第3話

 天草樹の姿はすぐに分かった。


 大抵の場合学食の隅のテーブルに席をとり、所在なさげに俯いてスマホをいじっているのだ。


 大門秀人はつかつかと歩み寄ると向かいの席にどかっと座った。そして、怪訝そうに上げた樹の顔の正面に薄い封筒をひらひらさせた。


「待たせたな。これで全額」

「……え……」


 樹は信じられないといった表情で封筒を手に取ると、そっと中を覗き込んだ。

 中には皺だらけの一万円札が四枚、入っていた。


「きりのいいところで繰上げしておいた。利子っていうか慰謝料プラスで」


 枚数を確認すると、樹は万札を封筒に戻し、名状しがたい表情になって、テーブルに肘をつき、右手で口元を覆った。

「おい、……そんなに衝撃的だった?」

 苦笑しながら、秀人は聞いた。

 しばらく樹は黙ったままだったが、小声でぽつりと言った。

「返ってくるとは思わなかった……」

「いや、おい、返さないわけがないだろ」

「人に金を貸す時は返ってこないと覚悟するのが常識だろ、って、お前言ってたし」

「だからそれは冗談だって。催促されたときはさ、まだバイトのシフト倍にして一生懸命ためてたんだよ、まあふた月もかかって悪かったけどね」


 樹は俯くと、テーブルの上に広げていた紙を片手でぐしゃりとかき寄せた。


「なんだ、それ。何かのレポートか?」

「いやちょっと……」

 そこで手を止めると、樹は顔を上げて秀人の顔を見た。

 そして、意を決したように言った。


「……これ。ちょっと読んでくれるかな」


「何が書いてあるんだよ。実験レポートならお断りだぞ」

「いいから、とにかく全部読んでくれ」


 秀人は黙って紙面に目を落とした。

 ネットのニュース画面をプリントアウトしたものらしく、焼け落ちたお堂のような写真と一緒に、ある火災事件の記事が載っていた。


―5月15日午前0時過ぎ、東京都M市のI公園で、園内にある「O稲荷神社」から出火し、神社の祠が全焼する火事があった。近所の住民が「公園内の鳥居が燃えているのが見える」と通報し、約1時間後に鎮火したが、祠部分がほぼ完全に焼け落ちた。

公園管理事務所によると、最近はお神酒が盗まれたりゴミが投げ入れられたり、さい銭箱がこじ開けられ中の金が盗まれるなど、かなり荒らされていたという。

 また、神社前で、池の鯉がロープでぐるぐる巻きにされて放置され殺されるという陰惨な事件もあった。

 周辺に火の気がないことから、失火または放火の可能性が考えられている。

 稲荷神社の再建計画はなく、近く取り壊しとなるとみられている―


「読んだぞ」秀人は顔を上げると義務的に言った。

「で、これが何だ?」

「その事件、知ってた?」

「ネットニュースでちらっとね。まったく酷い話だよなあ。狐の祟りを甘く見ると、酷い目に遭うってのに。犯人はろくな死にかたしないな」


「ぼくは知らなかった。つい最近まで」

「そうか。……で、だから何なんだよ?」


 樹は唇を引き結ぶと、じっと秀人の顔を見た。


「たとえば、今お前の目の前にさ」

「うん」

「おかっぱ頭の美少女が座ってるとする」

「ほうほう」

「お前とその子は初対面だ。だが、本当の意味では初対面じゃない」

「ん?」

「そんな感じの話から始めなきゃならないんだけど」

「つまり、お前とその美少女の話ってこと?」

「うん」

「……おもしろそうだな。聞こうじゃないか」


 それから、斜め下を向いてポツリポツリと、樹はあの夜のことを話した。


 最初は目を丸くしてふんふんとおもしろそうに聞いていた秀人だったが、話が終盤に差し掛かるとだんだん眉間に皺が寄って来た。

 そして、狐火で話が終わりになると、ふーん? と短く言い、首をかしげた。


「それで終わり?」

「そうだ」

「で、どっからが創作?」

「だから、全部実話」

「もしも全部が実話なら」

 真面目な表情になって椅子に背を持たせると、腕を組んで秀人は言った。

「おれなら、他人に話さない」


 樹はその真剣な目を見つめると、静かに言った。


「だろうな。だから、大門に話したんだ」


 大門秀人はやられた、と言う風に少し笑うと、問いかけて来た。

「で。その子が狐の化身か何かだと、今も思ってるのか?」

「いや。顔を突き合わせて話をしたのは事実だ。月成あかりは、実在の人間だと思う」

「だろうな」

 秀人は顎を撫でながら、遠くを見るようにして言った。

「こっくりさんをしたと言ってたな。それが本当なら、たぶんそれが発端だったんだろう。こっくりさんてのは、もともと狐の霊を呼び出す降霊術だからな」

「つまり彼女は、160歳の、孤独な狐の魂を呼び寄せたわけか……」

 ため息交じりに、樹は言った。秀人は続けた。

「とにかく彼女は酒の勢いで一人こっくりさんをやった。それで、同じように家を失ってさまよっていた魂を呼び出したんじゃないかな。そして、憑依された」

「……」

 憑依、という言葉に、樹は出会った当時の少女の異様な様子を思い出していた。

「脳味噌の半分を乗っ取られた気分、とか最初言ってた。あとはどこでどうブレンドしたかもよくわからないぐらい、彼女の中で、彼女の身の上と焼け出された狐の状況は調和してたんだと思う。彼女の魂は完全に、狐とシンクロしてたんだ。そういう、滅多にない出会いだったんじゃないかな……」

「でも、稲荷神社で語ったすべてがその女の子の作り話であるという可能性もあるよな。そっちは考えないのか」


 少し間をあけて、樹は答えた。


「……信じられないというなら、それも仕方ないよ」

「ま、丸ごと信じろってほうが、ちょっと無理だろ」

 樹は秀人の顔を見つめると、真剣な声音で言った。

「今から、同じ道を歩かないか」

「今? そのときのデートコースをか?」

「そう、今」

「お前と一緒に?」

「実は今日これから行くつもりだったんだ」

「何でおれが行かなきゃならないんだ?」


 黙り込んだ樹の顔を見て、


「ま、K駅ならここから電車で20分だしな。講義ももうないし。よし、行こうじゃないか」秀人は屈託なく笑って残りのコーヒーを飲み干した。




 あの夜と違って、外はまだ明るかった。日も少しずつ伸びてきて、6時を回ったばかりの公園にはほんのりと夕刻の気配がある程度だった。

 並んで座って、肩に頭を乗せたり一緒にアイスクリームをなめたりしている恋人たちの姿が続く池の傍の道は、豊饒な初夏の森の香りに満ちていた。

「結構あちこちにベンチがあるんだな」きょろきょろしながら秀人は言った。

「ほとんどカップル専門だけどね」樹が答える。

 弁財天を正面に見て、左に曲がると、にわかにあたりがうす暗くなった。樹影が濃いせいだ。頭のはるか上で、ばさばさと鳥の飛び交う音がする。最初の赤い鳥居の手前にも、ベンチはあった。


「ここに座ったんだ」

 樹はベンチを指さすと、ぽつりと言った。

「彼女と?」

「違う。その前、一人で愚痴たれに来た日」

「それはいつ?」

「5月15日」


 秀人は怪訝な顔になった。


「それ、……もしかして、火事の日じゃないか?」

 樹は秀人の顔を静かに見返した。


「そう、火事の日だよ。住人が炎を見て通報した、その一時間前。

 ぼくはここに座って、一人で煙草を吸っていたんだ」

「……」

「おまけに、酒も飲んでた。泥酔してた」


 樹は、ドーム状の噴水がシャラシャラと音をたてる池のほうに目を向けた。


「ネットでこの事件について調べて、気づいたんだ。

 最後にあそこを訪れた日と、出火時刻の関係。

 頭を殴られたよう、というより、全身に氷を浴びたような感じになった」


 そこで言葉を切ると、足元に視線を落とした。


「金を貸すなら帰らないものと思えってお前に言われて、あの日ぼくは思ったんだ。

 大門秀人はぼくにとってどうでもいい人間じゃない、これからも友だちでいたい。   だから、金を返してほしいんだってね。でも、言えなかった。

 すべてはぼくの早とちり、悲観主義のせいだったんだけどね……」


「……」


「こんな小さいことで、と思うだろ。情けない話だけど、俺家族との縁も薄いし、大学の単位もぎりぎりで、だけど留年なんてさせてくれそうもないしそしたら中退だ。 で、何でも話せて信用できる友達何てお前ぐらいしかいないんだよ。

 で、さ。なんかもうむしゃくしゃして、その夜酒を持ってここにきて、このベンチでガンガンに飲んで、煙草吸いまくって、それから……」


 秀人の先に立って、樹は目の前の赤い鳥居をくぐった。


「ここをこんな風に、一人でふらふら歩いた。手に煙草を持ったまま」

 秀人は無言で後を追いかけた。ただならぬ空気を樹が全身にまとっているのを感じながら。


 やがて行く先から、炭のようなにおいが漂ってきた。左手に、すすけた石の鳥居が見えた。

「……まだ、匂いが消えてない」

 石段の上を見ながら、樹は独り言のように言った。見上げた先に、ぼろぼろに焼け焦げた稲荷神社のお社があった。

 樹は社に向かい、深く一礼した。

 秀人も並んで、あわてて頭を下げた。頭を上げると、樹は隣で大きめの紙の手下げから、ふわりといい香りのする紙包みと、丁寧に風呂敷で包まれた日本酒の瓶を出していた。そして、両手で捧げ持つようにすると、石段を登り、覆屋の中に入った。


 二人はいるのがやっとの、狭い社。正面には、煤けたお狐像たちが、まるで雛壇のひな人形のように並ぶ小さな祠があった。


「……おれのせいなのか、全部。そういうことか」


 秀人は押しつぶしたような声で、背後から声をかけた。


「ぼくがせっかちで短気で、臆病だったのがいけないんだ。バカだった。友人を信じることができなかったばかりに、こうなった。もう、どうしようもない。たかがこんなことで。取り返しがつかない。ぼくが悪い。なにもかも」


 樹の声は震えていた。


「……でも、お前のたばこが原因だとはまだ、限らないだろ。記事読んだ感じでは最近この稲荷荒れ放題だったみたいだしさ」

「泥酔していたんで、よくは覚えてない。ここに座り込んで愚痴るだけ愚痴ったのは覚えてる。あとは、気がついたら家に帰って寝てた。それだけなんだ。言い訳はできない。ここにいた誰もが」祠の中を見ながら、樹は言った。

「誰もが見ていた。……きっと見てた。きっと、すべてを」


 秀人は黙り込んだ。そして、あたりを見廻した。


 黒く焼け落ちたお社の中には、ただどんよりと動かない空気があった。


 息詰まるような樹の悲しみから逃れるように、秀人は少しずつ後ずさりながら周囲を見回し、いつしか覆屋の外に出ていた。そこでふいに足元を見て、「あれ」と声を上げた。

「もう一体あるぞ、ここに」

 そうして、入り口横の地面に転がっていた、白い陶器の狐像を拾い上げた。

 樹も社を出て、歩み寄った。


「これだけきれいだな、洗ったみたいに」


 それは、口元と爪の先をオレンジ色に塗られた、お洒落なちいさなお狐様だった。


 樹の脳裏に、少女のオレンジ色のネイルが浮かんだ。


「どこも焦げてない」

 そうっと両手で、樹に手渡す。

「……」

 樹は白い狐像を胸に押しつけるようにして、しばらく俯いていた。押しつけた胸の場所から流れ込む何かが静かに胸を満たし、言葉を奪ってゆく。


 囁くように、横から秀人は言った。


「もしも、さ。

 もしもおまえが彼女に、自殺をやめるという決心をさせられなかったら、今頃ここに、これのかわりに、狐の霊と無理心中させられた彼女の遺体が転がってたかもしれないんだよな」


 樹は目をしばたたかせた。


 黙って両手に大事そうに狐を抱いたまま社に入り、そっと祠の観音開きの扉に手をかけた。

 かかっていたと見えた鍵がことりと開き、扉が開く。

 樹は可憐な狐像を祠の中にいれ、黒焦げの狐たちの中央に置くと、そっと扉を閉めた。そして再び手を合わせた。

 やがて、お神酒と、紙包みを開いた中から出て来たいなりずしを、祠の前にそなえて、ぺたりとその場に座り込んだ。


 さらに、石の床に手を置くと、膝を追って正座しなおした。


 秀人も、背後に正座した。


「お前さ」

 樹は前を向いたまま言った。

「もし本当のことなら、人に話さないって言ったよね」

「うん」

「ぼくが話したのは、ほんとうに全部、おきたことだからだ」

「……信じるよ」

「このまま、誰にも話さず、誰にも知られないで、誰からも責められないでなかったことにして生きていくのが、辛すぎたから、話したんだ」

「ああ」

「懺悔したいんじゃない。許されたいんじゃない。取り殺されるならそれでいいんだ、それだけのことをしたんだから」


「そうか」


 ひーよっ。屋根のはるか上で、トラツグミの鳴き声がした。


「誰かに、ただ、知ってほしかった。ぼくがしたことを。

 そして、……あの子のことを」

「でもおれは忘れっぽいから、明日か明後日にはみーんな忘れるよ」


 樹は秀人を振り向いた。樹の頬には、涙が一筋こぼれていた。


「聞いたことは聞いた。でも、どうでもいい話だ。ここがどういう原因で焼けたかなんて誰にもわからない。お前がどう思おうと、おれは自分にも責任があるだなんてこれっぽっちも思っちゃいない。けど、お前が忘れちゃならない言葉は一つだけだ。それは、狐の魂を背負った少女が、お前だけに残した最後のことばだ。そうだろ」


 樹は茫然とした表情で話を聞いていた。そして、ゆっくり頷いた。


「その重みぐらいは、自分のものにしとけ。お前の荷で、宝だ」

 言い終えて乱暴に立ち上がったそのとたん、ごんと音を立てて、折れ下がっていた柱に頭がぶつかった。

「いってええええ」

 両手で頭を抱えた秀人を見て、樹は思わず噴き出した。

「うああああいてえええええ」

「大丈夫か」

「大丈夫じゃない」

「頭はしっかりしてるか。せっかく名文句で締めくくってくれたのに」

「うるさい」

「今、何の話してたか覚えてる?」

「ええと」秀人は大げさに考え込むふりをした。


「……なんか、お前の初恋の話だったよな。違ったっけ。あれ、頭打ったせいかな、もううまく思い出せないぞ」

 頭を抱えたまま、秀人は意味ありげな表情でこちらを見た。


「ま、気を落とすな。もし実在するなら、またどこかでニーハイの美少女にも会えるだろ。お前の言葉を借りれば、余計なことは考えず、飯食って明日明後日と生きていくならな。 

 もしも再会できたら、そうだな。そのときは、とりあえず、真っ先におれに教えてくれ。三人で飯でも食おうや」

 言うだけ言うと、樹にくるりと背を向けて、秀人は石段を降りていった。



 樫や楢の枝が頭上でそよぎ、雨の降るときのような音を立ててざわめいた。

 ぱらぱらぱらと、なにかの実が焼けた屋根を叩く。

 まるでノックでもするように。


 樹は静かに上を向いて、虚空に呼びかけた。


 この世の物事にはきっと必ず意味があるはずなんだ。このまま終わりになるはずがない。これはきっとぼくの波乱の人生の伏線だ。


 ぼくらはいつかまたきっと出会う。


 もしまた会えたら、そのときは、初めましてと言おう。そして、彼女が何も覚えていないなら、そのときは改めて自己紹介して、お腹空いていませんか? って言うんだ。そして、美味しいお寿司をご馳走したいんですって言う。どんなお寿司が、好きですか?……


 取り殺されてもいい、無視されるのでもいい、笑ってもらうのでもいい。

 月成あかり。

 きみが生きているなら、また会えるなら、この世にどんな不思議があっても、それがどういう意味があってもいい。きみさえ生きているなら。その心が平和であるなら……


 そのきみの手を握るために、ぼくは罪の中を生きる。




 ねえ。そのぐらいは、許してもらえるだろう?



                                <了>


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誰も知らない 水森 凪 @nekotoyoru

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