眠れるΩは白い森の中
玻璃 れにか
épisode 1 Thé au jasmin qui sent bon
ジャスミンの葉がゆっくりと開く――そろそろ頃合いだ。
世界中で
魅惑的なフェロモン、周期的に訪れるヒート、人類の繁栄を
首都に設立されたこのアカデミーは、このΩ減少問題に取り組むべく設立された研究機関である。莉絃たちの通う学生部の他に多種の研究所や併設する大規模な病院まである。
大きな
行きつけの洋風素材のデリカテッセンが閉まるまであと少し。
「ご、ごめんなさ……」
尻もちをついた姿勢で出かけた言葉が止まってしまったのは、男と衝突した瞬間、身体にビリッと電流が走ったような感覚があったからだ。
「大丈夫?」
長身の男が手を差し伸べる。涼やかで艶のある声。黒い髪は西日を浴びて
差し出された手を取って立ち上がり、周囲に散らばった本を集めている最中も、莉絃は男からの
「ありがとう、不注意でごめんなさい」
男とまともに視線がぶつかる。深海を思わせる濃い青を
◇◇◇
「……それはないですね、百パーセント気付かれません」
月に一度の診療の日、莉絃の担当医である男性は穏やかに微笑んだ。アカデミーに併設された病院の一室、白とミントブルーで構成された診療室は清潔感に満ちていて、小さな窓からは空の青が覗く。
「確かにあなたの性別はΩです。しかし対外的な身体的特徴としてはΩの要素は限りなく薄い――フェロモンの放出がなく、ヒートも発生しない」
莉絃は両親の顔を知らない。彼は生まれた際に受ける遺伝子判定でΩであることが判明し、両親の手を離れて政府の養育施設に入った。これは希少な存在となったΩを守り、最適な番を見つけるまでサポートする政府の手厚い保護策である。
しかし、適齢期になっても莉絃にヒートが訪れることはなかった。当然身体からフェロモンも放出されない。施設の病院で治療を受けていたものの効果は上がらず、アカデミー入学を機にこの専門病院でΩとしての機能を回復する治療を始めて一年が経とうとしていた。
「先月行った新薬のテストも効果は出ていません……莉絃さん、私たちは治療を次のフェーズに進めようと思っています」
「次のフェーズ?」
「特に強いα性のたんぱく質を摂取することで、Ωホルモンを刺激します」
医師は言いよどむことなく、左手で眼鏡の位置を正すと莉絃をまっすぐに見つめた。
「つまり、特定のαの方との
◇◇◇
「はあ……」
莉絃の小さなため息は夏の終わりの青空に吸い込まれた。アカデミーの中庭のベンチで昼食をとっているが、今日は大好物のはずのサーモンフライとピクルスのタルタルソースサンドウィッチの味も感じない。
「ご飯食べてるときが一番幸せそうな莉絃が珍しいね」
「あ、
食堂で販売されている人気のフレンチトーストの紙袋を持った細身の青年が莉絃の顔を
アカデミーの友人の中でも特に燦菜とはよく中庭でともに昼食をとる仲だ。彼はαと
「交合って……性的に交わるということだよね」
どこか真面目な面持ちの燦菜の隣で、莉絃はサンドウィッチの包装紙を畳んだり開いたりを繰り返している。
「そんなことある? 治療で、だよ?」
「僕は童貞だから、正直興味あるかも」
「自慢じゃないけど……俺だって童貞だから!」
しかも、莉絃は二十歳になる今まであまり強い性衝動を覚えずにここまで来てしまった。
「不安だよ、いろいろと……」
桜色の唇を噛んだ莉絃の頭を、燦菜のか細い手がそっと撫でた。ベンチに降りそそぐ木漏れ日が、莉絃の
燦菜にとって莉絃はアカデミーで初めてできた友人だった。植物学科にすごい美人がいると耳にしていたので、華やかな日々を過ごしている人種であろうという勝手な先入観があった。だから併設の病院の待合室で話しかけられたときもこんな風に仲良くなるとは想像していなかった。実際に友人として付き合う莉絃は
多くの先輩や後輩、ひいては教授まで彼に告白する者は大勢いたが、莉絃は研究に専念したいの一点張りで断っている。いまだ恋愛についての感情を理解できずにいる燦菜はいつしか彼に対して同志のような気持ちが芽生えていて、治療とはいえ体を重ねることになった相手が莉絃を傷つけはしないか心配だった。
「肉体関係が、莉絃の精神に何か影響を及ぼしたらどうしよう」
生々しい言葉に対して肯定も否定もできず、莉絃は燦菜の
◇◇◇
――ジャスミンの葉はとうに開いている。なのに莉絃はそれに気づかず、ポットに触れぬままぼうっと研究室で窓の外を眺めている。不意に机の上の携帯端末から着信の音が流れ、端末を手に取ってディスプレイに指を滑らせ通話を開始した。
「失礼します。アカデミー付属病院の特化治療チームの者です。莉絃さんの端末で宜しかったでしょうか?」
「はい」
「以前担当医からお知らせさせて頂きました治療に関しまして、ご案内させて頂きます。急で申し訳ありませんが、明日の16時に病院の中央棟屋上にありますヘリポートにお越しください。その際、三泊分の薬と衣類などの日用品を持参してください。持ち物の詳細についてはメールに記して送信いたします。それでは、特に問題なければこれで失礼いたします」
「あっ」
莉絃が何か言いだすより先に、端末の奥から通話が終了する音が鳴った。やはり、どこか遠くの人里離れた研究所に連れて行かれてしまうのだろうか。病院の医師たちには数えきれないほど世話になったし、何より未完成なΩとして生きてきた未熟な自分を変えられるかもしれない絶好のチャンスであることには間違いない。そう言い聞かせて、胸の底から
緊張に速まる鼓動を落ち着かせたくて、ジャスミン茶をマグカップに注ぐ。でも、口に含んだそれは驚くほど苦かった。時間が経って葉が開ききったティーポットの中の葉を見て、莉絃は小さなため息をついた。
眠れるΩは白い森の中 玻璃 れにか @mayura_mayura
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