バカの傘

槇瀬りいこ

第1話

 私は雨が好きだ。

 雨が好きな自分が、自分らしいような決めつけなのかもしれない。


 会社帰り、自宅の最寄りのバス停でバスを降りてから家路を歩く時、突然の雨に降られても、なるほど、と思うだけだ。


 ただ家に帰る時は、降られて全身濡れながら帰るのも、ドラマの主人公のシリアスなシーンになりきれて面白い。


 なりきりヒロインごっこだ。


 少し前の失恋も、その痛みも、全てこの雨で流してしまうようなイメージで、ひたすら雨に打たれる。


 帰ったら、すぐにシャワーを浴びて服を着替えればいいだけの話だ。


 私は雨が好きだから、鞄の中にある折り畳み傘は、雨が降ってもよっぽどじゃない限り取り出すことはしない。


 帰り道の雨なら、わざわざ折り畳み傘を出して使っても、それを乾かして複雑に畳んで片付ける事の方がめんどくさい。


 断然、濡れて歩いて帰るを選択する。

 

 ただ家に帰るだけ、の時に降る雨降りは、なりきりヒロインごっこに丁度良い。

 雨祭りを楽しむ蛙のように、雨の音と身体に当たる冷たさを味わえる。

 私はこの感覚を感じられる、生きている人間なのだと、再確認できるのだ。

 乾いたアスファルトが雨で濡れる時の臭いも、序章の雨といった感じでさらに雰囲気が出る。

 なりきりヒロインにとって、とても良いシチュエーションなのだ。


 私はずぶ濡れになっていく自分と、その雨の景色を楽しんでいた。


「お姉さん!」


 後ろから声がして振り返ると、そこには自転車に乗った学ラン姿の男子生徒がいた。


「なに?」


 私は、中学生だろうその男子生徒を、怪しい者を見るかのように見上げた。


 見たことのある顔だ。


 朝の通勤時、家からバス停までの道を歩く時、『おはようございます』と挨拶をしながら、私を自転車で追い越していく男子生徒だ。


 まだ幼さが残る優しい顔をしたその中学生は、変声期を終えているようで、見た目とは違う低い大人の声をしていた。

 

「もし良かったら、この傘を使って下さい! こんなひどい傘でも雨は凌げるから!」

 

 透明のビニール傘を、申し訳なさそうに私の頭上に差し出してきた。


 開いたまま差し出されたそれによって、私の雨祭り、なりきりヒロインごっこは強制的にストップさせられる。


 普段なら、私はそんな親切は丁重にお断りするところだが、見上げた傘に驚いて拒否が出来なかった。


 そのビニール傘には、黒い油性ペンでいくつかの『バカ』の文字が書かれてあったのだ。


 私に傘を差し出しているため、彼の頭から身体は雨に濡れ始めた。


 その顔が濡れているのは、泣いているからか、雨のせいなのか、どっちだろう。


 ただ私には、彼の全身から悲しみの色が滲み出ているようで、そのバカの傘を、

『いりません』なんて言って突き返すことはできなかった。

 

「……ありがとう」


 私は彼から、そのバカの傘を受け取った。


「でも、こんな傘でも、ないとキミ濡れちゃうけどいいの?」


 こんな傘、と、口から滑り出た言葉に申し訳なくなる。


 彼は、少し悲しげに微笑んだ。


「僕自転車だし、家すぐそこなんで大丈夫です! もらってくれてありがとう! あとそれ、使ったら捨ててもらっていいですから……!」


 そう言い放ち、自転車を走らせ去っていった。


 

 私はそこに一人、バカの傘をさして取り残された。


 これは罰ゲームなのだろうか……。


 でも彼は『こんな傘でも雨が凌げる』と言っていた。

 ということは、きっと親切なのだろう。


 私は雨に濡れて帰ることを諦めた。


 そのバカの傘を置き去りにすることはできず、そのままそれと一緒に家路を歩いた。

 あの悲しそうな男子生徒の姿が目に焼き付いて、いつまでも離れなかった。



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