明日より、新作「蜘蛛網に白羽の矢(くもいにしらはのや)」を連載します。
木、土の19時更新です。3月下旬に完結予定です。
また、以下に公開記念の小話を掲載します。本編の雰囲気などを知りたい方はぜひ! 本編読後にも楽しめますので、お好きなタイミングでご覧ください。
小話は本編完結後、作品内にも掲載予定です。
タイトル:花のあはれ
紫の一本ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る
手に持った鋤《すき》を地面に刺して、背負った籠《かご》を横合いに下ろす。
この前、薬になるから暇な時に採っておけと言われたのは、この花だったはずだ。
尖った葉がまんべんなく茎を囲んだ先端に、爪ほどの白い花がちらほらとついた、素朴で愛らしい野草である。周囲にも同じ形をしたものが群れになって生えている。
彼のよると、この植物の根が薬として良いらしい。さて掘ろう、と鋤を持つ手に力を込める。
けれど、そこから手が持ち上がらない。
上ってきた道を振り返ると、思っていたより空が近い。木々に邪魔されなければ、村を見下ろすことすら出来そうだった。
自覚すると、じんわりと疲れが滲み出て来た。
「……ちょっと休憩」
一着しかない服を出来れば汚したくなかったので、立ったまま鋤に寄りかかった。草木が繁茂する山を無理やり拓きながらここまで来たので既にだいぶ汚れてはいるものの、気持ちの問題だ。
見るともなしに村のある方角を見た。
お屋敷での仕事には力仕事もあったが、今思えば随分と楽だった。草に切られて頬に傷を作ることも、すぐ横を通った猪に怯えることもなかった。
けれど、今よりもあの頃の方が、辛かった。
生贄にされた後の暮らしよりも、お屋敷での暮らしの方が嫌だった。
落ち込みそうになって、一旦村でのことを頭から追い払う。じっくりと考えなければならないことではあるけれど、こんな山の上で落ち込んだら、いよいよ神社まで帰る気力が失われそうだ。
よっと鋤を取り、白い花の根を掘っていく。畑と違って耕されていない土だからか、労力は多いけれど、やっぱりこの方がずっと良い。
薬自体も嬉しいけれど、これを掘ったら彼を呼ぶための口実が出来ることが一番強く、疲れた体に力を吹き込んでくれる。根の処理の仕方や使い方を教えてもらうのだ。本当は何気ない雑談みたいなこともしたいけれど、怒られそうだし申し訳がないから、口実がないと呼べない。
ある程度掘ったところで注意しながら引き抜くと、赤々とした、血管のような根が出て来た。
ここまで来るのも大変だ。いつもは採り尽くさないようにするけれど、今回は出来るだけ掘っておこう。
そう考え、黙々と白い花の根を掘っていくと、気づいた時には烏が寝床に帰る頃になっていた。
闇に沈みかかった森を見て途方に暮れる。まだ辛うじて日はあるけれど、歩いているうちに暮れるだろう。暗い中を帰るより、多少は開けたこの場所で夜を過ごした方が、安全かも知れない。
ただし、獣についてはどうしようもない。
ちらっと、助けを呼ぼうかと、思考がかすめた。
村人ではない。今の衣織が助けを求められるのは、一人だけである。
彼は――きっと、助けてくれる。衣織のためでなく、事情がありはするけれど、それを置いても何かと優しい人だから。
けれど衣織の方が、良い案だとは思えなかった。薬の作り方を聞くのと違って、これはただただ自分のどじだ。どじの後始末をさせるのは申し訳ないし、さすがに、そう、言うなれば、恥ずかしい。
「こういうところが駄目なんだよなぁ」
屋敷で幾度となく怒られ、役立たずと言われ、生贄にまでされたのに。まるで学んでいない。苦笑いしながらも、何だか泣きそうになって、目を|瞬《しばたた》く。
その一瞬の隙だった。
「何か案があって残るのかと思えば、単なる迂闊か」
はっと息をのんで、その幽玄な姿を、目の当たりに見た。
ずっと目は開いていた。そのはずだけれど、確かに目の前の草むらの中にその人は立っていた。白い蓬髪はすすきのように風に流れ、その両眼の輝きは、月が増えたようにも見える。
「蜘蛛様――」
蜘蛛様はふんと呆れた様子で鼻を鳴らした。みっともないところを見られたと勝手に頬が赤くなる。今更では、あるものの。
「やり残しがなければ、疾《と》く社に戻れ。いくら紫草《むらさき》を採ったところで、熊の爪や蛇毒には効かぬ」
「はい……」
肩を落としながら籠と鋤を持ち上げ、逃げるような気持ちで森へ向かうけれど、呆れた声に呼び止められた。
「おい。死ぬ気か」
「いいえ! いえ、でも、その……」
この地で死ぬつもりはない。蜘蛛様は、自分が墓守となって守ってきたこの地で、無関係な人間が死ぬことを拒んでいる。だから生贄に戻ろうか、どうしようか、衣織はずっと悩んでいるのだから。
帰るのには死の危険があり、けれどここに留まり続けるのも危険で、ううんと立ち止まる。たくさん赤い根を入れた籠が間抜けに重い。
迷っていると、鋤を持っていない方の手に、何か握らされた。
釣り鐘のような花――蛍袋で出来た小さな花束が、幽かに光って、辺りを照らしていた。
「明かりくらいは授けてやろう」
加えて、森の中に、鬼火の道。
そんな場合でないと知りつつも、幽玄たる光景に息をのんだ。
「なんと、美しい……」
「恐ろしいと言うところだろう。墓に鬼火だ。講談では定番の怪奇ではないか」
この地が墓だとしても、尋常では有り得べからざる現象だとしても、美しいものは美しい。さっき落ち込み切ったこともあって、ぐっと胸に迫った。
「ありがとう、ございます。本当に。また今度、お礼を」
「疾く行け。紫草は乾燥させて置いておけ。使い道は、今度教えてやる」
「はい! 楽しみにしています」
次に会う約束までしてもらって、足取りが軽くなる。そうは言っても足元には気をつけて、蛍袋の花束と鬼火で行く先を照らす。
恥で赤くなった頬は、今は明かりに照らされて、柔らかな色に彩られていた。
嬉しそうな横顔に、その笑みの理由が己にあることに、胸がざわめいた。そのような浮ついた足取りではじき転ぶ。そう注意しようと思うのに、声かけを躊躇った。
躊躇いのうちに、蛍袋の明かりは草地から去る。
いっそ転べばちょうど薬の試用が出来る。見送りながら、一度呆れてみる。
途端、引っかかれば転ぶどころでは済まない道の起伏が、思い返された。
気にかかる心を、ないとは言えなかった。
昔食った苦い虫の味を思い出しながらも、山の視界を借りてあとを追う。虫や獣の目、山中を吹き抜ける風、全てを一時借りて、娘の道行きを見守る。以前は意識すらも消えかけ、身の外に働きかける力など無きに等しかったが、今はこの程度造作もない。あの娘から向けられる情を、曖昧なこの身は信仰として受け取り、力を得ているらしい。
彼らの祖先との間にある因業を思えば、これも喜ばしいばかりのことではない。自由になる力に心強さを感じながらも、身の内には血が轟くように流れて、かつての屈辱を深く刻み直す。
花ひとつ苔むした墓に供えられただけで許す程、この恨みは浅くない。
だが――あの娘は、何も知らずに摘まれた花の方だ。
浮かれた足取りに合わせて揺れる蛍袋の明かりを梟の目に感じながら、再び胸をざわつかせる情を、思った。