集合ね。眠いだろうけど、すぐ終わるはずだから。お父さんとお母さんも是非。娘さんの勇姿を見届けてあげてください」
そう言ってキヅナさんは席を立った。私たちは一歩も動けず、彼を引き留めることもできなかったけど、彼の『正体』も『理由』もまだほんの一部分しか知らされていない以上は受け流すこともできなかった。
「キヅナさんは? それまでどこに?」
私の率直な疑問を受けて、キヅナさんは初めて不意を突かれたように円らな瞳をより丸くした。
扉を半開きにしたところで「俺の目に狂いはなかった。君は幸せにする価値がある」と答え、満面の笑み以外他に何も残さずに出ていった。
「一華、あなた……」
「違う! 違うから!」
激しく否定して、私もリビングを後にする。
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