月と怪物のプラネタリウム

すきま讚魚

月と怪物のプラネタリウム

「いつか、本物の星空を視てみたいんだ」

「ああ、そうかい。けれども星空なんて、宇宙だなんて、そんなにいいものでもないものさ」

 そんなイデアのさゝやかな呟きに、でろんととぐろを巻いたまま、眠たそうな口調でバクナワは答えます。

「そんなこと、自分自身の目で視てみなければわからないじゃない」

「ふぅん」

 月の観測所というところです。イデアは生まれた時から、このプラネタリウムの中しか知りません。外の世界はとっても恐ろしく、まるで永遠不変の常闇とこやみのような場所だと怪物のバクナワが教えてくれたのです。

「いいじゃないか、創りものの夜空でも、眺めることができるのだから」

 ほぅら、ごらんよ、きれいだろう? そうずぃっともたげた首と不恰好な灰色の翼でその中の天体のひとつを指しながらバクナワはいいます。

 明け方の東の空です。ひときわ美しく輝いているようなそれは、金の星だといつだったかバクナワは教えてくれました。

「でも、ぼくはそれでも——」

 そっとイデアの瞼をおさえるように、バクナワはちぐはぐな自身の翼で触れてきます。飛べないバクナワは、ずっとずっと昔から、そうしてイデアのそばにおりました。

「うん。うん。イデア、いつか、本当に望むのならば——わたしが叶えてあげようね」

「おやすみ、バクナワ」

「そうさ、おやすみよ、イデア」

 トントントン、トトトン、と太鼓のような音がとおくの方から聴こえておりました。イデアがそっと寝息をたてはじめたのを知ると、バクナワはそっと天上のライトの紐をひいてはあたりを暗くしてみるのでした。

 イデアの身体は、いくすじもの機械やチューブに繋がれておりました。そっと、その呼吸音をひろいあげるかのように、あたりの空気も機械音もふるえるのです。

 そうして今日も、イデアはプラネタリウムに映し出される天体を眺め、起きては、バクナワととりとめもないはなしをしてはすごすのでした。

 そのプラネタリウムのそらは暗いだけではなく、無数の塵やガスがときおり湯気のようにはきだされては、成れなかった星たちを彼方へと流してゆきました。ぽんと光っては、いなくなるものもおりました。それをバクナワは「惑星の寿命さ」と語るのです。

 あるとき、プルートゥと云うものがこの観測所を訪れました。プルートゥは恭しくお辞儀をしては、「我が月の君よ」とイデアに語りかけました。

「ひとつめのわたくしと、もうふたつめのわたくしより、お別れのご挨拶にうかがったのです」

「けれどプルートゥ、ぼくはあなたに会うのは初めてです」

「いいえ我が月の君、わたくしはあなたを存じておりました。それでいいのです」

「会ったばかりなのに、お別れだと云うのですか?」

「ええそうです。わたくしはうんと、遠いところへとまいるのです」

「遠いところ? それはこの月からは視えない場所ですか?」

「そうですね、どんなところからも遠い遠い彼方です」

 イデアの手に触れたプルートゥの手は、青白く仄かに輝いては、少しばかりこのプラネタリウムの中を照らします。ちかちかとした氷のような冷たさが伝わってきました。

「それはこのプラネタリウムにも映しだされないないようなところ?」

「ええ、それはそれは遠いところですよ」

 ほろりと笑みをこぼしたプルートゥの噺をイデアはもっともっと聴いてみたい気持ちになりました。けれど次の瞬間には、まるでライトが切れてしまったかのように、プルートゥも仄かな光もどこにもいなくなってしまいました。

「ぼくも本物の星空を視にいきたい」

「その身体で?」

 ふぅとバクナワが目を伏せながら云いました。

「プラネタリウムの中は、美しくて安全なのに?」

「それでもだよ」

 イデアはまだプルートゥの触れた冷たさの残る手のひらを握りしめながら云いました。スコープで視た景色よりも、頭上に広がる映された景色よりも。

「遠い遠い彼方に、プルートゥを探しにいってみたいんだ。もうぼくも十分大人だよ。本の知識や投影よりも、本物の星空に触れてみたいと思うんだ」

 あゝとバクナワがなんとも云えないような声をこぼしました。

 うぉおおおんと大気がわななき。ばくり、と巨大な海竜が、翼をひろげお月さまを呑み込みました。

 月だと思っていたそれは、それ自体がプラネタリウムだったのです。

 世界から盗まれたプラネタリウム、色とりどりの星空の記憶を綴じ込めたそれは、呑み込まれながら、光の筋をこぼし、透き通り、くるくると円をえがきながら飴玉のように消えていきます。まるで誰かの涙のように、塵やガスが小さな雨のように舞いました。


 かたちのない空気だけが、そこに残りました。

 イデアは初めてほんとうのそらに触れたのです。

 もうそこにはすっかり何もおりませんでした。永遠不変のような暗闇が、ほんとうの星空がどこまでも広がっておりました。

 宙も天体も、音も光も、何もかもは、プラネタリウムの記憶の彼方にしか存在しないものだったのです。

 

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