第38話 神の落涙

 そして翌日の法王の月十三日の朝、ティム達は目的地に向けて出発した。御者役二人を含む六人が三頭立ての馬車 に乗り込み、一路北の国境を目指していく。草の生い茂る平野地帯が二十キロほど続いたと思うと、徐々に草木の姿が周囲から減り始め、三十キロを過ぎると完全な荒野地帯となった。


「ソレミアの北部はこんな感じの土地なんだな」

 誰にともなくティムが言うとメディナが答える。「そうね。北部は作物の育たない不毛の地地と言われて定住する人口も少ないわ。かろうじて先住民のジアンナ族なんかが集落を形成して生活しているけど、それ以外の人々は皆、東のカッシリアや西のローレンスへ抜けるための中継地ぐらいにしか捉えていないわね」


「皆そう言って北部を毛嫌いする奴は多いが、俺は嫌いじゃないな。故郷の景色を思い出す」 窓から外の景色を眺めながらデイオルグがつぶやいた。

「デイオルグは南西部のヒエサ出身だもんね」

「ヒエサには行ったことないけど、ここと似たような場所なのか?」


「ああ。ある意味もっと酷い場所かもしれない。作物が取れず、領主の課す重税に民は喘いでいてーー」

「デイオルグはね、実は貴族の出身なのよ。お坊っちゃんなわけ」


 メディナが耳打ちしてきた意外な事実にティムは思わず声を上げた。「へえ、すごいじゃないか」

「しかも名門。オース家っていったら昔から代々ヒエサを治めている由緒正しい家柄なんだから」


「そうなのか?」

 まさかそれほど良い家柄の出身だったなんて。どうりでどこか所作に気品が滲み出ている気がしたはずだ。でも待てよ、とティムは訝る。デイオルグが領主の家系なら、さっき直截的に批判したのは実の父親のことじゃないのか?


 そう思ったティムが再びディオルグを見ると彼は既に会話の輪から離れ、遠くの景色を見つめていた。これ以上無理に追究するのはよくないと感じたティムは、話題を変えようと今度はルシェイルに話しかけてみる。

「そう言えば、ルシェイルの故郷はどんなところなんだ?」


 しかし、ルシェイルは足を組んだまま目を閉じ、ティムの質問に答えようとしない。「ルシェイル?」もう一度ティムが声をかけたところでメディナが助け船を出した。

「彼女、この国の出身じゃないの。数年前にローレンスからソレミアの王都にやってきて、それからうちに加入したのよ」


 そうだったのか。しかし、そういう事情なら、デイオルグと同じように何か話したくない理由があるのかもしれない。そう思ったティムはこれで話を打ち切ろうとしたが、今度はメディナが本人に代わって説明を始めようとした。


「ルシェイルは前職は冒険者じゃなくて医学癒術士メディックの卵だったの。それがーー」

「メディナ」

 ずっと黙ったままだったルシェイルが突然口を開き、ぴしゃりと話の腰を折った。


「それ以上は話さないで頂戴」

 メディナは身振りを交えて反論する。「どうして?クランのみんなは知ってることだしどうせいつか話すことならーー」

「今はやめてと言っているの」

「……!」強い口調で言われたメディナは黙って口をつぐむ。


 するとルシェイルは今度はティムの方を向きながら二人に言い放った。

「まだ私はティムのことをよく知らないし、ティムだって私のことをよく知らないわ。私はものごとにはふさわしいタイミングというものがあると思うの。言うべきときが来れば誰に催促されなくても私から彼に話すし、そうでなければ誰にも過度に干渉されたくない。悪いんだけど、了承もなく私のことを勝手に彼に話すのはやめて」


 鋭いナイフのような物言いにメディナが声を荒げかける。「ちょっと、悪かったとは思ってるけどそんな言い方ってーー」

「メディナ、もういい。俺が悪かったんだ。お互いの距離感も掴めてないのに最初に土足でルシェイルの心の中に踏み込もうとしたのは俺だ」


「だからってーー」

「時期が来れば話してくれるって言ってるんだからそれまで待つよ。それよりもお互いの理解を深めていくことが先決だろ。ルシェイルの気持ちも尊重しなきゃ」


 そうティムが諭すとメディナはまだ文句ありげな表情を浮かべていたが、やがて黙って元の座席に戻った。デイオルグは口論中もたまにこちらに視線を向けていたが決して止めに入ろうとはしなかった。馬を操っている御者が一度幌をめくって中の様子を伺ってきたが、重苦しい空気を察知したのか、すぐに幌を下げて自分の業務に戻っていった。


♢♢♢


 その後、日没まで走り続けた馬車は荒野の真ん中で止まった。ティムとデイオルグが周囲に散らばった枯れ木を集めて戻ると、御者役の騎士達が馬に水と飼料を与え、メディナとルシェイルは夕食の準備に取りかかっていた。まだレトミットまでは二日かかり、途中で寄る水場は前もってリサーチしてはいるが、食糧や水は無駄遣いできないので質素な夕食を終えると一行はそれぞれ人心地ついていった。


 ティムが焚き火に新たな木をくべていると御者役の騎士の片割れが馬の傍から戻ってきた。

「どうだい、特に異常はなさそうかい」

 そう訊くと騎士は頷く。「ああ。帰りはベリラで新しい馬を調達するとしても、七日間を無事に走り抜いてもらわなければならない。蹄鉄や体の調子のチェックは毎晩かかせないよ」


 ウォラスが手配したこの騎士達は、普段は騎士団に所属している連中だそうだ。操馬技術を持ち、賊の急襲に対応するための実力を持つということで選ばれたのだという。

「終わったらこっちへ来て一杯飲まないか。デイオルグの秘蔵のウイスキーがあるんだ」


 そう言うと騎士は残念そうな顔をして首を横に振った。

「悪いけど夜は相棒と交替で荷物番をするつもりなんだ。高い前金をもらってるから、一応やるべきことはやらないとね」


 騎士は錫製のマグに水を注ぐと馬車の方へ戻っていった。こんな見晴らしのいい場所でそこまでする必要もないのかもしれないが、仕事に手を抜かない騎士達の姿勢はティムの目には好意的に映った。


 焚き火の火の粉が爆ぜて夜の闇に舞い上がっていった。今日は一日中晴れだったので夜空には幾千もの星が煌めいて見える。ジアンナ族の祈祷師シャーマンは夜毎、空の向こうにおわす神と交信を図っていると聞くが、ティムの目にした文献には神と接触を取ることができたという記述は見当たらなかった。雨乞い等のまじないは結局、魔法技術の一分野でしかないらしい。


「ねえ、"神の落涙" っていう古い説話、知ってる?私が小さい頃、魔女の里にいたときに聞かされた話なんだけど」温めたウイスキーを口にしながらメディナが誰にともなく言った。

「知らないなーーディオルグはどうだ?」

「うーん、分からんな。各地の伝承なんかの文献は多少読んでいる方だと思うが」


「私も知らないわ。いったいどんな話なの」

 ルシェイルに問われたメディナが、空を見上げながらゆっくりと説話の内容を話し始める。


「今日みたいに空が晴れ渡って、天から地上がよく見えるような日には、いつも神は涙を流すのだというわ。空に瞬く美しい星々は神が流した涙の煌めきだ、ってね」

 メディナは空に手をかざしながら話を続ける。

「ーー完璧な世界を目指して自分の世界を創りはじめた神は、いつしか自分の手を離れ、自ら制御できないほどに進化を遂げていった世界の上に、溢れる痛みや悲しみを目にするようになっていった」


「確かに、これほど複雑で精巧な法則や仕組みが成り立つ世界でも、戦争や貧困、病魔や犯罪といった様々な問題は世界からいつまでたってもなくならない」

「ちょっと待って。神は全知全能の存在ではなかったの?少なくとも今まで私が教わってきたのはそんな不完全な存在としてではなかったわ」


 ルシェイルの言葉にメディナは頷いた。「ええ。初めて聞いたとき、私もびっくりしたわ。けれど、今となっては割とすんなり受け入れてもいるの」

「と言うと?」


「確かに母なる大地や様々な自然法則、物理法則、物質や生命を創造するという意味では神は万能だわ。けど、一見完璧に見えるものでも次々に綻びが見えて現実世界に暮らす私達はそのことによって苦悩し続けている。さっき挙げた例に加えて、災害なんかもそうよね。そして、不完全なものを創り出しておいて、まるで悪さして食器を割ってしまった子供みたいに、いつまでも知らんぷりを決めこんでいる」


「そんなまさかーーそれじゃまるで、みたいじゃない」

 ルシェイルが失望したような表情を浮かべるとメディナは再び頷いた。

「実は私もそう思うの。神様ってまるで人間みたい、って。何か価値のあるものを産み出そうとしては失敗して、その失敗が大きければ大きいほど恐怖を感じて責任を取ることを放棄してしまう」


「面白い意見だな」デイオルグは腕組みをしたまま頷いた。「だとすれば、神は自分を模した存在として人間を創造したということになる。もし神が実在したなら、それは聖母のような慈悲とーー悪魔のような残酷さを併せ持っている、人間に似た、そして人間よりもずっと複雑な存在に違いない」


「神はずっと前ーーそれこそ何百億年も前からきっと絶望しているのでしょうね」ルシェイルは寂しそうな目をしながら言った。「人間同様に、そして人間よりも遥かに永い無為な一生を、人間世界よりも遥かに広大で茫漠な宇宙の彼方から、虚無感を抱きながらずっと眺めているのだわ」


「神はきっと、俺達よりもずっと深い孤独の淵にいるに違いない」

 デイオルグの言葉を聞きながらティムは再び空を見上げた。おそらく人は皆、過ちや失敗を繰り返すたびに孤独が深まり、誰かや何かを追い求めるような焦燥感にかられはじめる。しかし、過ちや失敗を冒すことなく前へ進むこともまた不可能だと心の奥底では感じている。


 きっとこれは生きている限り解決のしようがないジレンマなんだろうな、とティムは思う。しかし、だからこそ困難を乗り越える価値があり、同時に人間が生きる価値もそこに生まれる。


 その夜、星空の下で六つの孤独が、寒々とした荒野の中に確かに存在していた。



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