第5話 魔者

 夕日が山脈の上に浮かんでいる。

 オレンジ色の光が山肌や成島の街を照らし、もうじき夜が来ることを人々に伝えていた。

 経真は、鈴夏に今日は家に来なくていいと予め伝えておいた。仕事だと分かると、鈴夏は酷く心配そうな表情に変わった。

 あんなことがあったのだ。どうしても敏感になってしまうだろう。

 でも、今日は魔物と戦いに行くわけではないと言ったら、鈴夏は安心した様子だった。「くれぐれも気を付けて行ってきてよ」、幼馴染は念を押すように経真に言った。

 現在時刻、午後五時十七分。予定ではあと十分程で日高と真樹奈がここ、藤明院にやってくる。

 経真は待合室で地図を広げていた。成島市の地図だ。その地図の数か所に付箋が貼ってある。

「山って呼べるところはこの三か所だな……。この内のどこか、か」

 北にひとつ、西にひとつ、南西にひとつ。この中で最も標高が高いのが南西の対子山といつざんだ。大昔は双子の山だったが、年月が経ってひとつの山になったと伝えられている。標高802メートル。元旦の朝には初日の出を見る人で賑わう。経真も小学生のときに両親に連れられて登ったことがある山だ。

 経真は念のため、戦法衣に着替えていた。単純な捜索や探索ならジャージでもいいかもしれないが、召喚師が呼び出した魔物と出合ってしまう可能性もある。鈴夏にはああ言ったが、備えはしておいたほうがいい。

 一昨日のように、何もできないままお荷物になるのだけは避けたかった。

 土煙のせいで何をしたか見えなかったが、一瞬で勝負を決めた日高。彼が凄いのは勿論だが、同行していた真樹奈も魔物に平然と対応していた。あのふたりと自分とでは、退魔師としての実戦経験値がまったく違う。素直に悔しかった。

 チャイムが鳴った。

「あ、来たか」

 玄関の戸を開けると、日高と真樹奈、そしてスーツを着た二十代の男性が立っていた。

「明禅くんこんにちは~。来たよ~」

 まるで遊びに来たかのようなテンションで真樹奈が言う。真樹奈はナイロンジャケットにブルージーンズ、日高は神職の狩衣を纏っていた。烏帽子は被っていなかった。傍からだと日高は神社の職員に見えそうだが、陰陽師という実体を知った経真の目にはそうは見えない。彼の退魔師としての正装なのだ。

「遠いところから来て頂いてすみません。どうぞ、上がってください」

 三人を待合室に通した。

「趣があるお寺じゃね。時間があったらゆっくり見て回りたいところなんじゃけど」

「古いだけで、面白味のない寺ですよ?」

「謙遜しなさんな。ウチ、こういうワビサビを感じる場所結構好きなんよ。今度時間作って遊びに来ようかな」

「はは、そのときはうちの寺だけじゃなくていろいろ案内しますね」

「ほんま? 奥羽って実は来たことなかったから、観光してみたかったんじゃ。食べ歩きしてみたいのう」

「美味しいお店、いっぱいありますよ。食べたいものを言ってもらえたら、見繕っておきます」

 そこでずっと口を閉じていた日高が声を発した。

「おい、貴様らそろそろ無駄話をやめろ。時間が限られているんだ。仕事の話に入るぞ」

「あ。ごめん……」

 経真は謝りながら、地図をテーブルの中央に寄せた。

「これがここの地図か」

「うん」

 仙台から来た三人が地図を取り囲んだタイミングで、経真は説明を始めた。

「これが成島市です。そして例の召喚師は、この市内のどこかの山に潜伏している可能性が高いと、おれは思っています」

 日高も真樹奈も支部で予め話を聞いているのだろう、この時点で質問は出なかった。

「市内にある山は三つ。赤の付箋を貼ってある場所です」

 テーブルの四人の目が付箋を貼った箇所を移動する。

「場所、これくらいしか絞れないんですけど、これだけの情報で見つけられるものなんですか? 今更なんですが」

「普通、世界と外界を繋ぐときは空間に異常な磁場や湾曲が起きる。さらに、魔物を召喚するとその場に特徴的な『魔』の残滓が残る。それを探せばいいだけの話だ」

 当然、といった風に日高が言う。それを聞いて経真は安心した。

 それで。と日高が続ける。

「発見したらどうする気だ?」

「どうするって……」

 そこはよく考えていなかった。召喚はやめてもらわないといけない。となると、その場で説得する、ということになるだろうか。

 もし説得に応じなかったら?

 魔物じゃない、一般の人に自分が力で訴えることはできない。警察に連れていっても、こんな案件、扱っている訳がない。だったらどうすればいいのだろうか。

「その様子だと、考えていなかったようだな」

 冷たい口調で陰陽師に言われる。

「ごめん。……見つけたら、その場で説得する。召喚をやめるように。でも、もし応じなかったら」

「そのときはしゃーないけど、支部に連行するしかないじゃろうね」

「五星会に?」

「そうじゃ。東北支部のほうで一旦身柄を拘束して、あとの判断は上に任せるってところかいね。まあ、更生できないならずっとうちの留置所におるようになるのかもしれん」

「五星会ってそんなこともしているんですか?」

「五星会は政府公認の退魔組織だ。こういった権限も与えられている」

 知らなかった。ただ悪霊や魔物を祓うだけの組織ではなかったのか。オカルトに関する警察のような組織だと経真は感じた。

「じゃあ、もし最悪、その召喚師がやめる意思がないようなら。そのときは五星会さんのほうにお願いします」

 日高が頷く。

「それじゃ、探知をするか」

 日高が懐から式札を取り出す。札から白っぽい透明な光が伸びて、やがて獣の形になった。

「コノハ、人間の探知を頼む」

『承知しました、煉様』

「対象は魔物を召喚している人間だ。この地図の三つの山のうち、どれかに潜んでいる。おそらく常習的に召喚しているだろうから、何かしらの手がかりはあるだろう」

 綿毛のような白さの霊狐が、トンと跳ねてテーブルに乗った。その優雅な仕草に真樹奈の表情が崩れた。

 霊狐は地図に顔を寄せ、山の位置を確認したあと、目を瞑り天井を仰いだ。その後ろで、真樹奈が両手を広げて今にも抱きつかんとしている。ダメですって、と小声で経真が制止した。

『……あちらの方角です』 

 コノハが九本の尾を揺らして南西の方向を前足で指した。

「この方向だと、対子山……か」

 よりによって一番高い山か。探すのに骨が折れるかもしれない。

「ここからどれくらいかかるん?」

「車だと五十分弱くらいです。頂上付近まで車で登れますが、上までいくとなるとどれくらいかかるかな……」

「コノハ、お前も車に乗れ。山に着いてから案内を頼む」

『承知しました』

「佐々木さん、運転お願いじゃ」

 ずっと黙っていたスーツの男が「はい」と返事をした。どうやら彼は退魔師ではなくサポートの人間らしい。

「では行くか」

 四人が椅子から立ち上がった。


     ◆


 経真が日が沈んでから対子山に来たのははじめてだ。道路は舗装されているが、街灯がほとんどない。山中には民家は数えるくらいしかなく、夜の歩行者を想定していないためだ。

 夜の山は威圧感を感じる。人間の力、科学では明かせないような、得体の知れないざわざわとした何かを感じるのだ。きっとそれが山の妖怪や怪異譚を生み出してきたのだろう。

 午後六時五十二分。経真たちを乗せたミニバン車が山道をひた走っていた。助手席に日高が座り、膝の上にコノハを載せている。時折、コノハが煉に何かを囁いている。目標がいる方向を伝えているようだ。

「一昨日みたいに森の中に入るのはできれば避けたいところじゃね。いくら灯りを持ってきたと言っても、夜の山を歩くのは危険じゃけ」

 真樹奈が窓の外を見ながら言った。経真も同感だった。仮に真っ暗な森の中に魔物が潜んでいたら、一方的に襲われる危険がある。熊や猪などの大型の獣に出くわす可能性だってある。

「召喚自体は建物の中で行われているはずだ。そこに辿り着くまでが問題だが」

「詳しいんだね」

 魔物の召喚など、祖父や父親からは聞いたことがなかった。おそらく寺の蔵書の中にも記載されたものはないだろう。経真は素直に日高の知識量に感嘆していた。

「陰陽師は古来から式神を扱ってきたからな。冥府とやり取りすることもあった。だから、その手の分野には通じているというだけだ」

 密教でも神仏の力を借りることはあるが、呼び出したり交信したりといったことはしない。この分野では僧侶より神職や陰陽師のほうが分があるようだ。

 車は山頂に向けて進んでいた。コノハの見立てでは、山頂までは行かないらしい。中腹部か、その上の辺りか。そこに召喚師が潜んでいる。

『煉様の仰る通り、召喚は何度も行われているようです』

 霊狐が後ろの席の経真たちにも聞こえるように言った。

『そのせいで、空間の歪が固定化しようとしています。このままでは、召喚に使われている場所が魔界と完全に繋がってしまうかもしれません』

「なんだって⁉」

「本来は余程条件が揃わない限り、外界とのトンネルが出来ることはないんだがな」

「でも、繋がる可能性が大なんじゃろ? じゃったら、必ず止めないと」

 冗談じゃない。先祖がずっと守ってきたこの土地で、魔界なんていうとんでもない所への穴を開けられてたまるか。もし開いてしまったら、成島市が、いや日本が終わってしまう。

 経真は拳を握った。今は、じいちゃんも、親父もいない。おれが何とかするんだ。

 一昨日は、他所の土地のことだった。でも、今回は違う。経真が生まれ育った土地のことだ。今度は日高や真樹奈に頼りきる訳にはいかない。

 ひょいっと真樹奈が明るい声を出した。

「そうじゃ、明禅くんにはウチの能力のこと、伝えておくわ」

 それは経真も気になっていた。これからひょっとすると戦闘が起きるかもしれないので、是非知っておきたかった。

「ありがとうございます。どんな力なんです?」

「うんとね、植物を操るんじゃ」

「へえ! 面白い能力ですね」

「じゃろ? 成長を促進させたり、形状をちょっと変えたりとかね」

 それはサポートに向きそうな力だ。敵の足を止めたり、攪乱させたりできるだろう。

「ウチはまだ未熟じゃからあんまり派手なことはできんのじゃけど、ウチの指導係の先輩なんか、土がないところにも植物を生やすことができるんよ」

「凄いですね……。地球温暖化対策にも使えそうだ」

「いや、それが時間が経ったら枯れちゃうんじゃ。まあ、霊力で無理やり生やしたものじゃからね」

 成程。そう都合よくはいかないのか。

──そうだ。この前から気になっていたことも聞いてみよう。

「あの、真樹奈さん」

「なんじゃ?」

「真樹奈さんの方言って、どこの地方のものですか? 東北じゃないですよね」

「広島じゃ。ウチ、小五まで広島におったんよ。ほんで、親の転勤で仙台に越してきたんじゃ」

 そう言えば、昔、広島を舞台にしたアニメでよく耳にした喋り方だった。

「へえ。おれ、広島って行ったことないです。どんなところですか?」

「そうじゃねえ。山があって、海があって。食べ物はお好み焼きがぶち美味いんよ。そばが入っとるの。あと、牡蠣の生産量が日本一じゃし、ほかには……。うーん、ま、ええとこよ」

 くりっとした猫目を半分閉じて浮かべた笑顔が愛らしかった。

「秋に修学旅行で広島にも行くんで、そば入りお好み焼き絶対食べてきます」

「食べて食べて~。お土産はもみじ饅頭がおすすめじゃけん、覚えとって」

 経真が笑顔を浮かべて応えた。

 ふと、助手席のコノハの白い耳がピクピクと動いた。スッと日高の膝から立ち上がる。

「コノハ、どうした」

『煉様。近づいてきました。方向はここから北北東です』

「分かった。佐々木さん、車を止めてもらえるか?」

「は、はい。じゃああそこの駐車スペースに」

 車が止まると、日高は「ここから北北東に何か建物が表示されていないか」とナビ画面を見つめた。佐々木が液晶を操作し、画面を北北東の方向にスライドさせる。

 経真は予めこの山の地図も見ておいた。だが、ここからその方向に建物などあっただろうか。あるとしても、おそらく民家。集落の民家で魔物を召喚したらすぐ周囲にバレそうなものだ。だから、多分民家じゃない。

 経真もスマホを取り出し、マップアプリを立ち上げた。こちらで見たほうが分かりやすいかもしれない。

 車のナビの画面には中々期待するものが表示されない。真樹奈も後ろから身を乗り出して液晶を見つめている。

「佐々木さん、このナビのバージョンって更新されとるの?」

「そのハズです。自動更新なので」

「じゃあ最新版か。データが古いから画面に出てこないって訳じゃなさそう……、あ。何か映りよった」

 開けた場所に、建物を表すブロックが描かれていた。しかし、建物名や地図記号は表示されない。

「ここは……」

「あ! 分かった」

 経真が声を上げた。スマホを掲げた。そこに衛星写真が映っていた。

「寺です。廃寺。そう言えば、以前ここに禅寺があったことを思い出しました」

「廃寺……か」

「うわ、怖そう……。お化け出そうじゃ」

 出ても退魔師が揃っているのだから問題はない。だが、今日はお化け退治に来たわけではない。

「コノハ、どうだ? この廃寺か?」

 日高が訊くと、霊狐は首をコクッと動かした。間違いないようだ。

 場所の特定ができた。その廃寺まではどうやら舗装された道が続いているようだ。車から降りて山道を歩き回る未来を回避できた。

「それじゃあ、佐々木さん、そこまでお願いします」

「は、はい。……怖いなあ」

 運転席の男性は再びハンドルを握ると、設定した目的地目指してアクセルぺダルを踏んだ。

 

 車が開けた空間に出た。

 砂利道になっているようで、タイヤがゴロゴロという独特の音を出している。

「……うわっ」

 ドライバーの佐々木が思わず、といった風に声を上げる。

 暗闇の中、ヘッドライトに照らされたお堂が不気味に浮かび上がっていた。

 車は境内の中に入ったようだ。窓から外を覗いたが、真っ暗で、広さや様子はよく分からない。

「コノハに訊くまでもないな。ここだ。明らかに空間の質がおかしい」

 車が適当なところで止まると、日高が助手席のドアを開けた。コノハがぴょんっと先に降り立った。

 続けて経真が後部ドアを開け、降りる。スニーカーの底に砂利の硬さが伝わってきた。

 懐中電灯のスイッチをオンにした。砂利が敷かれているのは入口付近だけで、建物の辺りは剥き出しの土から草がぼうぼうに生えていた。

「うわ~。ほんまに何か出そうじゃわ」

 背後から真樹奈の声がする。確かに、お化けが出ても魔物が出てもおかしくない、不気味な雰囲気の場所だ。

──捨てられた寺ってこんなに寂しい場所になるんだな。

 この寺だって、かつては住職がいて、寺務所の職員がいて、檀家の人たちだって来ていたのだろう。それを思うと経真は妙に悲しい気持ちになった。

 今宵は新月に近い三日月で、光が弱い。人工的な明るさが皆無のこの場所でも、月の光は足元まで届いていない。周辺の木々のシルエットがなんとか見える程度だ。

 突如冷たい風が吹き、木々が妖しくざわめいた。遠くから得体の知れない獣の鳴き声が聞こえた。車のほうから小さく「ひっ」という声がした。

「それじゃあ、わたしは車内で待機してます」

 怯えた表情を浮かべながら、ドライバーの佐々木が運転席の窓からそう言った。

「日高、佐々木さんをひとりで残して大丈夫かな」

「これも仕事のうちだ。問題ない。心配なら貴様がついているか?」

「……おれはここにいる人を止めなきゃいけない。そのために来たんだ。佐々木さんには悪いけど……」

 ポンッと経真の肩が叩かれた。

「心配せんでも大丈夫じゃって。あの車には魔除けが施されておるし、佐々木さんにも破邪の道具を持ってもらっているけえ。あの人、臆病じゃからここで待機するのはきついと思うけど、煉の言う通りこれも仕事じゃからね。車はここにいてもらわんと、最悪連行するとき困るし。それに万が一ウチらが撤退するような事態になったときにも困るじゃろ?」

 そこまで言われたら、反論のしようもない。経真は気の毒そうに白のミニバンを見つめてから、お堂に向かって歩き出した。

 日高と真樹奈も懐中電灯を手に経真の後に続く。日高の横にはコノハがついている。三人の歩調に合わせて三本の光の筋がゆらゆらと揺れる。経真は歩きながら前方一八〇度をぐるっと照らしてみた。

 そんなに広い境内ではない。建物は最初に目に入った本堂と、あとは平屋の寺務所と小さな鐘楼くらいだ。墓地は隣接していないのか、見えない。これなら藤明院のほうが余程広かった。

 境内の周囲は木々に囲まれている。森を切り拓いて建てられた寺のようだ。建物が古びて見えるのは、おそらく築年数の問題だけじゃないだろう。外壁には蔦が絡まっている箇所が散見された。まさに「荒れ寺」という感じだった。

「この寺っていつから放置されとるんじゃろ……」

 気味悪そうにサイドポニーテールの少女が呟く。

「確か、おれが小学一年のときに住職をやる人がいなくなって、潰れてしまったと聞いてます。だから八年前ですかね」

「八年でこんなになってしまうんかいね。やっぱり人が住んでないと建物ってダメになるんじゃね」

 日高が後ろから経真を追い抜いた。

「本堂から入るぞ。召喚の儀式にはある程度広い空間が必要だからな、本堂で行われている可能性が高い」

 本堂の前に着いた。三本のライトが入口周囲を照らす。本堂へ上がる階段は三段になっていて、苔が生えていた。杉の葉っぱや黒っぽい木の実が段の上に散乱している。木製の戸は経真たちの侵入を阻むように不気味にそびえていて、青や黒のカビがそこかしこに生えていた。

「靴のまま上がってええじゃろか」

「脱ぐと滑りそうだし、いいと思いますよ。このまま上がりましょう」

 経真が先に上がって戸の取っ手部分に手をかけた。

 開かない。

 鍵がかかっている。

「開かないな……。寺務所の玄関なら開いているかな」

「どけ」

 後ろから日高が上ってきた。

「ふん。おい、貴様ら離れてろ。巻き添えを喰らうぞ」

「煉、あんたもしかして……」

 表情を曇らせながら、真樹奈が後退して階段を降りた。

 ただならぬ雰囲気を感じ、経真も真樹奈に倣って後ろに下がる。

 いったい何をする気だ?

 日高が懐から式札を取り出した。コノハを呼んだときとは違うものだ。書かれている呪文がまったく異なっている。

「白虎。来い」

──白虎⁉ 白虎って、あの中国の四神の白虎か? 神クラスの式神も扱えるのか⁉

 札から白い霊気が飛び出た。やがてそれは実体化し、虎の形になった。南極の氷河のように白い虎が経真の前方に現れた。

「これが白虎……。あれ、でも思ったより小さい……?」

 子どものようなサイズだった。

「悪かったな。今のおれの霊力だと、これくらいの大きさでしか召喚できないんだ」

 むすっとした声だった。プライドを傷つけられた、といった感じだった。

「そ、そうなんだ。ごめん、余計な事言って」

 フン、と鼻を鳴らして日高は戸に向き直った。

「白虎、この戸を壊せ」

 白い虎が戸を見上げた。頭を戻すと、口を大きく開けた。口内にシュウシュウと霊気が集まり、収束していく。渦のようになった。その渦が次第に角ばった形に変化し……。実体化した。少し青みがかった灰色の物体になった。金属のように見える。

 階段の下に座っていたコノハが四本の脚で立ち上がった。九つの尾を振る。すると、日高の身体の周りに風が起きた。足元から頭にかけて風が上っている。不思議なことに、日高の髪や衣服は風にまったくなびいていない。まるで風を着ているかのようだった。

 白虎がふんばるように四肢に力を入れた。カッと、口から鉛色の塊が勢いよく発射された。

 一瞬、空気が震えた。刹那、派手な音がして、木片が辺りに飛び散った。

──うわっ!

 経真が思わず顔を伏せ、腕で顔面を隠す。

 バラバラッと木片が落下する音が周囲から聞こえた。

 音がやんでから顔を上げると、本堂の戸が半壊していた。人が通れるくらいの大きさの穴が空いている。

「す、凄い……。今のは?」

「霊気で鉛を生成して打ち出した」

 日高は戸のすぐ前にいたのに、木片がまったく当たっていなかった。身を覆っている風が吹き飛ばしたのだろう。

 日高がくるっと振り向いた。

「……大丈夫だったようだな」

 経真と真樹奈に怪我がなかったか確認したのだろうか。だとしたら、素っ気ないながらも案外他人に気を配れる人物なのかもしれない。

「白虎、戻れ」

 虎がひゅっと姿を消した。

「やっぱ壊したよ、この人。ええんかいのう、他所の建物なのに」

「廃棄されているのだから問題あるまい」

 素直に賛同はしかねたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。

「行こう」

 経真が戸に開いた穴から本堂に入った。

 本当なら真っ暗なはずのお堂の中。その中に灯りが灯っていた。

 蝋燭が何本も立っていた。燭台に載っている。その炎が静かに揺らめいていた。

 炎に照らされた本堂内。荒れていた。賽銭箱は壊され、壁が変色し、畳も汚れている。

 三段になっている大きな須弥壇には、物がほとんど置かれていなかった。中央の仏像を置く場所にも、本来あるものがない。もしかすると盗まれたのかもしれない。木魚も磬子けいすもなかった。

「……これは」

 経真が奥に進んで足元の畳に目をやった。その目が見開く。

 そこに、見慣れない図が黒いインクで大きく描かれていた。

「やはり、ここで召喚していたようだな」

 日高が経真の横に立ってその図を見ていた。

「煉、これって」

 真樹奈が問う。

「魔物を呼び出す魔法円だ。実際に見るのはおれもはじめてだがな」

 二重になった円の中央に五芒星が描かれている。五芒星の中心には太極図があった。黒の部分をよく見ると、インクのほかに赤黒い何かがこびりついている。五芒星の辺と辺の間、それに円の円周上に漢字が書かれていた。

「気味悪いやっちゃな。おどろおどろしい感じがするけん」

 そのとき、須弥壇の影から人影が飛び出した。

「だ、誰だお前ら!」

 三人が弾かれたように声の方向を向く。

 そこにいたのはマウンテンパーカーを着た若い男性だった。手に長い棒を持っている。

「まさか『百鬼』の人間か⁉」

──『百鬼』? 『百鬼』って何だ?

 経真が返答しようとしたが、それより先に「違う」と日高の声がした。

「貴様こそ誰だ? ここで何をしている?」

「う、うるさい! 関係ないだろう! ここから出ていけっ!」

 男性が手の棒を勢いをつけて横に振った。

 経真が一歩前に出た。

「すみません、驚かせてしまいましたよね。ぼくたちは退魔師です」

 それを聞いて男の表情が変わった。

「退魔師……⁉ まさか、おれを捕まえにでも来たのか」

 日高が表情を変えずに、

「やはり、この魔法円を使っていたのは貴様だったか」

「あ……!」

「自白と見做す。ここで魔物を呼び出していたな?」

 男は答えなかった。手に持った棒が少し震えている。経真には怯えているように見えた。

「あの。魔物を召喚するのをやめてください。そうすれば、おれたちは貴方を捕まえたりしません」

「……本当か?」

 男が経真の顔を見つめる。

「嘘じゃありません。絶対に、もう二度と魔物を召喚したりしないと誓ってもらえれば」

「誓ったところで守る保障はないだろう」

「煉」

「日高、ちょっと黙っててくれ」

 やれやれ、といった表情で日高が顔を背けた。

「なんで、魔物を召喚したりしていたんですか? 話を聞かせてください」

 一方的にこちらの要求を押し付けるだけではダメだ。まずは相手の話を聞くこと。そうでなければ相手は心を開いてはくれない。経真は祖父からそう教わっていた。

 しばし沈黙が流れた。

「……復讐だ」

 ゆっくりと、重い口調で男が言葉を発した。

「復讐?」

「そうだ。おれを虐めていた奴らに復讐したくて、やってたんだ」

「虐め、ですか」

「ああ。おかげで高校を二年で辞めることになったよ。本当は理系の大学に行きたかったけど、辞めたらどうでもよくなってしまった。何にもやる気がなくなって、学校辞めてからは家に引きこもってネットばかり見てた」

 痛ましい話だった。経真は学校で虐めの現場を見たことはないが、被害を受けている当人は、きっと心臓が壊れそうな苦しさを味わっているのだろう。

「……辛かったんですね」

 空気を通してこの男の痛みが伝わってくるようだった。もし自分がその立場だったら、耐えられるだろうか。経真は考えた。

「辛いなんてもんじゃないさ。あいつらにやられたことは今でも覚えている。一生忘れない。四人がかりでイビリやがって。畜生、こっちはひとりなのに」

 経真の表情は自然と悲痛なものになった。物理的に胸が痛かった。後ろの真樹奈も顔に同情の色を浮かべている。

「抵抗はしなかったのか」

 日高が訊く。

「したら、次からもっと酷いことをされる。だから、できなかった」

「それで、学校を辞めてからどこかで召喚術を学んで、復讐しようとされたんですか?」

「そうだ。ある日変なサイトを見つけて……」

「サイト?」

「よくあるオカルト系のジョークサイトだと思った。でも、違った」

 そこは本物のヤバい組織が運営しているサイトだった。世界をひっくり返す、あるべき姿に戻すとかなんとか書いてた。最初はバカバカしいと思ったけど、読み進めるうちに目が離せなくなった。西洋の黒魔術組織みたいだと感じだった。化物を呼び出して自分の願いを叶える。理想の世界を創れる。そんなことが書いてあった。

 男は早口でそう語った。

「それで、その組織に?」

「ああ、入った。クソみたいになっちまった人生を変えたくて。あいつらに復讐したくて」

「その組織は何ていうところなんですか?」

「『百鬼の國』」

 向こうを向いていた日高の顔が動いた。

「そこで召喚のスキルを教えてもらったんですね」

 男がコクッと頷いた。

「おい、その組織はどこにある?」

「……それは言えない」

「なぜだ?」

「おれはそこから抜け出してきたんだ。これ以上組織が不利になるようなことをしたら、おれは確実に殺される」

 殺される。その言葉に経真の心臓がドクンと跳ねた。どうやら相当に危険な組織なのだと感じた。

「なぜ、抜け出した?」

「あそこでは、自分の好きなように魔物を召喚できなかった。おれを虐めてた奴らに復讐したくて入ったのに、組織の命令通りにしか召喚できないんだ。家にも帰してもらえないし、それで隙を見て逃げた」

「追手は?」

「それが怖くて、ここで寝泊りしている。時々、家にも帰るけど長居はしない」

 よく見ると、須弥壇の横に寝袋があった。カセットコンロやインスタントラーメンの袋も置いてある。

「こんな生活、いつまでも続けられないでしょう。もう、終わりにしませんか?」

 経真が穏やかに諭すと、男は黙った。

「……おれも、もうやめたい」

 よかった。何とか丸く収まりそうだ。そう思ったが。

「でも、あいつらが死んでからだ」

「そんな。追手に狙われているかもしれないのに、まだ続けるんですか?」

 男が口調を荒らげた。

「あいつらのSNSアカウントは今でも更新されてる。毎日毎日、くだらないことを投稿しやがって。更新が止まるまで、やめない。おれは魔物を使役できる程の力はないから、召喚しまくって街に送りまくってやる」

──だから市内の魔物の数が増えたのか。

「そんなことしたら、関係ない人たちまで襲われてしまいます。いいんですか?」

「……どうでもいい。おれを助けてくれなかったこんな世界なんて、滅茶苦茶になればいいんだ!」

 経真の力が男に効いていない。どうやらこの男が抱えているものは相当深いようだ。

 ため息をついて日高が前に出る。

「行いを改める気はないようだな。では、お前を五星会に連行する」

 男が血走った眼で日高を睨んだ。

「うるさいうるさいうるさいっ! クソが、クソが、クソがっ!」

 棒を振り回しながら男が走り出した。身の危険を感じ、経真たちが後退する。

 男が止まった。止まった先は、魔法円の中心だった。

 男が棒を投げ捨てて、上着のポケットから小型のナイフを取り出した。

「な、なんじゃ。それでウチらとやり合う気なんか」

 構えられたナイフが動いた。

「え……?」

 経真は目を疑った。男が自らの指を切ったのだ。

 傷口に赤い球が浮かび、やがてこぼれた。指を伝って、ぽつっと床に落ちる。ちょうど、太極図の黒の部分に。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 まずい。男の中の「魔」が膨れ上がっている。このままでは……。

「落ち着いてください! 心を落ち着かせて、もう一度……」

「陰と陽、五行のことわりに従い魔への扉よ開け。異界の住人よ、我が声に応えよ!」

 呪文を唱えた直後、男は真後ろに飛び退いた。

 瞬間、魔法円が紫色に光った。円形の光が縦に伸びて、柱のようになった。

「ウソ⁉ こ、これって……」

「荒井、明禅。下がれ。出てくるぞ」

「くっ……!」

 三人とコノハが後ろに退いた。

 紫色に輝く円の中心から、少し角ばった半円の物体が出てきた。

 引っ張られるように徐々に下の部分が出てくる。左右に大きな窪みが見える。この形、見たことがある。

 それは人間の頭蓋骨だった。骨が顎の部分まで出ると、首の骨が円から姿を現した。続いて肩が出る。首から下は服を着ているようだ。

 コノハが威嚇するように総毛立っている。経真ははじめて見る魔物の召喚に心臓が早鐘を打っていた。燭台の蝋燭の炎が勢いよく燃え盛り、魔物の登場を演出しているかのようだった。

 魔法円から脚が出てきた。爪先まで出たところで、紫の光はフッと消えた。

 骸骨の魔物だった。仏教僧の法衣を纏っていた。骨だけの左手には数珠を巻いている。真っ暗な空洞の目が経真たちの姿を捉えていた。

「いけん! こいつ、死霊僧しりょうそうや!」

 死霊僧。知っている。確か、悟りを開けなかった仏教僧たちの無念が集まって生まれた魔物。こいつの唱える念仏を最後まで聞くと……。

 骸骨の閉じていた口がぱかっと開いた。

『マーカーハンニャーハーラーミーターシーンギョウー』

 身体に悪寒が走った。高熱を出した時のような身震いが全身を突き抜ける。

「ひっ!」

 真樹奈が悲鳴を漏らす。

「念仏を唱えきる前に祓うぞ。さもなければ全員死ぬ」

「ウチの魂をあっちに持ってかれてたまるか!」

──あの人も危ない!

 魔法円の後ろの男を見た。

──なんだ、平気そうだぞ……? 霊力のある人間だってきついのに、どうして……。

 男がナイフを持っていないほうの手で何かを握っていた。その手から強い破魔の力を感じる。

──あの手の中にあるものが、結界を出しているのか。そうか、呼び出した魔物に襲われないように、始めから対策はしていたということか。

 魔物を召喚したら、召喚した本人だって危ないんじゃないかと経真はずっと疑問に思っていた。どうやらこういうカラクリだったようだ。

 経真は再び魔物に注意を向けた。

 目に意識を集中させ、霊視する。身体の周りが黒く光っている。水属性のようだ。土属性の経真にとっては「相剋」、木属性の真樹奈にとっては「相生」の関係でやりやすい相手のようだ。

『ジーショウケンゴーウンカイクードーイッサイクーヤク』

「念仏唱えるのやめるんじゃー!」

 真樹奈が叫びながら、死霊僧に向けて何かを投げた。小さい。石だろうか。

 残念ながら、それは魔物には当たらなかった。力の加減を誤ったのか、敵の足元に落ちてしまった。

 コロコロ、とそれが魔法円が描かれている床に転がった。緑色だった。石というより、大き目の豆のようにも見える。

「でぇい!」

 右手を前方にかざして真樹奈が叫ぶ。

 パカッと豆のようなものが割れ、そこから植物の茎が勢いよく伸びた。

──あれは種だったのか!

 童話の『ジャックと豆の木』かと思う程の成長スピードだった。ありえない速度で天井に向かって伸びていく。

 茎は子どもの腕くらいの太さがある。そして、等間隔に大きな棘が生えていた。筆記用具のコンパスの針くらいあった。

 茎が死霊僧の全身に巻きついた。

「これで……!」

 真樹奈が霊気で茎をコントロールする。すると死霊僧の顔に茎が何重にも巻きつき、魔物の顔は緑の茎で見えなくなった。

『……』

 死霊僧が沈黙した。

「荒井、いいぞ。あとはおれが」

「おれがやる……!」

 日高が何か言いかける前に、経真が両手で印を組んだ。左手の人差し指が伸びて、右手に包まれている。

「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラマニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!」

 赤、黄色、オレンジ色の光が死霊僧を包む。まるで太陽の光のようだった。光は柱状になり、中心にいる死霊僧の身体を浄化していく。骨がぺきぺきと剥がれ、魔物を形成していた身体が次第に崩れていった。

 魔物が消滅した。後には、真樹奈が出した植物だけがその場に残った。

 日高がほお、という表情を浮かべる。

「ふ~。明禅くんナイス! あれが真言ってやつ? かっこええね!」

 切迫した危険が去って、少女が表情を緩めた。

「ありがとうございます。真樹奈さんこそ、素晴らしい攻撃でした」

 グッと少女が親指を天に向かって突き出した。

「さて、と」。経真が男のほうを向いた。男の顔が焦りで歪んでいた。

「そ、そんな。あんな簡単にやられるなんて」

 ゆっくりとした歩調で、男に向かって歩き出す。

「く、来るな!」

 ピタッと経真の足が止まった。

「もう、やめましょう。ぼくたちはあなたに危害を加えません。もう一度落ち着いて話をしませんか」

 できるだけ穏やかに、なだめる様に言った。男のナイフの傷も手当てしたいし、これ以上罪を重ねさせたくない。

「そうじゃ。悪いようにはせんけん。あんたのこと、五星会で保護してもええんじゃから」

「保護⁉ そ、そんなことを言っておれを勾留でもするんだろう! 百鬼みたいに幽閉して、外に出さない気なんだろう⁉」

 後ろから日高の嘆息が聞こえた。

「おい、明禅、早く話をつけろ。できないようなら力づくで連行する」

 またこいつは余計なことを。なんでもっと心を込めた柔らかい対応ができないんだ。

 経真が後方の日高を睨んだ。と、ハッとしてすぐに男のほうに顔を戻した。

 男から強い負の気が漏れ出ている。男は明らかに怒っていた。憤怒と言ってもいい。顔がリンゴのようにみるみる赤く染まっていく。

 怒りだけじゃない。恐れ、不安、欲。そういった負の感情が男の中に強烈に湧き上がり、その身を支配しつつあった。

──このままだと『魔』が暴走する!

 経真は「魔」を消そうと金剛夜叉明王の印を結び、真言を唱えようとした。

「オン・バザラ・……」

「あ、ああああ”あ”あ”あ”あ”あ”ぉあぁぁぁぁぁーーーーー‼」

 召喚師の心音がここまで聞こえた。ドクン、バクン、とまるでスピーカーから出ているような音量で堂内に響く。

「!」

 経真は一瞬詠唱を止めてしまった。だがすぐに残りの語句を舌に載せた。

「ヤキシャ・ウン!」

 真言を最後まで唱え終わった。

 心音が聞こえなくなった。

「ま、間に合ったのか……?」

「……ぐ」

 男が両腕で腹を抑えて前屈みになる。

「あ、、、ぐ、ぐ、あああああああぁぁぁぁぁっっっ!」

 体内で爆発が起きたかのように男の身体が膨れた。着ていたマウンテンパーカーが破れ、肌が剥き出しになった。腕が倍以上に太くなり、内側から服を引きちぎった。

 女性のように細かった胴体はまるで大木のように太くなり、胸は鉄板のように厚くなっている。

 経真は反射的に後退し、距離を取った。

「な……。何なんじゃ……。これってもしかして」

──『魔』に吞まれてしまった。

 強すぎる「魔」は人を変えてしまう。文字通り、別の姿に変容させてしまうのだ。

 召喚師の二本の脚が巨大化し、丸太のようになった。破れて布切れになった服の破片がはらはらとその場に舞っていた。

「があああああっ、ごふっ、げふっ、がっ」

 苦しそうに咳き込むと、男の頭部から人間にはないものが生えてきた。それは角だった。額の右と左に一本ずつ灰色の角が生えた。

 臀部から細長いものが伸びた。尾だ。まるで蛇のように長い。男が苦しむ声に合わせて、畳をピシピシと叩いている。

──もう止められないのか……!

 経真は必死に考えを巡らせた。真言で使えるものはないか。だが、この状況に有効そうなものは手札にはない。真言以外で何か手はないかと考えたが、残念ながら何も思いつかなかった。

 気づくと、男の呻き声が止まっていた。いつの間にか、男の皮膚の色がワインレッドに変化していた。

 俯いて見えなくなっていた顔が、ゆっくりと上がっていく。

 それはもう、人間の顔ではなかった。深い赤色に染め上げられた皮膚。飛び出した二本の角。肥大化し、黄色く光っている眼。口は裂けて頬まで達していた。

 身長が数倍に伸びている。五、六メートルはあるだろう。身体のどこの部位も筋肉が盛り上がっている。長い尾は真っ黒で、蝋燭の灯りを受けて艶やかに光っていた。

 まるで西洋の悪魔のような姿だった。

「魔物化したか。こいつも祓うぞ」

 事務的な口調で日高が経真と真樹奈に呼びかけた。

「バカ言うな! さっきまで人間だったんだぞ! 何とか元に戻す方法を……」

「そんなもの、ない」

 冷たく言い放つ。

「少なくとも、おれは知らん」

「そんな……」

 経真自身も知らなかった。こんな状態になったら、心の中の「魔」を消去しても意味はないだろう。「魔」が実体化し、人間を取り込んでしまっているのなら。さっきの真言が効いていないから、そもそももう取り除けないのかもしれない。

 経真は救いを求めるように真樹奈を見た。

「……ごめん。ウチも分からん。五星会じゃ、魔物化した人間は祓うしかないって教わっとるけん……」

「……やるしかないんですか?」

 痛ましい表情で真樹奈が頷く。

『ゴアアアアアアアアッッッ‼』

 魔物と化した男が吠える。ヒリつくような空気の震えが経真たちに飛んでくる。突風が吹いたような衝撃を感じた。

「くっ」

 経真は懐から錫杖を取り出し、展開した。正直、まだ覚悟は決まらない。だが、黙ってやられる訳にもいかない。まずは霊視だ。目に意識を集中させた。

──火属性か。日高と同じ。おれは『相生』で助かるけど、木属性の真樹奈さんがこいつの力を強めちゃうな……。

「真樹奈さん、火属性です! 気を付けてください!」

「了解! あんま近づかんようにしとく!」

 魔物が横を向き、須弥壇に両腕を伸ばした。一番上の段の板を引きちぎった。パンを千切るように易々と。

「なんちゅう力じゃ……!」

 魔物が振り返る。板を持った魔物の腕が力強く動いた。

「危ない!」

 板がこちらに飛んできた。このままでは真樹奈に当たってしまう。

 経真は咄嗟に跳んで、真樹奈を横に突き飛ばした。少女が畳の上に横向きに倒れた。

 真樹奈が立っていた位置をごう、という音を立てて木の板が通り過ぎ、壁にぶつかった。木が砕ける大きな音がした。

「あてて……。で、でもさんきゅう、明禅くん」

 真樹奈の無事を確認すると、経真はすぐに体勢を直した。

 長机みたいな板を軽々投げ飛ばすなんて。敵はとんでもない怪力だ。接近戦は危険だ。離れて戦うしかない。

 日高の横でコノハが身構えている。コノハの前に、ボッ、ボッ、と青白く燃える火の玉が浮かんだ。

「コノハ、狐火はやめておけ。火事になりかねん。その代わり、あのふたりにも『風陣』を」

『御意』

 火の玉が消えた。霊狐が経真と真樹奈のほうに向く。

「おぉっ……」

「わぁっ……!」

 ふたりの身体の周りに、日高と同じ風の流れが発生した。

「これで今みたいな攻撃は防げる。完全ではないがな。攻めに集中しろ」

「分かった」

「ラジャー」

「荒井。おそらくこいつには『略祓詞』では大したダメージは期待できん。正式で……」

 陰陽師が言い終わらないうちに、魔物が堂の柱の一本に両腕を巻きつけ、捻った。ベキベキィッという破壊音と共に、柱の上の部分と下の部分がねじ切られてしまった。

「ちょ、嘘じゃろ⁉」

 一本の木材と化してしまった柱を魔物が両手で持ち、こちらに突っ込んで来た。

 ズンッ、ズンッ、という大きな足音を立てながら、ワインレッドの魔物が迫ってくる。魔物が通った畳が足の形にへこんでいた。

「とにかく足止めするけんっ!」

 真樹奈がパーカーのジッパー付きポケットから、先ほどの種を取り出す。投げた。

 種は魔物の数歩手前に落ちた。敵が柱を木刀のように大上段に構えながら迫る。

「このタイミングじゃ!」

 真樹奈の霊気を受け、種子が発芽する。ズモモモモ、と棘付きの太い茎が天井に向かって伸びた。

『ガアアアアアアアアッッ!』

 巻きついた茎の棘が深々と魔物の脚に、腹に、胸に突き刺さる。そこから濃い紫色の液体が吹き出してきた。右腕にも巻きつき、柱が手から魔物の後ろに落ちた。

「煉、今のうちじゃ!」

 日高がパンッと両手を打ち鳴らした。そのまま手を合掌させたまま、

「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」

 節をつけて何かを唱え始めた。

 祝詞のりとだ。神社での神事などの際に、神職の人間が神に対して唱える言葉である。どうやら日高は式神を使役するだけでなく、祝詞を詠唱して攻撃することもできるようだ。

『ゴグァァァアアアアーー!』

 魔物と化した男が苦しそうに身をよじっている。効いている。

 この祝詞はどれくらいの長さなんだ? 動きを止められているうちに終わるのか? 経真がそう考えていると、

『グガァァァアァァッッッ!』

 雄たけびをあげながら、魔物が空いていた左腕で右腕の茎をちぎり捨てた。

「なっ⁉ あれ、かなり丈夫なはずなんじゃけど!」

 両腕が自由になった魔物は身体中の茎を次々と剥がしていった。

 茎がすべてむしり取られ、その巨体からは血と思われる紫色の液体があちこちから流れ出ていた。

「禊ぎ祓へ給ひし時に、生り坐せる祓戸の大神等」

 魔物が日高のほうへ近づいてくる。小さく吠えると、詠唱を続ける日高目がけて大きな拳を振り下ろす。これは風陣では防ぎきれない。

『煉様!』

 霊狐が高く跳び、魔物の肩に体当たりを仕掛けた。

 直撃した。

 しかし、魔物はまったく意に介していないようだ。

 腕の動きが止まらない。

「煉!」

「日高!」

 経真の手から、霊気を通した独鈷杵が放たれた。

『グガッ!』

 腕の真ん中に命中した。痛みに驚いた魔物は思わず腕を引き上げる。

──よし、止めた!

 しかし、今の攻撃は魔物の怒りを買うことになってしまった。頭に血が上った魔物は、一番近くにいたコノハを踏み潰しにかかってきた。電信柱のように太い脚が、流星の如くスピードでコノハの頭上に降ってくる。

「いかん! コノハ、戻れ!」

 日高が詠唱を止めて叫ぶ。直後にコノハの姿が消え、魔物の脚が畳とその下の床を踏み抜いた。

 衝撃で揺れが起こった。燭台がぐらぐらと揺れ、炎が上下左右に動く。バランスを崩し、真樹奈が片膝をつく。経真と日高は辛うじてバランスを保っていた。

 経真たちの身体を覆っていた風が消えた。どうやら、術者が消えたので効果が切れてしまったようだ。

「煉、コノハちゃんは⁉」

「大丈夫だ。式札に戻っただけだ。間一髪間に合った」

「そ、そうけえ。よかった」

──中途半端な攻撃は危険かもしれない。手負いの獣は手強い、と言うし、下手に攻撃して暴れられてもこのお堂が崩壊しかねない。かと言って外で戦ったら、佐々木さんに危険が及ぶかもしれないし……。

 魔物が、貫通した床から足を引き抜いた。畳に直径一メートル程の穴がぽっかりと空いていた。こんな穴に嵌ってしまったら、格好の的になってしまう。

 経真はまだ迷っていた。人間だった存在を消滅させていいものか。何とか大人しくさせて、拘束することはできないか。人間に戻す方法はそれから探しても──。

「おい、明禅。まだ煮え切らないといった様子だな」

 日高が経真の顔を険しい目つきで見ていた。

「だって、人を殺すことになるんだぞ」

「あれはもう人じゃない。貴様だって分かっているはずだ」

 分かっている。だが、納得はしていない。

「祓う気がないならここから出ていけ。邪魔になる」

「なんだと……!」

「言い争いはやめえ! 来る!」

 まるでボールを蹴るかのように振られた魔物の脚が、経真に迫ってきていた。

「っ!」

 素早く横に跳躍する。台風のような風が起き、足の爪が経真の肩をかすめた。刃物で切られたような感覚がした。

「明禅くん!」

「だ、大丈夫です。かすっただけなんで」

「荒井!」

「えっ」

 魔物の大きな手が、ゴミを払うように真横に動いた。その軌道上に真樹奈がいる。

 スーツケースほどの大きさの手のひらに、真樹奈の華奢な身体が弾き飛ばされた。

 真樹奈は悲鳴を上げる暇もなかった。ドンッ、と向こう側の壁にぶつかる音が、経真の立っている場所まで鮮明に聞こえた。

 ずるずると壁を伝って真樹奈の身体が床に落ちた。

「真樹奈さん!」

 経真が駆け寄ろうとしたが、「来んでええ!」と止められた。

「ウ、ウチは平気じゃから、そいつから目を離しちゃダメじゃ。明禅くんまでやられてしまうけん……」

 顔を歪ませてそう言った。

 明らかに大丈夫そうじゃない。喋るのも辛そうだ。もしかしたら骨が折れているかもしれない。早く手当をしなければ。

「明禅、二度は言わん。早く決めろ」

 そう言いながら、日高が胸から呪符を取り出した。

 手から放たれた呪符が、意思を持っているかのように空中を飛行した。魔物の右足の脛にピタッと貼りついた。呪符が白く光る。

 爆発が起きた。

『アガアァァァアァッッ!』

 召喚師だった魔物が右足を折り、膝をついた。

 畳みかけるように日高が呪符をもう一枚飛ばす。今度は魔物の左足で爆発が起きる。

 轟くような苦痛の声を上げて、左膝も床についた。魔物は痛みからうずくまっている。

「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」

 日高が再び詠唱を始める。

──じいちゃん。じいちゃんなら、こんなとき、どうする?

 祖父の形見の翡翠の数珠を握りしめ、経真は心の中で問うた。

 いつも人のためにその身を懸けていたじいちゃん。人の笑顔のため、幸せのために退魔を行っていた。

 幸せのため……。

──あの人を救うには、もうこれしかないのかもしれない。

 魔物化した人間はもう戻らない。だったら、早く楽にしてあげるべきだ。あの人は、怒りと屈辱で苦しんでいた。外法に手を出してしまうほどに。解放してあげなければ。きっとそれが、退魔師である自分の務めなんだろう。

 それに──。

 経真が、壁にもたれ、うずくまっている真樹奈を横目で見る。人々を魔の存在から守るのが、退魔師の仕事だ。これ以上、仲間を傷つけさせるわけにはいかない。

 面影の中の祖父が笑った気がした。

 経真の目から、迷いの色が消えた。

 黄金色に輝く霊気が足元から気流のように立ち上った。

 日高が経真を見る。心なしか、日高の口角が少し上がったように見えた。

──この魔物は激しい怒りが大本で生まれたものだ。だったら、あれが効くかもしれない。

『グゥゥゥゥゥ……!』

 地鳴りのような呻き声を出しながら、魔物がゆっくりと顔を上げた。右手を床に着けて、今にも立ち上がらんとしている。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 経真が錫杖を左肩で支え、両手を胸の前で交差させていた。

 突如、稲光がして魔物の頭に閃光が降った。堂内が一瞬、昼間の屋外のように明るくなった。

「ふぇ、い、稲妻……?」

 真樹奈が呆気に取られた声を出した。無理もない。屋内なのに稲妻が落ちたのだ。天井には雷が落ちた形跡などなかった。

 ワインレッド色の魔物が巨体をくねらせてのたうち回っている。髪の毛が燃え、両手をばたつかせて必死に火を消そうとしていた。

「日高、今のうちに!」

 経真が叫ぶ。日高が頷いて見せた。

「諸々の禍事、罪穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと」

「あっ! いけん!」

 魔物の転がった巨体に、一本の燭台が倒された。火が付いたまま、蝋燭が畳の上に落ちた。

 チリチリと、い草が燃える音がして灰色の煙が立ち上る。このままでは火事になる。消しに行きたいが、行くと魔物の至近距離に入ることになる。迂闊には近づけない。

──まだか、日高! まだ終わらないのか!

 魔物を倒さない限り、消火活動はできそうもない。放っておいたら、ここにいる全員が焼け死ぬ。その上、山火事になって大変なことになってしまう。

『グゥルガァァァァァアアァアアッッ!』

 いつの間にか、魔物が仁王立ちで経真と日高を睨んでいた。頭の火は消え、焦げ臭い嫌な臭いが周囲に広がっていた。

 魔物が両手の拳を握って振り上げ、経真と日高めがけて振り下ろした。

──今からじゃ躱せない!

 経真が咄嗟に錫杖を頭上に掲げた刹那。

「白すことを聞こし召せと、恐み恐みも白す!」

 日高が言い終わると同時に、それは起きた。

 無数の小さな白い珠が、魔物の周囲に浮かんだ。珠はひとつひとつが内側から光を発していて、白く輝いている。

 その珠が一斉に弾けた。

 白の衝撃が魔物の赤い全身を貫く。強い破魔の波動が外から内へと浸透し、穢れを焼いていく。

 魔物がその場に膝から崩れ落ちた。全身から蒸気のような白い煙が上っている。さっきまでの猛々しい声とは対照的な、弱々しい声を上げて苦悶していた。

「仕留められなかったか……。『大祓』もやるしかないか」

「いや。最後は、おれがやる」

 経真が日高に告げた。その目には、使命に燃える炎が宿っていた。

 もう、これ以上この人を苦しませてはいけない。これで最後に。

「いけん、火が……」

 いつの間にか、畳に着いた火が広がっていた。本堂の三分の一が炎に包まれ、室温が急激に上がっている。煙で堂内が白っぽく濁っていた。

「ゴホ、ゲホッ」

 真樹奈はまだ動けないようだ。このままだと火に囲まれて焼け死んでしまう。

「日高、真樹奈さんを頼む」

「貴様にとどめがさせるのか?」

「ああ。任せろ」

 三秒ほど経真と向き合った後、「ふん」と鼻を鳴らして日高が真樹奈の元へ駆けて行った。

「これで終わりにしましょう。今、楽にしてあげます」

 経真の手が、不動明王の印を形作る。

「ノウマク・サラバタタギャテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ……」

「荒井、おれに掴まれ」

「煉、ごめん」

 日高が伸ばした手を真樹奈がしっかりと握る。ぐいっと一気に引き上げた。「痛っ」と少女が汗ばんだ顔をしかめて呻く。

「センダマカロシャダケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン……」

 膝立ちで放心状態になっていた魔物の身体がピクッと動いた。突然、

『ガガガガガガアアアァァァアアアアアアッッッ‼』

 弾かれたように起き上がった。

 黄色い目から紫の血が流れている。その目が経真を捉えた。

 咆哮を上げながら、魔物が拳を繰り出した。日高の祝詞で全身はボロボロのはずだ。だが、スピードは衰えていない。

 岩のような拳が経真に迫る。

「あ! 危ないっ!」

「明禅!」

 日高が懐の呪符に手を伸ばした瞬間だった。

「ウン・タラタ・カン・マン‼」

『ギィヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーーー‼』

 魔物から人間のような叫び声が上がる。

 蝋燭の炎とも、本堂に燃え広がる炎とも違う聖なる紅蓮の炎。それが魔物を飲み込んでいた。

 不動明王の炎が、魔物の肉体を次第に光の粒子へと変えていく。炎で焼かれた場所が次々と光っていき、光の粒が天へと昇っていった。

「その炎はあらゆる負を浄化してくれます。どうか、安らかに昇っていってください……」

 魔物の身体全体が発光した。ぱぁーっと眩い輝きが堂内いっぱいに広がった。あまりの眩しさに退魔師たちが目を瞑る。

 経真が目を開けると、そこにはもう魔物の姿はなかった。光の粒子が三つ四つ、浮かんでいるだけだった。

「終わったか」

 気づくと、後ろに日高がいた。真樹奈の腕を肩にまわしている。

「……ああ」

「お疲れ様じゃ……」

 三人はそこで口を閉じた。

 経真は自分がしたことに後悔はしていなかった。ただ、自分にもっと力があれば、あの召喚師の男を助けられたかもしれない。そう思うと自然と悔しさが込み上げてくる。

 そこで唐突に真樹奈が叫んだ。

「いや、浸ってる場合じゃないじゃろ! 火! 火!」

「あ、、、」

 そうだった。急いで火のまわり具合を確認すると、もう堂内の半分以上に火が移っていた。壁にも火がまわっていて、炎が天井に届くのも時間の問題だった。

「ど、どうしましょう? 消防車を呼んでもすぐには来れないでしょうし」

「こうなったら、燃え広がる前に物理的にお堂を壊すしかないかもしれんのう」

「明禅、荒井を支えていろ」

「え?」

「おれがやる」

 何をする気なのか分からなかったが、経真自身に打つ手がない以上、任せるしかない。

「分かった。真樹奈さん、こっちへ」

「う、うん。ウチ重いかもしれんよ?」

「大丈夫ですよ。……よっと。ほら、全然でした」

 真樹奈の身体から汗の匂いとほのかに甘い香りが漂って、経真の鼻腔をくすぐった。

「意外と力持ちさんなんじゃねえ。じゃあ、煉に任せてウチらは下がっとこう」

 真樹奈を支えながら経真は五歩後ろに下がった。この陰陽師は何をするつもりなんだろうか。

 日高が懐から一枚の紙を取り出す。今日はじめて見るものだった。

「あれ、式札か? 見たことないやつじゃな……」

「玄武、来い」

 紙から霊気の塊が飛び出て、獣の形に変化する。

 それは亀の姿に似ていた。甲羅があり、頭も四肢も亀のそれだった。ただ、尾が蛇になっている。中国の四神の玄武である。ただ、やはりサイズは小さかった。

「火を消してくれ」

 式神がのっそりと一歩前に歩み出た。炎が、もうそこまで迫っている。

 玄武が、まるで顎をしゃくるように、頭をくいっと上げた。すると、前方に天井まで届きそうな水の柱が出現した。ひとつではない。ふたつ、三つと段々増えていく。

 水柱が横一列に並んで前進していく。畳や壁の炎を飲み込みながら、ゆっくり奥の方へと進んで行った。

「凄い……」

 日高の式神には驚かされてばかりだ。戦闘だけじゃなく、こういったことにも役立つなんて。その汎用性の高さに経真は舌を巻いた。

 水柱が奥まで到達した。最早、燃えている箇所はなかった。辺りからはプスプスという、火を水で鎮火した後の特有の音が聞こえる。須弥壇は燃えて崩れ落ち、黒炭と化していた。魔法円が描かれていた畳も燃えてなくなり、下の木の板が見えていた。召喚師の持ち物も、原型を留めているものは何もなかった。

「はぁ~。よかった……。山火事にでもなったらウチどうしようかと、ばり心配しとったわー……」

 これで本当に終わった。

 玄武はいつの間にか消えていた。

「日高、お疲れ。でも、さっきの戦いでなんで式神を出さなかったの?」

 陰陽師がじろりとした目つきで経真を見た。

「おれの霊力では、今は一日三回までしか式神を呼べないんだ。もしものときのために、一回分を取っておいた」

 そうだったのか。あんな激しい戦いの最中にその後のことまで考えられるなんて、思っていた以上に思慮深い奴なのかもしれない。

「さ、ふたりとも、いぬるとしよう。佐々木さんが待っているけえ」

「そうですね。きっと怖い思いをしているでしょうから、早く行ってあげましょうか。それに真樹奈さんの手当てもしないと」

「ありがと。車の中にウチが薬草から作った薬があるけえ。それ使えば応急処置はできると思う」

「後で病院にも行きましょう。骨に異常があったらいけないんで」

「うん、そうしとく」

 日高と真樹奈が懐中電灯を点けた。日高が先に本堂を出て行く。

 経真も真樹奈を支えながら、彼女を気遣ってゆっくり入口に歩を進めた。

 不意に、首を回して後ろを見た。さっきまであの男が立っていた場所。男が過去を打ち明けた時の表情を思い出す。

「明禅くん、行こう」

「あ、はい」

 一抹のやるせなさが経真の心にじんわりと広がる。それを振り払うように、一歩、踏み出した。

『アリガトウ』

 そう聞こえた気がした。

 思わず身体を反転させて後ろを振り返る。でも、見えたものはさっきと同じ光景だった。

 急に身体を引っ張られて驚いた様子の真樹奈が、「どうしたんじゃ?」と経真の顔を見た。

「え、いや……。何でもないです。急に振り返っちゃってすみませんでした」

 経真が歩き出した。

 いつの間にか経真の頬に、目の端からこぼれ落ちた、温い液体が伝っていた。だが、経真自身はそれに気づいていなかった。

 日高は随分先に行ってしまったようだ。ライトの光に後ろ姿が映らない。早く行かないと何か文句を言われそうだ。

 経真は歩きながら、疲労した身体で今後のことを思い浮かべた。

 召喚者組織『百鬼の國』。魍暗と父親。五星会との協力態勢。考えなければいけないことは多い。

──でも、おれにできることをやるだけだよな。人々を守ること。それがおれの一番の仕事なんだから。きっとじいちゃんだってそう言うはずだ。

 経真はぎゅっと口を結び、夜空を見上げた。雲が先を急ぐように勢いよく流れ、星々が瞬いていた。

 薄い三日月が放つおぼろ気な光。それが弱いながらも、まるで経真を守るかのように彼を照らしていた。


(了)

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退魔の経 立花獅郎 @shiro_tachibana

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