バカの傘
槇瀬りいこ
バカの傘
私は雨が好きだ。
雨が好きな自分が、自分らしいような決めつけなのかもしれない。
会社帰り、自宅の最寄りのバス停でバスを降りてから家路を歩く時、突然の雨に降られても、なるほど、と思うだけだ。
ただ家に帰る時は、降られて全身濡れながら帰るのも、ドラマの主人公のシリアスなシーンになりきれて面白い。
なりきりヒロインごっこだ。
少し前の失恋も、その痛みも、全てこの雨で流してしまうようなイメージで、ひたすら雨に打たれる。
帰ったら、すぐにシャワーを浴びて服を着替えればいいだけの話だ。
私は雨が好きだから、鞄の中にある折り畳み傘は、雨が降ってもよっぽどじゃない限り取り出すことはしない。
帰り道の雨なら、わざわざ折り畳み傘を出して使っても、それを乾かして複雑に畳んで片付ける事の方がめんどくさい。
断然、濡れて歩いて帰るを選択する。
ただ家に帰るだけ、の時に降る雨降りは、なりきりヒロインごっこに丁度良い。
雨祭りを楽しむ蛙のように、雨の音と身体に当たる冷たさを味わえる。
私はこの感覚を感じられる、生きている人間なのだと、再確認できるのだ。
乾いたアスファルトが雨で濡れる時の臭いも、序章の雨といった感じでさらに雰囲気が出る。
なりきりヒロインにとって、とても良いシチュエーションなのだ。
私はずぶ濡れになっていく自分と、その雨の景色を楽しんでいた。
「お姉さん!」
後ろから声がして振り返ると、そこには自転車に乗った学生服姿の男子生徒がいた。
「なに?」
私は、中学生だろうその男子生徒を、怪しい者を見るかのように見上げた。
見たことのある顔だ。
朝の通勤時、家からバス停までの道を歩く時、『おはようございます』と挨拶をしながら、私を自転車で追い越していく男子生徒だ。
まだ幼さが残る優しい顔をしたその中学生は、変声期を終えているようで、見た目とは違う低い大人の声をしていた。
「もし良かったら、この傘を使って下さい! こんなひどい傘でも雨は凌げるから!」
透明のビニール傘を、申し訳なさそうに私の頭上に差し出してきた。
開いたまま差し出されたそれによって、私の雨祭り、なりきりヒロインごっこは強制的にストップさせられる。
普段なら私は、そんな親切は丁重にお断りするところだが、見上げた傘に驚いて拒否が出来なかった。
そのビニール傘には、黒い油性ペンでいくつかの『バカ』の文字が書かれてあったからだ。
私に傘を差し出しているため、彼の頭から身体は雨に濡れ始めた。
その顔が濡れているのは、泣いているからか、雨のせいなのか、どっちだろう。
ただ私には、彼の全身から悲しみの色が滲み出ているようで、そのバカの傘を、
『いりません』なんて言って突き返すことはできなかった。
「……ありがとう」
私は彼から、そのバカの傘を受け取った。
「でも、こんな傘でも、ないとキミ濡れちゃうけどいいの?」
こんな傘、と、口から滑り出た言葉に申し訳なくなる。
彼は少し悲しげに微笑んだ。
「僕自転車だし、家すぐそこなんで大丈夫です! もらってくれてありがとう! あとそれ、使ったら捨ててもらっていいですから!」
そう言い放ち、自転車を走らせ去っていった。
私はそこに一人、バカの傘をさして取り残された。
これは罰ゲームなのだろうか……。
でも彼は『こんな傘でも雨が凌げる』と言っていた。
ということは、きっと親切なのだろう。
私は雨に濡れて帰ることを諦めた。
そのバカの傘を置き去りにすることはできず、そのままそれと一緒に家路を歩いた。
あの悲しそうな男子生徒の姿が目に焼き付いて、いつまでも離れなかった。
ㅤそれから数日が経った雨降りの日の朝、私は会社へとバカの傘をさしてバス停へと歩いていた。
後ろからチリンチリンと鈍い自転車のベル音が聞こえてくる。
私は歩みを止め、振り返った。
あの時の男子生徒が自転車を止め、
「おはようございます」
と挨拶をしてきた。
浮かない表情で、視線はバカの傘に向けられている。
私も「おはよう」と返した。
「その傘、この前は押し付けてしまってごめんなさい」
そう謝ってきた。
「いいよ。あの時はこの傘に助けられたんだから」
愛想笑いをする私に、彼は不愉快そうに顔を歪めた。
「そんな傘さして恥ずかしくないんですか!? いつも朝はきれいな赤い傘さしてるじゃないですか! いい傘持ってるのに、なんで、そんな傘捨ててくれないんですか!」
彼は悔しそうに、早口で捲し立てた。
私はこの傘を捨てた方が良かったのだろうか。
ㅤここで使うのは間違っていたのだろうか。
でも、私はあえてこれを使い続けると決めたのだ。
「私は、このバカの傘を誰かと一緒にさして、この悲惨な傘をバカップル傘にしようと思ってる。それまではこの傘は捨てられない。これは私の夢。バカの傘に一緒に入ってくれるようなステキな人に出逢う! 絶対に出逢う! そう決めたの!!」
この悲しみの傘の中、将来の愛する誰かと相合い傘をしてバカップル傘にした時、この傘と、私の心は浄化されるような気がしたのだ。そして、この彼も。
彼はキョトンとして私の顔を見下ろした。
一瞬の間の後、レインコート姿で腹を抱えて笑いだした。
雨降りの景色が、晴れの日のように明るくなる。
「バカップル傘。僕も、そうなるよう祈ってます!!」
彼は会釈をすると、自転車をこぎ出し、先を走り出した。
レインコート姿の彼を見送ると、クリーム色のその背中には、
『バカ』
と大きな字で落書きがされていた。
私はその背中に思い切り叫んだ。
「おい少年! 負けるな! 倍返しだー!!」
彼は振り返らず、雨降りの空に拳を突きあげた。
その姿がとても力強くて、私は、泣きたくなった。
バカの傘 槇瀬りいこ @riiko3
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