揚げ物屋の娘

ぬりや是々

揚げ物屋の娘


 晩飯時にテレビなど眺めておりますと、町の小さな商店街をぶらり。芸能人の面々が歩きまして、やれ此処のパン屋のかつサンドが絶品である、とか此処のカフェの珈琲が実に香り豊かである、などと申しております。

 近所の生協で買いました味の薄いコロッケを箸で崩しながら、そうやってテレビをそれとなしに眺めていたところ、申し合わせましたかのように丁度、如何にも職人と言った様子の店主が営みます揚げ物屋が紹介されておりました。

 

 ハムカツであるとか、エッグフライなる黄身が半熟の、たまごの揚げ物などに、ほうほう、などと言って興味を引かれたものであります。

 さて、試食の段になりまして選ばれましたのはコロッケでございました。

 こういった番組など見ておりますと、時々「日本一うまい」など大袈裟な評判を目にするものですが、その都度、いや日本一うまいのは某のコロッケである、と私は胸の内でいちいちと反論致します。

 胸の内でと申しますのは、以前は実際に口にしておりましたが、何度も同じ話をするうちに、やれまたその話か、といった冷めた視線が私に送られている事に近頃ようやく気付いたからであります。

 日本一うまいのは某のコロッケである。しかし、これは誰しもの胸の内にある思いではないでしょうか。幼少の頃に近くの商店街で求められ食卓を彩りましたあのコロッケ。その味はまるで幼馴染のように、今も郷愁の思いとともに誰しもの心に残っているものではあるまいか。

 

 この与太話はそういった、今もなお私にとりまして日本一であります某のコロッケと、その揚げ物屋の娘の話にございます。



 私が生まれましたのは地方都市の中ほどにあります地区。中学に上がりますと三つの小学校より生徒が集まります。私の通いました小学校は坂の上、のんびりとした住宅街にございました。その頃はまだ空き地や草むらなどあちこちに残っておりまして、私達は拾った形の良い棒などを手に、バッタやトンボを追いかけたものでございます。

 かたや他のふたつはと申しますと、ひとつは町の中心にございました駅の近く。此処の小学校を出ました生徒は、やはり駅前の繁華街が近いせいでありましょうか、我々と比べ実に垢抜けておりました。

 また別のひとつは、その駅前を通り過ぎました下町の辺り。古くから実家で商売を営んでいる、などといった者が多いように思います。実際、やれ味噌屋でありますとか理髪店。そういった中に揚げ物屋の娘がおりました。


 この揚げ物屋、というのが町ではたいそう評判の店でありまして、珠玉はコロッケ。私ぐらいの年代でありましたら、必ず一度ならず口にしたことがあるという代物でございます。

 私はと申しますと、父がこの地区出身の末っ子でありまして、実に食に我儘。坂の上に居を構えました後も母にわざわざそこまで出向かせましたもので、我が家のコロッケと言えば件の揚げ物屋のコロッケにございます。


 さてこのコロッケ。やや小振りの小判型、厚さもさほどなく、見た目には酷く地味な物でございました。しかしひとたび割ってみますと中はうっすら黄金色。馬鈴薯に、料理に明るくない私が想像するに、栗ではないか薩摩芋ではないかと黄色味が混ざりましてたいそう甘い。それ以外は挽肉でありますとか人参、玉ねぎだのの姿は見えません。

 狐色の衣はサクサクと言うよりはしっとりとした舌触り。齧り付きますとじゅ、と油が染み出ましてそれと一緒になんとも言えない甘みが口内に広がります。

 ソースなどは一切不要。配分といたしましてはコロッケ一口につきご飯大盛り二口。ひとつあれば茶碗一杯はいけますでしょう。口いっぱいにコロッケとご飯を詰めまして、味噌汁でごくり、とやりますのはそれはそれは至福のひとときでありました。

 

 母と連れ立ち揚げ物屋に入りますと、店内と言うよりは厨房といった面持ちで、壁天井は燻されたステンレス。天井付近には長年に渡り立ち登った揚げ油の染みが黒ぐろとしております。

 じゅうじゅう、と言うコロッケを揚げる音と香ばしい衣の匂いに包まれまして、店内にはいつも三重四重に折れ曲がりました長蛇の列。

 幼い私が並び疲れしゃがみ込みますと、列に並ぶ御婦人方の立ち並ぶ足が森の木々のように見えます。その向こう、ショーケースには大判小判の如く並びます揚げたてのコロッケ。気力を振り絞り母の手にコロッケが無事収まりますまで我儘を言わず耐えます。

 帰りのバスの中、母の抱えた白い紙袋から漂います香ばしい匂いにごくり、と唾を飲み込みました。ひとつ、ひとつ、と私が駄々をこねますと、普段は厳しい母も、この日ばかりは長時間並ばせたことを不憫に思ったのか、紙袋の口を開けコロッケをひとつ取り出し私に下さいました。バスの窓の外、暮れる街並みと湯気立つコロッケは、今も尚懐かしい光景としてまぶたの裏に残っております。



 随分と前置きが長くなってしまいましたが、件の揚げ物屋のひとり娘と出逢いましたのが、中学生になりました最初のクラスでございます。

 小柄で、こけしの様な丸い頭に短い髪。小さな顔にはやや大振りな黒縁眼鏡をかけておりまして、器量良しと言うよりは愛嬌ある、といった様子。にかっ、と笑いますと矯正の銀の金具が口から除きますが、それを隠そうともしない笑顔は清々しさすら覚えました。

 そしてこの娘、たいそうなお調子者でありまして、代わる代わる男子生徒の腕を取りましては「彼女にして」「付き合って」「好きになっちゃった」などと申します。聞くところによると小学生の時分からこの有り様だったとか。さすがに街の小学校を出た者は進んでいるなぁ、などと思い遠巻きに眺めていたものです。

 彼女があの揚げ物屋のひとり娘である事を聞いたのもこの頃でありまして、かのコロッケを作っているのは私のクラスメイトの親である、とどこに向けましたかも分からぬ鼻を、それはそれは高くしたものでした。


 声高に男子生徒の腕を取りはしゃいでおります彼女をそれとなし眺めておりますと「君、あんな女が好みなのかね?」と、中学校より知り合いました友人に尋ねられます。いや、まさか、などと答えますと「恋仲というのは別にしても、友人になるのは悪くない話だぜ」と友人は申します。

 詳しく聞きますと、何でも彼女の家に遊びに行くと決まって例のコロッケが間食に出るとか。ある時など10人程度で連れ立って遊びに出た際、彼女が下げた紙袋からきっちり人数分のコロッケが取り出され振る舞われたそうで。

 それは何とも魅力的な話だなぁ、と考えている間にも、口の中にはあの甘いコロッケの味が蘇るではありませんか。

 

 しかし、私はと言いますと生来の引っ込み思案。ましてや異性に自分から声をかける、など憚られるような思春期の入口に立っております。私としましては、気紛れに彼女が腕を引いてくれるのを待つのみ。そうしていると、思いがけないところから彼女と近しくなる機会が巡って参りましたのです。

 発端はくっきりとは覚えておりませんが、私は何かの弾みで、彼女の黒縁眼鏡の小さな蝶番を壊してしまいました。彼女は随分憤慨し「弁償してもらいます」と言います。そうやって真正面から詰め寄られた焦りから、私は、いいぞ弁償してやらあ、と返しました。しかし内心はと言えば眼鏡の値段も知らぬまだまだ子供。

 親にも言えぬままの次の日でした。「昨日は興奮してしまって悪かったわ」と彼女は私の机の前でしおらしくしておりました。そんな彼女の顔には昨日までの黒縁眼鏡に変わりまして、細身の枠の眼鏡。

 彼女の態度や、そういったほんの些細な変わり様に妙に心を動かされる程まあ、初心うぶな子供でございました。なにせつい数ヶ月前まで棒を振り振り虫を追っていた男児であります。


 そういってから何かと彼女と話す機会などございまして、一学年も終わりという頃でございます。彼女は私の腕を取りまして「貴方の事を好きになったわ。彼女にして頂戴」と申しました。

 この頃の私はと言いますと、小学生よりそれとなく慕っておりました女生徒がおりました。お互いに想いを交わしたという訳でもありませんでしたが、かくいう女生徒も悪からず思っていてくれたのでは、と自負しております。そしてこの女生徒もまた、同じ教室で机を並べるクラスメイトでありました。

 

 さて、これだけ公然と男子生徒の腕を取り「好きです」「彼女です」と申します揚げ物屋の娘でありますから、ここで彼女に、うん、と言えば忽ちクラス中に知れ渡る事となりましょう。

 しかし、友人からも聞いておりましたように、彼女と恋仲とまでなればもれなくコロッケがついて参ります。いえいえよしんば、ゆくゆく結婚ともなれば、毎日の食卓に朝昼晩とあの敬愛するコロッケが振る舞われるのでございます。

 

 さあ、数年越しの淡い恋心を取りましょうか、それとも今後振る舞われますでしょう無限のコロッケを取りましょうか。


 あい、分かった。


 その後の私はと言いますと、揚げ物屋の娘にうつつを抜かした、と密かに慕っておりました女生徒には愛想を突かれ、その友人どもには酷く責め立てられました。しかしそれも本望と開き直るも、揚げ物屋の娘はと言えばコロッケを揚げる油を変えるかの如く、私の腕から手を解きまして次の男子生徒の下へ。


 そうして初恋とコロッケを失いました中学一年生の冬でございました。



 こういった与太話をご披露いたしましたのは、先日よりしたためておりました恋愛小説の物語を思案していた時、ふと、あの揚げ物屋の娘の事を思い出したからであります。

 いえ、待て。あれはそうではない。かぶりを振り自らの考えを強く否定致しました。私が惚れていたのはあくまであのコロッケである、と。

 それを証拠に、私が思い浮かべますは、はや何十年と口にしていないあのコロッケの、齧り付いた後見えた断面の黄金色や、しっとりとした舌触り、口の中に広がりますあの甘み。幼き日に母と並びました、パチンコ屋の裏手のあの揚げ物屋の壁の色、換気扇より漂います油の匂い。

 しかし如何なる事か、同時にありありと、中学生の私の腕を引いた、あの揚げ物屋の娘の姿が瞼の奥に浮かぶのは。

 そして思いますに、彼女が次々と男子生徒の腕を取りましたるは、あの頃よりすでに実家の家業を継ぐ覚悟の元、跡継ぎを探していたのではあるまいか。いや、それはいくら何でも突飛な考えというもの。



 故郷を離れまして随分の月日が流れました。風の噂では駅前や下町なども再開発によりがらり、姿を変えたと聞きます。もはや会うこともないであろう幾人かの、旧友達の実家が営む店々も、移転でありますとか、暖簾を降ろしましたなどとも聞いております。

 あの揚げ物屋がどうなったのか。今更わざわざ調べようなどとは露程も考えておりません。

 しかし願わくば、あれから彼女が良縁に恵まれまして、あの揚げ物屋を見事に継ぎ、秘伝の味を守り、あのコロッケが今も尚、町の人々の食卓を彩っておりますことを。


 誠にあのコロッケこそが真の日本一のコロッケであり、我が故郷の誇りでございます。

 そして彼女こそが日本一の揚げ物屋の娘なのでございます。



2024年9月25日

故郷より遥か遠き某所にて

ぬりや是々

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