第2話

 夜の公園は霧をまとっていた。


 乳白色に霞むメタセコイアの森のシルエットを池の向かい側に見ながら、樹と少女は並んで遊歩道をそぞろ歩いた。ふと下を向いてごそごそしはじめたと思ったら、彼女の手には日本酒の小瓶があった。


「飲む?」瓶をちゃぽちゃぽ揺らしながら聞いてくる。

「きみ、いくつなの」

「160歳」

「どうしてもそう言いたいわけか。なんか理由があるの?」

「さあ。……自分でも、よくわかんない」首を傾げながら、少女は頭を掻いた。

 樹はその手から瓶を受け取ると、四分の一ほど残っていた液体を一気に喉に流し込んだ。

「へえ。……強いんだ」

「きみこそ、あの店のトイレでこれだけ飲んだわけか」

「アルコール類は子どものころから飲みなれてるから」

「どういう環境なんだ、それ」

「いつでも手の届くところにたくさんあったからね。お客さんが、置いてってくれるの」

 白濁した空を振り仰ぎ、歌うように少女は言った。

 樹は思い切って口を開いた。


「言いたいことはある。死んじゃいけない。理由がなくちゃ生きてたらいけないなんてそんなの傲慢だよ。とにかく死なないでください」

 

 少女は押し黙った後、柔らかな声で言った。


「ありがとう。あれ、あなたでしょ?」

「ああ、……え?」

「ひとりだけだった。やらせてくれ、ばっかりのネットの中でまじめに、あんなふうに言ってくれたの。死んじゃダメだって。嬉しかった」


 どうにも腹のすわりが悪く、樹は話をそらした。


「でさ、あとどのぐらい生きられるかんじ?」

「ふつう」


 つかみどころのない返事だった。


「お礼言われたって、そんな返事じゃ、晩飯譲った甲斐がないな」


 まだ足元はおぼつかなかったが、店の中でのハイテンションは一応収まったようで、少女は暗闇の中をふわりふわりと夢見るように歩いた。池の周りのうすぼんやりした灯りは間隔が広く、霧のせいもあって、よくよく見ないと石ころに躓きそうだ。灯りの少ない夜の公園で、白いワンピースでひらひら歩く彼女は、遠目には少女の姿の浮遊霊のようにも見えるだろう。


「今はおいしいお酒ともらった晩御飯で火がともってるけど、さめたら体中真っ暗になりそうだから、先のことはわかんないの」鼻声で歌うように、少女は付け加えた。

「いなりずしなら、ひとつしか食べてないだろ。お腹空いてるならもっと食べれば」

「とっとく」

「お酒もとっとくつもりだったの? 全部飲んじゃって悪かったね」

「いい。どうせもうじき消えるんだし」


 まだそういうことを言うのか。樹は本気でがっかりした。そして、腹を据えた。


「じゃあさ、どうせ死ぬんだろ。ぼくのお気に入りの場所教えてあげるから付き合ってよ」

「お気に入り?」

「この先なんだ。ぼくの夜中の散歩コース」乳白色の闇を指さして言った。

「……」


 少女は漆黒の視線を霧の先に向けて黙った。


 ……いつもの散歩コース。


 あの道を行くというのは、闇に向かうことだ。目の前の闇よりもさらに深い闇に。それはある意味、自分の中の闇でもあった。


「いいよ」


 そうして、連れだって夜の遊歩道を歩いた。


 木立の向こうに、中ノ島の弁財天を見ながら、池の端をめぐる。メインロードから離れて、池に沿った木立の中の細い道を進む。数少ない街路灯も、木立の中に頭を突っ込んで弱々しく光るばかりだ。


 やがて、霧の中に小さな赤い鳥居がぼうと現れた。


「ここ、よく夜に来るんだ。と言っても前に来たのはひと月ぐらい前かな。公園中で一番暗い場所でね。この先に小さな稲荷神社があるんだ。お社の奥には、白い陶磁器で作ったようなお狐様がたくさん並んでる。あまり人が寄り付かないけど、何かの気配が濃くて、ぼくは好きなんだ」

「何かの気配?」

「たくさんの何かが、見えない何かが、ひそひそ話をしているようなしんとした様子がさ。静かだけど、にぎやかでもある、そんな感じ」


 鳥居の前に二人で立つ。鳥居の奥の道は、池に沿って湾曲しているうえに闇と霧に取り巻かれ、見通すことはできない。


「以前はたくさんの鳥居が並んでいたんだよ、池に沿ってね。でも古くなってどんどん傾いて、危ないからって次々撤去されちゃって、今は手前のこれと奥の一つだけ。ずいぶん寂しくなったな」

「……よくこんな場所に、夜中に来たりするの? どうして?」

「どうしてかな」


 樹は足元の石を蹴った。こん、と軽い音がしたとたん、小さなヒキガエルが足元に飛び出し、そのまま一跳ね二跳ねして街路灯のぼんやりした光の輪の外に消えていった。


「好きなんだよ。なんていうか、自分の気持ちと同調するっていうか、ああもう世の中なんて、人生なんて、って落ち込み始めると、この風景とこの道に誘われるんだ」

「……それぐらい、いやなことがたくさんあるの」

「まあ、きみと反対方向かな。

 家族がどうも好きじゃなくてさ。別にそれはそれでいいんだけどね、両親にそれぞれ恋人がいたって、別居状態だって。でも社会人になるまでは一応金もらわないとやってけないし。都合上、いい息子を演じて大学院出るまでの生活を保障してもらってるのが情けないっていうか。

 あとはそうだな、心を許せると思ってた唯一の友人が、電気とガス止められそうだっていうから金を貸したら、そのまま返してくれなくてさ。

 ちょっと話に出したら、そういうのはかえってこないと覚悟して貸すもんだろとか開き直られて、……まあ、こうして口に出すと、ほんとに小さい話なんだけど」

「ううん、わかる。信じていた人に裏切られるのは、悲しいよね」


 その言葉には、なにか実感がこもっていた。


 霧が二人の周りでゆっくりぐるぐる渦を巻き始めた。鳥居の向こうを見ながら話をしていると、このまま異界に連れ去られそうな危うい気分になってくる。現世に自分を引き戻すように、樹は続けた。


「特にいやなことがかさなったときは、酒飲んで、もうわけがわからなくなるまで飲んで、ここの前にきて愚痴言って、それから池を眺めてすごすんだ」


 そのとき、少女の細い腕が樹の腕に絡められた。それも、かなり強い力で。

 樹の胸がどきん、と高鳴った。


「あなたの名前、聞いてなかった」

「そうか。……そうだね」


 樹は息を吸い込んで、少女の顔を見た。


「じゃあ、ぼくは天草樹」

「わたしは、月成あかり」

「つきなりあかり。素敵な響きだね」


 あかりの顔は、ひな壇の雪洞のように、青白くふうわりと光って見えた。


「この先へ行んだね?」


 鳥居の向こうの真っ暗闇を指差して、あかりが改めて聞いてくる。それまでとは違って、声のトーンがひときわ低い。何か大事な決意の時に人が出す声音に似ている。と、樹は思った。


「そう。怖いならやめようか?」

「ううん。一緒に行こう」闇を見つめながら、少し震え声で、決心したようにあかりは言った。

「よし。一歩踏み出したら、後戻りはなしだよ」


 ……怖いのか。これはいい兆候だ。


 本気で死を決心した人間は、樹海の闇を恐れたりしない。死ぬ死ぬと言っているのが勢いだけなら、この先でちょいと自分が姿を隠せばきっとあわてふためくだろう。闇の中で必死に自分を探すだろう。怖がらなかったら、……その時はお社の中で、彼女の身の上話でもじっくり聞けばいい。樹はそう思い、自分の計画に心の中で満足した。


 生暖かい風が吹いて、白濁した空気を二人の周りに吹き寄せる。体を寄せ合い腕を組んで、天草樹と月成あかりは鳥居の下をゆっくりくぐり、池の端の道を歩きはじめた。


「うちは自営業だったの」

 問わず語りに、あかりはぽつりと言った。

「たくさんの人が出入りしていて、父は魂のつながりを大事にする人だったから、困った人がいればお金を貸してあげたり、食い詰めた人がいれば泊めてあげたり相談事を聞いてあげたり、お酒を振舞ったりしてた。

 でも結局、資金繰りがうまくいかなくなって、知り合いにお金を持ち逃げされて……」

「店はつぶれたの?」

「やるだけのことはやったんだけど、もう疲れたって両親が言っていたの、夜中に聞いたのがひと月とちょっと前……」


 頭上に垂れ下がる枝えあだの間から、ひーゆっ、と笛のような寂しい音が響いた。


「……なんだろう、今の」

「トラツグミよ。 鵺、とも言われてる、夜鳴き鳥」

「よく知っているんだね」

「友だちだから」

 え、と言いかけたとき、ばしゃりと大きな音を立てて池の鯉がはねた。

「あれも友だち?」ふざけて聞いたら

「そうよ」

 さらりと答えて、彼女は先を続けた。物語の中にいるような気持ちになりながら、彼女の返事に何の違和感も抱かない自分は、もうあかりの世界に取り込まれているのかもしれない、と樹はぼんやり思った。


「弟に妹におばあちゃん。知り合いや友だちも同居していた、大家族だった」

「へえ」

「ある夜帰ったら、全員、消えちゃってた。わたしを残して」

「消えたって、夜逃げ?」


 ひぃーゆっ。寂しい鳴き声が、霧の中に続く。


「いなくなったの」


 すっと霧が晴れると、さらに大きな鳥居が眼前に現れた。朱に塗られていない、石造りの重厚な鳥居だ。


「ほら、着いた。……ん?」


 見慣れたはずの鳥居が、闇の中とは言え異様に黒ずんでいるのに樹は気付いた。ぷんと、焦げ臭いにおいが鼻をつく。


 呆然と鳥居の奥を見つめる。数段の階段を上った先には、幅2メートル奥行き4メートルぐらいの、赤い木組みの小さな稲荷神社のお社が、覆屋(おおいや)に覆われてある、はずだった。だが、その姿はあまりに黒く、周囲の闇に溶け込んでいる。


 おそるおそる、二人並んで、社への七段の階段を上がった。


「なんだ、これ……?」


 赤い覆屋の枠を残して、お社の中が、祠が、……焼け落ちているではないか!


入口の両脇に狛犬のように立つ石造りの狐像も、黒く焦げている。見慣れた何もかもが、ただ、炭の残骸と化していた。


「そんな……、いつの間に……」


 あかりは焦げた狐像に静かに近寄った。そして、ふっくらとした尻尾の部分をさすって、手についた煤を見ていた。


「……知らなかった。こんなになってたの。いや、知ってたらこんな場所には……。ごめん、ほんとに、どうして、いつの間に」


 ぞうっと、背中を寒気が駆け上った。これは、この風景は、現実なのか?

 彼女は腕に下げた鞄をさぐると、いなりずしのパックを取り出した。

 そして、残っていた3つを取り出すと、焼け焦げたお社の中の、高さ15センチに満たない小さな陶器のお狐様たちが転がっている祠の前において、手を合わせた。


「食べてね。みんなで分けて。天草樹くんが、くれました」


 樹ははっと顔を上げた。

 あかりはどこか凛とした表情を浮かべて、中空を見つめていた。


「わたし、遊びに行っていたの」


 舞台芝居のような声音で、静かに言う。


「家の中の空気があんまり暗くて、居づらかったものだから、夜の夜中に遊びに出ていたの。最近いつもそんな風に出歩いてたの。いくら怒られても、やめなかったの。

 でも今考えると、わかっていたような気がする。

 ……あの夜は。

 帰っても、家はもうなくなってるってことが。家の中にいた兄弟姉妹親戚両親、その誰一人、もういないかもしれないってことが」


 急に風が吹いて、社の周りの木々を潮騒のような音を立てて揺らした。


「だから、遠くから家の方向に炎が見えたとき、わたし、ああやっぱりって思った。

 それでも、もしかしたら違うかも、別の家かもと祈りながら駆け戻ったの。

 高い木に囲まれた中で、炎はまっすぐにうちから上がってたわ。炎を背景にして、鳥居はいつもより大きく立派に見えた。

 ぱちぱちと木がはぜる音がして、周りの木も焦げていた。何の音も他にはしなかった。悲鳴も泣き声も、サイレンの音もない。わたしの世界のすべてが今、燃え落ちているのに。

 ああ、誰も知らない。わたしたちがここに生きていたこと、今燃え落ちてゼロになってゆくこと、誰も知らないんだと思った。家が燃え落ちてゆくことよりも、それが一番悲しくて、寂しかった」


 それきり、彼女は黙った。樹はごくりと空唾を飲み込んだ。


 そして、ああ、あの酒、あれをとっておくんだった、そうすれば今ここで供えられたのにと、あまりに重いなにかから逃げるように、そんなことを考えていた。

 目の前のお社は炭の匂いを放ちながら、ただぽかりと黒い口を開けている。


「きみ……」


 喉がひりついて、あとが出てこない。

 彼女は両手を広げ、なにもない空間を掴むようにした。


 愛しげに。寂しげに。


 ゆらりゆらりと踊るように、真っ暗な空間で両手を広げる彼女の不思議な動きを、樹は茫然と見ていた。


「たくさんの、たくさんの物語を、たくさんのひとがおいていったの。祈りや、悲しみや、恨みごとや、夢や、お酒や、もちろん、喜びも。もう何年も、受け取り続けてきたのに」


 焼けた天井に向かってそう言うと、彼女は樹を振り向いた。光源がないのに、つんと中高な顔が闇の中に白い花のように咲いている。朱に近いオレンジ系の紅がひかれた唇が、艶めかしく光る。


 ここが、彼女の、家…… 160歳の彼女の……


 樹は石のように立ち尽くしたまま彼女を見つめた。そしてひとつ頷くと、いきなり月成あかりの右手を上から握った。

 両手で、力を込めて。


「生きてくれ」


 背後でまた、ぱしゃりと音がした。


「きみだけでも生きてくれ」


 ……生きるって、何なんだ? と思いながら、言わずにはいられなかった。


「一人ぼっちになっちゃいけない。一人ぼっちで、消えちゃいけない」


「……そうだね」

「本当に、そう思ってる?」

「いなりずし、おいしかったから」


 彼女はほんのり微笑んだ。


「みんなにも、わけられたから。だから、もういい。大丈夫」


 ああ。


 饒舌だった、あの気配。闇の向こうにあった、あのにぎやかでしんとした気配。

 もう、何も聞こえない。


 涙が溢れそうになった。奥歯をかみしめて、樹はそれをこらえた。


「あなたは、だいじょうぶ?」

「……うん」

「ひとりでも、生きられる?」

「もちろんだよ」

「明日のことは考えないで、今日はきょうのご飯を食べて、犬みたいに、猫みたいに、鳥みたいに、魚みたいに、森みたいに……」

 白い顔を縁どるおかっぱが、笑顔の周りをふわりと揺れた。

「……なかなか、いいことを言ったんだな。ぼくは」

「そうよ」

 小さな頭が、樹の胸にことんと当った。


 彼女の体からは、ただみずみずしい、森と霧との香りがした。樹はその背に腕を回した。体の奥から、やさしい声が静かに響いた。


「このお社がなくなっても、わたしの、わたしたちのことを忘れないでね」




 少女と樹は、焦げた鳥居の下で別れた。

 振り向かないで行って、と言われたので、樹はまっすぐ前を見て歩いた。もしかしたら異界の罠かなにかに囚われて歩いても歩いても社の結界から出られないんじゃないかとも思ったけど、そのときは振り向いて、彼女のもとへ駆け戻ればいいと思っていた。


 鳥居をくぐると、霧はもう晴れていた。池を右に見ながら細い道を歩く。しんと青白く光る月が池の面に月光の道を作っていた。ひーゆっと、ひときわ高く鵺が鳴く。振り向きたいというジンジンするような衝動をこらえながら池にかかる橋を歩いた。 

 コーン、という狐の鳴き声のようなものを耳にしたとたん耐えきれなくなって、樹は橋の中ほどで後ろを振り向いた。

 鋭角的に折れ曲がる橋の左手奥には、弁財天。そして視界の中央、こんもりと木々の茂った祠のあるあたりから、狐火と言われる小さな光がふわりふわりと上に向かっていったのが、


 樹がたぶん「彼女」を見た最後だった。




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