第5話
「してないよ。」
博樹の答えは簡潔だった。私は息を潜めるようにして彼の言葉を待っていた。
「美紗の世界は危険が多い。人に恨まれることも多い。美紗にそれらを背負わしたくない。」
エレベーターはとっくに17階についたのに、博樹は私との目線を外さない。
「殴ってでも美紗に言うことを聞かせてここから連れ出したい。でもそれじゃーーきっとダメなんだ。きちんとここを、終わらさないと、美紗にはダメなんだ。僕はそれをーー知ってる。」
なぜか彼が泣いてしまうんじゃないかと、不安になった。
「.......うん。」
博樹が私の髪の毛に触れる。
指を絡ませる。
私にためらないなく触れてくれるのが好きだ。
解放されても多分ずっと。私のことを真に愛してくれる人とは、出会えないと思っていた。だってそんなことありえない。
誰かを愛することのできない私が人から愛されるなんてありえない。返ってこない人に愛を注ぎ続けられるほど人間は文化的な生き物ではない。
「......解放、か。」
自分で思った言葉なのに違和感がある。
そっか。
「解放なんて、一生ないんだ。」
復讐が終わっても。
あいつらを滅ぼしても。
例えば苗字が変わっても。
私を形作るのが過去である以上、真の意味で解放されることはない。そして多分私は解放自体を望まないのではなかろうか。
「美紗。誤解してほしくないからあえてはっきり言うよ。」
エレベーターから一歩踏み出して、エレベーターホールの観葉植物をボーッと見つめる博樹。綺麗な横顔、だな。透き通って消えてしまいそうな横顔。儚いのは私じゃなくて彼か、とため息をつきたい気持ちを押し付ける。
「確かに美紗の生きる世界は、僕が今まで生きて来た世界と異なる。」
うん。そうだよね。
私は
日本の、巨大な闇を、支配する絶対君主。
博樹は違う。彼はーーまとも、だ。
「僕はしがない医者だ。」
それは違うでしょ、と私は笑った。
「君1人治せないーーただの情けない医者だ。」
その博樹の言葉には万感がこもっていて。
でもーーただただ私を案じる彼がすごく嬉しかった。
「僕なんて......ただの人殺しじゃないかと思うことがたまにある。そうじゃなくても、人の不幸が飯のタネ、だ。」
博樹の努力を知ってる、なんておこがましいことは口が裂けても言えない。
ほんとは言いたいけど、言えないんだ。
私は殺す方。
博樹は救う方。
そんな私の言葉が彼にどう取られるかなんかわかりきっている。
もし私が普通だったならーーなんてくだらない夢想だ。だって私は全てのシナリオを見た上でこの道を選んだ。ぜーんぶ、予想内。
「美紗。僕はーー最近、人の死に麻痺してしまった。緊急外来なんてやってるとねーー救えるのはほんの一握りなんだよ。悲惨な現場に行ってトリアージなんかしてるとーー見殺しにする人を選んでいる気分になる。」
なんてことを、言うんだ。君が言ってはいけない言葉だ。言ってほしくない言葉だ。
「でもねーーきっとーー助からない......美紗が黒タグでも、きっと美紗だけを治療する、ただの馬鹿に成り果てただろうね。」
植木鉢からこちらに視線を戻す。
真剣で、綺麗。抱きしめたいような、縋りたいような、拝むべきなような、不思議な心持ちのする、絵画的な景色だ。
「美紗以外に興味などないし、美紗が望むならそれが世界の滅亡でも何でも叶える。それが僕の答えだ。」
私の髪の毛を指ですく。
博樹がよく触るから、髪には気を使っている。正直こんなに長い髪を手入れする体力はないけど、遺髪として残す時に、艶やかな髪がいいから。長い黒髪を見るたびに私を思い出してほしいと思うから。
私は髪を伸ばしている。
「美紗は?」
「え...?」
「美紗は、僕を手放せるの?僕が、この世界に入ったことを後悔していると言ったら、美紗はどうするの?」
あなたと2人で夕陽を見つめて 橘みかん @Tatibana-mikan
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