僕らが君を守る理由
ファラドゥンガ
僕らが君を守る理由
二十一世紀の末、遺伝子操作は善か悪かって問題提起する時代はとうに過ぎて、技術があるならば遠慮なく使うがよい、ということになった。家畜・家禽はより大きく栄養価の高いものになり、猫や犬はより
「くそっ!なんで俺だけを狙って来るんだ、あの猫は!」
全力疾走中、振り返る暇なんか無いがそれでも振り返ると、サーベルタイガーが僕に鋭い牙と視線を据えて、まっすぐに突進してくる。
「あのトラの変異種の大きさなんて気にしている場合でしょうか、ベン」と耳に装着していたイヤホンからアァルの声。
「良かった、近くにいるのか?」
「しゃべると呼吸が乱れます、今は一目散に逃げるべきです、私もできる限りのことをします」
「だがお前はフィジカル・トレーニングの補助要員だろ?」
「ええ、それゆえに…」
そこでアァルとの音声が途絶え、ビル群の暗い路地裏から、キィンキィンと高い金属音を立てながら、アァルが姿を現し、必死に走る僕に並走した。
アァルはこっちを向きつつ、
「こうしてリズムを崩さないように、ベンと一緒に走ることができます」と悠長なことを言った。
「トレーニング・メニューじゃないんだぞ!一大事なんだよ」
「ああ、また呼吸を乱しています!それではすぐに疲労が蓄積してしまいます!」
サーベルタイガーは生き物とは思えないほどの恐ろしい呼吸音を立てて、徐々に距離をつめてきた。僕は相当なスピードで走っているつもりだが、いずれ追いつかれそうだ。やつもまた疲労を溜めないように操作されているに違いない。僕はしばらく前からつま先立ちに前傾姿勢、腕を後ろに伸ばして走っていたのだが、それでも振り切ることができなかった。
呼吸は一定を保っている。が、そろそろ脚に乳酸が溜まってきた。心なしか動きも鈍くなった気がする。
僕の苦し気な表情と脚の動きの変化を察してか、アァルは「大丈夫ですか、ベン」という励ましの回数を増やした。
「いや、駄目かもな」とスピードを何とか落とさずに応えた。すると、
「ベン、私を購入したとき、あなたが私を一番大事にしてくれました」
まるで別れの挨拶のようなセリフだ。こんな時にまた妙なことを言いやがって、と思ったが、こいつともこれで最後になるかもしれないと考えると、こみ上げてくるものがあった。
「安物のミシン油でメンテナンスして悪かったよ、アァル」
「あなたの経済事情を考えると、あのミシン油は当然の帰結です」
「ははっ、言ってくれるね……」
「ベン、あなたの体力は限界を迎えています。これ以上のランニングは健康的ではありません。私の目的はあなたの健康を維持すること、ゆえに……」
アァルは立ち止まった。そして、両腕を大きく広げ、サーベルタイガーに挑みかかるポーズをとった。
「ここで、この化け物を止めます!さよなら、ベン!」
サーベルタイガーの険しい眼光が、アァルの脳天を定めた。アァルの頭部はそんなに固くはない。直立二足歩行に設計されたロボットは、とにかく頭を軽くするように設計されているし、軽量で丈夫な超合金を使用していない。それは僕には高価で手が出せなかった。そして、アァルの命と言える記憶装置はあの頭の中にある。
「アァル!」
僕は、飛び掛かってくる獣と、それを阻止せんとするアァルの真ん中に躍り出た。
サーベルタイガーは、両手の鋭い爪で僕を押し倒し、首筋に牙を突き刺した。刺し傷に一瞬だけ熱を感じた僕は、その後、麻痺したようにただ茫然と吹き出る血を眺めていた。それでも僕の身体はしばらくもがいていたと見え、ジタバタと抵抗し続けた。
そんな僕にサーベルタイガーはとどめの一突きを……————
……——僕の死は避けられそうにない。でも、まだアァルが残っている。急いで現場に向かわなければ。
「ベンッ!」
アァルは諦めていなかった。僕のぐったりした姿はどう見ても虫の息だったのだが。
サーベルタイガーは口を開けて、噛みついていた僕の首を地面に落とすと、喉を鳴らしながらアァルに近づいた。アァルは勇敢にも、一歩も下がろうとしない。
仕方がない、僕は隠れていた路地裏から通りに出た。そして運んできたケースから、マルを取り出し、「走れ、マル!」とボーリングの玉のようにマルを
身の安全を確認すると、アァルは倒れている方の僕へと駆け付け、そしてもう手遅れなのを確認して、壁にもたれている僕の方を向いた。
「ベン……、ベンが死んでしまった」
「知ってるよ、記憶を共有していたからね」
「そこでずっと傍観していたのですか?」と、ちょっと咎めるような口調のアァル。
「仕方ないさ、僕は
アァルは拳を握りしめて、
「誰も死なない可能性が残っていたはずです、私が犠牲になることができれば、それで良かったのです」
「アァル、君が死んでしまうじゃないか」
「私はトレーニング専用ロボットです、死ぬ、という言葉は適切ではありません。それに、たとえ壊れて記憶を失っても、バックアップのデータを使用すれば作り直せたのです」
「悲しいことを言うなよ」
「ああ、本当になんてことを。あのベンの墓を建ててやりたいです」
「そんな金のかかること、出来るわけないだろ?生身はリサイクルだよ」
アァルは、僕の言葉に納得できない様子だった。それもそうだ、もともとロボットは人命を守るように
「アァル、君を助けたのは我が家の家計のためだ。生活のためには、命が大事だ、とは言ってられないんだよ。僕らは君よりはるかに安いんだから」
僕ら人間は、遺伝子工学の進歩により複製できるようになった。生命活動の維持さえ
アァルはまったく納得していなかった。命、という概念がどうも大事らしい。あのロボットをつくった会社はどうして、さっさと時代に合わせて
僕らが君を守る理由 ファラドゥンガ @faraDunga4
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