第4話

 109の赤い文字に、センターリボンのついた赤いテープ。

 釜付は下したてのスーツに身を包んで、ハサミを持ち、これからの成功に想いを馳せていた。

 兄に無理やり巻き込まれて、そのままズルズルと半グレ集団の仲間入りをし、事故を起こした時は自分の人生は終わりだと思ったが、全く奇妙なことに今はこうして自分の店のオープニングセレモニーに立っている。驕り高ぶってはいない、自分は確かにアパレル業界に向いていたとは思うが、結局あったのは運だ。賢い弁護士に出会えたこと、そしてちょうど数か月前に冤罪をかけられた青年が自殺してくれていたこと、脅迫と言えなくもない、半グレ集団の仲間内での度胸試しの音声が残っていたこと。どれが欠けてもこうはなれなかっただろう。新しい名前に新しい自己番号セルフナンバー、新しい人生。そう、人生が終わらなかったばかりではないのだ。抜けたいにも抜けられずにいた半グレ集団、切っても切れない兄弟の縁。それら全てから俺は解放されたのだから。

 ターゲット層の20代前半の人間たちからの羨望の眼差し、テープに刃が入っていく。


「釜付運也」


 釜付は思わずびくりとその過去の、終わった人生の名前が叫ばれた方向を見た。いや、余計なことをするな、今の自分は佐藤信だ。わざわざ事件を起こした新東京ドームから離れて下積みをしてきたんだ。

 ここは再び新東京ドーム、しかしあれから10年が経った。覚えている人間の方がおかしい。そうだ、自分の聞き間違いに違いない。釜付は頭をふるふると振った。過去を忘れて、生きていくと決めたのだ、過去をいつまでも引きずり、今を生きることなど、損で、馬鹿のすることで、そうしないことは自分自身だけでなく周りの、ひいては世界のためであると。


「釜付運也」


 さきほどより大きな声で、名前を呼ばれた。観衆たちも小声でどうしたのかと小声で騒ぎ始める。そのざわめきの中心には一人の初老と言っていい貧乏くさい男がいた。


「釜付運也、そう名乗るんだ。今すぐ!!そしてここで、俺の前でっ、罪を認めろ!!」


 警備員たちは人混みをぬって男に近づいた。そして取り押さえようとする。しかし、男はその見た目に反して、警備員たちを投げ飛ばした。叫び声が上がり、事態は一気に緊迫する。男は、反町は、それら全てを無視する。ひかれたレッドカーペットを踏みにじり、釜付へと走る。釜付は何も考えられなかった。ただその手の内の、包丁の刃に映る、変えられなかった自分の顔を見た時、怒りが湧いた。


「今更っなんなんだよっ!!俺はっ俺はこんなに頑張って今を生きてんのにっ!!邪魔すんじゃねぇよ!!どこのどいつだよお前っ!!」


 唾、汗、涙、それらをまき散らしながら、釜付は叫んだ。

 二人は赤いテープを境にして今、立ち止まっていた。かつて非行少年であり、加害者であった釜付は成功者然としている。かつて父親であり、被害者であった反町は負け犬の風貌だ。

 今更。邪魔。どこのどいつ。

 反町はこの10年間は全て無意味なものだったのではないかと自分に問うた。この疑問を抱くことはこれが初めてではなかった。名前や自己番号を変えられてしまえば顔しか手がかりはない。それすらも怪しい。執念と、運で、ここまで追い詰めた。その中、一度や二度ではない、何度も自分のやっていることに正当性があるのか、いや、正当性などはいらない。意味があるものなのかを考えた。

 澄が生き返ることはないのに。


「そうだ、澄は生き返ることはないのだ」


 包丁をより強く握り直す、これから上げる赤い血しぶき。

 死者は生き返ることはない、死んでしまえば全てが遅い。生者は死者のその恨みを晴らすのみ。


『やめてっ!!』


 反町の耳に、澄の声が聞こえた。

 あの日は、反町と、早くに病気で亡くなった反町の妻との結婚記念日だった。夕食の席でふと思い出してそんなことを呟くと、「命日にお祝いするのはおかしいけれど、お母さんだってたまには楽しみたいはずだわ」と澄が言った。そして家から少し出たところにあるケーキ屋にケーキを買いに行った。反町は気恥ずかしくあって、テキトウに送り出したのを覚えている。

 投げだした生クリームと血がベタベタと混ざりあったその顔を、娘だと、確認した。


「澄…!!」


 自分の元に生まれるのがもったないないほどの、真面目で、優しい子どもだった。自分がこんなだからそうなったのかもしれないが。

 自分がこんなんだから…。


「21110917185hk-jp。反町仁。あなたを殺人の容疑で現行犯逮捕します」


 言葉は反町の手首をしっかりと掴んだ。反町はいつの間にか、三人の警官。新東京ドーム予期犯罪防止課の面々に囲まれていた。反町は包丁を、そっと離した。その刃は向かう先を失い、床の上でただ情治の顔を映していた。情治はここでも、歌舞伎町での事件との差を感じ、奥歯を噛みしめた。

 こうなってしまえば、反町には刑罰が与えられる。たとえそれを終えたとしても、今もこちらを見ている目は百を超える。反町はもう、日常を生きることができない。

 釜付は腰を抜かして震えていた。言葉は灯に反町を任せた。そしてあの長い足で、テープを乗り越えて、釜付を見下ろした。


「署まで来てください。聞きたいことがあります。

釜付運也さん」


 その名前で呼んだのがわざとであることは、情治にも分かった。

 釜付もまた、日常を生きることはできない。


 アパレルブランドMEGUのオープニングセレモニーは、二人の人生と同じく、幕も閉じぬまま終わりを迎えた。

 

 それから一週間が経ち、ニュースもあまり騒がなくなり、都市伝説系配信者が釜付についての遠からず近からずと言った考察を並べている頃、情治は反町との面会を取り付けていた。


「あの時はどうもすまなかったな」

「あ、いえこちらこそ…いや、おかしいか…」


 やはりこうしていると普通の人間なのだ。むしろ普通過ぎて情治はおかしなことをもごもごと口の中でこねくり回した。反町はそれに笑う。


「なぜ、警官さんがここに来たんだい?」

「それは…」


 情治は、漠然とした問への答えを常に探していた。自分がやっていることの正当性、意味を探していた。そういった軸、揺るぎない正義がなければ、いつか折れてしまうような気がする。仮にも警察官が、犯罪者から正義を学ぼうなどということ自体間違っているのかもしれない。しかし、反町が包丁を落とした時から、情治の心は決まっていた。

 それに加えてもう一つ、間違った感情も抱えていた。


「あなたは、誰かが隣にいて、その誰かが説得していたら、あんな事件、起こさなかったと思いますか?」


 罪の意識だ。


「そうかもしれない。ここ数か月はそのために、澄の第二の人生の申請をし続けていたのだと思う」


 灯が一度死を迎えて復活したように、適切な申請を行えば、Brainによって事実上の不老不死を得ることが出来る。それが最初政府がBrainを管理する時の宣伝文句だった。それにより反発はかなり抑えられた。当初は政府に不信感を抱いていた人も多かったそうだが、事実灯のような人間が現れ始めると、皆その恩恵に預かろうとした。しかし事実として、申請を行った人間全員が受けられるわけではない。政府が開発した乱数装置によって選ばれた人間だけが、その恩恵に預かれるのだ。

 調べてみると、反町は、通算で127回、その申請をしていた。いたずらな申請が増えても困るため、一度に書く書類は数十枚、掛け合わなくてはならない人物、行政機関も片手では数えられないと聞いている。

 娘を助けたかった。そして助けてほしかった。


「でも、澄はいない。それに、あの日思いとどまったとしても、俺の中での『殺してやる』という感情は消えなかったと断言できる。

なぜなら、今俺がそう思っているからだ」


 『殺してやる』という感情に、Brainは反応した。そして予期犯罪防止課が動いた。


「でも、あなたは人を殺していない」


 アクリル板に映った自分は涙を流していた。その向こうに、眉を下げて微笑む反町の姿が見えた。


「じょうじ、という名前はどういう漢字を書くんだ?」

「感情の情に、政治の治です」


 反町の腕には手錠がかけられている。そして扉近くには腰かけてあくびをする警察官がいる。


「情を、治める。いい名前だ」


 遠い昔、哲学者パスカルは人間を『考える葦』だと言った。

 人間という存在は、自然界で最も弱い葦の一茎。しかしそれを人間たらしめているのは思考することができるからだと。

 本能と経験から、脳とBrainは思考している。


「俺は、人間が脆い葦に宿る意味をもう少し考えたい」


 きっと葦というのは、体でも脳でもあって、体でも脳でもなくて。ひどく脆く繊細で。殺意と殺人の中間、悲しみと涙の中間にあるものだから。

 情治は椅子から立ち上がった。軽く簡易的な椅子に腰が痛くなる。そして冷たいこの面会室を後にしようとした。自動ドアが開いた時、アクリル板が叩かれた。後ろを振り向くと、反町も立ち上がってこちらを見ていた。後ろの警察官は驚いて警棒に手を回しながら注意している。


「一つ嘘を言った。

俺が最後の最後、あれを踏みとどまれたと言えるのかは分からないが、包丁を落としたのは、澄がいたからなんだ」


 情治もあの時、やけに無抵抗だったのを覚えている。言葉が手首を掴んでいたから、冷静に諦めたのだろうと思っていた。

 澄がいたから。


「澄は、心の中にいる。質問の答えは、その声に傾ける耳があるかどうかなのかもしれない」

 

 情治は頭を下げて、涙を拭ってから廊下に出た。


 前時代的なドアノブにはもうまごつかない。


「言葉さんはどこにいますか?」


 情治はその狭い部屋の中を見回し、灯と密理に言葉の居場所を聞いた。いつものデスクには書類が置いてあるだけだ。


「あーたぶんコーヒー飲みに行ったわよ」


 密理が答える。廊下の先にあるコーヒーメーカー。あと10分もしたら帰ってくるというのに情治は待ちきれなかった。自分の我儘を話したいと思った。折れそうにない彼女の、軸を知りたかった。


「ちょっとぉー。いくら言葉ちゃんに会いたいからって。そんな貧乏ゆすりしないでよ」


 自分の席に座りながら、いつの間にか貧乏ゆすりをしてしまっていた。密理の注意で途端に恥ずかしくなる。


「いやっ…その、僕は、言葉さんに聞きたいんです。

この仕事のやり方はおかしいんじゃないかって。反町のような人間は、その、止められるんじゃないかって」


 先ほどまで情治をからかって笑っていた二人の顔が曇った。二人は目くばせし、そして目を伏せた。


「情治ちゃん、それはやめといたほうがいいかもしれないわ」


 密理は指を髪にからませながらそう言った。


「なぜですか?」


 密理は、その厚くてチャーミングな唇を噛んだ。そしてもう一度灯と目を合わせる。灯が頷き、口を開いた。


「これ以上、言葉を109事件に関わらせたくないんだ」


 情治は灯が言葉にこの事件を降りろと言っていたのを思い出した。そしてその時の言葉の様子がおかしかったことも。


「言葉にあの事件のことを思い出させたくない」

「あの事件?」


 折れそうにない彼女の軸。


「言葉ちゃんはね、小さい頃にご両親を殺されてるの。そしてその犯人はいまだに捕まっていない」


 彼女にとってのこの仕事は、反町にとっての包丁と変わらないのだろうか。それどころか、彼女はその力を使って、本当に反町と変わらなくなってしまう、いや、反町よりも先に進んでしまうのではないか。

 彼女の机の上の書類が目に入った。

 それはとても分厚い、外部思考装置と外部行動装置接続の、第二の人生の、申請書だった。











 








 







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anticipate ー新東京ドーム予期犯罪防止課ー 家猫のノラ @ienekononora0116

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