第三章 二人のパートナー

三-一 クラス替え


「明日は、入学式か?」

「そうよ」

「進学おめでとう。で、どこの高校に入ったんだ?」

「某都立高校」

 四月に入って、春休み最後の日曜日。いつものように自分の部屋でベッドの上に寝転びながらよしのんさんと話している。ネームの確認は終わったので、今は雑談中。


「某って何だよ。でも都立ってことは都内に住んでるんだ」

「あっ……」

「あ、ってそれも秘密なのか? どこまで秘密主義なんだか。俺は、高校も自宅の最寄り駅も話したぞ」

「聞いてもいないのに、勝手に教えてきたんでしょ」

「まったく」

 小坂は、よしのんさんのことをツンデレと呼ぶが、俺と話している時はツンしか見たことがない。遊園地に行った時の「彼女のふり」は本当に完璧だったから、すっかり騙されているのだろう。


「家はともかく、どこの高校かなんて秘密にするもんでもないだろうに」

「それ聞いてどうするつもり? ストーカー? おまわりさーん、ネットでしつこく絡んできた上に、学校まで来ようとしてますー」

「おーい、ストーカー扱いかよ」

「聞きたい?」

「別に。家がどこだろうと、学校がどこだろうと関係ないし」

「言ってあげてもいいのよ」

「いいよ、興味ないから」

「……」

 教えてなんて言うと、またおちょくられるだろうから、ここは冷たくあしらっておく。


「私の家、聞きたくないの?」

「ぜんぜん」

「……世田谷」

「ん?」

「世田谷に住んでる」

 なんだ。実は言いたかったのか。

「すごいな。お嬢様か」

「だーかーらー言いたくないのよ。陳腐なイメージの先入観で判断するから」

「ごめん。でも世田谷でタワマンとか、すごそうだな」

「まったく、どこまで陳腐なイメージなの。このあたりはタワマンなんて無いわよ。うちも一戸建てだし」

 そうなんだ。世田谷なんて、地下鉄で通り過ぎることはあっても行ったことがないから、どんな所か全然わからない。


「世田谷で一戸建てに住んでるって、やっぱりお嬢様じゃないのか?」

「もー、そんなこと言ってると、召使いにするよ。ほら、紅茶をいれて持ってきて!」

「はい。かしこまりました。お嬢様」

「キャハハハ。似合わないー」

「世田谷マダムの母上がお呼びでございます」

「何それ。適当なこと言わないで」

 急に怒りがこもった冷たい声になった。

「え? そ、そんなに怒るなよ」

「怒ってない」

 いや、めちゃくちゃ怒ってるだろ。話題を変えた方が良さそうだ。


「ところで、いつも写真に使っているお姉さんて、本当にデザインとかしてる人なのか?」

「そうだよ。お姉ちゃんは本物のデザイナー。インテリアのデザインをする事務所で働いてるんだけど、イラストも上手だから、そっちの仕事もしてるんだよ」

「へえ。姉妹揃って絵が得意なんだ」

「でも、イラストはお姉ちゃんの方がずっと上手。一枚絵だと全然かなわないから、小学生の頃からストーリーのある漫画を描くようになったのよね」

「よしのんさんも相当上手いと思うんだけど、それより上手いんだ。見てみたいな」

「お姉ちゃんのストーカーもするつもり? おまわりさーん!」

「だーかーらー、なんでそうなるの」


 部屋の外から、母親が呼ぶ声がした。

「蓮! ご飯よ!」

「ごめん、よしのんさん、夕飯の時間になっちまった」

「わかった。じゃあね」

「おやすみ」


***


 部屋を出てダイニングに行くと、食卓には見慣れた夕食が並んでいた。他の家のことはよくわからないが、うちで出てくる食事のレパートリーは、決して多くない気がする。


「あんたも高三になったんだから、そろそろ本気出して勉強しなさいよ。理系の受験は科目が多くて大変なんだからね。いつも友達と電話ばっかりしてるし」

 顔を見るなり母親が説教し始めた。

「わかってるよ」

「浪人なんかして、予備校に一年余計に通わせるお金なんてないからね。現役で、できれば国公立に行ってくれないと。私大の理系は学費高いんだから」

「わかったってば。飯がマズくなるから、ちょっとその話題やめない?」

 工学部志望で三年から理系クラスになることには、親も文句は言わなかったが、逆に勉強しろと口癖のように言われるようになった。小説を書いていることはバレてないから、部屋に閉じこもっている限り、勉強していると思っていて文句は言わない。こうして食事に出てくる時が、絶好のお説教タイムになるというわけだ。


 適当に聞き流しながら席に着くと、ご飯茶碗を持ってきてくれる。

「ゴールデンウィーク中も、ちゃんと勉強しなさいよ」

「はいはい」

「お父さんとお母さんがいなくても、サボってちゃだめよ」

「わかった、わかった……って、今なんて言った?」

 お説教しているにしては、母親の顔がニヤけている。なんかおかしい。


「ゴールデンウイークは、お父さんと旅行に行くから、その間もちゃんと一人で勉強してるのよ」

「旅行?」

「そう。今年は銀婚式だから。二人でゆっくり南の島に行ってくるんで、留守番よろしくね」

「はあ?」

 ちゃんと勉強しろって、そういう裏があっての発言だったのか? ますます母親の顔がニヤけている。


「め、飯は?」

「ガミガミ言われてマズくならないから、一人で好きなもの食べてなさい。スーパーユアバッグで惣菜買ってきてもいいし。冷蔵庫は、肉なんか入れてといても腐らせるだろうから、空っぽにしていくけど、冷凍食品はいっぱい入れておくから」

「はぁ」

「あ〜初めてのプーケット、楽しみだな〜」


 まったく、受験生ほっぽってプーケットですか。


***


 始業式が終わり、初めて入った三年生の教室は、二年生より一つ上の階にあるので、窓から見える景色が少し広がっていて新鮮だった。一組は、理系進学希望者だけが集められているので、同級生の雰囲気もちょっと違う気がする。


「西原君! 同じクラスだね!」

 石沢さんが満面の笑顔で、手を振りながら近づいてきた。今まで通りの彼女を見ていると、ほっとする。

「最後の一年間、一緒にがんばろうね」

「よろしく」

 仲良くしていたグループでは、石沢さんと俺が理系クラスの一組、小坂と成瀬さんは文系クラスの二組と聞いていた。三組には誰もいない。それ以外の誰がどのクラスかは、まったく気にしていなかったので、黒板に貼ってある座席表を見て初めて気が付いた。

 俺のすぐ後ろの席には「藤里 杏奈」と書かれている。

 杏奈さんも同じクラスか。しかも、すぐ後ろの席とは。教室の窓側を見ると、間違いなく杏奈さんがいて、何やら大きな本を開いている。緊張で喉が渇いてきた。

「あ、杏奈さん。お、おはようございます」

「お! 西原。おはよう」

 窓際の自分の席まで行き、横向きに座って杏奈さんが広げている本をチラ見すると、化学の問題のような図が見えた。ギャル達が進学の話をしているのは聞いたことがなかったが、みな私立文系志望で二組か三組だと思っていた。なので、杏奈さんがこちらのクラスにいるのは意外だ。


「あの……」

「ん? なんか用か?」

「いや、杏奈さんも理系だったんだと思って」

「ああ、親父が歯医者なんだよ。歯学部に行って跡を継ぐって約束すれば、髪染めても何しても文句言わないってことになっててさ」

「そうなんだ」

 家が歯医者か。どうりでピアスとかアクセサリーとか、高そうな物をたくさん学校に持ってきてるわけだ。


「おかげで二年間好きにさせてもらってたけど、さすがに今年は真面目に勉強しないとな」

 あらためてよく見ると、手にしているのは私立大学歯学部の過去問題集だった。

 横向きに座っているから、杏奈さんの隣の女子の様子も目に入る。この子は、何やら英語の雑誌を熱心に読みふけっていた。理系クラスって、やっぱりちょっと凄そうなのが多いかも。


「おお、こっちはこんな感じか」

 小坂の大声が教室の後ろのドアから響いた。成瀬さんもついてきている。

「こんな感じも何も、大して変わらないだろう」

「いや、二組はギャルどもがいて、朝からキャーキャーうるさいんだよ」

 大声で俺に話しかけながら隣までやって来たので、注意してやる。

「おまえ、目の前に杏奈さんがいるぞ」

「おおっ。そういえばうちの教室にはいなかったな。まあ、杏奈さんは別格のラスボスだから」

「何だそれ? オタク用語で言われても意味わかんないぞ」

 細い眉をひそめているが、キモオタなどと言って騒ぐことはなかった。三年生になったから勉強すると言っていたが、ちょっと大人になったのかな?


「ナルちゃん! クラスが離ればなれで寂しいよー」

 石沢さんが、成瀬さんに抱きついていった。いきなり抱きつかれて、ちょっと戸惑っている様子だが、表情が変わらないのが成瀬さんらしい。

「うんうん。私も寂しいよ」

「おい俺は? 俺もいなくて寂しくないのか?」

「もちろん湊君がいないと寂しいけど、ナルちゃんは特別」

「チェッ」

 成瀬さんは、抱きついている石沢さんの両手を外して小坂に渡し、俺の方へ向いた。


「西原さん。いつから再開しますか?」

「明日からにしようか」

 例の取引に従って、成瀬さんとは週に二回、文芸部の部室で小説のレビューをすることになっていた。三月中は、定評のあるシナリオの書き方解説本を参考にしながら、彼女の書き起こしたプロットとキャラクターの分析をしてきた。

「春休み前に作ったプロットに従って、最初の二万字ほどを書いてきました。これを読んでコメントをお願いします」

「いいよ」

「ありがとうございます」

 さっきまでの無表情とは打って変わって、にっこりしている。早く進めたくて仕方ないんだろうな。


***


 文芸部の部室は、教室の半分くらいの広さで、中央に大きなテーブルが一つ置かれていた。壁際にはいくつも本棚が並び、背表紙が茶色くなった雑誌や単行本が雑然と置かれていて、いつ来ても埃っぽい独特な匂いがする。


「今年から部長なのか?」

「はい。三年生は他にいないので」

「後輩は?」

「二年生が二人です。明日から新入部員の募集を始めるのですが、それなりに集めないと存続が危ういですよね」

「なかなか大変そうだね」

 いつものように、成瀬さんが持ってきた原稿とパソコンをテーブルに広げて並んで座る。レビューをする日は、文芸部の活動日以外を選んでいるので、他には誰もいない。


「これが書いてきたものです」

 応募要項に合わせた文字数で、縦書きに印刷してクリップで止めた紙を渡された。スマホの画面で見ているのと違って、いかにも文学作品、という風格がある。ウェブに掲載したままで応募はできるが、内容を確認する時は紙に印刷した方がいい、とテキストに書いてあったのを忠実に守っている。

「じゃ、ちょっと読んでみる」

「お願いします。その間にお茶をいれますね」


 成瀬さんは、テーブルの上の電気ポットでお湯を沸かして、ティーバッグを入れたマグカップに注いだ。部屋の中に紅茶のいい香りが広がる。文芸部の伝統なのか、成瀬さんの個人的な趣味の良さなのか、他の部活と違ってなんとも優雅な空気だった。


「うん。すごく良いんじゃない。キャラクター設定で話していた、明るくて元気だけど、時々影がさす彼女、がうまく表現されてると思う」

「ありがとうございます」

「プロットも、議論してきた構成がきちんと入ってて、読んでて無理がないし」

「西原さんのおかげです」

 すごい才能だ。正直、俺なんかよりずっとうまい。


「では、続きの二章からのプロットを、少し細かく書いてきたので、こちらも見ていただけますか」

「いいよ」

「西原さんに教えていただいた全体の構成の中でいうと、第一ターニングポイントですね。古い世界から正反対の世界に進む瞬間で、何かとても大きなことが起こる、という」

「そ、そうだね」

「主人公の華が、かつての恩師から受けた助言を思い出すシーンを、少し丁寧に書こうと思っています。最初に聞いた時は反発していたのですが、彼との関係に悩みながら考えているうちに、その本当の意味に気付くという」

「なるほど」

 ターニングポイントでは、主人公が自分で考えて結論を出す、と書いてあったテキストを踏まえていた。本に書いてあったことは、全部暗記しているようだった。


「あの、少しギャグやコメディを入れないと、展開が硬すぎるでしょうか?」

 およそギャグとは無縁の、真剣な表情でこちらを見ている。ギャグをかましている成瀬さん? いや絶対に無理だ。

「入れなくてもいいんじゃないかな。全オン文コンテストの受賞作を、第一回からずっと読んでみたけど、いわゆるラブコメっぽい軽いのは無かったからね。青春小説とかライト文芸と呼ばれそうな物ばかりだったから」

「安心しました」

 成瀬さんの書いているものは、俺が書いているような萌えきゅんばっかりのストーリーとは格が違っていた。こんな作品はとても書けない。

 なんで俺が、成瀬さんに教えているんだろう?


 不意にスマホが振動して、メッセージの着信を知らせてきた。


よしのん: ねえ、わかとめいの続き、できた?


 うわっ、催促が来た。やばい。



三-二 ゴールデンウィークの申し出


 部活終わりのチャイムが鳴るまで成瀬さんとレビューを続け、家に帰って来ると七時になっていた。

 とりあえず自分の部屋に入り、よしのんさんのメッセージに返信する。メッセージが来てからすっかり遅くなったので、直接、電話で話をするのは気が引けた。


西原: 今日見せる予定の原稿、もう少し待って。明日には上げるから。

よしのん: わかった。芽依の思いが分からなくて若が悩むって、難しいところだからね。

よしのん: まだ公開には余裕あるし、大丈夫だよ。

 よしのんさんからは、すぐに返信が返って来た。こっちの応答を待っていたのかもしれない。


西原: 遅れないように頑張る。

よしのん: 高三になって、忙しい? 受験勉強で大変だったりする?

西原: いや、まだそんなじゃないから平気。

よしのん: 大変そうなら言ってよ。公開ペースを落としてもいいし。

西原: ありがとう。


 実際は、成瀬さんの小説レビューで放課後いっぱい使っていたから、全然手をつけてないだけだった。以前なら、図書館か駅前のハンバーガー屋で書いて、家に帰る前に仕上げていたのだが。

 受験勉強で大変か、なんて気をつかって、やっぱり根は優しくていい子なんだよな。


よしのん: ところで、GWはいつも通り、ぼっちで引きこもり?

西原: ほっとけ。

 やっぱり、優しくていい子説は撤回。


西原:  GWは、家族がみんな旅行に行くから、俺一人で留守番の予定。

よしのん: え? みんな出かけちゃうの?

西原: ああ。みんなと言っても親が出かけるだけだよ。


 メッセージの返信ではなく、直接電話がかかってきた。


「ね、ね、それじゃリアルぼっちじゃない。寂しくない? 食事は?」

「まあ、近所にミニスーパーあるから、惣菜でも弁当でも買ってくればなんとかなるし」

「じゃあ可哀想だから、お姉さまがご飯作りに行ってあげようか」

「へ? ご飯作り? よしのんさんが?」

「そうよ。ありがたくて涙が出てくるでしょ」

「お前、料理なんてできるのか?」

「失礼しちゃうわね! 家の食事は毎日、私が作ってるんだからね」

 なんだか、意外なことを言ってきたぞ。


「家の食事は作ってるって、両親は? お母さんは作らないの?」

「あんな奴、親じゃないし」

「そんな言い方したらだめだろう」

「うるさい! 人の家のことには口出さないで」

「ご、ごめん。でもわざわざ来ることもないよ」

 どうも親の話になると怒られるな。


「邪魔が入らないんなら、缶詰になって『わかとめい』を集中的に書くのもいいんじゃない?」

「缶詰?」

「そう。あ、でも缶詰って大作家先生みたいだから、どっちかって言うと合宿?」

「合宿ねえ」

「うん。そうしよう。食事は作ってあげるから、その代わり蓮君は集中して書く。最近サボり気味だから」

「俺が書いている間は、よしのんさんはどうしてるつもり?」

「蓮君の書いたのを、横で朗読しながらダメ出しするとか、誤字をリアルタイムで指差し指摘するとか……」

「やめてくれ。来なくていいよ」

 そんなことされたら、精神的なダメージが大きすぎる。


「うそうそ。そんなことしないから。次の公開分の仕上げとか、蓮君の原稿が書けたら、すぐにネームを起こすとかしてれば、効率いいでしょ」

「それはそうだが」

「よし! 決まり」

「ほ、本気か?」

「本気よ。とにかくゴールデン・ウィークは合宿だから、覚悟しなさいよ」

 なんだかノリノリだけど、大丈夫なのかな……


三-三 チーム西原


 うちの学校では、高三の六月に修学旅行に行くことになっている。今日の五時限目のロングホームルームは、その旅行日程と準備の説明会になっていた。配られた説明資料を見ながら、担任の先生の説明が淡々と続いている。


「修学旅行の二日目に、半日の自由行動の時間がある。自由行動と言っても、班ごとにまとまって行動すること。行き先については、事前に計画を立てて提出するように」

 班行動か。教室をぐるりと見渡しても、理系クラスの同級生は馴染みのない奴ばかりだから苦労しそうだ。

「各班は、四名で編成する。どう組むかはクラスの中で調整して決めて、来週中に報告すること。その後、班ごとに行動計画を立てて、五月三十日までに先生に提出すること」

 班は自分達で勝手に決めろってことか。小坂もいないし、どうしたものかな。


「説明は以上で終わりだが、何か質問はあるか」

「先生! 班は、男子と女子別々で組んでいいですか?」

「このクラスは男子の方がずっと多いから、男子だけの班でも構わないぞ」

 教室中が、ざわざわと大騒ぎになった。

「どうする?」

「男子だけの方が気楽でいいよな」

「つまんなくね? 誰か女子入れようぜ」

「誰か入ってくれそうなのいるのか」

「あの子、かわいいから声かけてみよう」

「綾乃、女子だけの班にしよう」

「え、京子、いいの?」

「あと、あかりちゃんもね」


「静かに! 班はどうやって組んでもいいが、四人ずつになるようにクラスで自主的に調整すること! 他に質問がなければ、これで終了する。日直、号令」

「起立、気をつけ、礼」

 礼が終わると、また教室中がざわざわし始めた。班は自由と言われても、クラス替えしたばかりで、同級生はほとんど口きいたことないやつばかりだし。どうしようかな。


 ふと気がつくと、石沢さんがこちらを振り向いていて、目が合った。

 なんかニヤニヤしてるけど、なんだ?


***


 翌朝。教室に現れた石沢さんは、何か企んでいそうなニヤニヤ顔で近づいてきた。


「おはよう! 西原君」

「おはよう」

「昨日の修学旅行の班のことなんだけど、西原君は、誰と組むか決めてる?」

「いや、まだ決めてない」

「じゃあ、私と組まない?」

「え?」

 石沢さんから声を掛けて来るなんて。気心が知れているのはいいけど、小坂には、ちゃんと言っておかないとな。

「俺は、いいけど……」

「よかった! あのね、作戦があるの」

「作戦?」

「そう。昨日、湊君と相談したんだけど」

 小坂には相談済みか。なら心配ないな。

「湊君には、二組でナルちゃんと組んでもらって、自由行動の計画は同じ場所を回ることにするの。そうすれば、仲のいい人でまとまって行動できるでしょ?」

「なるほど。小坂と一緒に回りたい作戦か。賢いな」

「うふふ」

 そうなると、小坂と石沢さんは、ずっとくっついているだろうから、必然的に俺は成瀬さんと並んで歩くことになるのか。なぜか顔が熱くなってきた。いやいやいや、なんでもないだろ成瀬さんとは。


「班は四人って言われたけど、後の二人は誰にする?」

「それもね、一人は杏奈さんはどうかな、と思ってて。湊君には相談してないんだけど」

「杏奈さん?」

 確かに美郷との一件は、杏奈さんの忠告があったから解決できたわけだし。あれから、少なくとも杏奈さんには、あっち行けとか言われなくなったし。でも、同じ班で一緒に行動する?


「なんか呼んだ?」

 後ろから杏奈さんが声をかけてきた。

「ね、ね、杏奈さん、修学旅行の班、誰と組むか決めた?」

「まだ決めてないよ」

「よかったー。私と一緒に組もう。西原君も一緒だよ」

「西原ね。ま、いいか。どうせこっちのクラスには、誰もつるんでいる奴いないし」

「やった! 決まり」

 ほっ。なんでこんなキモオタと、とか言われなくてよかった。


「杏奈さんのお友達は、二組にいたよね」

「ああ。蘭と美桜は二組だけど」

「じゃあ湊君に、その二人と組んでもらうように頼んでくるね」

「小坂と? なんで?」

「湊君の班と、私たちの班で同じ所を回るように計画すれば、一緒に行けるでしょ? 杏奈さんも友達と一緒になれるし」

 杏奈さんは、感心したように腕を組んで、長いまつ毛でまばたきした。

「石沢ちゃんって、実はけっこう策士だな」

「え、そうかなあ? でも、そうと決まれば、すぐに湊君に話してこなきゃ」

 石沢さんは、ぱたぱたと教室を出て行った。


***


 石沢さんの後について二組の教室に行くと、小坂は教室の真ん中あたりに座っていた。

「ね、湊君」

「おう、結衣じゃん。どうした?」

「あのね、修学旅行の班のことなんだけど」

「おお」

「西原君と杏奈さんと一緒になったから」

「うん、そうか。予定通りだな。って、あ、杏奈!?」

「そう。杏奈さんもいいって」

 意外な人物が入っていて、驚いたようだった。


「ラスボスも一緒か……。えっ、てことはまさか?」

「そうだよ。杏奈さんの友達と班を組んでね」

「ちょ、ちょっと待てよ。あのギャル達と組めってのか?」

「うん。そうすれば、みんな一緒に行動できるでしょ?」

「勘弁してくれよー。今朝もギャンギャンやり合ったばっかりだし……。成瀬も、あいつらとは犬猿の仲だぞ」

「ナルちゃんは、大人だから大丈夫」

 石沢さんは、自信満々に断言した。

「いや、俺にはとても無理だ」

「それじゃ困るんだけど……。わかった。私が代わりに言ってきてあげる」


 石沢さんは、ギャル達のところへ行って話し始めた。彼女らも、最初はうんうんとうなずいていたが、石沢さんがこちらを向いてひとこと言ったとたん、絶叫した。

「えー! あり得ないー! あんなキモオタと一緒に行動しろって」

「石沢ちゃんの彼氏なのは知ってるから、あんまり悪く言いたくはないけど、でもあいつと組むのは無理」

 石沢さんがまた何か言っているが、ギャル達の騒ぎは収まらない。

「杏奈がいいって言ってる? そんなのあり得ない!」

「ちょっと待って。いくらなんでも」

 大騒ぎしているところに、杏奈さんが入って来た。


「ちょっと、杏奈。石沢ちゃんから聞いたんだけど、キモオタと一緒の班って、本気?」

「ああ、そうだよ。いいじゃん。合流したらシャッフルしちゃって、ウチらはウチら、石沢ちゃんたちは石沢ちゃん達でまとまって、好きなところへ行けば」

「そ、そうか。ずっと一緒にいなくてもいいのか」

「難しく考えなくても、よくね?」

 先生に出す計画は無視ってことか。さすが杏奈さんだな。

「わかった。杏奈がそう言うなら、そうしようか」

「杏奈さん、ありがとう!」

 石沢さんはニコニコしているが、当の小坂とギャル達は、バチバチ睨みあっている。本当に大丈夫かな……


「あと一人はどうする? 班は四人で組まないといけないんだよな」

 一組の教室に戻りながら聞いてみる。他に親しい同級生はいないし。

 教室に入ると、石沢さんは座席を見渡しながら首をかしげた。

「そうね、あと一人……。山本さんはどう?」

「山本って、誰だ?」

「あの、杏奈さんの隣の子」


 石沢さんが指差している先をたどると、初日に、英語の雑誌を読んでいた子だった。

「見てるとね、あんまり友達いなそうな感じがするの。他の子は、みんな一人か二人は友達がいて、組んでるでしょ? あと一人だけ入れるなら、あんまり友達のいなそうな人しかないかなって」

「論理的で正しいけど、わざわざ友達いなそうなのと組むって、どうなの?」

「気にしない、気にしない。そんな悪い子じゃないよ、きっと」


 石沢さんは、そのまま山本さんのところに歩いていって話しかけた。今日は、いつになく積極的だ。修学旅行で、小坂と一緒に行動したい一心てことなのかな。

 山本さんが、石沢さんと一緒にこちらを向いたが、特に反発している感じはなかった。さっきのギャル達と違って、ギャーギャー言われないのがありがたい。


「よーし、これで揃ったね。チーム西原、全員集合!」

 自分の席に着くと、横に立った石沢さんが号令をかけるように呼びかけてきた。後ろには杏奈さん、その隣は山本さん。

「いや、おい、勝手に俺の名前をチーム名にするなよ」

「いいじゃない。紅一点ならぬ黒一点なんだし。みんなよろしくね!」


 うちの班、俺以外全員女子ってマジか? 元々、理系クラスは女子が少なくて、男子だけの班もありとか言われていたのに。まだ話したこともない男子が、冷たい目線でこっち見てる。

 やばいぞこれは。



三-四 押しかけ女房


「じゃあ、戸締まりと火の始末だけは気をつけるのよ」

「はいはい」

「一週間くらいなら、栄養失調にはならないだろうけど、お菓子ばっかり食べてちゃダメよ」

「わかってるよ。そっちこそパスポートとか忘れてないか?」

「あら、もうこんな時間。お父さん、行きますよ」

「じゃ、行ってくる」

 ゴールデンウィークの初日。親たちは、朝からバタバタとプーケット旅行に出発して行った。これから一週間は、説教されることもなく、自由に過ごすことができる。


よしのん: おはよう! ご両親は出かけた?

西原: ちょうど今、出て行った。

よしのん: あら。お留守の間、大事な息子さんをお預かりします、ってご挨拶できなかったわ(笑)。

西原: やめてくれ。

よしのん: あと三十分で駅に着くから、お迎えよろしくね。


 早いな。こんな午前中から来るとか、どんだけ合宿したいんだ?


***


「おはよー」

「おはよう。すごい大荷物だな」

 改札に現れたよしのんさんは、大きなリュックを背負い、クーラーボックスを旅行用の小さなカートに乗せて引っ張っていた。ポロシャツにデニムのミニスカートだから、ピクニックかBBQでもしに行くみたいだ。

「蓮君の家に何があるかわからなかったから、うちの冷蔵庫にあった食材、持てるだけ持って来た」

「持てるだけって、何をそんなに持って来たんだ?」

「いいから、クーラーボックス持ってよ。重いんだから」

「わ、わかった」

 何が入っているのか、確かにクーラーボックスはずっしり重かった。


 家に着くと、よしのんさんはまっすぐキッチンに行き、荷物を開けて冷蔵庫にしまい始める。

「本当に冷蔵庫空っぽにしていったんだね。調味料と味噌と梅干ししか入ってない」

「そう言ってたな」

「でもちょうどよかった。持ってきたもの全部入るし。ところで蓮君、朝ごはん食べたの?」

「いや。今朝はバタバタと親が出ていったから、何も食べてない」

「じゃあ。早めに支度してブランチにしようか。並べるだけですぐ食べられるよ」

「ブランチ?」

 よしのんさんは、腰に手を当ててこちらを向き、ちょっと小馬鹿にしたような表情になった。

「ブレックファーストとランチをくっつけてブランチ。朝昼兼用てことよ」


 スモークサーモンとクリームチーズ。ローストビーフとスライスオニオン。オリーブの実によく知らない葉っぱ。薄くスライスした硬い黒パンの上に、さまざまな具を乗せて広げ、さらにポテトサラダを出してきて、テーブルに並べた。電気ポットのお湯で、紅茶もいれている。

「すごいな、これ全部お前が用意してきたのか?」

「そうだよ。いただきまーす」

「いただきます」

 こんな高級そうなオープンサンドなんて、生まれて初めて食べる。チーズとサーモンとか、なんと表現していいのかわからないけど、とにかくうまい。


「どう? おいしいでしょ。おいしいって言いなさい」

「いや、強制されなくても、すごくうまい。見た目もおしゃれだし」

「でへへへ」

「ポテトサラダも、ずいぶん買って来たな」

「ちょっと! 失礼なこと言わないでよ。ちゃんとジャガイモを蒸してつぶすところから作ったわよ」

「え、ポテトサラダって、ジャガイモ蒸して作るものなのか?」

「人気料理研究家、はるちゃんのレシピだよ」

「し、知らないけど。でもこれめちゃくちゃおいしいな。コンビニで売ってるのとは全然違う」

「でしょー」

 上機嫌のよしのんさんと食べていると、あっという間に全部、食べ終わってしまった。


「『わかとめい』の打ち合わせは、どこでやる?」

「俺の部屋だと狭いから、ここでやるのがいいかな」

「じゃ、片付けて始めようか。食器は食洗機に入れとくだけで、後でまとめて洗うのでいいよね」

「よくわからないけど、いいんじゃないかな」

 テーブルの上を片付けると、それぞれスマホを出して向き合った。


 次の展開は、芽依が隠していた生まれの秘密を、若がどう話すのかがポイント。謎解きのヒントは、これまでに伏線として散りばめてあるから、推理の組み立てはできるようになっている。ただ、正解にたどり着いた若が、それを芽依に突きつけるのか、それとなくほのめかして自分から言わせるのか、二人の関係に大きく影響するので、相談してから書くことにしていた。


「『わかとめい』って、推理小説じゃないよね。だったら、何も言わずにそっとしておくってエンディングもありじゃない?」

「ラブストーリーだとしたら、そういう含みのある終わり方もあるかな。でも読者には正解を示しておかないと納得しないだろ」

「そうかな……」

 よしのんさんも、悩ましそうな表情をしている。


「やっぱり二人の会話で、芽依に語らせた方がいいんじゃないか?」

「でも……そんな簡単に、家族の問題とか相手には話せないよ」

「付き合っている相手でも?」

「相手が好きなら、なおのこと、嫌われるんじゃないかって心配で話せなくなるから。自分から言うなんて無理だと思う」

 ちょっと涙ぐんでいる? この間みたいに、キレられても困るな。どうもよしのんさんは、芽依に思い入れが強いというか、同一化しているところがあるし。


「わかった、わかった。それじゃオーソドックスに若が推理を語る方向にしよう」

「うん。なんか芽依の心情を考えると、難しいかなって」

「大丈夫。ここは若が語るのでも無理はないから」

 テーブルの上のティッシュをとって渡してやると、そっと押さえるように目頭を拭いた。


「じゃ、ちょっとその方向で書いてみるよ。書き上がるまで、よしのんさんは何してる?」

「ちょっと早いけど、夕飯の仕込み始めてる」

「え、もう夕飯の支度? 食べ終わったばかりだぞ」

「ビーフシチューだから、煮込んでずっと寝かせておくと、食べる時にグッと美味しくなるんだよ」

「そうなのか」

 キッチンに立つと、あちこちの戸棚を開けて、中に入っている物を確認し始めた。


「蓮君のうちって、圧力鍋ある?」

「圧力鍋? 確かあった気がするけど。なんか、すごい本格的なことしようとしてる?」

「圧力鍋使うと、簡単に肉が柔らかくなるから。あ、あったあった」

 戸棚の中から、大きな鍋を引っ張り出している。なんか、本当に楽しそうだな。料理作るの、よっぽど好きなのかな。


「明日の朝は、おいしいパンとベーコンも持ってきたから、これも期待してて」

「ふうん。それも楽しみだな、って、明日の朝? 今日泊まるつもり?」

「ん? 合宿でしょ」

「いや、泊まりとは聞いてないぞ」

「そう?」

 そういう時だけ、無邪気な表情するなよ。


***


「もう七時か」

「ん?」

 ブランチを終えてから、トイレに立つ以外、ずっとテーブルに座ったまま、ひたすら二人で書き続けていた。よしのんさんは、俺の書き上げた原稿を元にネームを起こし、それを見ながら感想やコメントを言ってくるので、それを反映して原稿を更新するという作業の繰り返し。三話分の原稿とネームを書き上げると、すっかり夜になっていた。


「疲れたー。こんなに長時間ずっと集中して書いてるなんて、一人じゃ絶対やらないよ」

「そう? これくらいで音を上げるなんてだらしない。私なんか、もっと続けてても平気よ」

「俺はもう腹が減って倒れそうだ。なんだか目もチカチカするし」

「じゃあ、夕ごはんにする?」

 よしのんさんは、台所に行ってシチューの鍋に火を付けた。午前中に仕込んで、そのまま寝かせてあったやつだ。


「いつもシチューを食べる時のお皿って、どれ? あとパン皿も」

「どれだろう」

 食器棚をあちこち探して、ようやく皿を取り出す。

「トースターは、いつも目盛りいくつで焼いてるの? うちのはオーブンだから、スイッチが全然違うし」

「よくわからないな。適当に五くらいでやってみたら」

「蓮君って、家の手伝い全然やってないでしょ」

「う、うん。ほとんど何もしてない」

「まったく。生活力無さすぎだよ」


 テーブルの上に、熱々でいい香りのするビーフシチュー、カリッと焼き上がったトースト、色とりどりの野菜にチーズソースのドレッシングがかかったサラダが並んだ。

「すごいご馳走だな。うちじゃこんな豪華なサラダなんて見たことないし」

「ふふん! さあ、食べよう」

「いただきます」


 シチューの肉をひとくち、口にして驚いた。旨味のある肉が、舌の上でほろほろくずれていく。

「お前、料理の天才だな。とろっとろの肉のシチューめちゃくちゃ旨いぞ」

「でしょー。料理できるのか、とか失礼なこと言ったの謝りなさい」

「ごめん。悪かった。料理の腕は最高です」

「えへへへ」

 道具はうちの物なのに、出てくる料理が全く違うのは、やっぱり腕の差なのかな。母親にも教えてやってもらいたい。

「ちょっと蓮君。動かないでね」

「なに?」


 突然、よしのんさんが、ぐっと近づいてきた。右手を俺の顔の横に持ってくると、頬をすっとなでられる。

「な、なにしてるんだ?!」

心臓がドキドキして爆発しそう。急にどうした?

「口の横にシチュー付けてるから。ほんと子供よね」

 口を尖らせながら、おしぼりで指をふいていた。なんだ。驚かすなよ。

 ドキドキして息が止まりそうだった。


 あっというまに皿は空っぽになり、おかわりした二杯目もすぐに無くなった。鍋も空っぽだ。

「こうやって、朝からずっと一緒に作業して、一緒にご飯食べてると、本当のパートナーって感じだよな」

「ぱ、パートナーって、な、なに言いだすのよ」

 あれ。顔が真っ赤になってる。

「いや、パートナーって、コラボしている相手って意味で。変な勘違いするなよ」

「わ、わかってるわよ! デザートのアップルパイ出すから、コーヒー入れて!」

「はいはい」 

 よしのんさんは、ぷいっと顔をそむけると、皿を重ねて立ち上がりキッチンに持って行った。


「コーヒーって、どこにあったかな」

「もうー、ほんと役立たずね。そこの戸棚の中でしょ」

「ほんとだ。よくわかったな」

「キッチンなんて、一日使ってれば、大体どこに何があるかくらい、わかるようになるわよ」

 なんか、住人の俺よりこの家に馴染んでないか?


 コーヒーに牛乳をたっぷり入れて、デザートの熱々アップルパイを食べ終わった後は、二人でソファーに並んで座ったままぼうっとしていた。キッチンは片付けたけれど、作品の続きをやる気力はもう残っていなかった。

「アップルパイも、おいしかったな」

「そう?」

「あれなら、ずっといつまでも食べていたいな」

「え、ずっと……?」

「うん。上品で、ずっと食べてても飽きないだろ」

 また赤い顔してる。なんか変なこと言っちゃったかな。


「のんびりしてたら、もう九時になるな。そろそろ帰らないと、親が心配してるんじゃないか」

「どうせ、親は遅くまで帰ってこないから平気だよ」

「お母さんも?」

「あいつは、もう家にはいないから」

「え?」

 家にいないって、どういう意味だ?


「……ねえ。昼間、話してたこと覚えてる?」

「昼間、話してたこと?」

「家族のことなんか、簡単には話せないってこと」

「あっ」

 聞いちゃいけないことだったか。

「嫌われるんじゃないかと心配で、話せないって言ったけど、ほんとはね、聞いてほしいっていう気持ちもあるの。逆に」

「……」

「だから聞いてくれる?」

「う、うん」

 よしのんさんは、少しうつむいたまま、静かに話始めた。


「母親はね、私が小学生の時に、浮気して家を出ていったの」

「えっ!」

「出ていく前も、お父さんとは喧嘩ばっかりしてた。出ていってから、お父さんはがっくり落ち込んで暗くなっちゃって。たまに顔を合わせても、母親の悪口ばっかり言ってた」

 なんと言ったらいいんだろう。


「お姉ちゃんは、ちょうど美術大学に合格した時で、一人暮らしするって出て行っちゃった。きっと、家の雰囲気が嫌になったんだろうね」

「じゃあ、家ではお父さんと二人暮らし?」

「そう。でもお父さんも、深夜まで仕事してて帰ってくるの朝方だから」

「……」

「たまの週末に顔を合わせても、目をそらすんだよね。私のことを避けているみたい。嫌われてるのかな」

「……」

「家では、ほとんど私一人ぼっち。本当のぼっちだよね」

 ソファーの隣に座って、膝の上に置いた手をずっと見ながら、ぽつり、ぽつりと話をする。


「だからね、小学生の時からずっとお話書いてたんだ。素直な彼女が、素敵な彼に可愛がられて、幸せになるお話。ヒロインはね、絶対に浮気なんかしないし、絶対に幸せになるの」

 そんな事情があったなんて知らなかった。だから芽依が浮気するプロットを提案した時に、あんなに怒ったんだ。


「ごめん。何にも知らなくて、よしのんさんが嫌がるプロットを無理に入れようとして」

「ううん。私の家の事情なんて、言わなかったのは私だし。ぐすっ。蓮君は真剣に作品のこと考えてくれてたんだもんね。ぐすっ」

 よしのんさんは、うつむいたまま涙をこぼし始める。

「ぐすっ。もう少し、ここにいていい?」


 思わぬ家庭事情の告白を聞き、どう慰めていいのかもわからなかった。ソファの横に座ったまま、彼女は肩にもたれかかってきた。こんな近くで、肩と髪が触れ合って。


「私ね、一人で家にいる時、自分の部屋の床に座って想像してたの。ふかふかのソファーに座って、隣に人がいて、おいしいものを食べながら、おいしいねって言うの。たったそれだけで、ずっと幸せな気分になれたの。そんな幸せな気分を、どんどん文字にして書いていたの」

 肩にもたれたまま、ぽつりぽつりと語り続けた。


「でも、今日、蓮君の隣にいて、おいしいねって言ってもらえて、あれって思ったの。想像していたのと違うって」

「え、違う? 何が?」

「言わない。ばか」

 よしのんさんは、俺の肩にぐいぐい顔を押し付けてきた。


 こ、この状況で、俺は何を言ったらいいんだ? どうすればいい? よしのんさんは、俺に何を期待してるんだ?

 小説なら、ここでぐっと抱き寄せて、キスしてってシチュエーションだよな。もしかしてそれ以上も……

 待て待て待て、落ち着け。これは現実で、小説じゃない。間違えたら大変なことになるぞ。

 よしのんさんの顔が押し付けられた肩と下半身が熱くなってきた。

 心臓がバクバクして苦しい。


 とりあえず涙を拭いてもらうか?


「なあ、よしのんさん」

「うん」

「鼻ふくならティッシュ取ろうか」

 よしのんさんはパッと顔を上げると、真顔になって叫んだ。

「蓮君のバカー!!」

 ああ、やっぱり間違えたみたいだ。


「じゃあ、今日はこれで帰るから駅まで送って!」

 何かが吹っ切れたように、よしのんさんは立ち上がって、軽くなったリュックを背負った。怒っているのかと思ったが、目は笑っていた。

「今日は一旦帰るけど、明日また来るから。それまで朝食は食べたらダメだからね」

「ええっ? 何時に来るつもり?」

「そうね。八時には駅に着くようにするから」

 やれやれ。でも怒っていないようだし、よかったのかな?


 玄関に向かって歩き始めると、いきなり後ろから耳元でささやかれた。

「蓮君のいくじなし」

 うわっ! 背中から下半身に電流が流れるように甘いしびれが走る。

 やっぱり間違えたんだ……



三-五 豪華なカレー


小鳩さんのコメント「いよいよ芽依の秘密に近づいてきましたね。若の葛藤している姿にドキドキします」

水晶の返信「ありがとうございます。どんな秘密が明かされるか、楽しみにしていて下さい」


ぴーさんのコメント「連休中、毎日二人のあまあまシーンで糖分を補給しています」

水晶の返信「これから、もっと甘々になりますので、糖分摂取過多になりませんようお気をつけ下さい」


 連休中は、漫画も小説もインプレッションやPVが稼げるので、いつもより早いペースで『わかとめいを巡る迷推理……?』を公開していた。合宿で書き溜めた分は公開してしまったが、それに見合った反応はあったし、フォロワーさんからも大量のコメントが来たので、連休最後の今日は自分の部屋でせっせと返信を書いていた。


 ゴールデンウィークの初日と二日目は、よしのんさんが家にやって来て、食事を作ってくれながらの書き溜め合宿をしていた。しかし、三日目以降は、お父さんが休みで昼間も家にいるということで、合宿はしていない。ほとんど口をきかないと言っても、やはり親は親ということだろう。

 初日の夜、あんなにめそめそして甘えて来たのが嘘のように、二日目はいつも通りのよしのんさんに戻って、散々いじり倒された。困ったものだが、内心ほっとしていたのも事実だ。

 一通り返信したところで、よしのんさんのポストの方も見てみる。


よしのんさんのポスト「昨日、恵比寿の高級フレンチレストランで、水晶つばささんと初めてリアルにお会いしました。想像していた通りの素敵な方でした!」

小鳩さんのリプライ「フレンチデートなんて、素敵すぎ! やっぱり水晶さんと、お付き合いするんですか?!」

よしのんさんのリプライ「さあ? ご想像にお任せします(笑)」


 うわっ、なんだこのポストは? 日付はわざと一週間遅れにしているけど、デートなんて書くかな。自宅で手料理とか書くよりはいいけど。

 ソファで肩にもたれかかって来た時の、熱い感覚を思い出した。

 やっぱり、そういうつもりで家に来たのかな。「いくじなし」って、そういう意味だよな……


 ぼうっと考えているところに、突然、よしのんさんから通話着信が来た。あわてて応答ボタンを押したので、スマホを取り落としてしまう。


「ちょっと、なに? すごい音がしたんだけど」

「ご、ごめん。スマホ落っことした」

「もう。何やってんのよ。壊れなかった?」

「大丈夫。で、なに?」

「特に用事はないけど、ぼっちが何してるかなと思って」

「ほっとけ」

 相変わらず口は悪いが、家に来た時のよしのんさんの様子を思い出すと、特に用事はない、と言いながら電話掛けてくるなんて、実は俺に甘えたいということなのか?

「あ、そうそう。六月一週目は修学旅行に行くから」

「どこ?」

「京都と奈良」

「へえ。中学の修学旅行で行ったばっかりだよ」

「え、中学で行ったのか?」

「うん。まあ、今の蓮君のレベルは、私の中学程度ってことね」

「あのなあ」


「蓮! ご飯よ」

 部屋の外から、母親の声がする。


「すまん。夕飯の時間になったから」

「うん。わかった」

「あ、そうだ。ポスト見たけど、フレンチレストランでデートって、なんだあれ?」

「うふふ。フォロワーさんにネタを提供してあげたの」

「大丈夫なのか? そんなことして」

「なんで? 次は、バーに連れて行ってもらったとかにしようかな」

「おいおい」

 なんか、フォロワーさんを騙して遊んでいるみたいだな。


「だんだん、水晶つばさとラブラブな感じにしたりして。そうだ! 水晶つばさのポストでも、よしのんとデートしたって書いておいてよ!」

「ええっ?」

「だって不自然でしょ。こっちだけ書いてあったら」

「それはそうだけど……」


「冷めるよ!」

 また母親の声が聞こえる。

「わかったって。いま行く」


「ごめん、また呼ばれた」

「わかった。じゃ、おやすみ!」

「おやすみ」


 電話を切ってダイニングに行くと、いつものカレーの匂いがしてきた。しかし、テーブルに並んでいる皿の様子に違和感がある。 

「あれ? カレーの上に、何か山盛りに乗ってる。いつもの薄切り肉とニンジンのカレーと違う?」

「鶏の手羽元を圧力鍋でほろほろにしたのと、グリルした夏野菜を乗っけたから」

「どうしたんだ、これ? 街のカレー屋で出てきそうなメニューだけど」

 昨日も、ビーフストロがなんとかという、見たことのない料理が夕飯に出てきた。旅行から帰って来てから、夕飯になんだか凝ったメニューが出てくることが増えた気がする。リゾートホテルでご馳走を食べて、刺激されてきたのかな?


「新婚の頃は、よく作ってたのよ。最近やってなかっただけで」

「おお、懐かしいな。よく作ってたな」

 休暇で、すっかりリフレッシュした親父も、喜んでいる。

「なんで急に?」

「ふふ。昔のことを思い出したからよ」

「ふうん」

 まあ、銀婚式ってことで、二人きりで旅行してきたんだもんな。新婚の頃を思い出すってのもありかもな。


「お父さんも、若かったからね。いろいろ材料買ってきて、美味しいもの食べさせてあげようって頑張ってたのよ」

「今でも、俺は十分若いぞ」

「ちょっとそのお腹だと、あの時みたいな食事には戻せないわね。今日は特別だけど、明日からお父さんは野菜スープね。蓮は育ち盛りだから肉でもいいけど」

「おい、それは勘弁してくれよ」


「いただきます」

 鶏肉をひとくち、口にして驚いた。旨味のある肉が、舌の上でほろほろくずれていく。なんだよ、やればできるじゃん。



三-六 ハーレム列車


 改札前広場で、クラスごとに班で集まり点呼を終えると、引率の先生がハンドマイクで指示を出してきた。

「これからホームに移動する。行程表に書いてある号車に、班ごとに並んで乗車すること。ドアが開いている時間は短いから、乗り遅れないように注意しろ。座席も行程表に書いてある通りに班ごとに着席して、新幹線の車内では、むやみに歩き回らないこと」

「せんせい! トイレに行くときは?」

「トイレに行くのは構わん。そんなことは自分の頭で考えろ!」

 六月第一週の月曜日。いよいよ修学旅行に出発する。


「うちの班は、3E、3D、4E、4Dだって」

 石沢さんが、行程表を見ながら一番に車両に乗り込んでいった。

「ドアの近くだな」

 続いて杏奈さん。その後ろから、俺と山本さんが黙ってついていく。

「座席、向かい合わせにしちゃっていいのかな?」

「そんなことできるのか?」

「できるよ。うちで旅行する時は、いつも向かい合わせにしてる。確かこのへんのペダルを踏むんだよね」

 他の班でも同じことを考えていて、次々に座席の向きが変えられていった。


「できた! どうやって座る?」

「どこでもいいけど、窓側の方がいいかな」

「じゃ、杏奈さんは窓側ね。山本さんは?」

「出入りしやすいから、通路側で」

「あとは、西原君は眺めのいい窓側にしなよ。そっちだと富士山がばっちり見えるよ。私は杏奈さんの隣にする」

「うん。わかった」

 窓側に俺。隣は山本さん。向かいの通路側に石沢さん。そして真正面に杏奈さんとなった。


「こうやって四人で向かい合わせに座ると、なんかグループ旅行みたいでワクワクしてくるね!」

 楽しそうな石沢さんに引き換え、女子三人に囲いこまれて落ち着かない俺は、どこに視線を向けていいか困ったことになっていた。

 なんで杏奈さんは、こんなに短いスカートはいてくるんだ?

 なにジロジロ見てんだよ、と言われないように、必死に窓の外に視線を向けた。


 マイペースな山本さんは、さっそく英語の雑誌を取り出して読み始める。

「それ何の雑誌?」

 放っておかない石沢さん。

「Nature。自然や科学の解説記事が載っている雑誌」

「そうなんだ。表紙の写真がすごくきれいだね。どこの風景?」

「これは、南米の奥地ギアナ高原にある世界最大の落差の滝。標高差が九百七十六メートルもあって、高すぎて水が全部風で飛ばされるから、あたり一帯はいつも暴風雨状態だそう」

「へえ! すごい」

 石沢さんが感心しているのが引き金になったのか、堰を切ったように、とうとうと語り始めた。

「滝の下は熱帯雨林だけど、崖の上は孤立した山々だから、七千種以上の固有種の生物が見つかっていて、遺伝学上も貴重な環境。この特集は『多彩な生物相の展開』で、異所的種分化と同所的・側所的種分化の典型例と考えられる生物種の比較の記事が、すごく面白かった。あと『血液と遺伝子の最前線』の記事も興味深い」

「血液と遺伝子?」

 よしのんさんと、キャラの設定の話をした時のことを思い出した。血液型占いで性格分類するなんて古臭いと言われてしまったっけ。最新の科学だと、そんなことはやっぱり否定されてるのかな? ちょうどいいや。聞いてみよう。

「血液型で、性格が決まるみたいなのは、やっぱり非科学的なのかな?」

「直接的な関連は無いと言われてる。血液型で性格が決まるという学説は、戦前に提唱されたけど、追試検証した結果、統計的に有意な差は見られなかった。今では、血液型と性格には相関はないというのが心理学会の定説」

 やっぱりそうなんだ……

「でも、血液型は親からの遺伝で決まるので、例えば腸内細菌の環境のように、親から引き継いだ性格に影響する因子と間接的に関連があるかもしれないという研究をしている人はいる」

「そうか。血液型って遺伝で決まるんだ」

 山本さんは、そんなことも知らないのかとでもいうような、ちょっと冷たい目になって話を続けた。

「生物の授業でも習ったと思うけど、血液型はA型遺伝子、B型遺伝子、O型遺伝子の3つの組み合わせで決まる。父母からどの遺伝子を引き継いだかで、AAやAOならA型、ABならAB型というように決定されるもの。だからO型の親からはAB型の子供は生まれない」

「へえ……、えっ? O型の親からはAB型の子供は生まれないの?」

「基本的には」

 あれ、まずいな。芽衣の血液型はAB型で、父親はO型にしちゃったけど、あれは科学的にダメなんだ。あとでよしのんさんに連絡しなきゃ。まあ、性格の設定には使わなかったから、セリフをちょっと直すだけだからな。ジンドルインディーズ漫画に出す時に、直してもらおう。

「もし興味があるなら、この雑誌貸すけど、読みます?」

「あ、いや、いいよ、山本さん読んでて」

 リケジョというのか、自然科学オタクというのか、普段は静かだけど、好きなことを語り始めるとすごい熱量だな。


「あれ? 杏奈さん、なにそれ?」

 もう一人マイペースな杏奈さんは、お菓子を出して口に放り込んでいる。

「きのこの谷。食べる?」

「もう、おやつ食べちゃっていいんだっけ?」

「気にしない、気にしない。先生も、自分の頭で考えろって言ってたろ。出したいからトイレに行く。食べたいからおやつを食べる。どっちも一緒じゃない?」

「だね。じゃあ、ちょうだい」

「ほら、山本さんと西原も取れよ」

「あ、ありがとう」


 差し出されたお菓子の箱からチョコレートをつまむ時に、やっぱり杏奈さんの真っ白な太ももが目に入る。つるんとしたきれいな肌で、贅肉はなくピンと締まっていて……。いや、やばいやばい。

 目をそらして通路の方を向くと、反対側の列の、男子ばっかりの班の同級生が、「絶対に許さん!」という殺気のこもった視線でこちらを見ていた。あわわわ、ホテルに着いても、夜道は一人で歩かないことにしよう。


 すぐ後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。

「こんな所でハーレムごっことは、豪勢だな」

「美郷……!」

 通路に立ち、山本さんの座席の背もたれに肘をついて、挑発的な目つきでこちらを見下ろしていた。


「三人も女子をはべらせて、さっそくパーティとは大したもんだ。ちょっかい出すなとか偉そうなこと言ってて、石沢さんともいい感じだし」

「い、いや、そういうわけじゃ」

「あんた、何か用でもあるの?」

 杏奈さんが、きっと睨みつけた。

「怖っ。別に用はないけどね。ちょっかいは出さないことにしてるから」

 すぐ目の前で、石沢さんは固まっている。

「じゃ、ごゆっくり」

 美郷は、そのまま立ち去って行った。


「ほんとムカつく」

 杏奈さんはカンカンに怒っていた。俺がもっとしっかりしていたら、あんな嫌味言われないで済むのかな。

「西原! なにしょぼくれてんだよ。シャキッとしろよ」

「は、はい」

「激辛ハバネロチップスもあるぞ。これ一気食いしたら気合い入るから、口開けろ」

「や、やめて!」



三-七 班行動


 新幹線で京都駅に到着し、バスで移動しながら名所旧跡をまわって、宿泊地の奈良のホテルに入った頃には、もう夕方になっていた。夕食が終わった後、ホテルの一階ロビーに降りて行くと、お土産品コーナーには、うちの生徒が何人もいて買い物をしている。


「ね、ね、湊くん、これ可愛くない?」

「着ぐるみキーホルダーか? キャラクターは一緒で、どこでも売ってるだろ」

 石沢さんと小坂も、あれこれ見ながらいちゃいちゃしている。今日はずっとクラスごとの別行動だったから、ようやく一緒になれたってところだろう。


「うーん。じゃ、こっちの地元ゆるキャラキーホルダーは?」

「これ、キモくないか?」

「えー、きもかわいいじゃない。これ、お揃いにしようよ」

「え、俺も持つの?」


 相変わらず仲がいいな。

 二人の様子を見ながら売店の横にあるベンチに座っていると、よしのんさんのことが頭をよぎった。今日一日、どうしていたかな。メッセージを送ってみるか。


西原: ようやくホテルに着いた。一日中歩き回ってて疲れた。

よしのん: おつかれー。そっちは天気いいの? 何か面白いものあった?


 いつものことだが、返信が早い。


西原: お寺とか遺跡ばっかりで、面白いものはないな。天気はいいよ。

よしのん: そっか。鹿に噛みつかれなかった?

西原: 鹿のいるあたりに行くのは明日。


 ゴールデンウィークに家で聞いた、よしのんさんの家族の話を思い出す。今も、家にひとりぼっちでいるのかな。


西原: お土産は何がいい?

よしのん: お土産? 別にいいよ。どうせロクなもの売ってないだろうし。変な置物とか買ってこないでよ。


 相変わらず口が悪い。


西原: わかったよ。なんか実用的なものの方がいいか?

よしのん: 実用的なお土産って、なんかあるんだっけ?

西原: まだ明日もあるから、ゆっくり探してみるよ。

よしのん: 無理に買わないでいいよ。それより少しでも続き書いてきてよ。

西原: わ、わかったよ。


 ほんと、漫画家先生は人使いが荒いな。


「あ、西原さん。こんなところにいたんですか」

 エレベーターホールから、成瀬さんがやってきた。ジャージを着て少し髪が濡れている。

「ああ。もう風呂に入ったのか?」

「はい。混む前にさっさと済ませてしまいました」

 そばに来ると、シャンプーのいい匂いがする。まだ乾ききらないショートボブが、しっとりとしていて、普段とは違った印象。風呂上がりで火照っているのか、いつもの真っ白な顔に、ほのかに赤みがさしている。


「あのさ、ちょっと相談してもいいかな」

「なんですか?」

「女子にあげるお土産って、何がいいのかな」

「……彼女さんに、ですか?」

「あ、まあ、うん」

 成瀬さんは人差し指をあごに当てながら、ちょっと眉を寄せて首をかしげた。


「そうですね。定番ですけど、油取り紙なんかはかわいいし、実用的だし、いいんじゃないですか」

「油取り紙って、なに?」

「鼻の頭とか額とか、汗や皮脂が出るところをふく紙です。お化粧がくずれないように、押さえて汗だけ拭き取るんです」

「へえ」

「本当は京都の名産なんですけど、ここでも売ってるんじゃないですか」

 お土産品コーナーの方へ歩いて行く成瀬さんに、俺もついていく。


「ありました。これです」

 油取り紙を手に取って渡してくれた。

「ありがとう。じゃあこれにしようかな。小さいけどパッケージもそれっぽいしな」

「それだけだと、彼女さんにあげるにはちょっと安すぎませんか? こっちの手鏡と合わせてみるとか」

 織物のようなきらびやかなケースに入った、小さな手鏡を渡される。

「これと合わせて?」

「これなら通学カバンにも入るし、ちょっと髪を直すとか使い勝手はいいと思いますよ」

「ふうん。なんかすすめ上手だけど、この店の回し者じゃないよな」

「そんなわけありません」

「冗談、冗談。ありがとう。これで会計してくる」


 レジに向かって歩いていくと、成瀬さんもついてくる。

「旅行に来ても、ずっと気にかけていてもらえるなんて。彼女さん幸せですね」

「えっ、いや、そういうわけでも」

「うらやましいです」

 なんか、寂しそうな顔している。

 そういえば成瀬さんて、付き合っている人はいるんだろうか? 聞いたことないな。


***


 翌日の午後一時。ホテルのロビーにクラスごとに集合して、自由行動の出発を待っていた。午前中はまたバスであちこち連れまわされて、ホテルで昼食を食べ終わったところだ。


「これから夕方までの半日、班ごとの自由行動だが、事前に提出した行動計画に沿って活動すること。くれぐれも事故に合わないよう気をつけるように。ホテルの夕食は六時だが、十分前までに帰って来て、着席するように。絶対に遅れるなよ」

「はあい」

「解散!」


 号令と同時に、石沢さんが二組の列に飛び込んでいく。

「ナルちゃん、湊くん! やっと一緒になれたね!」

「そんなにあわてなくても」

 それぞれの班で動き始めたので、ロビーはざわざわと騒がしくなった。俺と杏奈さんが小坂の方に近づくと、いつものギャル達が小坂を指差しながら騒ぎ始めた。


「杏奈! 聞いてよ! バスの中で、このキモオタがひどいこと言うんだよ」

「なんだと? 突っかかって来たのはそっちだろ?」

「あんたがジロジロこっち見ながら、化粧が濃いだの、ブラッシングするなだの、ぶつぶつ言ってるから」

「そりゃそうだろ。なんでバスの中でチークなんか付けてるんだよ。しかもあんなにべったり」

「べったりじゃないわよ! これから自由行動で街に出るんだから、メイクするのは当然じゃない!」

「お前らがいくらペイントしても、無駄だって言ってるの」

「ペイントって何よ!」


 杏奈さんが笑いながら仲裁する。

「まあ、まあ。小坂たちは、もうここから別行動だから、気にしない、気にしない」

「ぶううう!」

「さっさと行こう。顔見てるだけでほんとムカつく」


「じゃ、杏奈さん達は三人で街に行って、次に会うのは夕方の集合時間だね」

「ああ。じゃあな」

 杏奈さんは頭の上で手をひらひらさせながら、ギャル達を引き連れてロビーを出て行った。


「山本さんは、計画通りに私たちと見て回る?」

「いえ。県立考古学研究所附属博物館で、出土品の遺伝子分析と古代の暮らし展をやっているので、一人で見に行きます」

「そう。じゃあ、ホテルで夕方集合ね」

 これで完璧に計画通り、小坂と成瀬さん、プラス俺になったということか。石沢さんて本当にすごい策士だな。


「さ、行こ行こ」

 石沢さんは、小坂の手を取って歩き始めた。それについて、俺と成瀬さんもロビーを出る。

「楽しそうですね。前の二人」

「そうだな。ちょっと離れててやろうか」

 成瀬さんはこちらを向いて、真顔のまま言った。

「二人で、どっか行っちゃいましょうか」


「いや、そ、それは」

「冗談ですよ」

 成瀬さんは眼鏡の奥で微笑んだ。

 心臓に悪い冗談はやめてくれ。


***


 石沢さんは、行動計画で提出した地図のコピーを手に、小坂と並んで歩いている。スマホも一緒に持ってGPSで位置を確認しているから、道に迷うことはないだろう。

 前を歩く二人には聞こえないぐらいの小さな声で、成瀬さんが話しかけてきた。


「今朝も、よしのんさんの漫画と同時に、水晶さんのコラボ小説の投稿が上がってましたけど、あれは旅行前に書いてあったものですよね?」

「う、うん。前に書いておいたやつ」

「ですよね。さすがに旅行中は書いてないですよね」

「実は昨日の夜、布団の中で先の方を書いてた」

「えっ? 旅行中も仕事してるんですか!」

「いや、プロ作家じゃないんだから、仕事じゃないけど」


 ゴールデンウィークの合宿でかなり進めたが、その後は、成瀬さんの小説レクチャーで放課後いっぱい使っていることが多いので、よしのんさんに原稿を渡すのが遅れがちになっていた。この修学旅行中も書けるだけ書いておかないと、公開タイミングに追いつかれてしまいそうだった。

「水晶先生って、すごいですね」

 普段は、メガネの奥で表情が読めない冷たい目つきのことが多い成瀬さんだったが、時々、今のようになんとも言えない柔らかい表情をすることがあった。小説のレビューをしていると、特によく見る気がする。


「私も、コンテスト用の作品を書き上げないといけないのに、修学旅行中は全然やっていません。ダメですね」

「いや、コンテスト用のは、ちゃんと家に帰ってから落ち着いて書かないと。俺みたいに、サイトで公開して終わりってやつじゃないから」

「そうですね」

 ニコニコしていたが、ふと思い出したように真顔になってこちらを向いた。 

「そう言えば、この間よしのんさんがポストしていた、恵比寿のフレンチレストランでお食事って、本当に行かれたのですか?」

 あ、あのフェイクの。本当は家に来たんだけど、そんなことは言わない方がいいよな。

「いや、高級フレンチなんて行ってないよ。ちょっと打ち合わせで会っただけ。あれは話を盛り過ぎだな」

「そうなんですね。よしのんさんて、どんな人なんですか?」


「ナルちゃん! 西原君! 仲良くお話し中、申し訳ないんだけど、春日大社に行くのはこっちの道だよ」

 いつの間にか、先頭二人が角を曲がっているのに気づかず、追い越しそうになっていた。

「おっと、通り過ぎるところだった」

「あ、ごめんなさい」

 成瀬さんは、いつもの表情に戻っていた。よしのんさんの話も、そこまでで打ち切りになった。


***


「葛切りって、こういうのかあ。初めて食べた。ツルツルしてておいしいね。湊君も一口食べてみる?」

「じゃ、俺の葛プリンも食べるか?」

「こうかーん」

 石沢さんの意欲的な行動計画に沿って散々歩き回ったあと、予定通り葛スイーツの店で休憩中。女子二人は葛切りを、小坂と俺は、葛プリンをそれぞれ頼んでいた。

「ううーん! プリンもおいしい!」


 横に並んで、おいしいねと言うと幸せな気分になる。でも、俺の横では、想像していたのとは違っていた。よしのんさんが言いたかったのは、何だったんだろう? 小坂と石沢さんが並んで座り、しきりに「おいしいね」と言い合っているのを正面から見ながら、ぼうっと考えていた。

 いくじなしって言われたのは、やっぱり期待していたんだよな……


「あー、ナルちゃんも食べたいよね。私がプリンにして、分けてあげれば良かった。葛切りは湊くんに貰えばいいんだし」

「ううん。いいよ。美味しそうだなっていうのはわかるし」

「蓮の一口やれば? まだ全然減ってないし。そこに新しいスプーンあるから、間接キスにはならないぜ」

「いいよ。はい」

 まだ一口しか手を付けていなかったプリンの皿を成瀬さんの前にずらすと、成瀬さんは、真っ赤になって首をふった。


「い、いえ、大丈夫です。そんな、分けてもらうなんて」

「せっかくだから、食べてみなよ。おいしいよ」

「いえ、だ、大丈夫です」

 こんなに真っ赤になってあわてている成瀬さんは、見たことないな。俺の食べかけなんて、冗談じゃないって感じか。


「男子の食べかけなんて、気持ち悪いよな。ごめん」

「いえ、あの、そういうわけじゃなくて、気を悪くされたらごめんなさい。いただきます」

 引っ込めようとすると、成瀬さんはあわててスプーンを取り、一口すくって食べた。

「お、美味しいです」


「こいつに、そんな気を使うことないぜ。ずっとギャル達に、キモいって言われてるから慣れっこだし」

「お前と一緒にするなよ。最近、一組じゃ杏奈さんとうまくやってるんだからな」

「そうだよ。湊くんも、もうちょっと大人になったら?」

「えー! 俺の方が言われちゃうの? 結衣にまで言われるとショックだな」

「私も、西原さんが気持ち悪いだなんて全然思いませんから。と、とても、素敵だと思います」

「あー、最悪だ。お前らだけは味方だと思ってたのになー」


 石沢さん、ずっと成瀬さんの顔を見ているけど、なんだろう。成瀬さんは下向いちゃってるし。


三-八 偽者の私


 修学旅行から帰ってきてすぐの週末。よしのんさんにお土産を渡すために、最寄り駅のファーストフード店に来ていた。以前、「芽依は絶対に浮気なんかしないから」と叫んで出て行ってしまった、あの店だ。土曜日の昼とあって、店内は、ほぼ満席だった。


「で、どうだったの? 修学旅行でなんかいいことあった?」

「別に、いいことはなかったけど」

「なんだ。四日間も行ってて、毎日つまんない旅行してたわけ」

「相変わらず口が悪いな」

「電話もなくて、こっちもつまんなかったんだから」

「え? なに?」

「なんでもない。独り言」

 聞こえなかったことにしよう。

「これ、お土産」

 袋を渡すと、すぐに取り出している。

「へえ! 西陣の織物風の手鏡と、油取り紙ね。定番だけど女子力高めのチョイスじゃない」

「気に入ってもらえるといいけど」

「うん。合格にしといてあげよう。京都のお土産っぽいのに、奈良のホテルの袋なのが謎だけど」

「そうか? 奈良でも京都でも一緒かと思ってた」

「それは両方に失礼でしょ」


 そう言いながらバッグを開いて、ピンク色のプラスチックカバーが付いた手鏡を取り出した。キャラクターの絵が描いてあり、いかにも子供が喜びそうなデザイン。

「小さい頃から使っているこれは、もう交代かな。ちょっと子供っぽかったから、ちょうどいいや」

 ニコニコしているから、まあ、気に入ってはもらえたみたいだな。成瀬さんの助言のおかげだ。


「ぼっちにしては、よくこんな組み合わせ思いついたね」

「ああ。どんなお土産がいいか、女子に聞いてみたから」

「前に遊園地に行った時に、やたら質問してきた人?」

「いや、あの時の石沢さんじゃなくて、成瀬さん」

「それって……小説の書き方教えろって言ってきた、フォロワーの?」

「そう」

「ふうん」

 なんか、目に見えて不機嫌になったぞ。ちょっと説明しておいた方がいいかな。


「泊まってたホテルのお土産屋で、たまたま一緒になったからさ。どんなのがいいかなって聞いてみただけだから」

「ふうん。たまたまね。昼間も『たまたま』同じところに行ったり、『たまたま』同じスイーツをつついて食べたりしてたんじゃない?」

「えっ、いや、それは。石沢さんと成瀬さんは仲がいいから、自由行動は一緒に動くことになっただけで……」

「はあ? 本当にずっと一緒にいたの?」

 しまった、墓穴を掘った! 成瀬さんとグループで行動していたことがわかったとたん、よしのんさんは目に見えて不機嫌になった。


「なんか、学校でもベタベタしてるし、修学旅行でもずっと一緒にいるとか、なにその女。いっそのこと付き合っちゃえば?」

「いや、勝手に妄想ふくらませないで。学校でベタベタとかしてないし。成瀬さんは、俺のことを付き合うとかそういう対象として見てないから。単に下読みの手伝いってだけで」

「ふうん。どうだか」

 話題を変えた方がいいな。そうだコラボ原稿のこと。


「そ、それよりさ、旅行中に送ったコラボの続き、どうだった?」

「うん。まあまあね」

「読んでて、くどくないかなと思って」

 若が推理した結果を芽依に話した後の心象を、モノローグ形式で書いてみたが、なんとなく文体が固くなってしまって、落ち着きが悪かった。

「そんなに悪くはないんじゃない? なんか、昔の推理小説っぽい感じは、しなくもないけど」

 お土産に渡した手鏡をのぞきこみながら、前髪を直している。成瀬さんの言っていた通りだ。


「じゃあ、あの調子で次も書いていくよ」

「ね、蓮君。最近、書くペースが前より落ちてきたよね」

「えっ」

 相変わらず手鏡をのぞいていて、こちらの目を見ないまま続けた。

「ゴールデンウィークに合宿して結構進んだけど、その後、この原稿が上がるまでに三週間かかってるでしょ。『あおとあおい』の時は、四日で仕上げてきてたのにね」

 鋭いな。確かに成瀬さんのレクチャーをやるようになってから、あんまり放課後の時間が取れてないから、前よりだいぶペースが落ちている。


「そうだな。修学旅行とかで、いろいろ時間取られてたからな」

「そう。じゃ仕方ないけどね」

 ようやく鏡から目を離して、俺の方を向いた。

「よろしくね。パートナーさん」

「う、うん」

「じゃ、帰ろうか」

 テーブルの上を片付け始めたところに、メッセージが来た。


成瀬: 公募用原稿が、最終章まで書き上がりました。それに合わせて第一章も少し直しました。明日、学校に持っていきますので、見ていただけますか。


 修学旅行から帰ってきて、すぐに書いていたんだな。最終章の締め方と冒頭のエピソードの見せ方でずっと悩んでいたけど、解決したのかな。


西原: いいよ。月曜日の放課後にまた文芸部の部室で。

成瀬: はい。よろしくお願いします。


 また、よしのんさんのコラボがきつくなるな。今日のうちに頑張って書いておかないと。

 そうだ。行きの新幹線で山本さんに聞いたことを伝えなきゃ。血液型の組み合わせが間違ってたこと。

「あ、前に書いた所で、ちょっと訂正しないといけないことがあるんだけど」

「何よ」

 相変わらず不機嫌な声。

「キャラの血液型を設定した時、芽衣をAB型にして、若とお父さんをO型にしただろ。あれ、親子の組み合わせとしてないんだって」

「……どういうこと?」

「詳しく説明するのは難しいんだけど、遺伝子がどうとかで、親がO型だと、その子供がAB型になることはないらしい。だから、ジンドルインディーズ漫画にまとめ本を載せる時に、あそこの会話を修正しておいてほしいんだ」

 よしのんさんは、黙ったままじっと俺の顔を見ている。不機嫌そうな顔が、さらに眉を寄せて怪訝な表情になった。

「何それ。ありえないでしょ」

「いや、ごめん。あの時ちゃんと調べておけばよかったんだけど」


 よしのんさんは、口を強くつぐんだまま、トレイを持って立ち上がった。その途端、ガシャンと軽い音がテーブルの下で響く。テーブルの端に置いてあったピンク色の手鏡に持ち上げたトレイがぶつかって、下に落ちてしまったようだった。

「大丈夫か?」

「割れちゃった」

 子供の頃から使っていたという手鏡は、ヒビが入っていた。

「今日、蓮君にもらった新しいのがあるから」

 そう言いながらも、よしのんさんの表情は固いままだった。


***


 月曜日から、毎日放課後は成瀬さんの最終稿の推敲をしてきて、とうとう水曜日になった。三日も続けていると、だんだん自分の作品のような気がしてくる。


「すごく良くなったね。文章の流れもスムーズだし」

「最後に、ここがどうしても自分で読んでいてひっかるんです。朗読してみると、なんかつかえてしまって」

 朗読してみて、つかえた所に問題があるという方法も、俺が教えた校正のテクニックだ。

「どれ」


『彼は、振り返ると大きく息を吸い込んで何かを言おうとしたが、彼女がうつむきながらおずおずと差し出している白いハンカチに気がついて、動きを止めた』


「文を二つに分けてみたら? 彼は動きを止めた、を前の文にして、ハンカチの差し出し方は後ろの文で描写するようにすれば、すっきりすると思うけど」

「ああ、そうですね。確かにそうすると落ち着きますね。やっぱり西原さんに見ていただくと、すごく良くなります」

「白いハンカチを渡すのが、別れの象徴なんだね」

「はい。物を使って感情を表現するというテクニックも、教えていただいたように使ってみました」


「で、タイトルは結局どうするの?」

 複数の案があって、迷っていると言っていた。

「いろいろ悩んだのですが、やっぱりこの白いハンカチがすごく象徴的なので『最後に渡したプレゼント』にすることにしました」 

「そうか。いいんじゃないかな」


 成瀬さんは、たくさんの付箋紙を貼った印刷原稿を束ねて、机の上でトントンとそろえた。

「これで、お聞きしようとしていたポイントは全部解決しました。今日中に修正すれば、明日の提出期限には間に合います」

「ふあー、頑張ったなぁ」

 大きく背伸びする。すごい達成感。

「あ、もうこんな時間ですね。そろそろ帰らないと」

「もう七時か。外が明るいから気が付かなかった」

 七時になると校門が閉まってしまうので、それまでに戸締りして校庭を出ないといけない。急いで部室を片付けて廊下に出た。


「よしのんさんとのコラボ漫画の原稿の方、大丈夫ですか? 三日も連続してお願いしてしまいましたが、差し障りありませんでしたか?」

「まあ、大丈夫だよ」

 本当は大丈夫じゃなかった。今週は学校の宿題も結構出ていたから、全然進んでいない。今夜はちょっと頑張らないと。

 成瀬さんが部室のドアに鍵をかけているのを横で見ていると、メッセージが着信した。


よしのん: いまどこにいる? 会いたい。いますぐ会いたい。


 何ごとだ? いますぐ会いたいって? 今までこんなメッセージ送って来たことないぞ。


西原: まだ学校にいるけど、どうした?

よしのん: そうかと思って近くの駅まで来てる。待ってて。


「どうかしたんですか?」

「いや、なんでもない」

 駅から学校まで、十五分はかかる。そこを歩かせるのも悪いから、駅で待っていてもらうようにしよう。


西原: 駅にいるんなら、そこで待ってて。これから歩いて行くから。

 返信はなかった。


 部室の鍵を返すために、いつものように職員室に向かって一緒に歩いていたが、成瀬さんは、ずっとスマホを見ている俺の様子が気になるようだった。

「何か、急用の連絡ですか? 鍵は私一人で返しておくので、気にせず先に行ってて下さい」

「いや、大丈夫」

 職員室で鍵を返し、階段を降りて下足口から校庭に出ると、外は薄暗くなりはじめていた。


「あ、もう正門は閉まってるぞ」

「まだ、横の通用口は開いてるから大丈夫ですよ。運動部の人たちも出ていってますし」

「そうか」

 正門のすぐ横の通用口を開けて外に出ると、街灯の下に、見慣れない制服の女子が立っていた。よしのんさんだ。


「ゆ、百合 良子さん?」

 あの時の仮名って、これで合っているよな。

「……」

「ど、どうした? こんなところで待ってるなんて」

「何やってたの?」

 よしのんさんは、いつになく厳しい目つきで問い詰めてきた。


「あ、彼女さんですか? 待ち合わせしていたんですね。ごめんなさい。西原さんには、部活を手伝ってもらっていただけですから」

「この女が、小説教えている、さくらん坊?」

 え、何で言っちゃうんだ?


「私の漫画の原作ほっぽっといて、この子を優先してるの、おかしいでしょう?」

「ちょ、ちょっと」

「ヤキモチ焼いてるんじゃないの。私が真剣に描いているのに、真剣に向き合ってくれないのが許せないの」

「やっぱり、彼女さんが、よしのんさんだったんですね」

「そうよ。私がよしのんよ」

 暗がりだが、唇を噛み締めているのが見えた。成瀬さんは、静かな表情で話を続ける。


「よしのんさんの作品、大好きでした。ずっとフォローしていましたし、あなたのような作品世界にあこがれて、でも絵は描けないので、それを小説で表現しようと勉強しています」

「そう。ありがとう。でもね、邪魔されると困るの」

「もう大丈夫です。水晶つばささんのお時間を取ることはもうしません。特別授業は今日で終わりです」

「成瀬さん……」

「西原さん。どうもありがとうございました。先に帰ります」

 成瀬さんは、静かに立ち去って行った。


「どうした? 急に会いたいとか、こんな時間に学校まで来るとか。何かあったのか?」

 よしのんさんは、唇を噛み締めながら涙をこぼしはじめた。

「私には、もう誰もいないの。誰も私のことなんか気にしてないの」

「どういうこと? よくわからないけど」

「先週、蓮君が言ってたこと調べてみたの。O型の親からAB型の子供は生まれないって。確かにそう書いてあった。でも、私はAB型で、お父さんはO型なの。だから信じられなくて」

 そういえば、芽衣をAB型にした時に、自分と同じだと言ってた。まさか、お父さんも同じだったなんて。これは、迂闊なこと言っちゃったのか?

「それで、お父さんに直接ぶつけてみたの。私は本当の子供なのって」

「……」

「そうしたら、大人になったら言おうと思っていたけど、私はお父さんの子供じゃないんだって。お母さんが浮気をした時にできた子供なんだって。お母さんは、そんな私を捨てて出て行ったんだって」

「えっ?」

 最悪だ。俺が余計なことを言ったから、知らなくていいことを掘り出してしまった。


「今まで、お父さんもほとんど家にいなくて、学校から帰っても誰もいなかったし、学校なんてバカばっかりだし、ネットでちやほやしてくるのも、私の演技に騙されてるだけだし。私のことをわかってくれる人なんて、誰もいなかったの」

 ぼろぼろとこぼれる涙をふきもせず、両手を握りしめて話し続けた。

「でも、蓮君だけは特別。蓮君は、私の正体がわかっても、それまでと全く変わらないまま。一緒に漫画と小説でコラボして、お互いに言いたいこと言って、他の人を騙して、楽しいこともつらいことも全部共有できて」

 真っ直ぐ顔を上げて、俺の目をみた。

「蓮君の前でだけは、ぜんぶ素顔のままの、本当の私でいられたの」

 そんなに思い詰めていたなんて。

「でも、私は母親が浮気してできた偽物の娘だって。本当の私なんて、どこにもいなかった。全部ぜんぶ嘘ばっかりだった。本当の私なんて、どこにもいなかったの」

 よしのんさんは、涙でぐしゃぐしゃのまま、俺に抱きついてきた。

「怖いよ、怖いよ。足元がドロドロの沼になったみたい。私なんてどこにもいない。私なんて、この世に居てはいけなかったんだ。赤の他人をお父さんだと思い込んで、浮気して出て行ったお母さんを敵視して。でも、自分自身が、その浮気の結果のロクでもない汚れた存在で。もう何も信じられない。もう、もう……蓮君、助けて……」

 

 俺は、どうしていいのかわからないまま、そっとよしのんさんの肩に両手をかけた。力を入れたら壊れてしまいそうな、細くて華奢な体。そのままそっと抱きしめた。

 よしのんさんは、俺の胸に顔を押し付けて、ずっと泣き続けていた。

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