第四羽
Ⅰ
父親との思いがけない再会、腹違いの兄弟との邂逅を終えて、私は旅を始めた。
父親を捜している間、それなりに人間の世界を渡り歩いたが、人間たちと関わるのは存外楽しく、拒絶されることもあったけれど、受け入れてくれる人も少なくなかった。
私にとっては、その何もかもが新鮮で、今までで一番安堵した。
(ああ、なんて息がしやすいんだろう)
天界ではずっと息をつめて、理不尽な目に遭わないように逃げて隠れて、暴言にただじっと耐え続けた。
そんなことをしなくていいと、気にしなくていいのだと知って、私はとても安堵したんだ。
助け合う人間たち。
他人を否定しない。
否定をする人間がいても、少数で。
(人間はこんなに素晴らしいものだったんだな)
これまで知ることはなかった。
私にとっての世界とは、苦痛で、絶望で、孤立だった。
でも、ここは、人間界は、人間たちは、穏やかで、温かかった。
愚かな者もいる。心無い者もいる。
それでも。
(優しい人がいて、穏やかな人もいて、子供を愛し、親を愛し、友達を愛し、恋人を愛して、赤の他人であっても、大切にできる)
希望が、可能性があるということは、なんて素晴らしいことなのだろう。
私はあちこちを歩き回った。
乗り物もあったけれど、私は大して疲れを感じないから、余程のことがない限りは自分の足で歩き続けた。
あるとき、トラックが溝に嵌まって立ち往生している老夫婦がいた。
常人では有り得ないだろうけれど、老い先短い老人たちだし、父親は認知症という病を持っていた。詳しく知っているわけではないが、そういう可能性もあるのなら、少しくらいかまわないだろう。
トラックを持ち上げて、道へ戻す。
「姉ちゃん、力持ちだなー」
「あんれまー、ありがとうねえ」
「いえ………」
お礼を言ってもらえたことが嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。
「そうだ、姉ちゃん。もうすぐ暗くなるし、うちでご飯食べていけ」
「んだんだ。こんな田舎で、泊まるとこもねえんでねえか?」
「そう、ですね。宿はこれから探すところです」
「じゃあ、うちさ泊ってけ。お礼するから」
「………じゃあ、お言葉に甘えて」
やや押される感じで、私は老夫婦の家にお邪魔した。
Ⅱ
誰かを助けてみて、そうするとお礼にと誰かと関わる。
何もない日は安い宿に泊まって明日は何か出会いがあるか楽しみにしながら眠る。
私の日常はそんな感じだ。
お金を稼ぐために新しい街についたら職を探す。
短期間だけ働いて、ある程度お金が貯まったらまた次の町に向かう。
それを繰り返して、時間をかけて、街を見て回る。
老夫婦の時のように人助けをして、そのお礼として泊めてもらったり、仕事をしている時に仲良くなった人間から泊まりを提案されてそれに甘えたり、ただ宿に泊まったり。
そんな繰り返しがとても心地良く、人間との関わりは私のささくれだった心を穏やかにしてくれた。
穏やかな日々を、繰り返した。
それが、涙が出るくらい嬉しくて、仕事は――――アルバイトと言うらしい――――大変だけれど、なんだか楽しくて、慣れればやりがいがあることばかりで、どの仕事も楽しかった。
最初の内は怒られてばかりだったけれど、できるようになったとき、褒めてもらえて、認めてもらえたみたいで嬉しさのあまりその場で泣き出してしまった。
そのときの私の教育係だった人には本当に申し訳なく、また私自身もとても恥ずかしい、けれど悪くない思い出だ。
天界では永遠に認められなかった。けれど、ここでは努力し続ければいつか認めてもらえる。
(ああ、ここに来てよかった)
本当に幸福で、私は徐々に天界でのことを思い出さなくなった。
忘れることは決してないけれど、それでも時間が傷を癒して、私は前へと進めるのだろう。
それで、良かったのに。
過去は、忘れさせてはくれなかった。
Ⅲ
それは、嫌な気配を感じ取って、思わず足を向けた先でのことだった。
その気配は、天使にとって最大の敵のものだった。
これまでもたびたびその気配は感じ取って、余裕があれば赴いていた。
天使が近くにいれば、問題ないのですぐ引き返すが、誰もいないのなら私がやる。それだけだ。
私はもう、天使ではないけれど、天界に戻ることはないけれど、私に、楽な呼吸をさせてくれた、様々な可能性を見せてくれた、そんな人間たちを守りたいと思うから。
「あ?なんだお前」
「さあ?関係ある?」
黒い影。
それは悪魔と呼ばれる者。
人間の心を惑わし、時にはその命さえ奪う者。
「もう死ぬのに」
私の武器は記憶。
あらゆる記憶だ。
調べていく内に偶然、知った戦い方。
「記憶をここに、剣をここに」
イメージするための呪文。
片翼しかない翼を大きく広げて、いつか知った剣を、それを記憶している羽根を手に取って、
「さようなら、名前も知らない悪魔さん」
羽根は記憶のままに剣と成り、剣はただ容赦なくその首を切り落とす。
「能無しに負けるなんて、屈辱でしょうね」
軽く剣を振って、血を払う。
用のなくなった剣は再び羽根となり、私の翼の一部となる。
片翼を仕舞って、元来た道を戻る。
今日はどこに泊まるのか、この町ではどう過ごそうか、そんなことを考える。
そのせいで、一瞬遅れてしまった。
何よりも、私にとって、トラウマで、大嫌いな奴が、すぐそばにいたことに。
Ⅳ
「ツバサ………!!?」
「…………っ」
その声を聞いた瞬間、一瞬固まったけれどすぐに、私は走り出した。
逃げろ、と本能が叫んだ。
逃げろ、と記憶が怒鳴った。
だから、私は逃げ出した。
関わりたくない、傷つきたくない、あの記憶を思い出したくない………!!!
二度と私の尊厳を傷つけられないように、二度と私を否定されないように。
嫌
嫌だ
嫌だ嫌だ嫌だ
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――――――――ッ!!!!!
拒絶が心を埋め尽くす。
脳が考えることすら拒絶する。
だから、逃げて、隠れて、じっと息をひそめた。
それが、天界でのいつもの私の行動だった。
理不尽な暴力に怯えて、心無い言葉に傷ついた、何もできない子供だったときの。
―――能無しが
―――消えろ、混血
―――汚らわしい
容赦なく私を突き刺す言葉。
(だめ、だめ、思い出したらだめ………!!!)
吐き気と涙を懸命に堪えた。
その日はそのまま、細い路地裏のゴミ山の陰で蹲って一晩を過ごした。
“奴”に見つかることだけを恐れて――――――。
結果、その日私が見つかることはなかった。
一晩明けて、朝日を見つめる。
(逃げなければ)
決断は早く、思い立ったのならすぐに行動に移すべきだった。
「逃げないと」
この町に長居してはいけない。
あの声の様子からきっと“奴”は自分を探し続けるだろう。
(二度と来れないわけではない)
この町はまた別の機会としよう、とそう決めて、私は立ち上がる。
涙を拭い、足を進める。
私は逃げる。
あの息苦しさから、
あの痛みから、
あの悲しみから、
あの絶望から、
逃げて、離れて、幸せになる。
それが、私の願いだから。
離れて、逃げて、死に場所を得る。
それが、私の祈りだから。
「私の幸せを、死を、邪魔する者は許さない」
そのために、私はどうするべきか。
私は再び、向き合うときが、来るのだと、実感した。
己の生と死、そして過去と。
けれど今は、逃げるとしよう。
まだ、見つけていない。
一番求めているモノを。
何よりも求めているモノを。
今はまだ、そのときではないから。
逃げよう。
求めているモノを、得るために。
そうして、私はその町から逃げ出した。
“奴”に見つかりませんようにと小さく祈って。
Ⅴ
「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ」
俺は、探していた。
とある一人の天使を。
ようやく見つけたのに、あっという間に逃げられて、あっという間に見失ってしまった。
「くそ………っ」
俺が、俺の愚かさが、俺の弱さが、彼女を傷つけた。
愚かな俺はそれを、あの日にようやく知った。
彼女に思い切り平手打ちされて、間違いだったとようやく気付いた。
俺の行動の、俺の言葉の、何もかもが間違いだったと。
何もかもが、彼女を傷つけていたと。
謝りたくて、償いたくて、彼女を幸せにしたくて、彼女が愛おしくて。
「どこだ、どこにいる………!?」
彼女の気配は希薄だ。
天使の血を半分しか持たず、能力を持たないであるが故に。
人間の血を持つが故に、彼女は人間界に融け込む。
だから、見つけられない。
せっかく、会えたのに。
何故すぐ手を伸ばさなかったのか。
何故すぐ彼女を捕まえなかったのか。
そうすれば、今頃はきっと―――――
俺は気付かない。
愚かな俺は未だに自覚していない。
俺たちは遅すぎた。
何もかも遅すぎた。
彼女が人間界に逃げた時点で終わっていたのだ。
彼女が天界を拒んだ時点で終わっていたのだ。
(君を、愛しているんだ)
結局、俺の自己満足で、独りよがりで、彼女のためと嘯いただけの、罪悪感を誤魔化したいだけの、偽りの愛だった。
次の更新予定
「不完全」な天使 紅空 紅玉 @benisora
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