早苗と成瀬の場合 後編


「本当にいいの?」

「当たり前でしょ。多分、Cはあると思う」

「そうなのかなぁ」

 二人は試着室の前に立っていた。複合施設の中で、既に近くの店で食事を済ませている。さらにその前は、解体の道具を仕入れていた。車に荷物を積み込んだあと、成瀬は助手席に乗り込もうとしていた早苗の手首を掴む。もともと早苗の体に合う適当な服を見繕うつもりだったが、体に見合わないスポーツブラを身に付けていると気付いてしまっては放って出来なかった。服の他、下着や毛布なども売られているこの店は、成瀬の用事にぴったりの場所だった。

「まさかブラまで買ってもらえるなんて。これって日当から引かれる感じ?」

「私をケチということにしたいならそれでもいいけど」

「うそうそ」

 二人は笑っていた。まさかこの仲睦まじい親子のような二人が、死体解体を縁に繋がったとは誰も思わないだろう。笑いながら服を見る機会など、これまでの早苗にはほとんど無かった。

「同級生になんか言われなかったの?」

「言われたくないからトイレで着替えてたし」

「そう……あ、試着室空いたよ」

 成瀬がそう言うと、早苗は下着を抱えて試着室の中へと進む。待つ間も成瀬は手を止めなかった。側にあった適当な服を手に取ってはサイズを確認して、合いそうならカゴに放る。あまりいいとは思えない服だったが、着替えが無いよりはいいだろう。

 試着室から出てきた早苗は浮かない顔をしていた。首を捻りながら試着したものを成瀬に見せる。

「合うのか分かんなかった」

「え、あぁ」

「でも、かぱかぱしなかったし、多分大丈夫!」

「えぇ……付けた時にはみ出たりしなかった?」

「そんなことあるの?」

「まぁ、とりあえず大丈夫そうかな。カゴに入れて」

 なんとも適当な下着選びだが、店員に声を掛けて印象に残ることは避けたかったので仕方がない。会計を済ませて店を出ると、早苗は嬉しそうに服が入った袋を抱きかかえていた。

「成瀬さん、ありがとう」

「別に。ここ安いし」

「そうじゃなくて、一緒に買い物してくれて」

 成瀬は言葉に詰まった。早苗にとって貴重な体験だったであろうことを、このような形で実現してしまって申し訳なく感じる。話しながら車に戻った二人は、どちらからともなく、車の後部座席を見やった。非常食として購入したカップ麺の他、大きなクーラーボックス、女性にもオススメと書かれていた手斧なんかが積まれている。昨今のキャンプブームのお陰で、あまり怪しまれることなく作業の道具を新調できたと言えるだろう。

「色々買ったね」

「うん。早苗がなかなかペットコーナーから動かなくて面倒くさかったけど」

「成瀬さんも一緒に見てたじゃん」

「そこ寄ってから帰るから」

「あ、話逸らした」

 エンジンをかけると、車は駐車場の端にあるコンビニを目指した。平日の日中ということもあり、広い駐車場の半分以上が空いている。近いところに停めると、成瀬はエンジンをかけたまま車を降りようとした。

「え、置いてくの?」

「エンジン掛けとくから」

「運転して帰っちゃおっかな」

「できるものならどうぞ」

「もー」

 早苗はつれない成瀬の言葉を聞き届け、大人しく車の中で待つことにした。不思議と自分のこれからを案ずる気持ちは無い。一人になっても意外と冷静な自分に、早苗は感心した。遺体の処分は数日の内に終わるだろう。それが今の早苗を悩ませていた。多くの日当を稼ぎたいという気持ちも無くは無いが、そんなことよりも成瀬と長く過ごしたい気持ちが、早苗を揺さぶっていたのである。

「ごめん、待たせた」

「そうだよ、待った」

「はい」

 助手席の早苗に、成瀬は紙コップを手渡す。受け取った早苗は、ハンドルを握る成瀬を見つめた。

「コーヒー、早苗の分」

「夏なのにホット?」

「コーヒーはホット。砂漠で売ってたとしてもホット」

「アイスコーヒーって知ってる?」

「あぁ、趣味の悪い人たちが飲むアレね」

「なにそれウケる」

 妙にホットにこだわる成瀬の発言は早苗を笑わせた。車は今度こそ駐車場を出る。成瀬は煙草に火を点けてウィンカーを出すと、ハンドルを切って帰路を目指した。早苗はというと、成瀬にミルクと砂糖を持ってきたか、真剣な表情で確認しようとしていた。


 買い込んだ戦利品を部屋の中へと運び、二人は仮眠を取ることにした。成瀬が使っていたという部屋は物置と化しており、過去の生活ぶりが分かる状態ではない。それでもなんとか二人で寝転ぶスペースはあった。外から帰ってきた直後は、家に立ち込める悪臭に吐き気を催したが、まだ二人とも嘔吐には至っていない。この臭いの中で眠れるのかという懸念が杞憂だったことを、目覚めてから思い知るのであった。

「くっさ……早苗、起きて」

「んー……くさい」

「臭いけど。起きて」

「やだ臭い」

「寝てても臭いのは収まらないし、なんならもっと臭くなるよ」

「……確かに」

 間抜けなやり取りのあと、早苗は目を開ける。体を起こしてから、成瀬の腕の中で眠っていたことを知るのであった。

「え、腕枕?」

「私がしたんじゃなくて早苗がくっついてきたから。これは日当から引く」

「十円までなら出すよ」

 憎まれ口を叩きながら早苗は立ち上がった。六畳ほどの部屋は使われなくなった家具や、着なくなった服などで埋まっていた。早苗の立っている場所からだけでもキャスターの付いたハンガーラックが三つ確認できる。捨てればいいのに、そう言いたくなるようなものが部屋を占領していた。

「母さん、もったいないって言って全然捨てなかったから」

 成瀬は早苗の隣に立ちながら零す。これらを取っておいて良かったことなど何一つ無かったが、早苗に作業着として渡す服には困らなかったことを思い出し、小さくため息をつく。

「行こうか」

「そだね」

 部屋を出ると階段を降りる。急な階段に転ばないようにと気を付ける早苗だが、成瀬は慣れた様子で先を歩いた。玄関で道具の準備をしながら、視界の端ではめ殺しの窓を確認する。

「結構寝てたみたいね」

「ホントだ。もう暗いじゃん」

 成瀬は早苗にマスクとゴーグルを渡した。臭いはどうにもできないが、何度か作業中に体液が目や口の中に入りそうになったので、その対策のためである。手斧や追加のブルーシートを手に取ると、二人は遺体の待つ居間へと向かった。

「げっ。早苗、そこにいて」

 間仕切りの扉を開けた成瀬は、ついてこようとする早苗へと注意を呼びかける。反射的にすぐに扉を閉めそうになったが、どうにか作業に使用した衣類だけは回収した。

「え、何?」

「……虫湧いてる」

「わー……マジ最悪……」

 虫が好きな女などほとんど居ない。居たとしても、きっとその多くは遺体に湧いた虫は好かないだろう。憂鬱な気持ちに押しつぶされそうになりながら、二人は着替えを済ませた。成瀬は買ってやったブラのサイズを気にしたが、早苗が「あ。エッチなんだ」と言うのですぐに視線を逸らした。

「……入るよ」

「あ。ねぇ、殺虫剤ないの?」

「その発想は無かった。玄関にあるから持ってきて」

 早苗は小走りで玄関に向かい、下駄箱となっている棚の上を見た。昨日初めて訪れたというのに、なんとなくそこに目当てのものがある気がしたのだ。予感の通り、鎮座しているスプレーを片手に戻ったが、それを手渡そうとしなかった。不審に思った成瀬だが、彼女を押し退けて先頭に立とうとするので、意図はすぐに分かった。

「私が行く」

「私、本当に虫嫌いだから「早苗は下がってて、私がやるよ」って言わないけどいい?」

「いいよ」

 そう言って、早苗は本当に扉を開けた。想像していた以上の量の虫に一瞬怯んだが、すぐにスプレーの噴射を開始した。出鱈目に腕を振って少しずつ進み、遺体を中心に中身が無くなるまでボタンから指を離すことはなかった。その間、成瀬は玄関にあったスリッパを用意し、早苗に呼びかける。

「死ぬかと思った……」

「よくやってくれた。これ履いて」

「でも、あんなに殺虫剤充満してるとこにいて平気かな?」

「台所の方の窓、少しだけ開けておこう」

 臭いが漏れる心配はあったが、背に腹は代えられない。今度は成瀬を先頭に、二人は部屋に立ち入った。家に戻ってきた時から臭いに耐え続け、体を慣らしたとばかり思っていた二人だが、この空間は段違いだった。

「とりあえず窓」

 成瀬はまだ残っている虫がマスクの隙間から入らないように口元を塞ぎ、台所へと移動する。手早く窓を少しだけ開放すると、すぐに遺体の側まで戻ってきた。その間、早苗はじっと虫の湧く遺体を見下ろしていた。遺体が、忌々しい虫を無限に発生させる装置のようにしか見えなくなってくるのを感じる。しかし早苗は失礼とは思わなかった。

 互いに言葉は無い。目を見合わせて頷くと、すぐに作業に取り掛かった。部屋の端に新しいブルーシートを敷いて、四肢を失くして軽くなった遺体を二人で持ち上げる。軽いとはいえ、運搬は困難だった。体内から湧く虫が振動を察知して部屋を飛び回るのだ。たまったものではない。

 遺体を横たえると、古いシートを折り、畳にどれだけ染みを作っているか確認する。座り込んで作業をしていた辺りに染みがあったが、思っていたほど酷い状態ではない。

「早苗、もう一枚」

「うん」

 阿吽の呼吸でシートがもう一枚敷かれる。作業場を整えると、成瀬は手斧を、早苗はコンクリートブロックを手に取った。シートの中心辺りにブロックを置き、再び二人で遺体を移動させる。首の下にブロックが来るように設置すると、成瀬は早苗を見た。早苗は頷く。

 遺体の腰辺りに立っていた早苗だが、その時目の当たりにした光景を生涯忘れることはないだろう。成瀬が母の首を叩き切ると同時に、断面から虫が飛んだのだ。おそらくは気道に湧いていたのだろう。虫が入らないよう口を開かないようにしていた早苗だったが、これには声を上げた。

「きっも!」

「うぅ……」

 首を切っただけでこれだ。顔の中、体の中などもっと酷いだろう。言葉にすることはなかったが、成瀬は早苗よりも精神的なダメージを受けていた。だからこそ、早くこれを片付けなければならないと奮起する。切り落とした頭を持ち上げるが、手足を切り落としたときのような感慨は無い。順番が逆であれば、きっと違っただろうが。今はただこの虫の巣を処理することだけを考えていた。

 手斧を手放し、両手で顔面を掴むと、ブロックに叩きつける。憎しみからの行動ではないが、憎しみが原動力の一部になってはいた。いくらかの血と虫が舞ったが、気にしている余裕はない。突然の行動に早苗は肩をびくつかせたものの、今度は静かに見守っていた。

 強く叩きつけられた顔面の鼻と頬の骨は折れ、平らになったことで転がることなくブロックの上に留まっている。成瀬は再び手斧を持ち、そのまま振り下ろした。後頭部は割れたが、顔面の骨は残っているらしい。持ち上げてみると、ぱっくりと割れた頭部が顔の方で繋がっていた。

 頭を適当なところへ置くと、成瀬はそのまま胴体の切断作業へと移った。その作業で手助けできることはないと察した早苗は、新しい鋸を手にして顔面の解体を始める。言葉は無くとも、互いが互いの役割を理解して作業を進めていた。

 飛び交う虫すら気にならなくなった頃、成瀬は呟いた。今夜棄てに行く、と。言葉を聞いた早苗は、彼女を見て無言で頷く。二人の周囲にある道具は、既に血塗れだった。内臓は蛆が湧いてそこかしこを蠢いているが、成瀬の手は止まらない。骨が無い分解体しやすい、そう割り切っていた。臓器を持ち上げる度に蝿が飛び、切り離すと悪臭がより一層濃くなったが、構わずバケツに放り込む。内臓まで洗うかどうかは早苗との相談が必要だが、体液が滴ることを懸念するのであれば内臓こそ洗った方がいい気がする。早苗の方をちらりと見ると、彼女は眉間に皺を寄せて首を横に振った。蛆の湧いた臓物はさすがに洗いたくないらしいと解釈すると、バケツに入ったそれらを袋へと移すのだった。


「……マジで最低だったなぁ」

「最高だとでも思ってた?」

「そりゃそうでしょ。虐待するクズを解体できるんだから」

 早苗はそう言って助手席へと乗り込んだ。購入した車を気に入っていた成瀬だったが、初めてSUVであることを悔やんでいた。トランクと車内が分けられていないので、家に充満していた悪臭が車内全体に広がっているのだ。ハッチを開けたトランク部分に積み込んだ遺体だったが、乗り切らない分は後部座席の足元に鎮座している。

「トランク、私が座れるくらいの広さがあるのに、あんなお婆ちゃんの遺体が乗らないなんて不思議だよね」

「クーラーボックスとかで場所取ってるんでしょ」

「窓開けていい?」

「走ってるときだけね」

「えー」

「赤信号で停まってる時はダメ。臭いで不審に思われるかもしれないでしょ」

「あー……そだね」

 バックで敷地から出ると、成瀬は車を走らせた。一度しか行かなかった場所だが、それでも成瀬は場所を覚えている。幼少期は近くを通るだけでも、また連れて行かれるのかもしれないと怯えていたので、忘れようがなかった。

 既に零時を回っていたが、国道を走る間はまばらに車通りはあった。しかし、林道に近づく頃には他者の気配は完全になくなっていた。徐々に細くなっていく道にも、成瀬は臆せず車を進める。降りて川まで歩くことは容易だが、荷物が荷物である。運ぶ距離は最小限に抑えたかった。

「ここ、通るの?」

「いや、そろそろ潮時だな」

 戻る時のことを考えると、これ以上は車で進めない。それが成瀬の見立てであった。これより先に進めば、暗くて舗装もされていない林の中をバックで戻らなければならなくなるだろう。現実的ではないと判断した成瀬は、車を停めた。

 ドアを開くと、川が流れる音がした。鼻腔に広がる自然の香りに、二人は無意識に深く息を吸う。綺麗な自然を汚すことに一抹の罪悪感を覚えながら、成瀬はホームセンターで購入した合羽を出すよう早苗に指示を出した。

「合羽とかブルーシートとか、どこに捨てる?」

「細かく切ってゴミの日に出す」

「それっていつ?」

「明日の朝に回収するところがあるから、ゴミステーションが道路に設置されてるとこに適当に分けて捨てよう」

「つまり今日も徹夜だ」

「日当十万なんだから文句言わない」

「はーい」

 成瀬はまず後部座席を開けて、肉塊が入った袋を取り出した。土の上に袋を置くと、スマホのライトで車内を照らす。袋に穴が開いていて汁が漏れ出すといった事態は避けられたようである。ほっと息をつくと、すぐにハッチの方へと回った。既に早苗がドアを開けており、二つ目のクーラーボックスを取り出すところだった。

「あとはこの袋だけだね」

「先に運べるものは運ぼうか」

 早苗はクーラーボックスを抱え、成瀬は比較的小ぶりなそれを肩にかけ、さらに袋を胸の前に抱えてみた。意外な胆力を見せる成瀬に早苗は声を掛けようとしたが、結局言葉を発することはなかった。当然だが、林の中に街灯など無い。念のため懐中電灯を持ってきてはいるが、月明かりが二人の犯行を後押ししていた。

 川を目指すのは簡単であった。音を頼りに歩けばすぐに辿り着くことができたのだ。抱える荷物から漂う腐臭と、風が運ぶ自然の匂いが混じって、何故か早苗は生きていることを強く実感した。

「こっち」

「あー……」

 声を頼りに、早苗は成瀬の元へと向かう。川の流れは速い。ここに遺棄すれば、軽い肉片ならすぐに下流へと流されてしまうだろう。成瀬は荷物を下ろして空を見上げていた。早苗も彼女に倣う。星が綺麗だった。人里離れた場所で見る星空など気にも留めずに生きてきたことを思い知らされる。虐待を行っていた者を川に流す日にしては、もったいないくらいの星天だと、早苗は感じていた。

「数日前、母に呼び出されたんだ」

 成瀬が唐突に語り出す。すぐに砂利の上に放置された老婆が亡くなった時の話だと察した早苗は、静かに耳を傾けた。

「次の日も仕事だったけど、なんでか断る気がしなくて。それで会いに行ったら、金の無心だった」

「あー……」

「この人は、いつまで私が自分の言いなりになると思ってるんだろうと思って見てたら、急に苦しみだして……なんか、頭が痛かったみたい。のたうち回って、私は救急車も呼ばずに、それをじっと見てた」

「見殺しに出来たんだね」

 早苗はそう言って微笑んだ。成瀬はその表情と声にまた空恐ろしくなって、誤魔化すように袋を開けた。中から肉片を一掴みにすると、広い川の真ん中に向かってそれを投げた。

「そう。きっと母さんがいい母親だったら、私は救急車を呼んだ」

「当たり前じゃん」

 早苗もクーラーボックスを開けて、肉塊を放る。むごい光景だが、見咎める者はいなかった。

「家から離れて、生活がマシになって。母のことは割り切っていたつもりだったのに」

 また一つ、肉が川に投げ込まれる。

「母さんが苦しみ出した時、ざまあみろって思った」

 間隔を空けて、二人の視線の少し先でぽちゃんと鳴る。しかし、その音すら川の流れる音に掻き消されそうだった。

「もしかしたら、私が定期的に実家に帰ってたのも、あの瞬間を待っていたからなんじゃないかって。今ならそう思う。それから職場にしばらく休むって連絡を入れて、それで、一日くらい悩んで……最後に復讐しようって決めた」

 小さな声で、成瀬は続けた。そうやって早苗を巻き込むことになった、と。

「どっちが遠くまで投げられるか競争しない?」

 成瀬の心は根っこから曲がってしまった。いや、曲げられてしまった。その元凶をどう取り扱おうが、誰にも文句は言わせない。早苗は強い悪意を持って提案する。成瀬も全てを察した上で、受けて立った。

「私、多分、結構得意だけど。早苗みたいな華奢な子が勝てるかな?」

「はぁー? 望むところだけど」

 それから、二人はあっという間に袋とクーラーボックスの中身を空にした。車に戻ると袋を抱えてすぐに川の前に立ち、第二回戦と称して遺体を遺棄した。最後の肉片を棄てたのは成瀬だ。早苗が譲って、そうなった。

 その後、解体に使用した鋸や木槌、手斧やコンクリートブロックも川に棄てられた。明らかな不法投棄だが、死体損壊に遺棄をやってのける女達が罪悪感に手を止めることは無かった。投げる物が無くなると、クーラーボックスに川の水を入れて、辺りに撒く。それを何度か繰り返して後片付けをする二人の胸は、妙な満足感で満たされていた。

「こんな風に魚の餌になるのは、母さんの自業自得ということで」

「そうだよ、誰も同情しないって。自然に帰らない金属とかを捨てたのは、私達が悪いけど」

 そう吐き捨てると、二人は空知川を後にした。同じく川の水で適当に洗った合羽をクーラーボックスに詰めて、車は成瀬の実家へと真っ直ぐに向かう。

 家に着くと、今度は成瀬が言った通り、証拠の隠滅が始まった。ブルーシートも血に塗れた衣類も、考えつくものは全て水で流し、裁断してからビニール袋に詰めた。家の作業で着ていた服やマスクを残して。

「窓、開けるよ」

「この悪臭ともオサラバかな?」

「馬鹿だね。人が死んだ時の臭いってそうそう消えないよ」

「なんで知ってるの?」

「ネットで見た」

「知ったかじゃん!」

 成瀬は部屋の電気を消すと、窓を開けた。空は既に白んでいる。周囲に人影が無いことを確認すると、早苗に目配せをした。

「マジで大丈夫?」

「この時間だし、平気だと思う。とはいえとっとと終わらせよう」

 早苗が手に持っていたのは、新聞紙に包んだ布やマスクである。血が洗い流せなかったものについては、燃やすことにしたのだ。庭の地面は土になっており、他に燃え移る物もないため、家の裏で行うことになった。

「早く火、点けてよ」

「はいはい」

 まるで花火を見るような無邪気さで早苗は急かす。成瀬は喫煙に使用しているライターで新聞紙の端を燃やした。もっと手間取るものかと思ったが、思いの他点きが良く、すぐに炎はマスクへと燃え移り、全体に広がった。

「もう一塊あるでしょ。上に乗せちゃえば?」

「いいね、それ。キャンプファイヤーだ」

 それから、二人は燃えゆく証拠をじっと見つめた。燃え尽きた灰が、風に運ばれていく。成瀬が小さな黒塊の行方を見守っていると、正面で屈んでいた早苗が言った。

「その火で煙草吸ったら?」

「煙草は吸いながらじゃないと火が点かないよ」

「え、そうなの?」

「早苗は子供だね」

「子供じゃなくても、煙草吸わない人なら知らないでしょ」

「そうやってムキになるところも、子供そのもの」

 成瀬はそう言って笑った。まだ燃えている証拠品を見下ろして、ライターで火を点ける。吸い終える頃には、キャンプファイヤーと称されたそれも消えかけていた。そこに自分の煙草を混ぜようとしたところで、成瀬は慌てて立ち上がった早苗に手首を掴まれる。

「混ぜたらダメだって。よく分かんないけど、DNA? とかでバレちゃうかも」

 この子はまだ、私が捕まらないと信じているらしい。成瀬は心中で小さく笑いながら、仕方なくポケットに忍ばせていた携帯灰皿に吸い殻を捨てた。

 燃え残った後を靴で踏んで、細かくする。その度に燃えカスが風に運ばれてどこかに飛んでいった。

「跡、ちょっと残ってるね」

「これくらい、雨が降ったら分からなくなるよ」

「あぁ、軒先じゃないもんね、ここ」

「そゆこと。じゃ、行こう」

 臭気と眠気のせいで再び頭痛に見舞われている二人だったが、まだゴミ出しが残っている。これで最後だと気力を振り絞り、支度をして家を出た。

 ゴミ捨ては成瀬によって行われることになっている。こんな時間に子供が外出しているのはやはり不審だ、というのが理由である。合計五箇所にゴミを捨て終えた後、早苗は切り出した。それは彼女にとって大切なことである。

「あのさ、お金って……」

「あぁ。ダッシュボードに入ってるよ。五十万」

「五日も一緒に作業してないよ」

「どれくらいかかるか分からなかったから。いいよ、それ全部持ってって」

 成瀬は優しい声色でそう言った。試すつもりはなく、本心から言っていた。しかし、そんな大金を素直に手にできるほど、早苗は金に縁のある人生を送ってきていない。狼狽えていると、成瀬は後押しするように言った。

「早苗は、気付いてないかもしれないけど、私は多分捕まる」

「でも、証拠は消したし、それに」

「いやそれ以前の話だよ。母さんが死んだ、もしくは行方不明になったことは、いつか誰かに気付かれる。定期的に通院もしてたから、次の予定日も決まってただろうし、回覧板とかもあるし。そうなったとき、唯一の肉親の私が、急に数日仕事を休んだと知れたら……どう考えても怪しいでしょ」

「でも、証拠は」

「私達素人が、あの家に居た痕跡を簡単に消せるはずない」

 早苗には、成瀬の言わんとしていることが理解できた。しかし、それを認めたくない気持ちで胸が張り裂けそうになっている。今にも泣きそうな声だった。

「じゃあ、私達は、何のために……」

「早苗に繋がらないようにするため。ただ、それだけ」

「成瀬さん……」

 項垂れる早苗を見ても、成瀬の将来のビジョンは揺らがない。もう少し長く一緒に居たいと思っているのは、成瀬も同じだった。

「だから、ちょっと多いけど、餞別」

 成瀬は路肩に車を停めると、ハザードを点けた。成瀬は後部座席の足元に手を伸ばし、こっそり積んでいたバッグを俯く早苗に手渡す。

「なに、これ」

「制服、と、一緒に買ったけど着なかった服」

「え、あぁ……私達、こんな風に出会わなかったら……って思うけど、こんなことでもないと出会わなかったんだよね」

 時計を見る。あと十分で始発の高速バスが目の前のバス停にやってくる時間だった。

「本当は私が送ってあげたいんだけど、そのせいで早苗まで怪しまれるといけないから。バスに乗って、室蘭帰んな」

 これまでで、一番優しい声だった。それでも早苗は、顔を上げない。分かったと零すこともない。早苗が自分に懐いているのは、成瀬自身よく分かっていた。心の支えになる境遇を持ち合わせながら、少女に寄り添うことができない自分を歯痒く思う。

「多分、札幌経由。あと十分くらいで来る」

「私、成瀬さんのこと、好きだよ」

「……知ってる」

「私なら、成瀬さんよりきっと長生きするし、ずっと寂しい思いさせない」

「えっ?」

 告白のような言葉に動揺をした成瀬は、不意を突かれて助手席を見た。この動揺を早苗が感じ取っていないといいと願いながら取り繕うことしかできない自分を、格好悪いと感じながら。

「まともな環境で育ってない早苗が、可哀想だと思う。私と一緒にいたいなんて、思っちゃいけないんだから。私は最低のクズだよ。子供をこんなことに巻き込んで」

 それは自分に言い聞かせるような言葉だった。大人として、子供の未来を奪うような真似をこれ以上すべきではないのだ。

「でも、最低のクズが買ってくれたコーヒーの味を、私は一生忘れないよ」

「……優しくされることに慣れていないだけ。早苗は」

 成瀬は、ほんの少し前に早苗を子供だと笑った自分を殴ってやりたい気分だった。あまり口にしたくない本心を言わなければ、きっと彼女は納得しない。成瀬は、観念したように言った。

「私は、早苗が待つことを期待したくないんだと思う。だから、これで終わり」

 成瀬の言葉を聞き届けた早苗は、ようやく顔を上げて、そして笑った。別れを理解した表情などではない。いたずらや冗談を口にするときの、あの笑顔だった。

「私がお父さんを殺したら、どうなるのかな」

「……は?」

 種明かしを用意していたのは成瀬の方だけではなかった。本人がそれに気付く頃には、何もかもが手遅れだったのだ。早苗は言う、成瀬が捕まるつもりでいることには気付いていた、と。

「本当だよ。なんとなくそんな気はしてたけど、確信したのは燃えカスに煙草を混ぜようとしたとき。私を逃した時点で、成瀬さんにとってミッションコンプリートなんだって、分かっちゃった。だから考えたんだよね、私なりに」

 成瀬の敗因は、早苗を子供扱いしたことに他ならなかった。早苗は楽しそうに笑う。無邪気に。成瀬は早苗と過ごして何度か感じた、あの空恐ろしさをまた思い出す。

「見殺しにしたことと私を巻き込んだことは切り抜けられるとして……ただの死体損壊と遺棄、未成年が起こす殺人と死体損壊と遺棄。どっちが重いと思う?」

「なんでそんなことを気にするの……?」

「これからやるから」

「は……?」

 二人が乗る車を、大型車両が追い越していく。すぐ前の停留所を目指すバスだった。呆ける成瀬を置いて、早苗は助手席のドアを開ける。

「出所するまで私に待ってて貰えるか不安なら、私を待っててよ。迎えに来ないと殺すから」

 そうして彼女は駆け出し、まんまとバスに乗り込む。彼女以外に待ち人はおらず、降りる者も居ないバスは、先を急ぐように出発してしまった。

「なっ……!」

 成瀬は車を発進させようとするが、ドアを開けっぱなしにしていくという憎らしい最後のイタズラによって完全に出遅れてしまう。全開にされたドアは、腕を伸ばしても運転席からは手が届かない。

「あぁもう!」

 急いで車を降りてドアを強く閉めると、成瀬はすぐに車内へと戻った。ハンドルを強く握り、ミラーを確認することなく車を急発進させる。4WD車のエンジンが、早朝の滝川を叩き起こすように鳴り響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

松の香りも届かぬ内に nns @cid3115

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画