火をつけて
早瀬史田
第1話
小さな戸棚を開けると、中身が見えるよりも先に、香りがふっと鼻をついた。あぁ、これはあれだ、と記憶がよみがえる。
先輩からの、修学旅行のお土産だ。
戸棚をさらに引くと、たぶん放課後に引いたのだったカプセルトイや、友達にもらったお守りが詰められているのが見えた。そう、そう言えば宝物入れにしていたのだった。高校に入ってからは別の場所に仕舞うようになって、すっかり忘れていたけれど。中学の頃の記憶が次々によみがえる。
香りの元は、隠すように一番奥に仕舞われていた。
細長い、小さなお香の箱。
手に取って軽く振るとお香が触れ合って、さらさらと心地よい音がする。結局一本も使わなかったのだっけ、と可笑しくなった。
目をつむると、香りが、自分を中学二年生に引き戻すようだった。
部活終わり、帰りの支度をする、ほんの少しの時間。
お土産、と先輩は無邪気に笑いながら言って、こちらの気も知らず、何かを握りしめたような形をした手をのばしてきた。手に触れる程の勇気はなく、私はその手の下に、手を広げる。それはことんと手のひらに落とされた。
お菓子だろうかと漠然と思っていたけれど、それのたたずまいは、食品のそれではなかった。何のラッピングもされていない、手のひらに乗るサイズの箱。中学生が持っていいのかと少し気後れしてしまう上品なパッケージ。
手にしたのは初めてだけれど、それがどういうものかは、何となく知っていた。
「お香、ですか。ありがとうございます。珍しいですね……」
喜ぶよりも、不思議が勝って、呆気に取られてしまった。
「いい匂いだろ。……珍しい?」
「お土産でお香をもらった子、友達にはいないです。みんな、お菓子とか……。あ、いや、お香じゃ嫌ってことではないんですけど!」
お菓子がやはり多い。学校には持ってこないように、というルールにはなっているけれど、大っぴらにしなければ先生たちはお目こぼしをくれるし、持ち込みやすいし、配りやすい。次点ではお守りだろうか。キーホルダーという子もいた。
どれにせよ、修学旅行に持っていける金額は決まっているから、お土産をもらえたのは、仲の良い先輩がいる子だけ。その物が何だとしても、嫌であるはずはないけれど、やはり不思議には思ってしまう。
「嬉しいです、とても、嬉しいんですけど。何で……」
「やー、俺も迷ったんだけどさー」
何かお土産をお香にした理由が続くかと思って待ったけれど、先輩は黙ってしまった。ゼリー飲料の小さな蓋を開けて、つまらなさそうに口をつける。
戸惑っていると、ちらっとこちらの手元を見てまた口を開いたけれど、続いたのは、お土産についてではなかった。
「俺もパンがいいなー」
先輩はこれをよく言う。親に言っても、部活中であっても手早くエネルギーが取れるように、とゼリー飲料しか渡してくれないらしい。エネルギーとかじゃなくて腹が減るんだよ、大体食べるの部活終わりだし、と説得しても無駄だそうだ。個人的には、パンよりもゼリードリンクの方がかっこいい雰囲気でいいなと思うけれど、言ったことはない。
そんなことより、これでお土産についての話は終わりだろうかと焦る。謎が残っている。
「ひ、火が、いりますよね、お香は」
会話を戻すため、パッケージに小さく描かれた使い方を見ながら言う。
「お香を立てる台もいるのかな……。灰の受け皿もいりますね。用意するのがちょっと難しいから、みんなお土産にはしな……あ。いや、えぇと」
「え、そんなに道具? いんの?」
「……はい。要は線香と同じものだと思うので」
「棒の匂い嗅ぐものだと思ってた。あーでも確かに、何かそばに置いてあったような気もするな。台とか皿とか。いっぱい入ってるのもそれでかぁ」
元々大雑把なのに加えて、たぶん、そもそもお香への興味がなかったから、余計に目に入らなかったのだろうと思う。飾り気のない人だ。
それが、お香を買って来たから余計に、どういう意図があってのことか気になるのだけれど。
「悪かったな。匂い袋って奴にすれば良かったかー。お香の方が香りの種類が多かったから……」
「あ、いえ! ありがとうございます。確かにこのままでも香りはするし、たぶんライターは家にあるので。使ってみます。ありがとうございます」
「そーお? ……まあ、じゃあ、いいか」
「いい匂いですね。先輩が好きな香りですか?」
「まあ、そんな感じ。いいと思ってくれたなら良かった。……うんうん」
勝手に何かを納得したみたいにうなずきながら、先輩は立ち上がって、帰り支度を始めてしまった。
方角が違うから、一緒には帰れない。パンをもさもさ食べながら、もう一度聞き返す勇気も出ずに、ただその様子をぼんやりと見る。
「じゃ、また明日」
「……はい、また。お土産ありがとうございました」
まだ残っている部活仲間に声をかけながら歩いていく背中を、私は見送ることしかできなかった。
今思い返しても、先輩がお香をお土産にした意図はよく分からない。お香のことをよく知りもしないのに、わざわざ一人の後輩のために選んで買ってきた以上、特別な意図――好意があったと思うのは、きっと思い上がりではないだろうけれど。
考えているうちに、戸棚にこもっていた香りは拡散してしまった。
手のひらに載せて、箱を見下ろす。
結局、一本も使わなかったのは、両親にお土産について聞かれるのが嫌だったから。先輩への気持ちに気づかれるのが恥ずかしかったから。
落ち着いた香りだけれど、この香りには、私の幼さがこめられている。
だから、私は今日、これを見つけたのかもしれない。
段ボールでなく、手持ちのバッグにお香を忍ばせ、荷造りに戻る。宝物入れになっていた戸棚は持っていかない。これからの生活に必要なものを詰めていく。
そして、終わって。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「おー。もういいの? まだ待てるけど」
「ふふ、大丈夫です。元々、持っていくものはそんなに多くないので」
荷物を載せた車が出る。
後部座席には段ボール、運転席にはあの頃より大人びた先輩。
「あらためて、ありがとうございます、車出してもらって」
「いーってことよ。かわいい後輩の門出だからなー」
「ありがとうございます」
「さみしくなるねぇ。帰省した時は一番に声かけて」
「はい」
「絶対」
「はは。はい……」
ぼんやりと苦笑いで流してしまってから、これでは中学生の頃のままだと気がつく。途方に暮れたような気持ちでバッグをつかむ。
大切にしまっておくだけでは意味がない。
何気なさを装って問いかけた。
「そう言えば、荷造りしている時に見つけたんですけど……先輩、修学旅行のお土産って覚えていますか?」
「いつの?」
「中学の時の、です。お香だったんですけど、これ、どうしてお香だったんですか?」
バッグから取り出せば、またかすかに香りが広がった。
「あー……えー? 使うって言ってなかったっけ? 何でそんな残ってんの」
「先に私の質問に答えてくださいよ。……悪い癖ですよ」
「言うようになったな」
「中学からずっと、ですから」
別々の高校へ進学してからも、折に触れて会い、やり取りも続けていた。部活動の後輩と先輩という以上に、友人として。少しは気やすく話せるようになっている。
「中学の時のことなんか、あらためて説明すんの、恥ずかしいんですけどー……」
先輩は落ち着かなさそうにハンドルを指で叩く。
けれど、少しして、観念したように言った。
「パン、が」
「パン?」
「部活終わりに食ってたパン、パン屋で買った奴だったろ。あれ、食ってる間、いい匂いしてさー」
「いつも言ってましたね」
「そー。……それで、だから、近所のパン屋の前通る度に、思い出してたんだよ。部活のこととか……後輩のこととか」
自分の知らないところで思い出されていたことに、不思議な感覚を覚える。パン自体は親に買ってきてもらっていたもので、余計に実感がわかない。
「それが何か、悔し……うーん。俺ばっか考えさせられんの、不公平だなって感じで。思ってて。……お土産は単なる良い機会だったってだけ」
何かを決断したような間があった。
「そもそも、思い出させるものを、渡したかったんだよ。菓子は消えものだし、飾り系は趣味に合わなかったら、しまっておかれるだけだなと思って。ま、結局あんま意味なかったっぽいけどー」
返す言葉は、すぐには見つからない。
痺れを切らしたように先輩は言った。
「悪かったな、いくじのない先輩で」
否定はできないけれど、それが悪いとは思わない。私もそう変わらない。
「いえ……」
車はまだ引っ越し先へは着かない。距離がある。もう少し、話し出すのを後にした方が良かったかも知れない。
そう弱気が頭をかすめたけれど、そんな風に先延ばしにし続けて、今まで来てしまったのだと思い直す。
「今度、私からも、香りを贈っていいですか。……私も、思い出してほしい、ので」
少しは大人らしく振る舞えているだろうか。
不安はすぐに霧散した。
「俺からも新しく香水か何か贈るから、つけて」
どこか急くような声をしていた。運転席を見ると、さらに言葉が続く。
「で、俺のこと覚えておくついでに、知らない変な奴、近づかないようにしておいて」
「……はい」
不意の独占欲に、内心うろたえながらも返事をした。
「あと、帰省の時だけじゃなくて、俺からも会いに行っていい?」
「それは、もちろん! 楽しみに待っています」
「……おー」
照れ臭さと嬉しさの混じった声に、心が温まった。
いつの間にか、祈るように両手で握りしめていたお香の香りが、ふと鼻をくすぐる。
「先輩。先輩は、どんな香りが好きですか」
火のついたような心のまま、問いかけた。
火をつけて 早瀬史田 @gya_suke
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