愛しい人は時を止めて

イオリ

第1話


 緑豊かな東の地を治める若い小領主。彼を支える令嬢。政略結婚ながら2人は仲睦まじく、領主は囲うほどに妻を愛していた。彼を見上げる令嬢の横顔も優しげで、領民たちは羨んだものだ。

 慎ましい幸せはいつまでも続く。そう誰もが信じ、願ったのに。国中に渡った戦火の咆哮ほうこうが2人を引き裂いた。


 王命をはいし、20に差しかかったばかりの東の領主も鎧をまとうことを余儀無くされた。一族に代々伝わる剣を手に、彼は配下の騎士を連れ立つ。

 夫の出陣を憂える妻は、別れの礼をした彼の背にすがりつき、自分と揃いの首飾りを与えた。書物の形をした銀のロケット。開けば妻の小さな細密画と、祈りの言葉が刻まれている。


 甲冑に身を固めた夫はそれを大事そうに首に下げ、きびすを返し――――今度こそ立ち止まりはしなかった。



*******



 それから時が経ち、春が過ぎ、秋が枯れ。娘は待った。愛する人の帰りを。供の騎士たちを連れ立って、腕を振り上げて彼女を呼ぶ笑声しょうせいを。やがて戦争が終わっても、たとえ次の冬が訪れても。…………信じて、待ち続けた。


 屋敷の外で声が立つごとに扉を開け放ち、そのたびに聞き間違いだと沈んだ。


 日に日に重くなりゆく心を紛らわそうと、娘は縁を頼って宮廷に仕えることにした。彼女の境遇を哀れんだ国の妃は、侍女として娘に姫の世話を頼んだ。その後間もなく、娘は姫が隣国へ嫁ぐ際にも同行した。

 隣国とは、かつてこの国と刃を交えた宿敵だった。数年にわたる血で血を洗う凄惨な戦いの末、和議が成立し、それぞれの王族が結婚することで収まったのだ。


 迎えられた隣国の城で、娘は衝撃と出会う。


 隣国の王女の傍に控える、懐かしい面影。雲ひとつない空の瞳。白い騎士服に映える金の髪。銀のロケット。


 間違うはずがない。焦がれていた人だった。

 不思議と喜びはなかった。疑問が押し寄せていた。



 なぜ、彼がここにいるのか。


 なぜ、知らせてくれなかったのか。


 なぜ、自分に注いでいた目を別の女性に向けているのか。



 娘は知らなかった。夫の騎士たちは敵の剣に敗れたこと。夫だけは瀕死の身体を捕らえられ、目覚めると王宮の寝台に横たえられていたこと。…………その時にはすでに、何もかもを忘れていたこと。

 彼の美貌に惚れた隣国の王女は、記憶が失っていることをいいことに自らの護衛とした。隣国の王女を命の恩人だと考えた彼は、彼女に誓いを捧げたという。


 娘への深い愛情は、血に錆びて開かなくなったロケットとともに、閉ざされてしまっていた。


 娘は嘆いた。独りで。暗い闇の中で。誰にぶつけることもできずに。誰も信じてくれないだろう。彼も。彼女こそ彼が愛すべき者だという事実を。

 彼が二度と自分を見ることがないならば、仕方のないこと。生きていたのだからそれで良い。やり場のない気持ちをごまかすように、そう言い聞かせた。




 自分を偽った日々が終わりを告げたのは、姫の結婚式が済んだ翌日。ロケットがなくなったと彼が隣国の王女に告げたことがとどめを刺した。


 王女はほくそ笑んだ。そして娘を呼び寄せ、彼女のドレスの下にあるペンダントについて尋ねた。


 何も知らず、娘は彼と同じ書物のロケットを見せた。

 途端、物陰に控えていた彼が血相を変え、怒鳴った。娘は衝撃に撃たれた。


 書物のロケットは彼と揃いのもの。たとえ彼を失ってもこれだけは失いたくなくて、肌身離さず身につけていた形見なのに。

 改めて見ると、いつも彼の胸元には同じロケットがなかった。そこで娘は悟った。彼の怒りを、王女のかすかな笑みを。


 娘は否定しようとした。彼が許さなかった。細い首からロケットの鎖を引きちぎり、彼は罵った。盗人、と。


 娘は耐えきれなかった。彼だけだったのに。彼女には。

 生きてさえいてくれれば良かった。隣にいる人が彼女でなくとも。彼が幸せなのなら。自分はそんな彼を見守れたら充分だったのに。


 それすらも叶わないというのか。


 彼の怒号と慌ただしい騎士たちの騒音を背に、彼女は駆け出していた。

 がむしゃらに城の中を走り、迷宮に惑わされる感覚に陥りながらも、娘は止まれなかった。衝動に一度突き動かされると逃れるのは難しい。娘も、どこかでそれに身を委ねていた。


 薄暗い通路。駆けずる短い足音。絶望に辿り着いた娘は、目の前に差し込んだまばゆい光に飛び込んだ。




 彼らが追いついた時、娘の姿は消え失せていた。戸惑った彼は、奪ったばかりのロケットに目を留める。

 よくよく見てみれば、こびりついていたはずの血の痕がない。彼女が拭ったのだろうか。ばれないように。

 中身が気になって、彼は蓋を開ける。現れた絵に、蒼い瞳が色褪せた。


 ロケットに守られた細密画。描かれていた青年の顔は、どう見ても彼とそっくりで。

 蓋の裏面には祈りの言葉が彫られていた。言葉の最後は2人の名前でくくられている。彼はその名前たちを、なぜだか知っていた。


 瞬間、様々な情景が頭の中で暴れ出した。


 彼女の笑み、涙。優しい気だて。彼女に挨拶をする人々。どれも彼が知り得ないはずの。


 やっと彼は思い出した。自分が何者であるかを。本当に愛しい人の存在を。


 彼女の消えた場所へと彼は身を乗り出す。彼女を追いつめた通路の突き当たり。目前には大きく開け放たれた窓。この真下には王宮を守る、奥深い樹海が真っ黒な口を開けている。


 彼の背筋が凍りつく。窓の外へ飛び降りようとした彼を、騎士たちが押さえる。そのうちに樹海の口は葉々はばに覆い尽くされ、濃い深緑しんりょくの下に塞がれた。


 吹く風が葉々の表面を撫で、暗い影が折り重なってゆく。ざわざわとこすれる響き。


 彼の悲鳴が張り裂けた。

 彼の豹変ぶりにおののく騎士、怯える王女。その拍子に、王女の足元から金属音が落ちた。涼やかな音を聞き逃さなかった彼は、真っ青な形相で王女を振り返った。

 床にぶつかった衝撃で初めて浮き上がったロケットの中では、あの娘が微笑んでいた。




 事は王女が仕組んだもの。彼の記憶が戻ることを恐れてのことだった。

 王女が偶然見かけた、首飾りを掌に載せて眺める娘。その形が彼のロケットとあまりにも似ていたから、王女は2人の間に何かがあったのだと確信した。それで彼のロケットを隠し、娘に濡れ衣を着せることで、2人を引き離そうとしたのだ。

 計画は上手くいったのだろう。彼の心と引き換えに。


 彼は憎んだ。あれほど愛した妻を忘れ、傷つけた自分を。彼女を陥れた王女を。もう誰1人とて信じられなくなった。

 狂い、憔悴し、途絶えた気配を求めて。樹海へ踏み入ろうにも、樹に絡む茨が拒んだ。


 彼女は、樹海は、償いも懺悔も受けつけなかった。


 どれだけの想いを尽くそうが、報われはしないだろう。そんなことは彼も分かっていた。忘れるとは過去を許すこと。忘れがたい傷痕を刻んだことくらい、彼だって理解していたのだ。けれど背負いきれなかった。彼女を愛しすぎていたから。罪の責め苦にさいなまれ、とうとう彼は自分自身すら見失った。


 いまだ自分に執着していた王女を斬り伏せ、彼は笑った。取り押さえられてもなお、娘の名を呼びいびつな笑みを立てた。彼の首に刃がよぎる瞬間まで、乾いた声は城を支配していた。

 血飛沫が上がる。鮮やかな紅は2つのロケットの中に浸み込み、2人を永遠にわかった。



*******



 樹海は今も黙している。悲しげに、哀れむように。時折、茨の鎖をほどこうとしては、思いつめたようにつぐむ。次いでひしめく葉を震わせるのだ。


 樹海の木々が揺れる時。遠くで男の呼び声が聞こえるという。


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