3.帰宅 (最終話)

 とにかく、絶対アレをどうにかしなきゃ。

 バイトが終わり、上がる準備をしようとすると、

「早く帰れ帰れ」

芦田先輩がそう言って、ボクを追いやった。

「締めの作業やっとくから」

「あ、ありがとうございます」

「今度一番デカいサイズのバーガー奢れよ」

「はい、それはもう。ありがとうございます。これからはこんな事が無いよう、ちゃんとします」

ボクはぺこぺことお辞儀し、お言葉に甘えてさっさとロッカールームに引っ込もうとした。そんなボクの背中に芦田先輩が言った。

「今夜はカノジョといちゃいちゃしないでちゃんと寝るんだぞ」

「あ、はい」

ボクはもごもごと口の中で「あざっす」とか「どうも」と言って、足早に店を出た。


 そうだ。

 ボクは意地悪のような赤信号を見上げ、焦って粘ってくる唾を飲んだ。自分で言った言葉が、自分の声で頭の中でリフレインされる。

『これからはこんな事が無いよう、ちゃんとします』

そうだ。ちゃんとしなきゃ。


 いや、それってこれが初めてだろうか?

 ボクでありボクじゃないような誰かの声が頭の中で響く。

 今までも何度か、「ちゃんと対処しなきゃ」って思ったことはあったような気がする。

 正直、芦田先輩のコワい話を聞いた事は、ただのきっかけでしかなかったような気がしてならない。元々、ボクの中に見えない溜め池のような不安はあって、ボクはその淵に立ってそれを見下ろしながら、でもずっと見ないフリをしてきたんじゃないだろうか。

 でも、やっぱり見ないフリなんかしちゃいけないんだ。だって、見ないフリをしたって、無くならないんだから。

 いよいよ、なんとかしなきゃ。


 ボクは勇気を手に握りしめ、アパートのドアを開いた。


 狭い部屋だ。一人で住むには十分かもしれないけど、アカネちゃんの為を思って無理矢理ダブルベッドを選んだから、狭い印象を受ける。

 でもいいんだ。だって、アカネちゃんが居てくれるんだったらそれで。


 ボクはクツを脱いで、スマホやカギを棚の上に置いた。つかつかと、茶色いフローリングの上を進む。


 狭い部屋だから、窓の様子はすぐに分かった。


「ああ……」

ボクの喉から漏れたのは、言葉の形にならない声だった。人間をギュッと絞ったら出たような、言葉。


 窓際に置かれた花瓶の下に、何かの動物の肉塊や毛の束が落ちている。あとは、散らかされた虫の羽根。どれも原型がない。食べて散らかした跡なんだ。

 きっと。窓辺に近づくモノは全部、危ないんだろう。

 ボクは、窓際に置かれた花瓶を見た。

 ただの美しい枝だ。赤いつぼみが幾つか閉じている。枝は角度によっては黒く見えるし、恭しく仰ぎ見れば白く見える。不思議な色の枝。そこに赤いつぼみが幾つか。

ただそれだけ。

 ただそれだけに見える。

 花瓶の下に、あらゆる―—目を塞ぎたくなるモノが落ちていなければ。


「そっか、そっかぁ……虫を食べる習性の花とかじゃなかったんだ……」

ボクは自分でそう言いながら、自分の独り言にすらウソをついている自分に気づいた。本当は、今の独り言の頭やお尻に、『やっぱり』という言葉がくっついていた。言葉として『やっぱり』を言えなかったのは、何故だろう。


 あの日の夜。

 月が白くて、綺麗な夜だった。

 アカネちゃんと二人で手を繋いで、誰も居ない夜の街を散歩した夜。


 人の居ない庭。

 なんだかとっても綺麗に見えた木。

 その時、ふいにアカネちゃんの白い指がするりと伸びて。

 ぽきり、と折った枝。


 「これ、綺麗だね」

そう微笑んだアカネちゃんの美しさを、ボクは忘れることはないだろう。あの日の夜の美しさを思うだけで、ボクは怒濤のスピードで絵を描き上げられてしまったんだ。何枚も、何枚も、何枚も。

あれは真実に美しい。うん。あれが世界のどこを探しても見つからない、研ぎ澄まされた純粋な真実の美しさだ。きっとそう。


 とはいえ。

 どうもこの枝、まずいようだ。

 ひとまず。とりあえず。


「これ絶対捨てた方がいいよな……」

もはや断固としてそう思う。そして決意をする。

「うん、絶対に捨てよう。流石にどう考えても危ない気がする」


 ボクの意思は固かった。

 だが。


 次の瞬間、ボクを包んだのは蜂蜜の匂いのする湯気だった。

 ふわり、と温かくボクを包み、むわり、とボクをゆるく囲う温度。鼻から吸う酸素の全てが、蜂蜜の色に染まる。

「おかえりぃ」

花が笑うような、可愛い声。ちゅっ、とボクの右耳が啄まれる。

「あ、うん。ただいま」

「バイト、お疲れさま」

「うん、疲れた」

「アイス買ってあるよ。オレンジの奴」

「嬉しいなぁ」

「嬉しい?」

「うん、嬉しい」

「あは、買ってよかった。あのね、抹茶の奴と迷ってオレンジにしたんだぁ」

「そっか、ボクオレンジ大好き」

ボクってオレンジ好きだったっけ? 抹茶のが好きだったような気がするけど、もうどっちでもいいや。


 ボクは振り返った。

 全身うっすらと火照ったアカネちゃんが、ボクの大好きな抹茶色のパジャマを着ている。お風呂上がりのピンク色のほっぺたはすべすべの和菓子のようで、大きな黒い目がボクを見上げている。横髪から、ぽたりと滴がひとつ垂れた。

 それだけで、ボクはもう十分だった。今日一日の疲れも、憂いも、心配ごとも、嫌な客のことも、TODOリストも、やるべきこと、なすべきこと、全部吹き飛んでしまう。


 ボクはアカネちゃんを抱きしめた。しっとりした温かい身体をぎゅっと包む。

「えへへ、どしたのぉ?」

「ううん、なんでもない」


 あれ。

 なんでもないんだっけ?


 ボクは暫し考えた。いや、何かしなきゃいけなかったような――ふと、目に入ったのは黒い枝だった。

 あ、そうだ。


 ボクはアカネちゃんからそっと離れ、彼女の首にかかったタオルで彼女の髪を拭いてやりながら、言った。

「あのね、今日は一つ提案が」

「提案?」

「あーううん、お願い」

「お願い? なぁに?」

「うん、それがね。あのね、この間持って帰ってきたあの枝。あれをね」

「可愛いよね!」

「え?」

ボクは。

アカネちゃんのつやつやとした目をボクはまともに正面から見てしまった。

「あのお花の色、ホント可愛くて綺麗で大好き。だから」

アカネちゃんはにっこり笑った。

「ずっと飾っておきたいな」


 「あぁ……」

その時ボクから出た「あぁ」という声は、言葉にならない何かだった。人間をギュッと締め付けると出る生理的な音。


 ボクの頭の中の思考回路の河は、急激に飴が流し込まれたようにどろどろになっていく。流れが止まる。うん、なんか、今目の前にアカネちゃんがいて、和菓子みたいなほっぺしてて、黒い瞳が百貨店の高級チョコレートみたいにつやつやで、なんかかわいくて、うん……。


「まあ、ならァ……しょうがないかあ」


 うん、しょうがない、しょうがない。

 僕はアカネちゃんをそっと抱きしめた。なんて柔らかいんだろう、いい匂いなんだろう、甘い匂いなんだろう。


 「えへへ、今日どうしたのぉ?」

「ううん、何でもない」

「あ、そだ。さっき言ってたお願いってなぁに?」

「えーなんだっけ。忘れちゃった」

「あはは、忘れんぼさんだ」


 彼女の髪の香りに鼻をうずめていると、いろんな事がどうでもよく思えたし、「なんかまあ、色々あった気がするけど、また今度なんとかしたらいっかぁ」って気持ちになった。


 ぱさり、と乾いた音が窓の方で聞こえた。

 きっと枝葉か何かが風にざわめいたんだろうなあ、と思った。でもすぐに、

「どしたのぉ?」

アカネちゃんのとろとろに甘い声が聞こえて、ボクは何もかもどうでもよくなってしまった。

「なんでもないよ」

ボクは微笑んだ。


 だから、ただ、ただ、幸せだった。



<終>

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【全3話】でもまぁ、カノジョが可愛いから別にいいか 二八 鯉市(にはち りいち) @mentanpin-ippatutsumo

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