逆さ雪

@ninomaehajime

逆さ雪


 海をのぞむ浜の上だった。小さな漁船が乗り上げた砂浜が純白に覆われている。かろうじて波が打ち寄せる部分だけが砂地を露わにしていた。

 その波打ち際を見下ろし、石が積み上げられた墓が立っていた。磨かれてもいない自然の石を重ねただけの粗末な墓で、父親が眠る地の墓標としてはみすぼらしいにも程がある。

 ごめんなさい、おとう。こんな墓しか建てられなくて。

 おゆきは純白の地面に両膝を埋めながら、その白い両手を合わせた。涙はもう出ない。これからは独りで生きていかなければならないのだ。

「その墓は誰のものだ」

 背後から唐突に男の声がかかり、華奢きゃしゃな肩を震わせた。白い髪を揺らしながら振り返ると、そこには青年が佇んでいた。成人に達して間もないよわいで、逞しい体躯をしていた。菅笠の紐を顎で結び、肩に提げた振分ふりわけ荷物の下にカモシカの毛皮をまとっている。萌葱もえぎ色の袴を履いて、脚絆きゃはんの下はほとんど埋もれていた。

 特に目を引くのは、後ろに背負った大弓だった。おそらくは竹でできており、しなやかな反りを見せている。青年の背丈にわずかに劣る程で、腰には白羽の矢筈やはずを覗かせた矢筒が提げられていた。

 指で上げた菅笠の下から、薄い瞳が覗いていた。

「お父――父のものです。先日、亡くなりました」

 素直に答えてから、お雪は自らの浅はかさを悔いた。非力な女の身で、見知らぬ旅人に内情を明かしてどうするのだ。相手はこちらに害意を抱いていないとは限らないのに。

「そうか」

 青年は呟くと、お雪のすぐ隣に膝を突いた。身を引く彼女には構わず、菅笠を脱いで弓を下ろす。正座をして合掌した。瞑目し、背筋を伸ばした姿勢は僧侶と見紛みまごうほど堂に入っていた。

「俺も以前、父を亡くした」

 そう呟く横顔は精悍ながら、まだ少年のあどけなさを残していた。後ろでくくった髪が潮風に揺れる。

 黙祷もくとうを終えると、青年はお雪を見た。

「あんたが雪女か?」

 そう問われたお雪は、白く長い髪に真っ白い肌、真紅の瞳をしていた。



 お雪は以前、村で迫害を受けていた。

 理由はその白い肌と赤い瞳からだ。忌み子と罵られ、雪女と呼ばれた。早くから母親を亡くし、父と二人きりで耐え忍んだ。厄介者の娘を無下にせず、生前の父はこう言ってくれた。

「お前は雪女などではないよ。私たちの大事な娘だ」

 痩せこけた手で、老婆のような髪を撫でた。

 厳しい冬を思わせる生活が終わりを告げたのは、溶けない雪が降り出したからだった。周辺の土地を白く染め上げて、日の光を遮られた作物が育たなくなった。山野の獣が逃げ出し、漁で身を立てるしかなくなった。村人たちは次々と故郷を捨て、いつしかこの地には自分たち父子しかいなくなった。

「村を返せ、物の怪め」

 去り際に放たれた罵声を、今でも覚えている。

「私に何の用ですか」

 お雪は立ち上がり、着物の白い裾を揺らして身構えた。この男は、自分のことを知ってここへ来た。

「尋ね人がある。人に聞いて回ったら、ここには白い肌に白髪の雪女がいると教えられた。溶けない雪を降らせ、この地を不毛の大地にしたのだと」

 菅笠を被り、大弓を背負って立ち上がる。上背うわぜいの差があり、青年に見下ろされる形となった。この土地の外では、自分の存在はそう伝わっているのか。独りになっても、謂われのない悪罵あくばからは逃れられないものだと自嘲した。

「そうです。あなたも氷漬けにされたくなければ、一刻も早くこの地を去りなさい」

 雪女だとおそれられているのなら、逆に利用してやろう。女一人で生き抜くためなら、悪評の一つや二つ背負ってやる。この地で生きていくと決めたのだから。

 不慣れな脅し文句に、青年は臆した様子はなかった。薄い瞳で、お雪の赤い目を覗いた。

「あんたにそんな大層な力はないだろう。ただの人間じゃないか」

 己の異貌いぼうを目の当たりにして、そう評した人間は初めてだった。目をしばたたく。こちらの反応には構わず、海岸線を境に広がる銀白色の大地に視線を投げた。

 一見、冬の季節では珍しくない雪景色だった。見渡す限りの白が土地一帯を覆い、薄く雲が張った空から太陽が透けて輝きを散りばめている。菅笠を指で傾けて、青年は言った。

「春の景色じゃないな。これらは全て何かの死骸だろう」

 その確信めいた物言いに、お雪は思わず尋ねた。

「この雪が何なのか、知っているのですか」

「委細は知らん。だが、人の世のことわりから外れたものだ」

 匂いがするんだ。少し得意気になって、鼻の頭を叩く。まだ少年の仕草が抜けていない。お雪の赤い目にはそう映った。

 不思議な青年を前にして、お雪は困惑した。雪女と忌避される自分の姿を見ても平然とし、溶けない雪の正体を看破した。ただでさえ彼女の交友関係はなきに等しい。父親と過ごす日々だけが孤独から救ってくれた。

 銀白の景色を眺める青年の横顔に、お雪は先ほどの言葉を思い出した。

「あの、尋ね人というのは」

「ああ、兄弟を捜している。あんたと同じ白い肌に白い髪だ。ただ目は赤くない。何よりあんたは人間だ」

 なことを言う。まるでその兄弟が人間ではないかに聞こえた。

「生き別れたのですか」

「そうだな。以前初めて会った」

 竹の大弓を背負った青年は、鋭い眼光をした。

「今度は必ず殺さなければならぬ」

 潮の匂いがする風が吹いて、雪に似た死骸が舞い上がった。筋肉質な青年が発する殺気は、お雪を委縮させるには十分だった。着物の胸に白い手を抱く。

 怯える彼女の様子に気づいたのか、カモシカの毛皮を纏った青年は無邪気に笑いかけた。

「だが、当てが外れたみたいだ。父親を亡くしたばかりというのに世話をかけたな」

 波の音がする海岸を臨む墓に一礼して、青年はお雪に背中を向ける。草履ぞうりで白い死骸を踏み締めて、遠ざかる。

「さらばだ、達者でな」

 そのまま彼の背中を見送ろうとした。何かが唸る異音がして、青年の姿勢が崩れた。

「大丈夫ですか」

 生来の人の良さで、お雪は駆け寄った。彼は膝を突いて地面に突っ伏し、そのまま仰向けになって両腕を広げた。

「駄目だ、腹が減って体が動かん。悪いが、何か食わせてくれないか」

 青年は見下ろすお雪に力なく笑いかける。鳴っていたのは、腹の音だった。



 お雪は今の状況が不思議でならなかった。

 父と過ごしたあばら家に、見知らぬ青年といる。その彼は焼いた干し魚に無我夢中でむしゃぶりついている。貴重な食料だった。それでも飢えた人間を見殺しにするのは、きっと父が望むところではないだろう。

「いや、助かった。この地に着いたのは良かったものの、狩る獣もおらず、きのこ一本生えてなかったからな。おかげで死なずに済んだよ」

 家の食料をほとんどたいらげた青年は、胡坐あぐらをかいたまま深々と頭を下げた。おかげで明日の食事にも困る身になったお雪は返す言葉に迷った。

「……どういたしまして」

 板の間に横座りしたお雪は、かろうじてそう答えた。

 今日はすぐにでも漁に出なければならない。そう思案していると、まだ熱が残る囲炉裏を前にして青年が屋内を見回した。古い木壁には父が漁に着ていった刺子さしこみのがかけられ、釣り漁に使う釣具が残されていた。

「ここで親父殿と暮らしていたのか」

「ええ、ずっと二人で……」

 何気なく答えてから、また後悔することになった。暗に母親がいないことも告白してしまった。己の思慮の浅さに恥じ入る。今のところ青年に害意がないのが救いだった。

「そうか、俺も育ての親と二人で暮らしてきた。独り立ちをしたのはついこの前だ」

 菅笠と弓を傍らに置いた青年は屈託なく言う。そういえば、先ほど自分と同じく父を亡くしたと言っていた。

「その、お母さまは」

「俺が産まれたときに亡くなったそうだ。顔も知らぬ」

 自分と同じ境遇に親近感が湧くと同時に、無遠慮な質問だったと悔いた。

「すみません、気遣いが足らず」

「何を謝る。あんたは命の恩人だろう」

 筋肉質な青年は姿勢を正した。正座した膝の上に両拳を置く。

「名乗りが遅れたな。俺は山彦やまひこという」

 お雪も釣られて崩した足を揃える。

「私は、お雪と申します」

「良い名だ。名はたいを表すというが、よく似合っている」

 お雪は白い頬を染めて俯く。今まで父以外に褒められたことがなかった。こういったとき、どういう反応をすればいいのかわからない。

 山彦という青年は言った。

「あんたも少ない食料をわけてくれたのだろう。恩返しがしたい。何か手伝えることはないか」

 お雪は戸惑った。その実直そうな眼差しに、下心は感じられない。父を亡くし、男手が欲しいのは事実だった。ただ自分から言い出すのは、いかにもはしたなく思えた。

「いえ、私は」

「家の中にあれが入ってきているな。これでは戸も閉められないだろう」

 断る前に、山彦が戸口を見て言った。外からあの溶けない雪が入りこんできている。おかげで引き戸は開け放たれたままだ。

「ああ、こまめに雪を掻き出さないと家が埋もれてしまうんです。何せ溶けないものですから」

 そうか。青年は頷き、立ち上がった。壁に立てかけられた雪かきを手に取り、雪を掻き出し始めた。一掬いで大きな塊を外に放り捨てる。

「あの、お構いなく」

「遠慮することはない。俺は体力には自信がある」

 そう言って、手を止めることはない。結局その作業を見守ることになった。あっという間に戸口の雪が掃き出されて、引き戸を遮るものがなくなった。

「これで良いな」

「ありがとうございます。もう、これで……」

「そうだな。次は何をすれば良い」

 使い古された雪かきを肩に担ぎ、山彦は言った。お雪は途方に暮れた。おそらく彼に悪気はない。自分とは違う意味で、他人との付き合い方を知らないのだ。

 仕方なく舟を出す手伝いをしてもらうことにした。磯着いそぎに着替え、砂浜に向かう。陸に揚げた小舟を海に下ろすのは、女の力では重労働だった。父が存命中は、二人がかりで漁船を押した。

「これを運べばいいか」

「はい、二人で」

 そう言いかけて、お雪の言葉は途切れた。船底から砂粒が落ちる。青年は持ち上げた小舟を肩に担いでいた。そのまま波打ち際へと向かう。草履が深く砂に沈んだ。

「舟を担ぐ必要はありません。押していくだけで」

「そうなのか」

 小舟を担いだ山彦は、その下で照れ臭そうに頬を掻いた。

 この青年は何なのだろうか。お雪は驚きを通り越して呆れていた。久しく父以外の男性とは関わっていなかった。少なくとも、世の男児はここまで怪力ではあるまい。舟を漕ぐのは慣れていると言われ、仕方なくかいを握らせれば、小舟は転覆せんばかりの勢いで海面を滑った。

 船縁ふなべりに掴まりながら、お雪は抗議の声を上げた。

「少しは加減をしてください」

「すまん」

 ばつが悪そうに青年は頭を掻く。

 お雪はため息をつく。沖に出ると磯桶を浮かべて、肺に深く空気を取りこんだ。磯ノミを手にして、物珍しそうに眺める山彦を残して海中に飛びこんだ。視界が揺らぎ、目の前を魚の群れが通り過ぎる。素足を交互に振り、海底を目指す。

 本来は夫婦や親子で行なう漁だった。命綱を腰につけ、獲物を取ると合図をして船上にいる相手に引き上げてもらう。ただ、今日出会ったばかりの他人に命を預ける気持ちにはなれなかった。

 潮の流れは穏やかだった。海藻が水流に身を委ねる海底に辿り着くと、赤い瞳で獲物を探した。岩礁の中にあわびを発見して、素早く接近する。磯ノミで岩から剥がし、手に掴んだまま陽光が揺らめく海面へと急上昇する。

 父が存命中はよくこの漁を行なった。沿岸部はあの奇妙な雪の影響が強く、魚や貝類が少なかった。釣りと違って素潜りは好きだ。少なくとも海中を泳ぐ魚は自分を罵ったりしない。気兼ねなく一人になれる時間だった。

 村の人々がいなくなってから、自分たちで生計を立てなければならなかった。釣り漁の成果が芳しくないときは、お雪が潜って貝類を獲った。海面に上がってきた娘に対して、父親は感心した。

 お雪は泳ぎが上手いな。不意に目頭めがしらが熱くなった。

「あんた、よくそんなにも泳げるなあ」

 海の上に上半身を出し、磯桶に鮑を入れて縁に掴まる。一息入れていると、青年の声が飛んできた。赤い目を向けると、揺れる船の上で山彦が感心していた。

 少年のように瞳を輝かせる彼から顔を背けた。水に濡れた髪の下で頬を赤らめる。今まで身内以外から賞賛を浴びたことはなかった。

「こんなこと、誰でもできます」

「いいや、俺には無理だ。水もろくに泳げん」

 その言葉に呆れた。

「あなた、どうしてついてきたの?」

 思わず素の口調に戻っていた。海に落ちれば溺れるかもしれないというのに、青年は照れ笑いをした。

 微妙な表情をするお雪の眼前に、白い欠片がちらつく。空を見上げると雲が陽光を遮ろうとしていた。眉間にしわが寄る。海中に身を沈めて次の獲物を探した。

 急がなければならない。少なくとも今晩は、二人分の食料を確保していた方が良いだろう。



 外は吹雪いていた。

 あの溶けない雪が強く降り出す前に、漁を切り上げて家に戻った。本来なら旅に戻ろうとする彼を引き止めるべきではなかったのだろう。舟を出してもらったとはいえ、素性も知れぬ他人だ。邪心を起こさないとも限らない。

「今夜は吹雪が来るでしょう。泊まっていかれた方が良いかと思います」

 このまま野垂れ死にされては夢見が悪かった。幾分か勇気がいる勧めを、山彦はこうべを垂れて受け入れた。

「すまない、世話になる」

 既に雪は勢いを増していた。

 菅笠とカモシカの毛皮を脱いだ青年は、麻の服の下から恵まれた体格がよく目立つ。初めて食べるという栄螺さざえや鮑に舌鼓を打ち、二人で囲炉裏を囲んでいた。吹雪であばら家が揺れ、天井のはりが軋んだ。

「あれらはどこから来て、なぜこの地に降ってくるんだろうな」

 囲炉裏の火を映す薄い瞳が、薄暗い天井を見透かした。

「わかりません。ただ、寿命を迎えているんだと思います。その死に場所が、ここなのだと」

「大儀なことだ。その地に生きる人間の都合など頓着とんちゃくしない」

 湯呑の薄い茶を啜る。ふと唇を綻ばせた。

「理外の理か」

「え?」

「俺の育ての親があれらをそう呼んでいた。曰く、人の理解が及ばぬ存在なのだと」

 その表情は過去を懐かしんでいた。お雪は尋ねた。

「お父さまは、こういったものに詳しかったんですか」

「ああ、一緒に暮らしていても随分と謎が多い人だったよ。あれらは自らの理に従っているだけだ。人を殺しもすれば生かしもするのだと、そう教わった」

 その言葉はお雪の胸に溶けていった。かつて父の重荷になることを嫌って自らの命を投げ捨てようとしたとき、気まぐれに取り巻いた雪の舞いに心を奪われた。

 生きていても良いのだと、そう言われた気がした。

「一度、お会いしたかったものですね」

 しみじみとそう言うと、精悍な顔の陰影が濃くなった。

「だが、もうそれは叶わん。せめてあだを討たねばな」

 その低い声音が意味することに、お雪の顔が青ざめた。

「お父さまは、誰かに……」

「ああ、俺の兄弟である海彦うみひこが殺した」

 風の音が強くなった。

 狭い屋内に沈黙が立ちこめた。囲炉裏の中で炭が弾ける。乾いた唇で、お雪が口を開いた。

「だから、兄弟を捜しているんですか」

「仇だからというだけではない。海彦は生かしてはおけぬ。あれは存在してはならないものだ」

 どういう心境で口にしたことか、兄弟姉妹のいないお雪には計り知れない。ただ、胸に強い痛みを覚えた。その兄弟はきっと断罪されるべきなのだろう。それでも言わずにはいられなかった。

「お父さまを手にかけたことは、許されることではありません」

 両手で胸を押さえて、お雪は言った。

「だけど、この世に存在してはならないものなどおりませぬ」

 衝動的に言い放って、後悔した。山彦はきょをつかれた顔をした。お雪は俯く。彼の心情をおもんばからず、きっと怒らせてしまったに違いない。口の中が乾く。

「すみません、私は」

「そうだな」

 謝罪の言葉を、静かな声音が遮った。

「きっと、父さんならそう言うだろう」

 顔を上げると、彼は穏やかな表情を浮かべていた。



 一夜が明けると、吹雪は止んでいた。

 ほとんど夜明けと同時に起きた。父の布団で就寝した旅人の姿はなく、あばら家の外で何かを掘る音がした。外に出てみると、白んだ空の下で山彦が家の周囲に降り積もった雪を放り投げていた。

 お雪の姿を認めると、彼は雪かきを肩に担いで朗らかに笑う。

「起きたか。酷いものだな。これでは、吹雪のたびに家が埋もれるだろう」

「おはよう、ございます」

 遠慮がちに朝の挨拶をすると、「おはよう」と元気に答えて青年は雪かきを再開した。

 気候で溶けず、大地を覆っていくばかりの雪は度々父娘に移住を強いた。不幸中の幸いか、全ての村人が出ていって空き家には困らなかった。ただ、いずれその家々も雪の死骸に埋もれることになるだろう。

「ここまでしてくださらなくても構いませんのに」

「言っただろう、あんたは命の恩人だ。一宿一飯の恩もある。これぐらいは手伝わせてくれ」

 ここまで言われると、断ることができなかった。雪を模した塊が次々と宙を舞った。

 またいつ天候が荒れるかわからない。お雪は朝の漁に出ることにした。その前に山彦を見送るつもりだったが、彼は最後に協力を申し出た。さすがにいつまでも手を借りるわけにはいかない。固辞しようとして、山彦は無邪気に言った。

「あんたが海を泳ぐ姿がもう一度見たいんだ」

 お雪は何かを口にしようとして、言葉にならなかった。

 漁に出る前に、二人で父の墓参りをした。膝を突き、手を合わせて瞑目する。自分が亡くなったばかりで、見知らぬ男性といる娘をどう思うだろうか。心配するのか、それとも呆れるかもしれない。

 石を積み上げただけの、海を臨む父の墓に心の中で語りかけた。大丈夫だよ、お父。私は世間知らずだけれど、この人はたぶん悪い人じゃない。だって、こんな私をただの人間だと言ってくれた。

 隣の横顔を盗み見て、付け加えた。少しばかり、変な人だけれど。

「行ってきます、お父」

 そのわずかな時間ももうじき終わる。山彦は旅支度を終え、カモシカの毛皮に大きな竹の大弓を帯びていた。舟を出して漁を手伝い、浜に戻ればそのまま旅に出る心積もりだという。少しだけ寂しさがつのった。父が亡くなり、独りになったあばら家は静けさが際立つだろう。

 弱気になった自分の心を奮い立たせて、赤い眼差しを波打ち際に投げたお雪は舟へ向かう。大きさの異なる二つの足跡が砂浜に連綿と刻まれる。

 舟を出し、沖へと向かった。今朝も海は穏やかだった。山彦がゆっくりと小舟を漕ぎ、磯着を着たお雪が海面に白い指を差し入れる。水温は温かい。

 昨日と同じ場所に到着すると、山彦を残して海へ飛びこんだ。海面の陽光が遠ざかっていく。海底を目指して、足を動かした。その視野の端に、海中では見慣れない姿が浮かんでいた。

 最初は海月くらげかと思った。四方に広がった触手が揺らめいている。否、それは触手ではなく、長く白い髪だった。同じく白い矮躯わいくをしたそれは、人の形をしていた。

 あれは子供だ。まさか、溺れているのか。

 考えるより先にその白い人影に向かって泳いだ。この沖で海の中を漂っているのだ。生きているとは思えない。ただ、もしかしたらまだ間に合うかもしれない。急いでその子を抱きかかえて海面に出ようと考えた。

 その白い子供を赤い瞳に映し、違和感を覚えた。何も着ておらず、右手を欠損している。その前髪の下で口元だけが笑っていた。欠けた右腕の断面をこちらへと差し向けた。

 前触れもなく喉が締めつけられた。口から空気の泡が漏れ出す。不可視の指の形が首に刻まれていた。いくら両手で藻掻もがいてもその手には触れられない。まるで海水が意思を持って巻きついているかに思えた。

 立ち泳ぎする形となったお雪の眼前に、白い子供の顔面が間近にあった。どうやら自分の赤い瞳に興味を持ったらしく、左手の人差し指と親指で抉り出そうと近づける。その指のあいだには、水かきが張られていた。

 この子は人ではない。きっとトモカズキだ。自分と同じ姿をして、海へと引きずりこむ亡者もうじゃに違いない。

 瞼を閉じることさえ許されなかった。鋭利な爪先が近づいてくるのを、恐怖とともに凝視した。

 その指が止まった。トモカズキが海面を見上げた。刹那、両者のあいだを何かが切り裂く。白い子供は宙返りして遠ざかり、自由になったお雪が無我夢中で海面を目指した。

 必死の思いで海上に顔を出すと、声が飛んできた。

「早く舟に上がれ」

 大弓を構えた山彦の姿があった。薄い瞳で海面を見張っている。考える余裕はなく、小舟へ泳いだ。船縁を掴んで上がると、彼は既に櫂を手にしていた。逞しい背中を向けてお雪に叫ぶ。

「海は彼奴きゃつの狩場だ。振り落とされないよう掴まっていろ」

 お雪はとっさにげんにしがみついた。青年の怪力によって舟の穂先が海を切り裂いて走り出した。激しい波飛沫が舞う中、後ろ髪を引く山彦に叫ぶ。

「あれを知っているの」

「海彦だ。あまりに間が良すぎる」

 肩越しに頬が歪んでいた。

「どうやら追っていたのは、俺だけじゃないらしい」

 あの白い子供が、海彦。山彦が捜しているという兄弟だというのか。だが、あの子はどう考えても人ではない。

 あれは存在してはならないものだ。昨夜の山彦の言葉を思い出した。

 海面を駆ける小舟の上で、お雪は後ろを振り返った。広い水平線に白い人影が佇立ちょりつしているのを目の当たりにして、背筋が凍った。その小柄な影の遥か頭上で、海水の壁が高くせり上がっていた。

「津波が来る」

 そう叫んだ。山彦は後方を一瞥いちべつしただけで何も言わなかった。ただより力強く櫂を漕いだ。

 海がうねり、津波が押し寄せてきた。明らかにこちらの小舟よりも速い。このままでは、砂浜に辿り着いたとしても二人は呑みこまれてしまうに違いない。

 山彦は櫂を手放した。お雪が何か訴える前に、彼女の細い腰を軽々と担ぎ上げた。磯着が濡れて体の感触が直に伝わるだろう。命の危機にも関わらず、恥ずかしさが勝った。

「は、放して」

「悪いが、今は聞いている余裕がない」

 言うと同時に、舟の胴の間を蹴った。その勢いで真っ二つに割れた船体が、波に呑まれるのを上空から目撃した。二人は空を跳んでいた。

 束の間雲が間近になり、急降下する。お雪は悲鳴も上げられなかった。そのまま地面に近づき、かろうじて浜に届いた。背後から不気味な海鳴りとともに津波が迫ってくる。砂粒を散らし、山彦は華奢な体躯を抱えたまま再び跳躍した。陸を海水が呑みこみ、砂浜を越えて父の墓が消えるのを眼下に見た。

 ああ、お父の墓が、雪の亡骸たちが呑みこまれる。

 銀白色の大地を、押し寄せる波の線が塗り替えていく。この地で一生を過ごす覚悟を決めたのに、何もかもが水の泡となっていく。

 人並外れた跳躍力で斜面に建つ家々の屋根を跳ね、距離を稼いだ。白々しらじらとした村を呑みこんだ津波も、小高い丘に辿り着くまでに勢いが衰えた。その頂上に到着すると、お雪を白い地面に下ろした。すぐさま振り返り、自らの背丈に迫る大弓を構えた。白羽の矢をつがえ、筋肉を盛り上がらせて弦を引く。薄い瞳で標的を射抜き、指を放した。

 放たれた矢は丘の斜面をなぞり、白く泡立った海水へと突き刺さる。鋭く尖ったやじりは直進を続け、唐突に動きが鈍った。水のうねりに絡み取られ、半ばで矢は折れた。

 山彦が舌打ちする。海水から白い髪の毛が漂い、そのまま丘の斜面を浮き上がってくる。右腕が欠けた白い子供が、片手に折れた矢を握り、磯の匂いを濃く発しながら歩いてきた。前髪に隠れた表情は笑みをかたどっている。

「海彦」

 兄弟の名を叫び、山彦は再び弓矢を構えた。その足元で、這いつくばったお雪が小さく呟いた。

「――雪が、動いてる」

 白く細い指の形に凹んだまっさらな粒子がざわめいている。

 対峙した兄弟のあいだを、白い柱が遮った。両者は思いがけず見上げた。白い残骸が逆巻き、空へと立ち昇っていく。同じ現象は広範囲で発生した。丘の下の海水さえ巻き上げ、雪を模した何かが遥か空へと還っていく。

 山彦は考えた。よもや、これらは寿命が尽きたのではなく休眠していたのか。海彦が引き起こした津波によって、大地を覆う純白が一斉に目を覚ました。

 笑い声が聞こえた。

 山彦は後ろを振り返った。そこにはお雪が両手を掲げて回っていた。その振る舞いはさながら童女で、目尻から涙をこぼしながら白く長い髪を振り乱す。

「生きてた。皆、死んでなかった。またどこへでも飛んでいけるんだ」

 逆さ雪に取り巻かれて、お雪は泣き笑いのまま踊り続けた。仇敵きゅうてきとまみえた状況にも関わらず、山彦はその姿から目を離せなかった。

 海彦は、その気になれば兄弟を殺せただろう。ただ己のことが眼中にもない山彦の様子を見て、白髪に覆われた顔から笑みが消えていた。どこか寂しそうな眼差しを残し、逆巻く雪に紛れて姿を消した。

 追い求めた兄弟がいなくなっても、山彦は踊るお雪の姿に見とれていた。空を舞う雪と戯れる彼女は、まさしく雪の化身だった。

 美しい。ただ、そう思った。

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