続く短編 続続続ぬかるみ

阿賀沢 周子

第1話

 しらかば公園が見えてきた。後ろはまだ見ていない。もうすぐアパートだが、家を知られるのはまずいと気付いた。次の信号で部屋と反対側の北へ折れた。人通りが途絶えた。北園小学校のほうへ歩く。そろそろ確かめたい。疲れて来ていた。 小学校へ突き当たった場所で、おそるおそる後ろを振り向く。街灯は薄暗いが、誰かいれば目に入る。誰もいない。 今夜は逃げ切った。しかし本当の意味で逃げ切るのはまだ先だ。アイホンを出して小林に電話をした。「小林。どうした竹村」「ああ、今日のことなんだけど」「お前、白石さんに何を借りたんだ。さっき電話があったぞ。貸しがあるのに帰ってしまったと。困った様子で」 先を越されていた。「何も借りていない。カレーがうまいと言ったら向こうがかってに」「カレー食べに行ったんだ。いい感じじゃないか。住所と電話番号教えておいたから、連絡が行くと思う。後はお前に任せる」「違うんだ。この話はなかったことに...」 通話が切れた。なんか小林慌ててたな。住所教えたってことは、アパートの方へ行ってるかもしれないと言うことだ。想定していたが、自分を褒められない。 夜の中で、ネットフェンスの中の学校がより大きくそびえ建って見える。誘導灯の緑の明かりが窓に反射している。そして静まり返っている。風がない、星も見えない、穏やかだが真っ暗な曇り空。遠くで犬の鳴き声がする。人気がない通りを戻る。


 まだアパートへ帰るわけにはいかない。美也が引き上げただろうと安心できる時間帯までどこで何をする。女一人で深夜までウロウロしないだろう。 研一が「後は一人で来た時に」と言ってたな。戻るか。走って来た道に入った。飲食店が多い場所にはまだ土曜の夜の賑わいが残っている。 歩いていると気が急いてくる。薬膳カレーは後.3、4人分で終わりと言ってたから、早くいかないと閉店してしまう。薬膳で体は癒されているはずなのに、実感を持てない。走ったり焦ったりして効果が帳消しになったんだ。 黙々と歩いていると、いつのまにか研一の店の前に来ていた。まだイルミネーションが瞬いている。ドアを開けた。研一がカウンターを拭いている。「いらっしゃい。あれ! 健一だ。忘れ物でもしたのか」「いえ、話の続き聞きに来ました。今後のために」 研一は何やらニヤニヤした。厨房に入ってダスターを洗い、シンクに広げている間もニヤついたままだ。俺なんか変なこといったか。厨房から出てきてテーブル席を指し、掠れた声で座るように言った。 研一はとりあえずという感じで竹村の前に座った。大の男が向かい合って座ると変な感じだ。オーナーの頬に張り付いたニヤケは消えている。「美也の”借り”の話だな。いずれ来るとは思ってたけど、いやに早いなと思っておかしかったんだ。健一を笑ったわけではないよ」「脅されただけなのか、何かあるのか気になって。”独身はやばい”っていうのも引っ掛かるし。どういう意味ですか。そもそもそっちの研一の借りって何なんですか」 研一は眉間に皺を寄せて考えあぐねている様子だ。おもむろに立ち上がり「自分用のビールがあるんだ。飲むか」という。 急にのどの渇きを覚えた。ここでカレーを食べてから何も口にしていないし、そのあとは走ったり、急いだり忙しかった。「いただきます」「よしっ。準備するから待っててくれ」 研一は玄関ドアを開けて何かをした後鍵をかけた。ドア横のスイッチを切るとイルミネーションと窓辺のスタンドランプが消えた。「店を閉めるんですか。なんか申し訳ない」「健一だったら、一緒にビール飲む相手がいるのに、あと一食のカレーのために店開けとくか?」 いわれてみればそうだが、出会ったばかりなのにと済まなさが先にたつ。あれから客が何人か来たということだ。厨房に入った研一がハイネケンの缶を手に戻ってきた。椅子に腰かけ頭の黒いバンダナを外し、缶を開ける。ひげと同じように濃いのだろう、髪は黒くふさふさだった。ビールを持った手を挙げたまま待っている。そうだ、乾杯だ。「いただきます」「乾杯」 うますぎて500mlの缶を半分くらい一気飲みしてしまった。「俺にとっては、店閉めた後のビールが一番なんだ。今日もうまい」 二人で同時に缶を置いた。


 美也がこの店に来るようになったのは5年くらい前のことだ。そのころ、店で客とのトラブルがあった、と話し始めた。一人でいる夕食の時間帯だ。8割がた食べたカレーに蠅が入っていると若い男が騒ぎだしたという。 その頃、いちゃもんをつけた客が飲食店から金をとるという事態が、何件か続いているという報道があった。いよいようちにも来たかと、あきらめの境地だった。頭下げて金を渡して引き取ってもらおうと厨房から出ると、カレーを食べていた美也が男の前に立ちはだかっていた。「お前。この店には蠅なんかいないんだよ。自分で持ち込んだんじゃないの」「何言ってる、俺が蠅を連れて来たっていうのか」「そうだよ。じゃなきゃ違うっていう証拠を見せろよ。もしくはその蠅がこの店のものだっていう証拠」「馬鹿言うな。お前店の女か。客に対してその口のきき方はなんだ」「馬鹿には一銭も出さないからとっとと帰れ。お代は要らないよ」「なんだと」 男は小柄な美也を捕まえようと手を出したが、ひょいとよけられてむこうずねにけりを入れられた。「くそ。いてえな。警察を呼ぶぞ」「どうぞ、どうぞ」 美也は男の腕をひねって後ろへ回した。そのままドアへ押していく。「また来たらホントに警察呼ぶからね。そこの北署に友達がいるんだ」 男を放り出して、美也は手の中の物を開いた。男の腰から抜いた黄色い長財布だった。「近藤誠也。証拠として没収する」 男は膝をついた姿勢のまま振り向き、美也へ襲い掛かろうとしたのか、よろよろと立ち上がったが、美也が財布から免許証を抜き出したのを見て口をあんぐり開けた。財布は男の前になげ捨てられた。「免許証返せよ。泥棒だろ。警察へ訴えてやる」「あんたがほかでも今夜のようなことしているかどうか、被害店舗のカメラ画像と照らし合わせればすぐわかる。この写真があればね。警察沙汰にしたいなら呼べば」 身に覚えがあったからだろう、男は喚きながら帰っていった。美也に北署の友達に届けるのか聞いたら「そんなの嘘っぱち」だってさ。 よかったよかったで終わると思ったんだけど、それで終わりではなかった。 その日、早く締めた店で美也に礼を言った。あの剣幕には驚いたが、腕っぷしは強いし、理屈は合っているし、感謝の気持ちでいっぱいだった。むしろリスペクトしたくらいだ。 カウンター席に座った美也に、今夜のようにビールを出したんだ。俺も疲れもあって隣に座って飲み始めた。「そんなに感謝するということは高くつくわよ。返してねその”借り”分」「”借り”っていうのは、してもらったことへのお返しということか。どう返せばいい?」 何もわからないで喜んでいたんだ、俺は。「私と寝るの」「寝るって、セックスっていうこと?」「バーカ、そうに決まっているだろ」「俺、結婚しているんだ」 仕事柄指輪ははめていなかったからわからなかったのだろう。若い時結婚して、中学生の子供が二人いる。かみさんは、幼稚園の教諭で、とか説明していたら怒り出した。「何言ってんだよ。セックスなんてただのスポーツなんだから、嫁いようがいまいが関係ない」 その時、思った。今でも思っているけれど。この人どうやって育ったんだろうって。どんな家庭環境で育ったのか。怖くて直接は聞いていないけどね。俺はとりあえず断らなければ、後々どんなことに巻き込まれるかわからないと考えた。「セックスはスポーツじゃない。愛を確かめ合う行為なんだ」 今考えても冷や汗ものの返答をした。間違っているということではなくて、自分の底の薄さがばれる感じ。 わかる。美也に追い詰められていく工程、実感している。「心拍あげて汗かいて爽快になるっと言ったらスポーツでしょ。愛確かめ合うなんて本気で思っているの。世界中でたった今セックスしている人が、ぜーんぶ愛確かめ合っているわけ? バカ以上」 仕方なく降参した。セックスは嫌だったから、助けてもらった礼にうちの薬膳カレー、一生涯無料にするからって提案したんだ。「売るのが商売のひとから、只で商品は受け取れない。セックスだけでいい。一回におまけしてやるよ」「妻を裏切れないから無理だ。ほかの何かで頼む」 こんな話のやり取りが一時間、やっと妥協案が出た。 厨房に貼ってある営業許可証を見て「名前、研一って書いてある」といった。「一生涯研一って呼び捨てにする」「そういうことだ。美也はだいぶ年下だけど、それで済むなら安いものだと思った。ほかの客がいようが居まいが呼び捨てだ。雰囲気的に、回りの者は”なんかある”と勘ぐっているかもしれない。なんもなかったからこうなったのに」 竹村はため息をついた。自分の断る術はなんだろう。急に頭の中に傲慢で、美しくて、筋肉質のインゲルの姿が浮かんできた。パンを踏んで、パンごと沼に沈む姿。しかし今沈んで行っているのは自分自身だった。

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