僕らが君を守る理由

ファラドゥンガ

僕らが君を守る理由

 二十一世紀の末、遺伝子操作は善か悪かって問題提起する時代はとうに過ぎて、技術があるならば遠慮なく使うがよい、ということになった。家畜・家禽はより大きく栄養価の高いものになり、猫や犬はよりつぶらかな体型になり、僕らは疲れづらくなった。一日に、十分だけ眠れば、それで八時間はぶっ続けで労働に従事できるのだ。けれども、どうしても疲れてしまうような状況っていうのは、いつの時代にも存在するものである。例えば、動物園から逃げ出したサーベルタイガーに街中でばったり出くわして、因縁を付けられて追われる身となったときが、まさにそうだ。ストレスとパニックとで心拍数が上がって、疲れが一気に襲ってくる。





 「くそっ!なんで俺だけを狙って来るんだ、あの猫は!」


 全力疾走中、振り返る暇なんか無いがそれでも振り返ると、サーベルタイガーがこちらに鋭い牙と視線を据えて、まっすぐに突進してくる。体高たいこうだけで一メートルをゆうに超えている。全長はその四、五倍といったところか。


 「あのトラの変異種の大きさなんて気にしている場合でしょうか、ベン」と耳に装着していたイヤホンからアァルの声。


 「良かった、近くにいるのか?」


 「しゃべると呼吸が乱れます、今は一目散に逃げるべきです、私もできる限りのことをします」


 「だがお前はフィジカル・トレーニングの補助要員だろ?」


 「ええ、それゆえに…」

 そこでアァルとの音声が途絶え、ビル群の暗い路地裏から、キィンキィンと高い金属音を立てながら、アァルが姿を現し、必死に走る僕に並走した。

 アァルはこっちを向きつつ、

「こうしてリズムを崩さないように、ベンと一緒に走ることができます」と悠長なことを言った。


「トレーニング・メニューじゃないんだぞ!一大事なんだよ」


「ああ、また呼吸を乱しています!それではすぐに疲労が蓄積してしまいます!」


 所詮しょせんは、トレーニング用のロボットか……!





 サーベルタイガーは生き物とは思えないほどの恐ろしい呼吸音を立てて、徐々に距離をつめてきた。僕は相当なスピードで走っているつもりだが、いずれ追いつかれそうだ。やつもまた疲労を溜めないように操作されているに違いない。僕は十分前からつま先立ちに前傾姿勢、腕を後ろに伸ばして走っていたのだが、それでも振り切ることができなかった。そろそろ脚に乳酸が溜まってきて、心なしか動きが鈍くなってきた。


 僕の苦し気な表情と脚の動きの変化を察してか、アァルは「大丈夫ですか、ベン」という励ましの回数を増やした。


 「いや、駄目かもな」とスピードを何とか落とさずに応えた。すると、

 「ベン、私を購入したとき、あなたが私を一番大事にしてくれました」


 まるで別れの挨拶のようなセリフだ。こんな時にまた妙なことを言いやがって、と思ったが、こいつともこれで最後になるかもしれないと考えると、こみ上げてくるものがあった。


「安物のミシン油でメンテナンスして悪かったよ、アァル」


「あなたの経済事情を考えると、あのミシン油は当然の帰結です」


「ははっ、言ってくれるね……」


「ベン、あなたの体力は限界を迎えています。これ以上のランニングは健康的ではありません。私の目的はあなたの健康を維持すること、ゆえに……」


 アァルは立ち止まった。そして、両腕を大きく広げ、サーベルタイガーに挑みかかるポーズをとった。


「ここで、この化け物を止めます!さよなら、ベン!」


 サーベルタイガーの険しい眼光が、アァルの脳天を定めた。アァルの頭部はそんなに固くはない。直立二足歩行に設計されたロボットは、とにかく頭を軽くするように設計されているし、軽量で丈夫な超合金を使用していない。それは僕には高価で手が出せなかった。そして、アァルの命と言える記憶装置はあの頭の中にある。


「アァル!」


 僕は、飛び掛かってくる獣と、それを阻止せんとするアァルの真ん中に躍り出た。


 サーベルタイガーは、両手の鋭い爪で僕を押し倒し、首筋に牙を突き刺した。刺し傷に一瞬だけ熱を感じた僕は、その後、麻痺したようにただ茫然と吹き出る血を眺めていた。それでも僕の身体はしばらくもがいていたと見え、ジタバタと抵抗し続けた。

 そんな僕にサーベルタイガーはとどめの一突きを……————





 ……——は避けられそうにない。でも、まだアァルが残っている。急いで現場に向かわなければ。





「ベンッ!」


 アァルは諦めていなかった。僕のぐったりした姿はどう見ても虫の息だったのだが。

 サーベルタイガーは口を開けて、噛みついていた僕の首を地面に落とすと、喉を鳴らしながらアァルに近づいた。アァルは勇敢にも、一歩も下がろうとしない。


 仕方がない、僕は隠れていた路地裏から通りに出た。そして運んできたケースから、マルを取り出し、「走れ、マル!」とボーリングの玉のようにマルをほうった。サーベルタイガーの前をころころと、白くて丸い犬が転がっていく。

 つぶらかな、白い玉のようなマルに興味を惹かれたか、サーベルタイガーはマルの転がる方に付いて行った。


 身の安全を確認すると、アァルはへと駆け付け、そしてもう手遅れなのを確認して、壁にもたれている僕の方を向いた。


「ベン……、が死んでしまった」


「知ってるよ、記憶を共有していたからね」


「そこでずっと傍観していたのですか?」と、ちょっと咎めるような口調のアァル。


「仕方ないさ、僕は倉庫ストレージから出たばかりだから身体がなまっているし、あそこの僕の死は確定していたし、僕ら二人が死ぬっていう最悪のシナリオだけは避けないと」


 アァルは拳を握りしめて、

 「誰も死なない可能性が残っていたはずです、私が犠牲になることができれば、それで良かったのです」


「アァル、君が死んでしまうじゃないか」


「私はトレーニング専用ロボットです、死ぬ、という言葉は適切ではありません。それに、たとえ壊れて記憶を失っても、バックアップのデータを使用すれば作り直せたのです」


「悲しいことを言うなよ」


「ああ、本当になんてことを。あのベンの墓を建ててやりたいです」


「そんな金のかかること、出来るわけないだろ?生身はリサイクルだよ」


 アァルは、僕の言葉に納得できない様子だった。それもそうだ、もともとロボットは人命を守るように設定プログラムされている。この場合、守られたのはアァルの方だ。それが矛盾だと感じているのだろう。今は時代が違うのだ。


「アァル、君を助けたのは我が家の家計のためだ。生活のためには、命が大事だ、とは言ってられないんだよ。僕らは君よりはるかに安いんだから」


 僕ら人間は、遺伝子工学の進歩により複製できるようになった。生命活動の維持さえ制御コントロールできれば、材料費はなんてことない。特殊な金属でできたロボットの方が、よほど高価である。


 アァルはまったく納得していなかった。命、という概念がどうも大事らしい。あのロボットをつくった会社はどうして、さっさと時代に合わせて設定プログラムを書き換えないのか、と不思議に思う。けれども僕たちはアァルのああいうロボットくさい考え方が好きだし、結局、そういう設定プログラムが売れるんだろうな、と改めて実感した。

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