第3話

「ねぇお兄ちゃん、私がやったわけじゃないんだよ?ないんだけどね。もし、もしだよ?ママに内緒でアイス二本食べちゃったら、捕まる?」

「捕まるかもな」

「やだぁお兄ちゃん助けてぇ」

「おい聞いてたぞ」


 リビングでは穏やかな空気が流れている。しかしその隣のベランダでは空気は張り詰め、まるでそこら中に糸が張ってあるみたいだ。通っただけで頬が切れてしまう。

 腰を抜かしてしまった女性は、警察ということに驚いていた。容疑者を見張りたいと頼むと、子どもたちがやりたいやりたいと騒ぎ、女性は何か私たちが犯人から恨まれてしまうようなことにはならないのかと念を押した後、家に入れてくれた。狭いベランダは好都合にも屋根がついており、向こうからはよく見えないだろう。全員を守るために、容疑者が誰などは一切言わない。窓ガラス一枚に、それ以上の壁を築いている。

 三人は女性が出してくれた簡易椅子に腰かけていた。といっても背もたれはないし、背もたれがあったとしてもゆるりと背中を預けはしないだろう。

 三時間ほどが経とうとしていた、いまだ動きはない。当たりはすっかり暗くなっている。灯はニコチンなど爪の先ほども入っていない税金の塊である煙草を取り出し、火をつけようとしたところで、人の家だったと思い出したようだった。煙草と同じ内ポケットからチュッパチャップスを取り出した。甘い飴が暑さで溶けて、張り付いてしまっている包装を無理矢理破ると、マーブル模様になった茶と白の飴を加えた。もぞもぞと飴の先から伸びた棒が動いている。


「勘解由くん、釜付の裁判の資料は聞いたか?」

「いいえ」

「ではここで聞くといい。要点だけまとめておいた」


 言葉は情治にそう言うと、手首につけているデバイスを操作し、裁判の資料を送った。骨に音が伝道し、そしてそのまま聴覚、視覚とジャックされていく。現実の上に、過去に起きた現実が薄く重なる。裁判が、目の前に広がる。


 被告人、釜付の後ろにカメラは置かれている。釜付は背もたれのない長椅子に座り、左右の警察官に拘束されている。手には手錠の姿を変えた、縄がかけられていた。そして空間の右側には弁護士。左側には検察官。その奥には裁判官が3人並んでいる。


『以上のことから、釜付運也は彼自身の意志で車を改造したわけではないと主張します。そして彼はこの通り反省しています。さらに、彼はまだ17歳、未来のある、未成年です。これがどういう意味か、裁判官の皆さまはよくお分かりだと思います』

『それは今回の裁判とは無関係の発言です。撤回してください』

『…分かりました。では、公平な判決をお待ちしております』


 おかしい。もちろん裁判官の判断は公平だ。しかし、日本の裁判において検挙された事件のほとんどが有罪となるように、過言かもしれないが、弁護士の仕事は不当な刑罰を受けることを防ぐことだ。こうして、裁判官や検察官に向かって流ちょうに喋るようなことは、何か明確な勝利を見越しているような表情をすることは珍しい。

 そして言葉の編集により時間は飛び、判決が言い渡される。


『被告人を、自動車の自動運転システム部分の改造罪及び、それが原因とする過失致死罪により、懲役4年の実刑判決とする。そして、出所後は、偽名、偽自己番号を政府から当て、それで生活することを許可する』


 裁判官は、黒い服を着る。黒は何にも染められない色だから。何の権力にも、風潮にも、利益にも、惑わされてはならない。公平の使徒なのだ。


『待ってください!!』


 傍聴席に座っていた男が立ち上がった。入り口付近に立っていた警察官が少し身構える。


『おかしい、おかしいでしょう。だって!!俺だって、色々勉強してきたんですよ。これがおかしいことぐらい分かる。短すぎる!!それになんですか、偽名に偽自己番号って!!こいつは、こいつはっ、犯した罪を忘れて、生きていくってことですか!?』


 男は傍聴席の柵を乗り越えようとした。警察官がそれを抑えようとする。


『喋らせろっ!!何が、未来ある未成年だっ!!そんなの、そんなの澄だって、澄だって一緒だ!!それが、それが一瞬にして、こいつのせいで、消えてなくなったんだぞ。なのに、なんでこいつの未来は守られるべきだとされるんだっ!!』


 検察官は歯ぎしりをして拳を震わせた。弁護士の表情は変わらない。裁判官は目を閉じた。透明な剣と天秤をその手に持っていた。


『こいつの未来も奪われるべきだ!!法がそれを行わないのならっ俺が必ず…』


 男の叫びは、警察官によって止められた。そこで映像も終わる。重なりは消え、目の前には狭いベランダ。

 釜付は最後まで、こちらに背中を向けていた。


「あの、警察官が裁判に首を突っ込むべきではないとは思いますが、素人目にしたってこれはおかしくないですか」


 情治は、額に吹き出した汗を拭って問うた。


「10年前のその頃は、未成年の容疑者に厳しい刑罰を与えて、それを苦に容疑者は自殺、その後無罪の可能性が出てきた、というセンセーショナルな事件が取りだたされている真っ最中だったんだよ」


 すでに飴は舐め切ったチュッパチャップスの棒を加え、灯は答えた。


「でも…!!でも、これは裁判ですよ。そんな世間の風潮になんて流されないでしょう、いえ、流されてはならないんだ。個人の感情は、排除するべきでしょう?」


 灯と言葉は向かいの玄関を見張っていた。瞬きがない。情治だけが、必死に訴えていた。


「だけどな、その裁判を行ってるのは、裁判官から被告人まで全部人間なんだぞ。今の技術力なら、いくらでもコンピューターに公平性を任せられる。でもそうはしていない。感情が重要なんだよ」

「じゃあ、成迫さんは、この裁判が公平だと思うんですか」

「それはまた違う問題だ。でもな、証拠とかをちゃんと聞いてると、釜付にも情状酌量の余地があることが分かる。言葉、お前印象操作的な編集をしてるんじゃないのか?」


 灯はチュッパチャップスの棒を口から出して、携帯灰皿に入れた。火はついていないから、カランという間抜けな音がするだけだ。


「今、10年前の裁判について論じる必要はありません。勘解由くんには、被害者遺族の抱えた無念と復讐心だけを分かってもらえれば十分です」


 言葉は向かいの玄関を見ていた。しかしそれは、またどこも映していないのだ。


「その被害者遺族が、今度は加害者になろうとしているって時でもか?」

「これは業務を円滑に進める上での情報共有であり、殺人を肯定しているわけではありません」


 情治は二人の間に揺れる、別種の緊張に肌がひりついた。


「あの警察官さんたち、ご飯、食べませんか」


 男の子の後ろに隠れながら、女の子が恥ずかしそうにこちらに声をかけた。リビングから母親と、仕事から帰ってきたであろう父親も見守っている。


「今日のメニューはかつ丼だ、刑事にぴったりだろ」

「そりゃ参ったな」


 灯がおどけてみせると、男の子は歯を見せて笑った。灯は食べる気満々だったが、言葉と情治は最初こそ遠慮した。しかし、すでに三人分の丼はできており、すぐにベランダに出されてしまったので、その前には抗えなかった。


「美味しい、ですか?」

「うん。美味しいよ」

「はい。とても」

「ありがとな嬢ちゃん」

「嬢ちゃんじゃない。私芽来めくって言うの」


  芽来の反発に灯は面食らった後、そうかそうか悪かった可愛い名前だなと笑った。ズルいぞと男の子の方もやってきて、未音みおと名乗った。その後情治たちも聞かれるがままに名を名乗った。

 かつ丼は、家庭的な味というとなんだかプロの下位互換のように聞こえてしまうが、そうではなくて、本来の意味のそれと言うのだろうか。暖かいのだ。

 見張りを続けつつも食べ終わり、兄弟は寝る支度に入った。おやすみなさいと声をかけられ、それからすぐに兄弟たちの声は聞こえなくなった。3時間後、家中が静かになり、気がつけば月が高くに上っていた。


「交代で寝よう」


 灯の提案に情治と言葉は頷き、言葉、情治、灯の順に寝ることになった。夜がふけて、さらに重たい静けさが落ちる。屋根から漏れる月光が、言葉の寝顔を照らす。三時間が経った。以前動きはない。言葉は起こされるわけではなく、訓練された体内時計で目を覚ました。

 

「交代だ」


 体内時計で目覚めるというのは、本当は眠れていない証らしい。疲れすらも感じないようにまで、訓練されてしまったのは幸か不幸か。


「言葉さん、僕、ずっと考えていたんですけど。

今、反町の部屋に行ったらいいんじゃないですか?」

「なぜ?」

「今回の事件は、衝動的なものではないです。それに、あの裁判の映像を見て、反町とは話ができると思うんです。だから、説得を心見れば、殺人を本当の意味で最初からなくすことができるんじゃないですか」

「勘解由くんは、殺人の始まりとはなんだと思っている」

「え、その。行動の始まりですよ、凶器を持って、被害者の元へ一歩踏み出した時」

「いや、違う。予期犯罪防止課Anticipate、警察庁ではそうは考えていない。犯罪を思考した瞬間からそれは殺人の始まりだ」

「でも…それでは人を殺したいほど憎むことは、それ自体が罪だと言うのですか」


 ドーム越しでも、星が、輝いていた。それは月に隠され弱弱しかった。一つ一つの輝きを、ないがしろにしているような。


「…もう寝るんだ」


 言葉は短くそう言った。月は動き、情治が横たわる場所には光はもう当たらない。閉じずともの暗闇の中、目を閉じてみる。公平、未来、復讐、殺人、予期。

 正義。

 嫌だとまた、我儘を吐く。


 同じく訓練されいている情治も約束の時間に起き、灯と交代した。言葉との間に沈黙は続いた。しかしどうしても聞かなければならないと思い、まとまらない思考で口を開いた、が、その一言目を発するより先に、現れた者がいた。


「ことはちゃんも、じょーじも早起きだね」

「芽来ちゃんもね」


 パジャマ姿の芽来が、目をこすりながら、ベランダにやってきた。まだ朝の五時である。言葉はちゃんづけなのに、自分は呼び捨てなのかと、情治は拗ねる。


「すみません、寝られなかったですか?」

「うん!!」


 芽来の素直な返答を、言葉は真正面から受け取って、ひどく申し訳なさそうな顔をした。


「私ね、すっごいワクワクしたの。だから眠れなくなっちゃった」


 芽来は言葉の顔など見ていない。本当にただ素直に、朝日にも似たその笑顔で、そう言った。


「そうかい嬢ちゃん」


 灯はいつの間にか起きていた。そして口が寂しくなったのか、飴を取り出した。ドーム越しに太陽が昇る。星の光は月の比ではなく、隠されている。その代わりか、飴が灯の手元で輝き、口元に運ばれた。


「あーズルい」


 芽来はその様子を指さし、そう言った。灯は急に指をさされ、自身でこれは煙草だと自己暗示をかけていたのか知らないが、何のことだと戸惑った。そしてその先に飴があるのだと気がつくと、笑って、箱からもう一つ飴を取り出した。はいよ、と芽来に渡すと、芽来はまた朝日のように笑って受け取った。

 目を閉じたいほどに、眩しい。

 夜に考えていたことを、消し飛んでしまうような、そんな輝きがあった。これを守りたいと、それが正義だと、信じられる。


「私ね、実は警察官さんに憧れてるの」


 それを聞いた三人の、大人の表情は硬かった。

 それから、三時間後、午前八時、事態は動いた。


「行くぞ」


 向かいの、24号棟6階14号から、反町が出てきた。

 反町の表情はよくは見えないが、その動きにはふらつきがない。精神に異常をきたしているとは思えない。やはり歌舞伎町の事件とは違うと情治は確信する。反町は話が通じるはずだ。

 体が動く、現場、1〇9に着くまでに、反町を止めたい。


「勘解由くん、そんなことをすればここに隠れさせてもらった意味がないだろう」


 思わずベランダから、身を乗り出したが、その肩を、言葉に掴まれた。


「でも、これが最後のチャンスじゃないですか」


 反町は、階段を降りて行った。あの階段だと、地下にある駐車場か。ここからでなければやはり気がつくのが遅れていただろう。そうだ、ここに隠れたからの意味はそれではないか。犯罪を予期できる、この予期犯罪防止課Anticipateの意味はそれではないか。


「昨日も同じことを言ったはずだ。最後のチャンスなどもうとうに過ぎている。殺人はもう始まっているんだよ」


 ―2149032190do-jp、鮫島敦人。あなたを殺人の容疑で現行犯逮捕します。

 あの、ラブホテルでの、言葉が鮫島に手錠をかけるその時に言ったことが、思い出される。そうだ、言葉は、殺人未遂ではなく、殺人と言った。まだ死人は、出ていないのに。


「情治、今は、言葉の言うことを聞け」


 灯は、飴の棒を、携帯灰皿に仕舞った。情治は二人の背中に引きずられるようにして、芽来たちの家を出た。


「警察官さんたち頑張って」


 芽来はその三人の背中に手を振った。


「勘解由くん、君はこの部署、扱う事件について守秘義務を負っているね?」

「はい、それは配属の前に、言われました」


 駐車場から出てきた車の運転席に反町の姿を確認した。そして少しきついシートベルトに締め付けられながら、反町を追っている。向かう先は渋谷だ。

 運転席で、ハンドルを握る言葉に今更のことを聞かれる。予期犯罪防止課に配属になる前、何も説明はなかったくせに、守秘義務に関してだけ口酸っぱく言われた。


「それが何故だか考えたことはあるか?」

「それは…あ、公にされていない…」

「そうだ。もう一度言おう、この予期犯罪防止課は公にされていない。それはここで使われている技術も同様だ。確かに死体のない殺人など矛盾もいいところのようだと思うかもしれないが、正直に殺人思考を感知したなどと言うこともできない。

昨日の問いに、私は言葉不足だったな。私たちができることは待ちだ。目に見えるところまで殺人が発達するのを待つ。適切なタイミングで、手錠をかけることが仕事だ」

「でも、やっぱり、それは…」


 それは、嫌だ。これは我儘なのだろうか。芽来の憧れる、かつて自分の、いや今も捨ててはいない、憧れた警察官は、こうではないと、情治は思った。

 若者でごった返す、スクランブル交差点を抜け、赤赤と光る109の文字が見えた。



 












 




 


 




 






















 


 





 



 

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