その日、人間ではなくなった 

 エドは公園のベンチに座りながら、物思いにふけっていた。あの時の記憶、この公園で結婚指輪をグレタに差し出した。グレタの表情はどんなものなのかはわからなかったが、泣いていたのかもしれない。あいつはそういうやつだ。よし、だんだんと思い出してきた。あいつの性格やあいつの見た目もすべてが…。


 グレタは地下鉄に乗った。地下鉄はいつもと変わらずに窒息しそうな密室と化していた。駅にはホームレスの姿もちらほらあった。もちろん、himilにより生み出された死体も。駅は彼らにとっては警察もやってこない最高の家だ。恵んでくれる人がいるかどうかはともかく。


 彼女は運よく電車の端っこにありつくことができた。そこで壁に身を任せながらエドとの日々を思い出す。彼は不器用だった。自身はまるでどこかの指導者のような威厳を見せつけようとはするが、それはあまりに見え透けており、逆効果だった。しかし、彼女はそのような彼のことを面白がり、楽しんだ。エドといれば理屈などなくても楽しい。それが結婚に彼女らを向かわせた。


 エドはその時はまだ、本屋に勤務していたはず。毎日、万引きとの戦いだと彼は愚痴をこぼしていた。今日は十人、またその日は三十人と彼は魚を釣り上げた漁師のようにそのことを語っていた。それは戦果ではなく、ただの職業からくるものでどこにも誇らしげには見えなかった。あの人はそういう人だ。どれが本物かもわからない。ドライブの時とかは子供のようにはしゃぎだすのに、映画を見るときはまるで小難しいおじいさんのようになる。

 

 電車の自動扉が開く音がする。何人かが下りて少しは息がしやすくなったかと思うと、また次の客が乗り込み息がしにくくなった。グレタは相変わらず壁に押し付けられながら、回想した。


 私がプロポーズを受けたのは公園だった。ルビーナ街が設立された記念日に建てられた公園だ。幾千もの星空が支配する空の下で私はプロポーズを受けた。あの時は女優になった気分だ。世界一の女優って感じだった。あの時の法律ができるまでは…。


 そのあとの彼女の人生からは彼は消えた。もう、何もわからない。どの職業についているかさえわからない。今、どこにい住んでいるのかも、今、どの家を持っているかすらも…。もしかしたら、ルビーナにはいないかもしれない。ルビーナを選んだのはあくまでも彼女の予測に過ぎない。それも薄弱な無理やり作り出したかのような根拠だ。だが、もう引き返せない。ここまで来たら後はどうでもいい。


 エドは空を見上げた。空には鳥が飛んでいる。鳥は今人間界で起こっていることが分かっているのだろうか?人間が増えれば増えるほど、お前たちも命の危険にさらされるんだぞ。お前たちの木は失われ、お前たちの卵は食われる。お前たちのエサもなくなる。挙句の果てにはお前たち自身が食われるんだ。


 彼はそう思いながら、空を見るのをやめた。目の前には湖が広がっている。かつては命の湖だった。しかし、今はどうだ?魚どころか微生物というものすらもいないじゃないか。この町はどうかしている。この町は死んでいるんだ、、。まるで、巨大な生物の死体の上に立っているかのようだ。まったく、何が起こっているんだ。まるで、収容所のようだ…。待てよ、収容所?


 グレタはルビーナに行くのが少し怖かった。あそこはかつての場所とは違う。あそこには収容所がある。それは一切の人道を無視したものだ。かつてのナチスの強制収容所やソビエトのラーゲリーのような…。でも、街のすぐ前なら大丈夫なはずだ。あそこはまだ収容所の管轄じゃない。収容所はまだ奥のほうにある。街の住人は全員そこに送られた。自身の町を収容所に変えられるのが不快であり、政府に抗議したからだ。


 彼女はさっきまでとは違う感情が芽生えた。どうか、彼があそこにはいませんように。あそこにいれば、送られることがなくても、苦しい光景を見ることとなる。


 エドは湖よりさらに奥のほうを見た。そこは森におおわれているが、煙が立っているのが見える。黒い煙。火事ではなさそうだ。きっと、煙突かなにかから出た煙…。そして、彼ははっとした。収容所だ。あの煙はガス室に違いない。あそこで死体を焼いているんだ。彼は動物的本能からくる恐怖に支配された。目の前に捕食者がいる。俺は逃げなきゃいけない。


 彼はベンチから立ち上げり、公園を去った。しかし、彼は公園を出ようとすると、二人の人影が目に入った。黒い制服を着ている。間違いない、収容所の看守だ。彼は立ち止まるまいと歩き続けた。立ち止まれば、何か卑しいことがあるのかもしれないと思われる。そうなればおっ割だ。ガス室送りはまぐられられない。彼の心臓の音の刻みが早くなる。その音すら看守たちに聞かれているか不安だ。


 しかし、そのような不安は過ぎ去った。看守たちはエドを見つめたもののすぐに興味なしといった感じに歩き去った。彼の頭から安心の波が押し寄せる。ああ、仏様。彼は心の中で両手を合わせて自らの信仰の対象に感謝した。

 

 すると、もう一人の人影が現れた。さっきの看守二人よりは小柄でほっそりしている。女だ。女に違いない。どうして、このような場所にいるのだろう。いや、俺も言えたものではないが。よくよく、目をこしらえてみる。茶髪に堀の深い顔で白い肌。グレタだ‼彼は思わず叫びそうになったのをこらえ彼女に歩み寄った。

  

 グレタの表情には涙が浮かんでいる。視界に見える人影がうるんで不正確な形に変形していく。ああ、エド…。彼女は崩れそうになったが何とか持ちこたえて、彼に歩み寄った。


 今、二人の男女は再開の印に抱き合ったその瞬間、彼らはこの世界では生きる資格がない人間になったのだ。


 エドはグレタにキスをする。二人は抱き合ったままだ。そのあとの展開は二人の若い夫婦特有のものとなった。夫婦はベッドの中でお互いの愛を体をもって確かめ合った。


         その日、人間以下となった。



 

  

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