ママの妹、私の叔母さん
春街はる
ママの妹、私の叔母さん
二月の寒さとマンション六階を襲う風から逃れるように扉の鍵を開けて玄関に入る。
「ただいまぁ」
ママと六つ年が下の妹である
いつもなら、すぐにママの「おかえりなさい」の声が返って来ただろうし、今日に限っては琴葉が私の帰りを待っていたはずで勢いよく駆け寄って来るとついさっきまで想像していた。それだけに、私の言葉ががらんどうに響く様はより寂しさを感じさせた。
ま、そのうち帰ってくるので靴を脱いで洗面所へ向かう。手洗いうがいをしてからリビングへ移動し、机の上に今日の戦果を並べていく。
今日は二月十四日、つまりはバレンタインデーだ。
友達と交換した定番のトリュフチョコやガトーショコラ、カップケーキ。面倒くさがりな友人の市販の板チョコ。それから担任の先生からクラスの女子たちでカツアゲしたモロソフと選り取り見取りなチョコレートが並んでいる。
妹が私に駆け寄ってくる理由はこれだ。琴葉ももう高学年で、以前と比べて姉にべったりということは減った。けれど、甘いものが特別好きなあいつのことだ。私が帰ると同時に目の前に現れて、チョコを追いはぎしていったに違いない。
「……はぁ」
そして、カバンの中にはもう一つ。
私の作ったチョコが残っていた。
渡すはずだった友達が休みで渡せなかったわけでも、多めに作った余りでもない。真っ先にこの一つを作ったし、もちろん渡す相手も決まっている。
なのに作った家に戻って来てしまった。
私から連絡する勇気はなくて。
でも、もし会えたのなら渡そうと思って持っていた。自分から行動しなきゃ、会えないとわかっていたのに。
自分の意気地のなさが情けない。チョコレートや気合を入れた薄桃色の包装紙、緑色のリボンに申し訳なくなってくる。
「……ぁぁ」
仰け反るようにソファの背に持たれかかった。そのままズルズルとお尻からずり落ちて行って、ソファとテーブルの間に挟まるような形で床にぺたんと座る。
こうしていると落ち着く。周りから見たら完全にだらけきっていた。実写版ぐでっとしたたまごである。
ママたちが戻ってくるまでもう少しかかるだろうし、せっかくなのでチョコでも食べようかな。テーブルに手を伸ばしたとき、メッセージアプリに着信があった。買い物に出かけたママからだった。
「え!」
トーク画面を開いて思わず声が零れる。
ママの妹――ねったんが今からここへ来るらしい。
はっと我に返る。無意識に立ち上がっていた。そして周りを見渡し、自分の恰好を確認する。さすがは実写版ぐでたま。ひどい有様だった。
未だに制服のままだし、リボンは中途半端にほどけているし、シャツの裾はだらっと外に出しているし、靴下とマフラーをそのへんに放り出している。コートをハンガーに掛けているのは偉い。
こんなところをねったんには絶対に見せられない。ねったんは気にしないかもしれないけど、私は見せたくない。
とりあえず着替えて、マフラーと靴下を片付けないと。
動き出した瞬間、インターフォンが無慈悲に鳴った。画面で確認するとねったんだった。
ママのばか! もっと早く連絡してよ!
二月の夕暮れという極寒のなか、寒さに弱いねったんを外で待たせるわけにはいかない。着替えている暇はとてもないので、制服を必死に整えて玄関へ向かう。その途中で靴下を拾って履き、マフラーは玄関から見えない場所に放り投げる。たぶんダイニングテーブルの下に飛んで行った。
急いで扉を開けると、ネイビーのダッフルコートに赤色のマフラーをしたねったんが小さく手を挙げた。
「よっす」
「ねったん! ごめんね、お待たせして」
「別にいいよ。だらけきってたんでしょ?」
「うっ……」
さすがはねったん。図星だった。
ねったんはママの八歳下の妹だ。だから今年三十歳のはずだけど、見えない。私の目には大学生にしか見えなかった。
「ねーさん、今いないんだって?」
「うん。ちょうど買い物に行ってて。何か用事だった?」
尋ねると、ねったんは手に持っていたピンク色のカラフルな紙袋を差し出してきた。
「ん」
「これって」
「ハピバレ」
瞬時にはピンとこなかったけど、すぐにハッピーバレンタインのことか、と思った。
「ねーさんと琴葉ちゃんにも渡しといて」
「ありがとう。もしかして、このために?」
「まぁね。今年はたまたま今日来られたから」
毎年、ねったんは私たちにバレンタインのチョコレートをくれる。といっても、いつもバレンタインデーより早かったり遅かったり、一番ズレていた時は一月中にくれたこともあった。なので当日にもらったのはこれが初めてだった。
「それから、これはあんたに」
「え?」
もう一つ、差し出された白い紙袋を受け取る。紙袋を見てすぐに誰しもが知っている高級なチョコレートだとわかった。
「これ、ディーヴァのじゃん! いいの?」
「いいよ。あんた、前に欲しがってたでしょ」
その言葉に一瞬だけ返事に詰まってしまった。
「覚えてくれてたんだ……」
「まぁ、ね。約束してたし」
小さく短く吐いたねったんの息が玄関の光に照らされて白くなっているのがわかった。よく見ると鼻の頭も少し赤くなっているように見える。
「あ、えーっと、ここだと寒いし、ねったん上がってく?」
「いや、いいよ。ねーさんもいないし、もう帰る」
「そっか。そう、だよね」
私がねったんをこの場所に留まらせる意味。ぐるぐると考えていると、ねったんがため息を吐いた。仕方ないなと肩を竦ませて微苦笑する。
「わかったよ、ちょっとだけだかんね」
「……うん」
ねったんは優しい。その優しさの柔らかな水が胸の裡に染み込んでくる。ねったんの優しさが浸透した分だけ自分の狡さが滲むようだった。
「あったかいね」
リビングにやって来たねったんはコートを脱ぎマフラーを外してつぶやいた。そしてテレビの正面にあるソファに腰を下ろす。
「ねったん、何か飲む?」
「別にいい。来るときにスタダ寄ったから」
「もしかして」
「そ、限定の」
「いいなぁ」
たしか今はバレンタイン限定商品の第二弾でオペラフラペチーノだったはずだ。ねったんの隣に座って話を聞く。
「どうだった?」
「うーん、まあまあかな。甘すぎなくてよかったよ」
「へぇ」
「あと、店員さんが可愛かった」
「いや、それ味関係ないし……」
なはは、とねったんは楽しそうに笑う。そして机の上に並べていたチョコに視線を移すと、そのうちの一つを摘まみ上げた。
「これさ、あんたがもらったの?」
「うん、交換した」
「最近の子はすごいね、大量だ。乱獲だ」
「乱獲って……ちゃんとしたフェアトレードだよ」
もらったチョコレートの紙袋や箱を手に取っているねったんに、私の心臓が跳ねる。鼓動が早まる。
出番がないと思っていたチョコレート。自分からは作り出せなかった機会を何の因果か神様が作ってくれた。今、渡さないでいつ渡すのか。自分自身を奮い立たせる。
「ね、ねったん!」
「ん?」
ねったんが不思議そうに首を傾げ、私を見つめる。
カバンを手に取り、中からチョコレートの入った箱を取り出す。やばい、少しだけ手が震える。
「これ」
差し出すと、ねったんは少し驚いたように目を大きくさせた。すぐに居心地悪そうに視線を逸らす。
「あんた、言っとくけど本命は――」
「わかってる。だから違うから」
「んなこと言われても、これどう見ても」
「義理だから」
半ば押し付けるようにねったんの手に箱をぐいと押す。
「だけど」
「違う」
「いやいや」
「本当だって。ぎ、ギリギリ義理……なんちゃって」
とっさに思い付いたフレーズを口にすると、強張っていたねったんの表情がふっとやわらいだ。
「わかったよ、そういうことにしてあげる」
根負けしたように受け取ってくれた。
「ありがとね」
「……うん」
よかった。
受け取ってくれてほっとした。それだけで満たされるようだった。
「それじゃ、そろそろお暇しようかな」
「せっかくだし、ママが帰ってくるまで待ってたら?」
「うーん。ねーさん、夕飯を食べていけって言って、結局遅くなりそうだし、今日は帰ろうかな」
「……そっか」
「うん。あんたにもらったチョコ、帰って食べたいしね」
にっとねったんが悪戯っぽく笑みを浮かべる。
ゆっくりと立ち上がってコートとマフラーを身に着け、「あ」とねったんは何か思い出しかのような声を零した。
「これ中に手紙とか入ってないよね?」
「……!」
その手があったか。
「その手があったか、みたいな顔しない」
「うっ……」
「それ、完全に本命だからね」
そうか、そうなってしまうか。良いと思ったけど、ねったんが受け取ってくれないなら悩ましいところである。
玄関を一緒に出て、エレベーターまでついていく。
「それじゃあ、また」
「うん」
「ねーさんと琴葉ちゃんによろしく」
来た時と同じように小さく手を振るねったんに、私も手を振り返して帰っていくねったんを見送った。
だけど、すぐには部屋に戻らずに廊下の腰壁からマンションの入り口を見下ろす。ちょうど、ねったんが出てくるところだった。駅の方へと歩いていくねったんの姿が完全に見えなくなり、ふっと息を吐き出して暗く寂れた冬空を見る。
今年のバレンタインデーはいつもと少し違うバレンタインデー。
いつもりより少し甘いバレンタインデーとなった。
私の好きな人。ママの妹、私の叔母さん。私のねったん。
いつか、この想いをチョコレートとともに、ねったんが受け取ってくれる日は来るのだろうか。
ママの妹、私の叔母さん 春街はる @haru-haru77
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