第37話

「ワグナー商会の再開ですか?」


 レオンハルト様が立ち上がり、私の前に立った。


「そうだ。再開したい、と言っていなかったか?」

「言いましたけど……」


「俺はリディの審美眼に一目置いている。もし、リディがワグナー商会を再開するならエルムドア侯爵家が後盾となろう。商売を軌道に乗せるまでに必要な金は出してやる」


 できるだろうか。今の私にそれだけの能力がある?


 商人と交渉して品を買い、置いてくれる店を探す。


 お金は借りられるとしても、人脈を作るのは私だ。


 いつかはと夢見ていたけれど、いざ、実現するとなると商売の難しさを知っているだけに急に不安が込み上げてきた。だって、それはまだまだ先だと思っていたから。心が頭が現実に追いつかない。


 私の戸惑いを感じとったのか、レオンハルト様の口調が強くなった。

 

「ワグナー商会を再開させたいんだろ? 俺を踏み台にする覚悟と気概がお前にあるか?」


 迷う背中をドンと押された気がした。 


 見上げたそこにあるのは、悪魔の微笑みでも、甘ったるい笑顔でもない。まるで私を試すかのような鋭い視線だった。侍女とか、男爵とか、女とかそんな事関係ない。一人の人間としてやり遂げる覚悟があるか


 ――淡いブルーの瞳はそう問いかけている。


 これだけお膳立てされたチャンスは二度とないだろう。エルムドア侯爵家の後盾の元、ワグナー商会を再開する事ができるんだ。


 拳をぎゅっと握りレオンハルト様をしっかりと見返す。


「分かりました! レオンハルト様。私、ワグナー商会を再開します!」


 私の返事にレオンハルト様は、唇の端を上げながら大きく頷いた。


 その笑顔を見ながらふと思った。もしかして、ワグナー男爵の拝命も、ワグナー商会の再開も、レオンハルト様の支援も、私がいない場所で全て話がまとまっていたのではないか……


 ま、いいか。

 例えそうであっても、全て私を思ってくれてのこと。やると決めたのたがら、あとは頑張るのみだ。




 さて、ビジネスの話はここまでとして、もう一つ


「私達の婚約についてですが」


「ああ、そうだな」


 そう言うとレオンハルト様はコホンと咳を一つした。たかが咳ひとつなのに、部屋の空気が少し変わったように思う。


 先程より部屋の密度が高まる。


 しん、と静まり返った空気の中で、レインハルト様が息を吸い込む音が聞こえた。


「俺は婚約を解消したくない。リディを妻にしたい」


 低い声が、いつの間にか張り詰めていた空気を揺らす。


 …………妻にしたい。それは間違いなく求婚の言葉だ。


 予想外の言葉が頭の中をぐるぐると回る。


 だって婚約は破棄した方がよいと思っていたから。あれは取引のあったお互いの親が勝手に決めた事で、昔と今とでは状況が明らかに違う。だからもう婚約者でいる必要はないはずなのに。まして、結婚なんて。


 私を見つめるレオンハルト様の顔は真剣そのものだった。


「レオンハルト様、私……」

「待ってくれ。まだ返事はしないで欲しい」


 大きな手が私の髪をすっと撫でる。


「資金援助の話をしたあとで、結婚の話を持ち出すのはフェアじゃない。だから、返事はワグナー商会を立て直してから聞きたい」


 淡いブルーの瞳が熱を帯び、私だけをその視界に留める。その視線が私を絡め取り、胸の奥に突き刺さる。


「リディが男爵家を復興させ、俺の後ろ盾を必要とせず一人で立てるようになった時、何のしがらみもない状態で俺を選んで欲しい。それまでは待つと決めている」


 そう言うと、レオンハルト様は私の手を掬い上げ、手のひらに―― パライバ・トルマリンを置いた。


「今は指輪にしても受け取ってくれないだろ? でもそれはリディに持っていて欲しい。リディの気持ちが俺に向くまで預ける」


 

 ……あぁ、どうしてこの人は生真面目なんだろう。権力を笠に着て強引に話を進めることもできるのに。


 

 だから仕事を押し付けられるんだ。なんて関係ないことが頭に浮かんだ。


 今まで私に求婚をしてきた人は、ブロンドの髪やロイヤルブルーの瞳しか見てなかった。でも、レオンハルト様は違う。私自身を見てくれる。



 そして、一人の人間として対等に向き合ってくれている。



好きか嫌いかで言えば好きだけれど、多分その好きはレオンハルト様が求めているものとは違う。そして、それがこの先どう変わるのか、それは私にもわからない。


 ただ、この真剣な瞳は、言葉は受け止めてなくてはいけないと思った。鈍い私でもそれぐらい分かる。


「……分かりました」

「!! いいのか?」


 先程の真剣な顔から、無邪気な笑顔に変わった。

 あ、私この笑顔知ってる。


 懐かしくて、私は思わず唇をほころばせた。


 ただそれだけなのにレオンハルト様の頬が少し赤らんだ気がした。


「この国は一度婚約破棄すると、同じ人物とは二度と婚約できない。だから当分の間は俺の婚約者のままでいるという事になるがいいか? 嫌いな男の婚約者役は苦痛かもしれないぞ」


 嫌い?


「大丈夫です。私、レオンハルト様好きですよ」


 私の言葉に、レオンハルト様が目を見開く。

 これは誤解を与えたかも、と少し焦って早口で告げる。


「子供の時と同じように好きですよ。だから問題ありません!」

「…………子供の時と」

「はい! 同じように!!」


 にこりと笑う私に、レオンハルト様はとても複雑な顔をする。


「……分かった。そうだな。時間は必要だ……そうだ! それなら、とりあえず子供の頃と同じように接しても良いか?」

「はい、そうですね。まずはそこから……」

「婚約者だしな」

「? 婚約者だしな?」


 なんだ? 急に肌がチリチリとして危険信号を発しているぞ。


 そう言って私を覗きこむその顔には、翻訳を手伝えと言った時と同じ悪魔の微笑みが浮かんでいる。


 えっ? と思ったその時には、私はレオンハルト様の腕の中にいた。


「レオンハルト様? あの……」

「子供の頃もこうした」

「それはそうですが」


 広い肩と厚みのある胸板は明らかに大人の男性で、そう意識したとたん顔に血が昇るのが分かった。恥ずかしくって身を捩るも逞しい腕は逃してくれない。


「リディ」


 甘い声と一緒に額に口づけが落とされる。柔らかく暖かい感触にくらくらとしてくる。


「レ、レオンハルト様、多分、子供の時にこういう事はしていないかと」

「リディは何でも忘れているんだな。でも、大丈夫だ。俺は覚えている」


 だから、その記憶に問題が、と言いかけた時。

 開けられた窓から強い風が入って、レオンハルト様の机の書類を巻き上げた。


「離してください! 書類が!!」

「嫌だ」


 そう言って、腕から逃れようとするも、さらに力を込めて抱きしめられた。


「俺は待つとは言ったが、品行方正に待つつもりはないぞ? 必ず俺の妻になりたいと思わせるから覚悟しておけ」


 そう言うと、私の右頬にふわりと柔らかい感触がある。口づけされた頬が赤くなるのが自分でもはっきりと分かった。


「〜〜〜!!これは記憶にありません!!」

「忘れているだけだ」  

「記憶、捏造してますよね?」


 降り注ぐ書類の中、真っ赤になった私を、愛おしそうに抱きしめるレオンハルト様の鼓動も私と同じくらい早かった。

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派遣侍女リディの平穏とは程遠い日々〜周りは愛されているって言うけれど、気のせいだと思います〜 琴乃葉 @kotonoha_m

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