第四章 本当のこと
四-一 本当の名前
校門の前で俺に抱きついたまま、よしのんさんはいつまでも泣き続けていた。しかし、だんだん暗くなってきたし、ずっとこうしているわけにもいかない。
「よしのんさん。もう家に帰らないと」
「帰らない」
「帰らないってどうする?」
「帰れない。お父さんとは顔を合わせられない」
困ったな。俺が余計なことを言ったせいで、知らなくていいことに気づかせてしまった責任がある。でも、帰らないと言われても、どうしようもないし。
「おい、どうした」
通用口を閉めるためにやって来た先生が、こっちを見ている。あれは確か体育のブッチマンだ。すぐにブチ切れるからブッチマン。まずい。
「学校のまん前で、堂々と何やってるんだ」
「なんでもありません。大丈夫です」
「二年生の西原か? そっちは、他の学校の生徒さんみたいだが、泣いてるのか?」
「いや、ちょっとコンタクトがずれて、目が痛いだけです。大丈夫です」
「学校の水道使うか?」
あろうことか、通用口から道路に出てきた。
「だ、大丈夫です。もう帰りますので。よしのんさん、行こう」
抱きついているよしのんさんの手をはがして向きを変え、背中を押しながら、あわてて校門前から離れた。
「もう遅いから、寄り道せずに帰れよ」
「はい! さようなら!」
「他校の先生に怒鳴り込まれたりすると、大変なんだからな。面倒起こすなよ!」
「大丈夫です!」
そのまま、早足で逃げるように駅までやってきた。しかし改札口の方に行こうとすると、またぐっとしがみついてきて動かなくなる。
「どうしても、帰らないのか」
黙ってうなずくよしのん。
「ファーストフードに入るか」
「うん」
そのまま駅前にあるファーストフード店に入り、コーラを二つ頼んで席につく。この店では、「芽依は浮気なんかしない」と叫んで走って行ってしまったり、修学旅行のお土産を渡したり、いろいろあったが、とうとう泣きべそかいたまま連れてくることになってしまった。
「家に帰らないって、どこに泊まるんだ?」
「……どこでもいい。ネットカフェでも、ファミレスでも」
「そんなわけにいかないだろ」
「じゃ、蓮君の家に泊めて」
「うち? いきなりそれは」
「なら野宿する」
「どうしてそうなる?」
コーラには手もつけずに、下を向いている。
「そうだ。お姉さんのところに行ったら」
デザイナーをしているお姉さんは、都内で一人暮らしをしているはずだ。家に帰らなくても、お姉さんのところなら安心できるはず。
「お姉ちゃんのところ?」
「一人暮らししているんだろ?」
「お姉ちゃんには、迷惑かけられない。もし彼氏が一緒に住んでいたりしたら困るだろうし」
お姉ちゃんには迷惑かけられないけど、俺にはいいって、それどういう基準だ?
「それに、お姉ちゃんのところに行って、なんて説明しよう」
「家出の理由?」
「お父さんに実の娘じゃないって言われた、なんて、お姉ちゃんに言えない」
「そ、そうだな」
「それに、もしお姉ちゃんから『あなたが、お父さんの娘じゃないなんて、みんな知っていたよ』とか言われたら、もっとつらいし……」
それは確かにそうかもしれない。
「じ、自分の子供だって、ひぐっ、認めてもらえなくて、ひぐ、ひ、行くところなんて、ひぐっ、もう無いよ!」
テーブルに突っ伏して、また泣き始めてしまった。
周りのお客さんの視線がこわい。隣の女子高生グループは、露骨にこちらを見ながら話している。
「……自分の子供だと認めないんだって」
「あの子、妊娠しちゃったのかな」
「あの男の子が、自分の子じゃないって言ってるんじゃない」
「サイテー! 女の敵」
ちょっと待て、なんでそうなる? 誤解だ、誤解。
「あ、こっち見た」
「目が合うとやばいかも。行こう」
立ち上がって行ってしまった。俺、何にも悪いことしてないのに、なんでいつもこうなるんだ?
突っ伏して泣いているよしのんさんの肩に手をかけると、小刻みに震えていた。
「なあ。俺が家まで送って行ってやるから、もう帰ろう」
「蓮君が?」
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「着替えも何も持ってないんだろ。今日は一旦家に帰ろう。お父さんと顔合わせたくないって言っても、どうせ部屋に閉じこもっているんなら、大丈夫だろう?」
「……」
「どうしても家にいるのが嫌になったら、うちの親にも話をしてみるよ」
「……蓮君がついて来てくれるなら。帰る」
やれやれ。
でも、やっぱり家出するってなった時、うちに連れてくるなんてできるのかな? 親にはなんて説明しよう?
***
俺の高校の最寄り駅から私鉄に乗って都内に入り、別な線に乗り換えて十分ほどの駅で降りる。閑静な住宅街の細い道を、小さな子供のようによしのんさんの手を引きながら歩き、駅からそれほど離れていない一角で立ち止まった。
「ここ」
表札には、小さな字で「百合」と書かれていた。
「百合? 本当に百合って苗字だったんだ」
「うん」
「下の名前は?」
「良子。百合良子が本名。遊園地に行った時は、ずっと本名で呼んでもらえて嬉しかった。本当の彼女になれたみたいで」
なんてこった。フリをしていると思っていた時が、一番本物だったなんて。
「送ってくれて、ありがとう」
「おやすみ。つらかったら、すぐにメッセージでも、電話でもしてきて」
「ねえ。一つお願いがあるんだけど」
「何?」
門の内側で下を向いたまま、もじもじしている。
「私のこと、よしのんさん、って呼ぶでしょ」
「あ、ああ」
「今度から、よしのん、て呼んで。そうでなければ、良子、って」
名前で呼び捨て?! なんか、すごいドキドキする。
「さん、て呼ばれると、なんか他人行儀だから」
「うん。じゃあ、よしのん、にする」
「ありがとう。おやすみ、蓮君」
少し微笑んでいる。
「おやすみ」
「ちょっと! ちゃんと名前も呼んで、おやすみって言って!」
せっかく微笑んでいたのが、眉をしかめて口を尖らせてしまった。
「あわわわ。お、おやすみ、よしのん」
「うん」
また少し微笑んで、ドアの向こうに入って行った。
駅に戻る道を歩きながら、今日の出来事を思い返していた。学校の前で、よしのんが俺に助けてと言って来た時、俺は彼女を守りたいと思った。でも、俺は彼女のことを、本当はどう思っている?
ツンデレで、思ったことはズケズケ言ってきて。間違いなく美少女、だけど、とっても気遣いもするし、料理も上手。ずっと一緒にいるから、すっかり慣れっこになっていたけど、俺にとってよしのんは、何なんだ?
クリスマスツリーの下で、初めて会った時のことを思い出した。ピンクのバラを持って、輝くような笑顔で笑っていたよしのん。胸の奥がきゅっと締め付けられるような感じがした。
あの笑顔を、また見たい。これからも見ていたい。よしのんの小説のように、よしのん自身をハッピーエンドにしてやりたい。
俺、やっぱり、よしのんのことが好きだ。
四-二 科学の子
よしのんを家まで送った翌日。
今日は『わかとめいを巡る迷推理……?』の投稿日のはずだが、よしのんからの投稿はない。ポストもない。メッセージは、昨日の夜に何通も来たが、今朝はまだ来ていない。
大丈夫だろうか。いまごろ、何をしているのだろう。
「どうしたの? なんか朝から元気ないけど」
「あ、いや、なんでもない」
教室でぼうっとスマホを見ていると、石沢さんが心配そうにのぞきこんできた。
「んー。西原君って、なんか抱えている時は、すぐわかるのよね。何に悩んでるのかはわからないけど。チーム西原なんだから、悩んでることがあれば聞くよ」
どうしたらいいのか全然わからないし。答えがあるとも思えないけれど、聞くだけ聞いてもらったら気が楽になるかな。
「ありがとう。実は、友達がちょっと悩んでてさ」
「うん」
前の席の生徒が、まだ来ていなかったので、石沢さんは横向きにそこに座って、こちらを向いた。
話すにしても、石沢さんはよしのんに会ったことがあるから、誰のことかは知られないようにしないとな。
「その友達が、父親からお前は実の子供じゃないって言われたんだって」
「えっ? なんで?」
「この間、修学旅行で山本さんが言ってただろ。血液型がO型の親からはAB型の子は生まれないって。まさにあの組み合わせの血液型なんだって」
「ええっ、本当にそんなことがあるの?」
目をぱちくりしている。俺だってよしのんから聞くまで、本当にいるとは思わなかった。
「本人は、ずっと本当の父親だって信じてたから、突然わかって混乱している」
「うーん……。お母さんは何て言ってるの? そんなことはないって、お母さんが言ってくれれば問題ないよね」
「母親は、ずっと前に離婚して家にいないらしい」
「離婚! それじゃ確認することもできないの?」
「どうしたらいいと思う?」
「うーん……」
そうだよな。答えなんてないよな。
黙ったまま、二人で腕組みをして向き合っていると、ふいに後ろから声がかかった。
「それ、遺伝子検査した結果?」
「えっ?」
振り向くと、山本さんがこちらを見ていた。
「ABO血液型だけで判断するのは危険だよ」
「どういうこと? この間言ってたのは嘘なのか?」
「嘘ではない。普通は遺伝子の組み合わせで、O型の親からは、AO型のA、BO型のB、OO型のOしか生まれない」
「う、うん」
「ただ、通常は二組ある遺伝子上のそれぞれに、A、BまたはOの遺伝子が一つずつ乗っているはずが、AとBの両方の遺伝子が同一染色体上に乗る人がごく稀にいて、シスAB型と呼ばれている」
「う、うん?」
「わかりやすく言えば、AB型遺伝子を持っていると言ってもいい」
「ごめん、よくわからなくなってきた」
山本さんは、ノートを取り出して何本も線を引き、A、B、A+B、Oと記号を書いて説明し始めた。俺と石沢さんは山本さんの席に近づいて説明を聞く。
「ポイントになるのは、片方の親がシスAB型だと、もう一方の親がたとえO型であっても、子供はAB型遺伝子を引き継いで、シスAB型になる可能性があるということ。つまり、AB型とO型の親からAB型の子供が生まれる可能性はある」
「そんなことがあるんだ!」
「ごく稀ではあるけど、可能性としてはありうる」
「それって、どうすればわかる?」
「正確な判定には、DNA検査をする必要がある。口の中の粘膜を取って検査をする方法で、九九%以上の精度で判定できるから、裁判の証拠にもされている。実施している機関は、DNA検査で検索してみればすぐに出てくるはず」
「ちょっと待って」
スマホで検索してみると、いくつも検査機関が出てきた。
「本当だ。親子判定検査キットなんてのがある。二万円から七万円くらいか。ちょっと高いけど、できない金額じゃないな」
もしかして本当の親子かもしれないのなら、やってみる価値はある。
「ありがとう! やってみるように、友達に勧めてみるよ」
「山本さんて、すごいね。本当に何でも知ってるんだ」
石沢さんが感心していると、無表情だった細い目が、ふっとゆるんで微笑んだ。
「何でも知っているわけではないけど。遺伝子工学に興味があるから、ちょっと本で読んだことがあっただけ」
「そう言えば修学旅行でも、遺伝子がなんとかって博物館に見に行ってたっけ」
「うん。すごく面白かったよ。遺跡から発掘された人骨のDNAを分析すると、現代人のDNA分析結果と付き合わせて、どこの国や地域に住んでいる人達とつながりがあるのかわかってくるとか。実際に縄文人のゲノムDNAの分析は随分進んでいて……」
石沢さんが辛抱強く、うんうん、と聞いてあげるので、山本さんは延々としゃべり続けていた。やっぱりリケジョってすごいけど、付き合うのは大変そうだな……
教室を出て自動販売機の横に行き、さっき調べた検査機関のリンクと一緒に、DNA検査を受けるように父親に勧めてみてはどうか、とよしのんにメッセージを送った。血液型だけで親子関係がないと判断するのは、まだ早いという長文の説明も付けて。
メッセージには、すぐに既読が付いて、電話がかかって来た。
「これ、どういうこと?」
「ああ。まだ、本当の親子だという可能性があるってこと。ABO型だけじゃなくて、ちゃんとDNA検査をしたら、本当のお父さんだって証明されるかもしれない」
「そうなの?」
「ああ。やってみる価値はあると思う」
少し間があって、小さな声が聞こえた。
「わかった。お父さんに話してみる」
***
週が明けて月曜日の放課後。俺は教室の前の廊下で、成瀬さんが出てくるのを待っていた。
全国オンライン学生文芸コンテストは、先週の金曜日が応募締め切りだったが、成瀬さんからは何の連絡もないので、ちゃんと提出できたのかどうか気になっている。結局、今日一日、一度も話をする機会がなかったから、ここで待っていることにした。
廊下の先では、三組から美郷が出てきて、近くにいた女子に声をかけているのが見えた。
「今日、帰りにカラオケ行かないか?」
「ああ、ごめーん。今日は先約があるんだ。また今度誘ってー」
「そうなんだ。じゃ、また今度」
その女子が行ってしまうと、次は二組から出て来た別の子に声をかける。
「お、茜! 今日ヒマ?」
「あー、ちょっと今日はー」
「なんだよ、こないだもダメだったし、最近付き合い悪いな」
「あー、最近忙しいんだよねー」
この女子も、そそくさと行ってしまった。
「チッ! 最近、付き合いの悪いやつばっかりだな。あんなブサイクのくせに」
壁を蹴ってから、こちらに歩いて来た。なんか荒れているな。
「なんだよ。なに見てんだよ」
「いや、別に見てないから」
「ふん。どいつもこいつも」
ふてくされた様子で横を通り過ぎ、階段を降りて行った。
入れ替わるように、ようやく成瀬さんが二組から出てきた。
「あ、成瀬さん、成瀬さん!」
「はい」
俺の前で立ち止まるが、少しうつむいている。
「全オン文の締め切り、間に合った?」
「はい。修正箇所も少なかったですし、問題なく提出できました」
「審査発表は来月か。緊張するな」
「用事はそれだけですか?」
「あ、うん」
「他に用事がなければ、部室に行きますので」
なんかすごく他人行儀な言い方。別人のようによそよそしい。
「あ、忙しかった? ごめん」
うつむきながら立ち去ろうとしていた成瀬さんは、二、三歩先で立ち止まって、振り向いた。
「あの……」
「うん」
初めて、しっかりと俺の目を見て続ける。
「西原さんとの取引は、もう条件を満たしたので完了です。水晶つばさのことは、今後も誰にも言いませんし、よしのんさんのことも言いません」
「あ、ありがとう」
「これから、文化祭に向けて部誌の制作で忙しくなるので、もう関わらないで下さい」
意外な言葉に、しばらく声が出なかった。成瀬さんは、じっと俺の目を見ているから本気なのだろう。
「……え、関わらないでって」
「では、忙しいので」
くるりと向こうを向くと、また、うつむいた姿勢で足早に行ってしまった。
美郷のこと笑えないな。俺も成瀬さんに振られちゃった。
いや、違うな。成瀬さんは、よしのんに邪魔するなと言われたのを気にしているんだ。きっとそれで遠慮しているに違いない。俺がちゃんとしていなかったから、成瀬さんにも迷惑をかけてしまった。
がっくり落ち込みながら、階段を降りた。
四-三 届かぬ心
「西原君」
「は、はい」
翌朝、教室の席に座っていると、石沢さんが声をかけてきた。ただし、ピンと張り詰めた怖い声。いつもの石沢さんらしくない。
「ちょっと、一緒に来てくれる?」
「え、何ごと?」
「いいから来て!」
石沢さんに言われるままに、一階に降りて校舎裏に出た。
校舎裏のゴミ捨て場につながる通路は、ふだんはほとんど人が通らないので、内緒の話には都合がいい。でも、石沢さんが美郷に振られて泣いていたところでもあり、あんまり気分のいい場所じゃない。
「ねえ、ナルちゃんに何かした?」
通路の真ん中で、石沢さんは俺のことを睨みつけながら質問してきた。
「へっ? 何かって、何もしてないけど」
「昨日の放課後、一人で泣いてたよ。その前に、教室の前で話してたでしょ」
「えっ」
確かに廊下で話はしたけど、泣いていたってどういうことだ?
「ナルちゃんは親友だから、たとえ西原君でも、傷つけたら絶対に許さないよ」
その目は真剣だった。
「いや、誤解だ。成瀬さんを傷つけるようなことなんて言ってない」
「じゃあ、何の話をしてたの?」
「小説のコンテストに作品を出すことになっていたから、無事に提出できたかって聞いただけだし」
「それで?」
「逆に、俺の方がきついこと言われた」
「きついことって?」
「もう関わらないでって」
「えっ? 何で? やっぱり何かひどいことしたの?」
「してないって!」
全然信じてくれない。
「何もしてないけど、ただ……」
「ただ、何?」
「先週、学校の前で偶然、百合さんに会った」
「百合さんって……、あ、あの遊園地に来てた西原君の彼女さん?」
「そう」
石沢さんは、はっとした顔になる。
「百合さんとナルちゃんが、何か話をしたの?」
あのやりとりは、石沢さんには話せないな。よしのんの正体とか、いろいろ絡んでくるし。ちょっとぼかして説明するしかない。
「校門前で待ってた百合さんに、気を利かせてくれて、もう邪魔はしませんから大丈夫ですって言って、先に帰って行っただけ。部室で、成瀬さんの小説の感想を話してたから帰りが遅くなって、一緒に校門から出たところだった」
石沢さんは、くちびるを噛んでいたが、独り言のようにつぶやいた。
「やっぱり、そうなっちゃったんだ。私が悪かったのかな。最初に、彼女さんがいるよって言っておいたのに」
「やっぱりって、どういうこと?」
「西原君は、何にも感じてないの? ナルちゃんから何か言われなかった?」
「えっ? 何を?」
何を言っているのか、ぜんぜんわからない。
成瀬さんは、水晶つばさのコラボ小説の邪魔をしないで、と直接よしのんから言われて、確かに傷ついたかもしれない。でも石沢さんの言っていることは、それとは関係ないだろうし。
「そう。わかった。そういうことなら、西原君を責めてもしかたないよね」
「え、責めるって?」
「ごめんね、ここまで呼び出しちゃって。教室に戻ろ」
一人で納得しちゃったけど、どういうことだったんだ?
***
夜、自宅にいても、よしのんと打ち合わせができないので、続きを書くことができなかった。次の話の原稿は渡してあるので、本来ネームが上がってくるはずだが、あれ以来、よしのんは全く描けなくなってしまったようだった。
時間があるなら、受験生らしく勉強しなければいけないのだろうが、そんな気力もなくベッドに寝転んでいると、枕元でスマホが振動し始めた。よしのんからの電話だ。
「うまくいかない」
「どうした? お父さんが、DNA検査をやるって言ってくれないのか」
「それ以前に、まともに話を聞いてくれないの。蓮君に検査のこと教えてもらってから、もう二週間もたつけど、ぜんぜん話ができない」
「二週間も話ができないのか?」
「深夜まで起きてて、帰って来たところをつかまえても、もう疲れて眠いからって部屋に直行しちゃうし。週末、家にいる時は、ずっと部屋に閉じこもっててほとんど出てこないし」
「困ったな」
肝心のお父さんが話を聞いてくれないと、先に進まない。
「どうしたら、話を聞いてくれるかな」
「うむ。俺が行ったら、お父さん出てきてくれるかな?」
「蓮君が来てくれるの?」
「うん。客が来たら、さすがに部屋にずっと引きこもっているわけにもいかないだろ」
「どうだろう。出てくるかな?」
「第三者が行って、ちゃんとDNA検査してみるようにと説得したら、聞いてくれないかな」
具体的に、説得できる材料や根拠があるわけではなかった。でも、少しでも何かしないと。
「私の言うことは、全然聞いてくれないから、蓮君に来てもらうのはありかもしれない」
「いつ行けば、家にいる?」
「土曜日は、昼間も家にいる。深夜に帰ってきて、午前中は本当に寝てるみたいだけど、昼になると、ちょこっと食事することもあるから」
「よし。じゃあ、次の土曜日の昼に、よしのんの家に行くよ」
「ありがとう。そこまでしてくれるのは、やっぱり蓮君しかいないよ」
また涙声になってきた。最近、よしのんはすぐ泣くようになったな。
「どうってことないよ。家に来てご馳走を食べさせてくれたから、そのお礼もあるし」
「……ねえ、それって、食べ物で釣られただけってこと? それだけ?」
あれ? 一瞬で涙声が吹っ飛んで、いつものツッコミになっている。
「いや、それだけってことはないけど。え、なんでそこに引っかかる?」
「知らない! 蓮君のバカ!」
えー。なんで怒られるかな。
「とにかく、土曜日によろしくね!」
「わ、わかった」
四-四 覚悟
土曜日の昼。天気は快晴。「百合」と書かれた表札のかかる門の前に立って、呼び鈴を押した。庭に茂る木の中からは、セミの大合唱が響いてくる。
暴力的な日差しの下を駅から歩いて来たから、いくら拭いても、汗が止まらない。
よしのんと電話してから今日ここに来るまで、どうやって説得するかをずっと考えていたが、作戦は全く出来ていなかった。とりあえず、山本さんに教えてもらった遺伝子と血液型の解説ページと、DNA検査の紹介ページの印刷だけは持ってきたが。
まあ、誠心誠意、ぶつかって行くしかないよな。
玄関ドアを開けて、よしのんが降りてきた。
「ありがとう。来てくれて」
「お父さんは?」
庭に面した窓の方をちらりと振り向く。雨戸が締め切られたままだ。
「いつも通り深夜に帰ってきて、ずっと部屋にこもってる」
「そうか」
「上がって」
門の内側から見える庭は、一面に雑草が生い茂っていた。
玄関に入ると、家中に聞こえるような大きな声で、よしのんが呼びかけた。
「パパ。お客さん来たわよ」
返事はない。
「お邪魔します」
「とりあえず、リビングに行こう」
きれいに片付いているが、少し殺風景な部屋の中にソファとテーブルが置かれている。クーラーが効いているので、勧められるままにソファに座ると一瞬で汗が引いた。
「歩いてきて暑かったでしょ」
氷を入れたグラスに麦茶を注いで持ってきてくれた。
「うん。外を歩ける気温じゃないな」
「パパの部屋に行って、呼んでくるから、ちょっと待ってて」
「わかった」
廊下の先に歩いて行き、ドアをノックしている。
「パパ。お客さんが訪ねて来てるよ。出てきて。パパに話があるから」
「……」
「わざわざ来てくれてるんだよ。顔くらい見せないと失礼じゃない」
「……」
「大事な話があって来てるんだから、出てきて」
部屋のドアを開ける音がして、足音が近づいて来た。いよいよ直接対面か。
リビングに入り俺の顔を見た途端、お父さんは少し目を見開いて動きを止めた。俺は、ぴょんと飛び上がって、ソファの前に立つ。
「誰だ君は? 良子。客が来ると言っていたのは、こんな学生のことだったのか?」
「そうよ。私とパパのことで、大事な話があるから来てもらったんだよ」
「大事な話?」
「蓮君。お願い」
「あ、あの。西原蓮といいます。初めまして」
頭の上からつま先まで、じろりと見られた。
「君は良子と、どういう関係なんだ? 同級生か」
「いえ。学校は違います」
「学校が違うなら、どんな関係だ?」
漫画の原作を書いているパートナー? 彼氏? なんて答えよう。そもそも、よしのんが漫画を書いていることは、お父さんに言っていいんだっけ?
「ネットの趣味の集まりで知り合ったの」
よしのんが横からフォローしてくれた。そういう言い方か。まあ、嘘ではないな。
「ネットで? どこで知り合ったのか知らないが、何の話があるんだ」
「あの。り、良子さんと、お父さんの血液型のことでお話があります」
「血液型がどうした」
「ね、パパも蓮君も、座ったら?」
お父さんは黙って角の椅子に腰を下ろす。俺とよしのんは、長いソファの方に並んで座ったので、斜め隣でお父さんと向き合う形になった。
「良子さんから聞いたんですけど、お父さんがO型で良子さんがAB型だから、本当の親子じゃないってお話をされたのは本当ですか?」
お父さんの顔色が変わった。
「良子。そんな話を他人にしたのか?」
「蓮君は他人じゃないもん」
「そうか。そういう関係か。で、君は何が言いたいんだ?」
いや、他人じゃないとか、そういう関係かって、どういう関係だと思った? まだ何にもしてないぞ。
「あ、あの、良子さんとは、まだそういう……」
「その話はいいから! 血液型の話!」
「わ、わかった。あの、良子さんのお母さんの血液型は何だったんですか?」
「それを聞いてどうする?」
「もしかして、AB型だったんじゃありませんか」
「……そうだ。あの女はAB型だったが、それがどうした」
よし。可能性はあるぞ。
「あの、良子さんとお父さんのDNA検査をしたことはありますか?」
「DNA検査? そんなことするわけがないだろう」
「検査したら、もしかすると、良子さんと本当の親子という結果が出るかもしれませんよ」
「何を言ってるんだ?」
「AB型の血液型には、シスAB型というのがあって、母親がシスAB型だと、たとえ父親がO型でも、子供がAB型になることがあるんです」
「なんだそれは」
「これを見てください」
遺伝子と血液型の解説ページの印刷をテーブルの上に置く。
「ABO血液型だけで判断するのは古いし、危険です。でもDNA検査をすると、本当に親子かどうかがわかります」
山本さんの受け売り。もう一枚、親子判定検査キットの紹介ページの印刷を出して、テーブルの上に並べて置いた。
「DNA検査を受けていただけませんか? 良子さんとお父さんは、本当の親子かもしれませんよ」
「今さらそんなことをしても、意味がない」
「DNA検査をして、もし実の親子だって証明されたら、二重にラッキーじゃないですか。良子さんという本当の娘ができるのと、奥さんもお父さんとの間で子供を産んで育ててたんだって、思い出が上書きできるのと」
お父さんの表情が厳しくなってきた。
「良子さんはお父さんのことが本当に好きだったんですよ。お母さんは出ていってしまったかもしれないけど、ずっとずっと、お父さんを待ってて」
よしのんが、はっとした表情でこちらを見た。父親は苦しそうに顔をしかめている。
「そんなことに金を使うのは無駄だ。どうせ親子じゃないという判定が出るだけだ」
「そんなこと、やってみなきゃわからないじゃないですか。それとも、本当の親子だってわかると困るんですか? 本当の親子になるのが怖いんですか?」
「そんなわけないだろう!」
すごい勢いで怒鳴られた。
「じゃあ、金が惜しいんですか。いいですよ僕が出します。八万円持ってきてます。これでDNA検査キットを買って下さい」
財布から一万円札を八枚取り出して、テーブルの上に置いた。昨日、こんなやりとりになるかもしれないと思って、お年玉や小遣いを貯めている虎の子封筒から出して来た。
声は出さないが、よしのんが目をまんまるにして驚いている。
「君みたいな子供にもらう筋合いはない。なぜ君はそこまで良子に関わる?」
「そ、それは……」
「それなりの覚悟があって俺と良子に関わっているんだろうな」
「……はい。良子さんのことは放っておけません」
お父さんと睨みあったまま、しばらく沈黙が続いた。
「わかった検査を受けよう。当然自分で払うから、この金はしまっておけ。そのかわり、実の親子ではないとわかったら、良子にはすぐに家を出て行ってもらう」
「えっ?」
「パパ!」
「高校を卒業するまでは面倒を見てやろうと思っていたが、そこまで白黒はっきりさせたいんなら、こっちにも考えがある。他人だということがはっきりしたら、縁を切る」
よしのんの父親は、驚くようなことを言い始めた。
「白黒はっきりさせたいんだろう? なら、黒だとはっきりしたら、この家にいる必要はない。どこへでも好きなところへ行け」
「パパ!」
「そんな……。どこに行けって言うんですか」
「君の家にでも連れて行けばいいだろう。そこまでの覚悟があって、良子に関わっているんだろう?」
「うっ」
「その程度の覚悟もないなら、他人の家族の問題に首を突っ込んでくるな」
言っていることは正論だ。結果を引き受ける覚悟もないのに、よその家族の問題を引っ掻き回して良いわけがない。
「くそっ。わかりました。もし本当の親子じゃなかったら、うちに来てもらいます」
「ちょっと蓮君、なに勝手に決めてるの?!」
よしのんに左腕をつかまれた。そちらを向くと、目がまん丸になっている。
「良子。DNA検査なんて、お前が言い出したのか」
「いえ。僕が提案しました」
「余計なことを言い出しおって。お前たちで勝手に申し込んでおけ。金は渡してやる」
お父さんは椅子から立ち上がった。
「昨日も遅かったから、もう休む」
そう言い残すと、リビングを出て部屋に戻って行った。テーブルの上には、二枚の印刷と八万円が残されたまま。
「ねえ。蓮君。あんなこと言って、もし本当に、親子じゃないって結果が出たら、どうするの?」
つかんでいる腕を揺さぶられた。
「う、うちに来いよ」
「本気で言ってる?」
「大丈夫。絶対に本当の親子だから。あの頑固さは、よしのんそっくりだ」
「もう!」
腕をはなすと、不安そうな、でも喜んでいるような複雑な表情で、じっと俺の顔をみる。
「まあ、検査は受けてくれることになったし、一歩前進だろ。よしのんのスマホで、さっそく検査キットの申し込みをしよう」
よしのんは、スマホを取り出し、あらかじめ登録しておいた検査機関のページを開いた。
「蓮君って、時々、無茶なことをその場の勢いで約束しちゃうよね」
「そうかな……」
「彼女もいないのに、グループデートに行くって言ったり」
ニヤっと笑っている。
「それ、いま蒸し返す?」
「でも、ありがと。説得してくれて」
***
家に帰って来て、夕飯を食べてからずっと、自分の部屋のベッドの上で悶々としている。勢いで、あんなことを言ってしまったけれど、もし本当に、親子じゃないと出たらどうしよう。
うちの親にはなんて説明するかな。家を追い出された可哀想な子なんです、とか? 急にそんなことを言ったら、びっくりするよな。
いきなり引き取るなんて話になる前に、少しほのめかしておいた方がいいか。まずは、女子の友達がいて、家族のことで相談されているって話だけするとか。そうすれば、うちに来ることになった時に、あの話のことで、って言いやすくなるはず。
ベッドの上に座り直す。
今まで、女の子の友達の話など、ほとんどしたことがなかった。そもそも女子の友達なんていなかったし、まずそこからびっくりされるかも。
当たり障りのない話からいくか。
部屋を出て、リビングに向かった。
「ちょっと話があるんだけど。あれ、オヤジは?」
母親は、ソファにゴロンと横になって、かりんとうをつまみながらテレビを見ていた。さっき夕飯食べたばっかりだろ。
「お父さんは、ゴルフの打ちっぱなし行ったわよ。改まって話って、なに?」
「実は、友達から相談されてて」
「どんな?」
「なんか、お父さんとうまく行ってないみたいで」
「ふうん」
相変わらずゴロンと横になったまま、顔だけこちらに向けてしゃべり始めた。
「どこの家も大変ねえ。お隣の長男も、今度中学生になるけど、最近反抗期で大変らしいわよ。なんか気に食わないことがあると、ダンダンって机叩いて、部屋出てっちゃうんだって。あと、お向かいのお姉ちゃんも、高校生なのにお化粧してると、お父さんがなんだそれはって怒鳴って、大喧嘩になるって奥さんが嘆いてた。そうそう、小学校の時に一緒だった中島君は……」
「あ、あのさ。ちょっと俺の話も聞いてくれる?」
いつもこの調子で、母親はしゃべり始めると、こっちの言うことなどお構いなしに話し続けている。
「はいはい。で、その友達がどうしたの?」
ソファの上に起き上がり、正面からこちらを見てきた。
「あ、えと、うん……」
いざ正面から、どうしたのと言われると、何から話せばいいのかわからなくなる。
お父さんとうまくいってなくて、それで……
「その友達って、女の子?」
「えっ、なんで?」
ニヤニヤし始めた。
「まったく。いつの間にか色気づいて。彼女ができたんなら、コソコソしてないで、堂々と連れてきて紹介しなさい」
「え、いや、コソコソしてるわけじゃなくて。いや、そもそも彼女というか……」
「ゴールデンウィークに旅行で留守にしてた間、うちに連れこんでたでしょう?」
え、ええっ! バレてるっ?!
「な、なんで、そんなこと?」
「当たり前でしょ。シンクもガスレンジも、出かけた時以上にピカピカにきれいになっていたし、鍋もきちんと向きを揃えて、大きさの順に重ねてあったし。冷蔵庫には、パプリカとかカラフル・ラディッシュとか、普段使わないような野菜の使いかけが、ぴっちりラップして入っているし。とても、あんたなんかが片付けた状態じゃなかったから」
「あああ」
「ちゃんと避妊しなさいよ。学生のうちに妊娠なんかさせたら、大変だからね」
「ちょっと真顔で言わないで。まだ、そんなことしてないから」
「お母さんも、お父さんと付き合い始めたのは高校生の時だったからわかるけど、男の子って、他のこと何にも考えられなくなっちゃうのよね」
「そんな話ぶっちゃけなくていいから!」
旅行から帰ってきて、昔のことを思い出したって言っていたの、そういうことだったのか? そういえば、親父にいろいろ料理作ってあげていたって、暗にほのめかしてた?
「その子が、お父さんとうまくいってないのって、あんたのせいじゃないでしょうね?」
いきなり質問が飛んできた。
「その子があんたと付き合っていることが気に入らなくて、向こうのお父さんに怒られていたりするんじゃないの?」
「いや、違う違う。元々そうだったって話」
「それならいいけど。変なムシが付いたとか言われてないでしょうね?」
「いや、それはない、と思う」
「じゃあ、お父さんと何を揉めてるの」
どこまで話そうか。
連れて来ることになるなら、ある程度本当のことを話しておいた方がいいか。
「実は、お父さんと血がつながっていないかもしれないんだ」
「ふうん。それで?」
目はテレビの方を向いて、かりんとうをぽりぽりし始めた。
「それでって、それだけで大問題だろう」
「そう? 血のつながっていない親子なんてよくいるわよ。さっき話しかけた、小学校の同級生だった中島君、覚えてる? あの子も養子だから血はつながってないわよ」
「いや、うろ覚えなんだけど」
「中島君のお母さんが言ってたけど、中学生になって反抗期が始まったら『僕なんて、どうせもらわれてきた他人なんだから、ほっといてくれ』って暴れてたんだって」
「へ、へえ」
「そしたらお父さんが、ものすごく怒って、『お前はうちにいて、十何年ずっとみんなと同じものを食べてきたんだ。お前の体は俺や母さんと同じものでできてる。血のつながりなんかより、よっぽど濃いんだぞ』って、怒鳴りつけたんだって。そうしたら、わんわん泣いてたって」
「すごい理屈だ」
「だからその子にも、血のつながりなんかよりも、一緒に暮らしてきた時間を大切にしなさいって、言ってあげな」
「う、うん」
でも、お父さんから出ていけって言われているんだよな。
「お父さんも、いろいろ厳しいこと言うかもしれないけど、ずっと小さい頃から育ててきた娘だったら、間違いなく情が移っているから。内心では大切にしていると思うよ」
「そうなのかな……」
「もし、その子が嫌じゃなければ、今度家に連れて来なさい。留守中にご飯食べさせてもらってたなら、お礼もしなきゃいけないし」
よしのんを紹介するのは問題なさそうだ。むしろ親の方が、避妊とか変なこと言い出しそうで心配だけど。
とはいえ、家に住んでもらうとなったら、話は別だよな。
ま、それはそうなった時に考えよう。
「わかった。聞いてみる」
四-五 最後のプレゼント
ウェブサイトを開くのに、こんなにドキドキするのは初めてだった。
全国学生オンライン文芸コンテストの審査結果発表は、今日の午後三時と予告されていた。発表時間になれば、コンテストページの結果発表のリンクが押せるようになるはず。
授業が終わるのは三時五分だから、授業中から机の下にスマホを隠して何度もリロードをクリックしている。だが、コンテストページの薄ぼんやりした色の結果発表ボタンは、授業が終わりそうになっても変わらないままだった。発表が遅れているのかな。それとも時間を間違えた?
授業が終わるチャイムが鳴り始めた途端、ボタンがくっきりとした紺色に変わった。あわててクリックすると、結果発表ページに移動する。
大賞は……馬鹿みたいに長いタイトルの異世界ファンタジーか。やっぱり人気のジャンルだからな。まあ、いきなり大賞なんてありえないし。二位は、これも異世界ファンタジーね。その下にスクロールして三位は、悪役令嬢か。
やっぱり、成瀬さんの書いているような、まじめな現実純愛ものはジャンルとして難しかったかな。
さらにスクロールする。
「あ、あった!」
思わずスマホを握りしめて立ち上がった。
『佳作 最後に渡したプレゼント 成瀬桜』
「西原! イスぶつけんじゃねえよ!」
後ろから怒鳴り声が飛んできた。急に立ち上がったので、イスが後ろに倒れて、杏奈さんの机にぶつかっていた。
「ご、ごめん」
「なに急に立ち上がってんだよ、バカ!」
「な、成瀬さんが……」
「はあ? 成瀬がどうした?」
「成瀬さんの書いた小説が、コンテストで入賞した」
スマホの結果発表画面を見せる。
「なんだこれ? すごいな。作家デビューとかするのか?」
「いや、このコンテストは大手出版社がやっているのじゃないから、すぐに書籍になることはないと思うけど」
「ふうん」
「でもすごいよ。九二〇編も応募してきた中から、選ばれた五本に入っているんだから」
「いつもクソ真面目な顔して、なんかお前と話してたけど、こんなことやってたんだ」
「あ、うん」
内緒でレビューしていたつもりだったけど、やっぱり見られてたか。
手の中でスマホが振動する。成瀬さんのメッセージだ。関わらないでと言われてから、初めてのメッセージ。
成瀬: 全オン文、佳作になりました。
西原: よかったね。おめでとう。成瀬さんの努力と才能が認められたね。
成瀬: いえ、全部、西原さんのおかげです。二ヶ月間ずっと指導していただいたおかげです。
西原: いや、指導なんてすごいことしてないから。
成瀬: あの、後で部室に来ていただけますか。お礼がしたくて。
西原: 今日? いいよ。片付けたら行く。
お礼だなんて、本当に真面目で律儀だな。
カバンにノートと筆記用具を詰め込んで教室を出ようとしたところで、またメッセージが着信した。今度はよしのんからだ。
よしのん: DNA検査の結果が出たってメールが来た。怖くてまだウェブサイトは見てない。
検体を送ってから一週間程度で結果が出ると書いてあったから、そろそろかなと思っていたけど、やっと来たか。
よしのん: 早く家に来て。もし検査結果がダメだったら、すぐに家を出るから。
西原: ちょっと待って。家を出るのは、お父さんとちゃんと話し合ってからにしよう。
よしのん: だって無理やり白黒付けて、他人だってわかったら、もう家にはいられない。
西原: 待て。早まるな。すぐ行くから、それまで開かないで待ってて。
成瀬さんの用事は急いで済ませて、すぐによしのんの所に行かないと。創作と現実をごっちゃにして、もつれさせてしまった責任は、ちゃんと最後まで取らないとな。
文芸部の部室がある四階への階段を、全力で駆け上った。
文芸部の部室に入ると、成瀬さんが一人でテーブルの横に立って待っていた。久しぶりに見る、明るい表情。
「おめでとう。やったね」
「ありがとうございます。全部、ぜんぶ、西原さんのおかげです」
「そんなことない。成瀬さんの力だよ」
「私一人では……」
とても気が引けるが、話をさえぎった。
「あのさ。本当に悪いんだけど、実はすぐ行かなきゃいけないところがあってさ」
すっと表情が暗くなった。
「よしのんさんのところですね。ごめんなさい。もう邪魔はしないなんて言いながら、また呼び出してしまって。関わらないで下さいなんて、失礼なことまで言ってたのに」
悪いこと言っちゃったな。
「いや、呼び出してくれるのはいいんだ。いつでも声をかけてよ。でも、今日だけは急いでて」
「わかりました。お引き止めしないように、手短にしますね」
成瀬さんはピンと背筋を伸ばして俺の目を見た。
「二ヶ月間、指導していただいて本当にありがとうございました。一人では、とてもできませんでした」
膝の前に両手を添えて、深々と頭を下げる。
「いや、指導なんてしなくても、成瀬さんは俺よりずっと才能があったよ」
顔を上げた成瀬さんは、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
あー、どうしよう。受賞して感激しているのかもしれないけれど、目の前で泣かせたなんて知られたら、石沢さんに殺される。
「あの。これを受け取って下さい」
「いや、そんな、お礼なんかもらったら悪いよ」
差し出してきたものを見て、固まった。透明なケースに入った白いハンカチ。
「白いハンカチって、『最後に渡したプレゼント』の中で、別れの象徴に使っていた物だよね」
「はい。西原さん、ごめんなさい」
涙をこぼしながら、俺の目をまっすぐに見つめてくる。唇もぎゅっと結ばれているが、震えているのがわかる。
「ずっと一緒にいるうちに、西原さんのことが好きになってしまって」
「えっ?」
俺のことを好きになった? いやいや、ありえないだろ。
確かに、水晶つばさの小説はフォローしていたかもしれないけど、リアルの西原蓮とは全然違うし。レクチャーしていたのも、秘密をバラされたくなければ取引しろと、半ば脅されてやっていたわけだし。
「西原さんには、付き合っている人がいるということは、最初に石沢さんから聞いていました。だから、こんなことになるなんて思ってもいませんでした。でも、ずっと指導していただいて、水晶つばさとしての小説にかける情熱や、勉強を惜しまない姿勢に、だんだん惹かれてきてしまって。元々フォローしていた憧れの作家さんでしたし」
「……」
「そういう水晶つばささんの面だけではなくて、リアルの西原さんも、石沢さんを助けるために立ち向かっていったり、すごく友達思いで。私にはまぶしすぎました」
「買いかぶりすぎだよ。俺は、そんなかっこいい人間じゃない。あの時も、あとで腰抜かしてたんだから」
杏奈さんにも、キモくないぞって言われてすぐに、むっつりすけべって言われちゃったし。
「好きになっちゃいけない人だということは、わかっていました。よしのんさんに言われるまでもなく、邪魔してはいけないことは、理解していました。だから、全オン文コンテストで実績を残して、きちんと区切りがついたところで、踏ん切りを付けて前に進もうと思うんです」
「踏ん切り?」
「迷惑かもしれませんけれど、このハンカチを、受け取っていただけませんか?」
白いハンカチの入ったケースを両手で持って、俺の方に差し出す。
「私一人の勝手な妄想で、小説のようにお別れしたことにしたいんです。これは桜から最後に渡したプレゼントだった、と」
ぐずぐずと涙をこぼしながら、必死に嗚咽をこらえているのが見えた。
「……わかった。受け取るよ」
しっとりとした光沢のある生地で、ずいぶん高級そうに見える。
「ありがとうございます。さあ、もう行って下さい。こんなに引き止めてしまってごめんなさい」
「成瀬さん……」
「よしのんさんは、このところずっと漫画を投稿していませんし、きっと何か悩んでいるんですよね?」
何も話さなくても、そこまでわかっているのか。
「でも……」
目を真っ赤にして、ぼろぼろ泣いている成瀬さんを放ったまま、ここを立ち去るのが、どうしてもためらわれた。
そんな俺を見て、成瀬さんは大きく息を吸い込んで両手を握りしめると、びっくりするような大声で叫んだ。
「早く、あっち行け! このキモオタ!」
「えっ」
「ああ、すっきりした。あの子たちの気分が、ちょっとわかったような気がします」
涙を流しながらも、にっこりと微笑んだ。
「よしのんさんを助けられるのは、水晶つばささんしかいないんですよね? 私は大丈夫です。早く行ってあげて下さい」
「わかった。行ってくる」
部室を出てドアを閉めると、廊下をダッシュで走り始めた。
よしのんのメッセージが来てから、二十分はたっていた。待ちきれずに一人で報告書を見て、自暴自棄になったりしたら大変だ。待っていてくれよ。
階段を二階降りた踊り場に美郷がいた。
「おい、西原。ちょっと待て」
「え、俺? いま急いでるんだ。今度でもいいかな」
「待てよ、コラ」
腕をつかまれた。
「な、何するんだよ」
そのまま、壁に肩を押し付けられる。すごい力で、身動きができない。
「お前、最近ずいぶん調子に乗ってんじゃねえか」
なんでこんな奴に、壁ドンされなきゃいけないんだ?
「ど、どうせ壁ドンされるなら、素敵な女子にされたかったな。例えば杏奈さんとか……」
「ふざけんな!」
獰猛な目付きで睨まれた。やっぱ怖いよ、こいつ。
二年の教室で向かって行った時は、周りに女子がたくさんいたから、手を出してくることはないだろうと踏んでいたけど、今は誰もいない。ちょっとヤバいかもしれない。
「な、何が気に食わないんだ?」
「てめえ、俺の悪口を言いふらしてるだろう」
「へっ? 知らない。悪口なんか言ってないし」
「俺が、女子を口説いては泣かせてるって言いふらしてるの、お前だろ」
「し、知らないよ。そんなこと言いふらすわけないだろ」
最近、美郷が女子に声をかけても断られていたのって、それが原因だったのか? でも誰だろう、そんなこと言ってるの。小坂かな?
「急いで行かないといけないところがあるんだ。離してくれないかな」
「しらばっくれて逃げようたって、そうは行かないぞ」
「知らないっての」
「それ、私だよ」
階段の下から、石沢さんが現れた。
「石沢さん?!」
「なんだと?」
「なんで、石沢さんがここに?」
「ナルちゃんから、一緒に帰ろうって電話が来たから、部室まで迎えにいくところ。ナルちゃん、また泣いてたみたいだったけど、もしかして西原君と話してた?」
「あ、うん。さっきまで部室で話してた」
うわ。また親友を泣かせたのかって、怒られる。
「あ、あのさ……」
「大丈夫だよ。わかってる。きっとナルちゃんなりに、ケリをつけたんだよね」
「……」
「おい、お前、何を言いふらしたんだ?」
美郷は、そっちのけで話をしている俺たちにイラついたのか、またグイッと力を入れて肩を押し付けてきた。
「言いふらしてなんかいないよ。三組の女子から、よく相談されるんだ。美郷君ってどんな人? かっこいいからアタックしようと思うけどって。そうしたら、ありのままを答えてるだけ」
「なんでお前なんかに相談が?」
「二年生の時の事件を知っている子は、私があなたと何かあったって思ってるし。今は別の男子と付き合っているから、ちょうどいいと思うんじゃない?」
石沢さんは階段を上がってきて、踊り場に着いた。
「何を答えてるんだ?」
「全部正直に話してるよ。あなたからどんなアプローチをされて、どんな付き合いをして、どんなセリフで振られたか。一緒にホテルに行ったら、翌週に、飽きたから別れようって言われたことも」
「お前、付き合っている男子がいるのに、よくそんなこと恥ずかしげもなくペラペラしゃべるな?」
「湊君も、そうしろって背中を押してくれてるから。あなたに泣かされる女子を、これ以上増やさないようにしようって」
石沢さんの目に、涙が浮かんで来た。校舎裏でしゃがんで泣いていた姿が、またよみがえってくる。
「あなたと付き合ったの、本当に後悔している。最低だった。あなたに比べたら、湊君や西原君の方が、ずっとずっと男らしくてカッコいいよ。最初に付き合ったのが湊君だったら、どんなに良かったか」
石沢さんは、俺と美郷のすぐ横に近づいて来た。美郷の手の力が少し弛んで、肩が楽になったが、まだ横に出ることはできなかった。
「さあ、手を離して、西原君を通してあげて。急いで行くところがあるって言ってるでしょ」
「こいつ」
「さっさと、どいてっ!」
突然、石沢さんが美郷の手首を両手でつかんで外向きにひねった。美郷も油断して力を抜いていたから、するっと肩から手が離れて自由になる。まさか石沢さんが手を出してくるとは、思ってもいなかったんだろう。
ちょっとしゃがんで、横に飛び出した。
「さ、西原君、早く行って」
「ありがとう!」
「ありがとうって言うのはこっち。今まで、ずっと助けてくれた恩返しだよっ」
美郷は、呆然として石沢さんを見ている。
このまま立ち去るのは危なくないか? まさかとは思うけど、石沢さんが殴られたりしないか?
その時、階段の上から声がした。
「石沢さん。ここまで来てくれたんだ」
「あ、ナルちゃん! 迎えに来たよ」
石沢さんは、何事もなかったように、にこやかに階段の上に手を振っている。これで大丈夫だ。成瀬さん、あとは任せた。
階段を二段飛ばしで駆け降りた。
四-六 いくじなし
学校から駅まで十五分のところを、全力で走って三分で着き、電車に乗って三十分。最寄り駅から、よしのんの家までは、走ってすぐ。
『百合』と表札の出ている門で、呼び鈴を押した。
「やっと来た。遅いよ! 学校から何時間かかってるの!」
玄関から出てくるなり、ぶっと口をとがらせて突っかかってくる。
「ごめん。学校出るまで時間かかっちゃって」
「また、あの女となんかしてたんじゃないの?」
ほんと、こういう時の女の勘って鋭いよな。でも絶対に言わないほうがいい。
「いや、学校の不良にからまれてさ。ようやく逃げて来たんだよ」
「何その不良って? カツアゲされてお金取られたとか? 殴られたりしなかった?」
途端に心配そうな顔になり、俺の肩に両手をかけてぐっと近づいてきた。
「なんとか無事に逃げてきたから大丈夫」
「そんなのがいる学校とは聞いてないよ。もっとマジメな受験校かと思ってた」
「まあ、乱暴なのは、そいつくらいしかいないから」
よしのんについて、玄関に入った。
「お父さんは?」
「また帰ってくるのは深夜だと思う」
リビングに行くと、スマホを置いたテーブルの横に大きなリュックが置いてある。ゴールデンウィークにうちに来たときに背負っていたやつだ。
「リュックって、これまさか?」
「もし、親子じゃないって結果が出たら、すぐに家を出る。最低限の着替えと大事な物を入れたから」
「ま、まあ、ちょっと落ち着いて、結果を見てから考えよう」
「……本当の親子じゃなかったら、蓮君の家に連れてってくれるんだよね?」
「それはそうだけど、焦らないで」
よしのんは、ソファに座ってスマホを手に取ると、メールを開いた。
「これが、結果報告書のリンクだって」
「じゃ、開いてみて」
スマホを手にしたまま、目をつぶって深呼吸し始めた。
「うん。開くぞ。これで結果がはっきりする。さあ、クリックするぞ……」
しばらく目をつぶっていたが、画面から指を離して、うつむいてしまった。
「やっぱり、怖くなってきた……」
よしのんの指は震えていた。
「どうした?」
「報告書を見て、もし本当の親子じゃないって出てたら、取り返しがつかなくなるよ……」
よしのんの声は震えていた。
「検査結果を待っている間は、本当の親子だと証明されるかもって思ってたけど、それって、すごく稀なケースなんでしょ」
よしのんの言う通り、シスAB型というのはごく稀にしかいないと、山本さんに教えてもらったサイトにも書いてあった。本当の親子だと証明しようとするのは、無謀な賭けだったのかもしれない。
「でも、結果を見ないままじゃ何も変わらないだろう。O型からAB型は生まれないっていう、お父さんの言い分をひっくり返すためには、検査結果を見ないと」
「結果なんて見なければ、もしかしたら本当の親子かもしれないって思っていられる。でも、はっきり違うって書いてあったら……」
涙目になってきた。
「もう、二度と会えなくなっちゃったらどうしよう。蓮君の家も、ずっといつまでもいられるわけじゃないだろうし。行くところがなくなっちゃう」
うるうるとした目で、俺の顔を見上げてきた。
「よしのん……」
もしかして俺は、とんでもなく残酷なことを勧めてしまったのか?
取り返しのつかないところに、よしのんを追い込んでしまった?
「蓮君……、どうしよう。どうしたらいい?」
すがるような目つきでこちらを見ている。どうしたらいい? 俺に何が言える?
その時、頭の中で成瀬さんの大声が響いた。
『早く、あっち行け! このキモオタ!』
『よしのんさんを助けられるのは、水晶つばささんしかいないんですよね?』
そうだよ。よしのんを助けられるのは、俺しかいないんだよ。
よしのんのストーリーは、どんな展開になっても、最後はハッピーエンドにしないといけない。素直な彼女が素敵な彼に可愛がられて、幸せになるお話。ヒロインは、絶対に幸せになるお話。
そうできるのは、原作を書いているパートナーの俺だけだ。
「よしのん。もし、本当の親子じゃなかったとしても、この家で一緒に暮らしてきた十六年の年月は変わらないだろ」
「うん」
「なら大丈夫だよ。どんな結果になっても、お父さんとよしのんの関係は、それで終わってしまうようなものじゃないから。お父さんも、きっとよしのんのことを、内心では大事に思ってるはずだよ。ただ、どう向かい合ったらいいのかわからなくなっているだけで」
「でも、他人だったら出て行けって」
両腕で、よしのんの肩を抱く。
「何があっても俺が付いているから。よしのんのことは、もう絶対にひとりぼっちにしない。お父さんが出て行けと言うなら、いつまででもずっと、うちにいればいい」
あの笑顔をまた取り戻すためなら、なんでもする。小説みたいなクサいセリフだって、いくらでも言ってやる。恋愛小説のストックならいくらでもある。
俺の腕の中で丸くなったよしのんは、両手に持ったスマホをじっと見つめている。
「うん。わかった。蓮君がついていてくれるなら大丈夫」
メールのリンクをタッチすると、検査機関のサイトに飛んで、ユーザーIDとパスワードの入力画面になった。手元のメモを見ながら、入力する。
「これでログインボタン押したら、すぐに報告書が開くのかな?」
スマホの画面を見たまま、つぶやく。
「そうかも」
「やっぱり怖くなってきた」
スマホを持った手を膝の上に下ろしてしまった。
さっきまで、よしのんの不安と同期するように俺も不安になっていたが、今は何も怖くなかった。
肩を抱いた腕を、そっと引き寄せて、耳元でささやく。
「よしのんの、いくじなし」
はっとしたように腕の中から俺の顔を見上げてきた。そのピンク色の小さな唇に、思わず唇を重ねる。目をつぶると、暖かく柔らかい感触で頭の中がいっぱいになる。
そっと離れると、よしのんも閉じていた目をゆっくりと開いて、つぶやいた。
「いくじなしじゃないよ」
よしのんの細い指が、ログインボタンをタッチした。
四-七 新しいスタートライン
玄関ドアを開くと、後ろから母親が声をかけてきた。
「アイスクリームは、大きいやつね。四七〇mlの」
「そんなでかいの買ってきて、どうするんだ?」
「アフォガートにしようと思って。良子ちゃんも入れて四人分だと、それくらい使うから」
スニーカーを履きながら、よしのんが元気に応える。
「わかりました! アフォガートならバニラでいいですか?」
「そうね、バニラがいいわね」
「アホがとか? アホがなんとかって、なんだ?」
「アフォガート。アイスクリームにホットコーヒーをかけたデザートだよ。美味しいよ」
「ふうん」
「良子ちゃんは、よく知ってるわね」
「はい。小さい頃、レストランで食べたことがあります。苦くて甘くて、けっこう好きでした」
一番近くにあるスーパーまでは大した距離ではないが、この炎天下を歩いていくのは、正直なところ勘弁してほしかった。しかし、よしのんは、デザートの材料を買い忘れたと母親が言ったとたん、二人で買いに行ってきます、と手を上げてしまった。
門を出るとすぐに、どちらからともなく手をつないで、歩き始める。
「蓮君のお母さまって、いい人だね」
「そうか?」
「とっても優しいし、面白いし。蓮君が小さかった頃の話とか、すっごい面白かった」
「やめてくれ」
なんで、ああいう黒歴史を、本人の目の前でベラベラしゃべるかな。恥ずかしくて死にそうだ。
「留守中にご飯作りに来てたことも、小言言われるかと思ったら、ありがとうなんて言われるし。でもお鍋の片付け方でバレてたなんて思わなかった」
「きちんと片付け過ぎだって」
「あんなにきちんと台所を片付けられるのは、ちゃんと躾の行き届いたお嬢様に違いないって。やっぱりお母さまは、人を見る目があるよね」
「自分で言うな」
よしのんと母親は妙に気が合ったようで、俺そっちのけでずっと話していた。話が噛み合っているのか、いないのか、それぞれが勝手に話しているようで、話題が俺のことになると途端に「そうでしょ」「そのとおりです」と口を揃えて攻撃してくるからたまらない。
「いろいろと、ありがとうね」
「ほんと、いろいろあったな」
「蓮君がいてくれて、本当に良かった」
つないだ手を静かに振りながら、少し黙って歩いている。
「ね、お昼食べたら、次の作品のプロット作ろうよ」
「いいよ」
『わかとめいを巡る迷推理……?』は、少し間は開いてしまったものの、なんとか最終話まで投稿して完結していた。結局二月から七月までの半年かかってしまった。
よしのんも、ようやく次の作品を考えられるようになったというのは、いいことだよな。
「次は、思いっきり悲劇を書いてみない?」
「悲劇?」
「そう。ヒロインが継母にいじめられて、家を追い出されて、好きな男性は他の女のところばっかり行ってて」
「おい、それって」
「で、どんどん追い詰められて、一人で部屋の中にうずくまっているの」
そこまで自分に重ねて書いて、大丈夫なのか? 芽依の時も、思い入れが強すぎて大変だったのに、そんなの書いていたら精神的に参ってしまわないか。
「あ、でも今日は家に帰って夕飯作らないといけないから、プロットの相談は四時までね」
「今日は、お父さんの帰りが早いんだっけ」
「そう。明日は、朝七時に出発でピクニックに行くから、今日は早く帰ってくるって」
ようやく本当の親子だとわかって、十年分まとめて甘やかされている感じかな。ここまで長かったからな。
DNA検査の結果を見た時、よしのんと俺は抱き合って泣いた。言葉なんて出てこなかった。ずっとずっと我慢してきた感情が爆発して、よしのんは泣き疲れて寝てしまうまで泣いていた。
夜になって、よしのんの父が帰ってきた時、俺とよしのんは顔を洗って正座して、玄関で出迎えた。驚いた様子の父に、スマホの検査結果画面を見せると、父も号泣し始めた。そのまま、よしのん親子を残して俺は家を出たから、その後どんな会話がされたのかは知らない。
今日は、よしのんがお礼をしたいと言って、うちにやって来た。俺の母親も、連休中に食事を作ってくれたことにお礼をしたいと言って、見たこともない料理を山盛り作って待っていた。そして、俺の黒歴史の暴露大会になったというわけだ。
「でね、プロットの続きだけど、悲劇のヒロインが最後は自分の力で立ち上がって、幸せになるの。ずっと彼女を支えてきた素敵な彼が、背中を押してくれて」
「うん。いいんじゃないか」
よしのんは、にっこりと微笑んだ。
「でしょ?」
「また長いコラボ小説になりそうだな」
「そうね。ちゃんとついてきてよ、パートナーさん!」
「わかったよ」
スーパーの看板が通りの先に見えてきたところで、よしのんは立ち止まって俺の方を向き、ニヤっと笑った。
「よーし。お店まで走るよー」
「え、え、ちょっと待て」
「よーい、ドン!」
手をつないだまま、よしのんは走り始めた。俺は、遅れないようについていくのがやっと。
「ちょ、ちょっと待って。転ぶ!」
「何やってるの! ちゃんとついて来なさいよー」
—— 完 ——
ネットの人気女性漫画家にコラボを申し込まれた件 代官坂のぞむ @daikanzaka_nozomu
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