幸運のルビー

長井景維子

おばあちゃんのルビー

その指輪を母から貰ったのは、私が嫁ぐ朝だった。結婚指輪も婚約指輪も、私はすでに婚約者から受け取っていたが、母は、自分も嫁ぐ日に祖母から貰ったのだ、と言いながら、その、古い指輪を私にくれた。その指輪には大きな楕円形のルビーが一石だけついていて、その色は、後で専門家に見せてわかったのだが、ルビーでは最高級と言われる「鳩の血」の色だった。鮮紅色である。

「このルビーはね、戦争をくぐり抜けて我が家に伝わるものなの。この指輪にはおばあちゃんの思いも、そのお母さんの思いも、そのまたお母さんの思いも、みんな詰まっているの。みんなが女の子を産み育てて、その子が嫁ぐ日に渡してきたのよ。」

 鳩の血。小さな小鳥の首を切って、滴ったような真っ赤な血の色。なんだか不吉な気がして、怖いと思った。大昔は、鳩を生贄にして、結婚式をしたこともあったのかなあ、とぼんやり思ったりした。でも、これは我が家に少なくとも四世代伝わるものなのだ。大切にして、娘が生まれたら、その子に伝えていけばいいのだろう、と思った。

 石をみてくれた専門家は、少し驚いていた。こんなに大きなルビーで、鳩の血の色を持つものは、今までそんなにみたことがないと言う。私は、売る気はありませんから、とはっきりと伝えると、そうですか、と残念そうにして、石の写真を撮らせて欲しいと言った。私はいいですよ、と言った。

 ルビーの指輪は、台座やリング部分は初代の先祖が持っていた時のままなので、相当古いデザインだった。24金のリングがついていて、立て爪は六ヶ所に小さく石を囲むように尖っていた。そのデザインは確かに今風でないし、古めかしいのだが、私はあえて作り替えたりせず、そのままで手元に置くことにした。

 例の専門家は、ダイヤを周りに施して、リングもプラチナにした方が石の色が映えると言っていた。しかし、私の先祖のお婆さんたちの指に輝いていたそのままの形で、私は自分の指にもはめたかった。

 結婚しているから、左の薬指には結婚指輪があった。私はこのルビーは、特別な機会にそっと右手につけようと思った。それまでは、小さな古びた箱にしまって、タンスの奥にしまい込んでおいた。夫には、母から指輪をもらったと、全てを話した。夫は最初、指輪にはそんなに関心を示さなかった。しかし、戦争をくぐり抜けてきたルビー、という言葉には、顔色を変えた。売ろうとしているのではないだろうか、と、私は即座に思った。私は、絶対に売らない、とハッキリと夫に意思表示して、指輪を私のタンスの下着が入っている奥に隠した。夫は、インターネットオークションで、指輪の相場を調べ始めた。私は、夫に秘密にしておけばよかったと思った。

 私は困り果てた。絶対にこの指輪は守りたい。女の子が生まれたら、その子がお嫁に行く日に私の母たちがしてきたように、この指輪の謂れを伝えて、娘に渡す。それは、母と私の先祖のおばあさんたちから、私に託された、この石に詰まった思いだった。責任を持って、この石を私も子孫に伝えていきたい。それを、夫は何も理解せず、インターネットオークションで売ろうとしているのか。

 実家に帰った時に、母に何気なく、この指輪の謂れを聞いてみた。母は、お土産に持っていったいちご大福を齧りながら、お茶をすすり、こんな話をしてくれた。

 一番最初にどこから来たのかは、母もわからないという。母の祖母がお嫁に来る時に、母の曾祖母から渡された。母の曾祖母は、指輪を持っていた頃、独身だった。好きな人がいたが、その人とは結ばれなかった。そして、その男の人は母の曾祖母と別れた後に結核に罹り、死んでしまったと言う。その時、母の曾祖母は、その人と結ばれなくてよかったと思ったのだという。そして、数年後に幸せな結婚をして、母の祖母が生まれた。母の祖母は、生まれてすぐにその指輪をもらうことが決まっていた。母の祖母は、年頃になり、恋をした。相手は呉服屋の若旦那だった。両親も結婚に賛成していたが、その呉服屋が不渡りを出し、店は潰れてしまった。母の祖母は、その結婚を諦めて、普通にお見合いして、幸せに結婚した。そして、私の祖母が生まれた。母が、祖母の恋愛について私に話すのは、これが初めてだった。母によると、祖母は女学生のころ、結婚を決めた男の人がいたという。その男の人は早稲田の学生で、二人は逢引を重ねていた。ところが、戦争が始まり、戦況が思わしくなくて、その人は学徒出陣で戦地へ赴いて行った。祖母には、誰か自分の他に男の人を見つけて、幸せになってくれ、というハガキが来て、祖母は泣いた。そして、祖父とお見合いして、結婚した。平凡な教師だった祖父は、祖母に優しくて、祖母は三人の娘と息子を一人産んだ。祖母は幸せだっただろうか。幸せそうだったが、こんな失恋を隠していたとは思わなかった。祖母はそんなそぶりは片時も見せなかったから。その祖母は曾祖母から結婚する時にルビーの指輪を貰ったのだった。

 母はここまで話すと、一つため息をついて、

「だからね、結局、みんな幸せになっているのよ。このルビーを持って結婚すると、幸せになれるのね。そういう運命を辿ってきたのよ。」

「でも、ママ。一度はみんな失恋しているのね。その失恋から、このルビーがおばあさんたちを守ってくれたのかしら。」

「私もそう思ってるわ。私の失恋は、ちょっと話せない。お墓まで持って行きたいから、聞かないで。」

母はお茶を濁した。私は、

「いいよ。ママにだって、私に言えないことがあるって普通のことよ。私もそういえば、失恋を乗り越えて、今の彼と結ばれたわ。」

 その今の夫が、この指輪をオークションに出したがっていることは、口が裂けても言えなかった。私は、夕飯を食べて行くように勧めてくれる母を断って、家に帰り、今日は少し、ご馳走を作って夫の帰りを待った。

 夫は普段通りの時間に帰ってきた。冷やしておいたワインを抜いて、私はアヒージョをすすめた。パエリアも上手にできた。夫は今日はご馳走だな、と機嫌が良さそうだった。

「ねえ、あのルビーの指輪。あれが、すごい指輪だって今日ママに聞いてきた。凄い幸運を運んでくれる指輪なの。私とあなたのキューピッドなのよ。」

 そして、私は、もう話していいかどうかわからなかったが、夫の前に好きな人がいたが、その人とは、価値観が合わなくて、婚約寸前で別れたことを話した。夫は少し驚いていた。そして、母から聞いた母の曾祖母、母の祖母、私の祖母の失恋の話と、その後にお訪れた幸せな結婚の話をした。どの先祖も良い結婚をし、子宝に恵まれ、幸せに添い遂げた話をして、ルビーの指輪が守り神のように存在していた話をした。

「だから、勝手に売ったりしないでね。絶対。」

そう言って、夫の目を見た。夫は、話を聞いて驚いた顔をしていたが、

「よくわかった。今まで売ろうとしてた。ごめん。車を買い替えたかったんだ。でも、絶対にあの指輪は守る。僕らも娘を作って、その子に伝えていこうな。代々幸せな結婚ができる指輪なんて、売ったらもったいない。」

「そうよ、それに、私の先祖のおばあさんたちの思いが込められているの。私を守ってくれているのよ。」

「そうだな。実を言うと、石の鑑定をしたほうがいいと思って、一箇所、話を聞いてきたら、少し削って成分を化学的に検査する必要があるんだって。そんなの、しなくていいよな。」


「削るのは絶対嫌。偽物でもいいの、私は。石の値打ちは私たち家族にだけわかるのよ。」

「デザインも今のままで良いな。あのままで大事にしよう。娘が欲しくなってきた。女の子は可愛いぞ。」

「そうね。」

私はひとまず安心して、ため息を一つついた。

「いちご大福、うちにも買ってきたんだけど、デザートにどう?」

「あ、いただこうか。」

 指輪をタンスの秘密の場所から出すのは憚られた。夫が信用できないわけではなかったが、私の指にないときは、あの秘密の引き出しにしまっておくのが良いと思った。そして、この指輪がある限り、幸せに生きていける、この人と添い遂げるんだ、という勇気が湧いてきた。

 母の失恋が気になった。私は夫に失恋について話してしまったが、母は父にも話していないのだろうか。秘密を持ち、墓場まで持って行くと言っていた母に、限りない「女」を感じて、一人眠れない夜を過ごしていた。寝返りを打ち、隣で寝息を立てている夫の頬にそっと口づけした。

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幸運のルビー 長井景維子 @sikibu60

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