平凡な彼の秘密

白木 春織(しろき はおる)

第1話

 パリオリンピックが終わった。

 彼女は今、バリにいる。 

 

 店の表に貼られたオリンピックのポスターを剥がしている時、僕はふと、その事実を思い出した。

 貼られていたのは地元のオリンピック選手とのタイアップ企画。選手がメダリストになったこともあいまり、本部が一層熱を上げていた企画だった。その名残のようにポスターはすっかり乾き切って色褪せている。

 僕の珠子つまを初対面の人に説明する時、いつも使う言葉は民俗学者。幼馴染にはオカルトマニアと愚痴る。行動力はピカイチ。郷に入っては郷に従えがモットーの彼女は、現地に赴けば、木の根から発酵させたという真っ白な酒さえ、喜んで嗜む。

 確か、今回は東アフリカ古来の呪いの儀式を取材した後、タイの呪術マーケットに赴き、最後はバリ島の呪術師を訪ねるんだったか。

 一ヶ月半にも及ぶ取材旅行は、春と夏の恒例行事だ。

 講師として勤める大学の長期休みに合わせ、世界各地、謎多き風習の残る場所へと、小さな足を長く長く伸ばすのだ。


 僕たちの結婚式を開くとすれば、友人代表のスピーチは大貴ひろきにお願いするだろう。彼は僕らのキューピットである。

 ーー僕たちが出会ったのは大学四年の夏だった。付属男子校からの腐れ縁で形成された工業大学。暑苦しくも侘しい、野郎ばかりの夏休みも終わりに差し掛かった頃。

 その日もバイト終わりに、六人。いつものメンバーが、酒や、割引の惣菜やらを持ち寄って、僕の家に集まっていた。オールで徹マンをやっていたっけ。そうだ、その日は僕も珍しく調子が良く、その時もリーチでイーソウ待ちをしていたんだ。

しかし、僕の元に来たのは美しい孔雀いーそうではなく、鶏ガラのような貧相な体の男。大貴は鍵の空いた部屋に、チャイムも鳴らさず、踵の踏まれた靴を投げ捨てて、雀卓に体当たりをかましてきた。

「おい」

 崩れ去った麻雀牌に、僕が慌てた声を出すも、大貴は気にも留めない。

「なあ、聞いて」

 そんな大貴の言葉を拾ったのは、正面で負けの続いていた進藤しんどう。咥えっぱなしだったタバコを灰皿に押し付け、

「どしたん」

と尋ねる。

 僕はどうにか立て直せないかと模索していたが、両側の二人も、ゲームを続ける気はないようで、ジャラジャラと山を崩していた。

 その段になると、僕も抵抗する気は起きず、あくびかため息かもわからない息を吐きながら、ぱいを混ぜる手に加わった。

清女せいじょとの合コンに行けることになった」

 大貴の言葉に、心地よい牌のぶつかる音が、ピタリ、と止まった。卓の傍で眠りの狭間にいた面々も「清女」の言葉に、キョンシーの如く起き上がる。

「は」

 みんなの心の声を代弁したのは、貞子のように起き上がった林田はやしだった。

「だから、清女」

「そんなこと知っとう、なんでお前ごときが、清女との合コンいけるとや」

 林田の乱暴な物言いにも大貴は上機嫌に答えた。

「硬式テニス部の先輩の彼女さんが、清女らしくって、伝手作ってくれて、サッカー部の友達と誘われていくことになった」

 ピースサインを掲げる大貴は、この面子で唯一、スポーツ系のサークルに入っている。そして、硬式テニス部、サッカー部は僕らの西工業大学にあって、数少ない、女子と交流を持てるモテ部活だった。しかし、清女との合コンとはまたあまりに、プラチナチケットだ。

東清とうせい女子学院」

 幼稚園部からの一貫したお嬢様女子大学。福岡では一般に「東女とうじょ」と略されるが、西工《にしこう

》のおれらは羨望をこめて、清女せいじょと呼ぶ。

 三流大学の陰キャ集団に打ち込まれた迫撃砲はくげきほうに、皆が言葉を失っていると、大貴はとどめとばかりに、とんでもない火炎瓶かえんびんを放り込んでくる。

五対五ごーごー予定なんやけど、誰か一人、こっから行っちゃらん?」

 昼夜逆転のおとぼけ脳に電流が走り、固い結束を誇った集団にも一瞬でヒビが入った。

「スマブラ大会」と言ったのは進藤。

ツキのきていた僕は「麻雀」と言い放つ。

みな一様に、喧々囂々けんけんごうごう、自分の得意ジャンルを挙げていく。

 結局、合コンに行ける一人を決めるための種目を決めるためのじゃんけんという、なんとも不毛な争いから始まり、決まったスマブラ大会の決勝で進藤を下した僕は見事、西工代表のゼッケンを得たのだ。

 それから僕と大貴は、珍しく千円ではない美容室に行き、右手右足を一緒に出しながら、デパートの高層階に入ったいい匂いのするメンズファッションの店へと連れ立った。アシンメトリーな髪型の垢抜けた店員に上下丸ごと、ニット帽から靴下まで選んでもらう。一ヶ月のバイト代が軽く飛んでいったが、厚紙の丈夫な紙袋にはそれだけの価値、僕たちを少しでも強くする武器が入っていた。

 

 そんな、見かけだけは頑丈に固めた一世一代の大勝負の日。そこで、僕は珠子たまこに出会った。

 大学生にしては少し背伸びした、イタリアンレストラン。そこに薄青うすあおのワンピースを纏って現れた彼女は、脚色された二次元の美少女たちと比較しても、なんら遜色そんしょくはなかった。

 というか、ブルーライトでも再現できない彼女の輝きに、僕は一瞬にして魂を抜き取れてしまった。珠子をその瞳に映した瞬間、他の清女ブランドの女子たちは、のっぺりとしたへのへのもじへと姿を変えてしまったのだ。

 それほどに彼女のカルピスのように白い肌と、チェリーのようなぷっくりとした小粒の唇は魅力的だった。同じように思ったのは、僕だけではなかったようで、その場にいた男たちは全員、彼女の星を散りばめた視線を奪おうと必死だった。

 しかし、彼女は隣に座ったへのへのもへじ達に無理やりつれてこられたのだろう。不機嫌さがありありと浮かぶ顔を隠さない。

 そんな彼女が初めて目の色を変えたのは、大貴が擦りに擦った鉄板ネタの秘蔵動画を見せた時、

「そういや、この前さ、ベランダでタバコ吸ってたら、なんかUFOみたいな光が、目の前を通ったんよね」

 大貴がそう言ってポケットからスマホを取り出す。すると、彼女は対角線上にいた僕たちの元まで近づいてきて、興味津々にスマホ画面を覗こうとする。僕たちは彼女のフローラルな香りにノックアウト寸前だった。

「どれ?」

 首を傾げる彼女に大貴も慌てて意識を戻す。

「あああ、これ、」

 と、画面の三角をタップした。

 星も浮かばない夜空に、青白い光が確かに不規則な動きをしている。僕も散々見せつけられた大貴の鉄板ネタの代物だ。彼女は僕たちの間から身を乗り出すようにして、大貴のスマホを注視すると、白百合のような手で光の部分をピンチする。

「鉄板の円盤型かな、いや球型かも、葉巻型ではないよねえ」

 ぶつぶつ呟いている彼女の様子に、サッカー部の大貴の友達が声をかける。

「珠子ちゃん、こういうの好きなの?」

「好き、UMAとか、呪物とか、オカルト関係全般」

「へーそうなんだ、オレ、ばあちゃん家で座敷童みたことあるわ」

 彼女の気を引こうと、僕の左隣にいた、硬式テニス部の男が餌を引っ掛ける。

「ほんと」

 彼女は距離感をバグらせ、彼の目前、数センチまで迫る。

「ほんとほんと。ばあちゃんも見たって。あれって心が綺麗な人ほど見えるんでしょ」

 そんなことをのたまいつつ、下心丸出しの男は自分の祖母をネタに、彼女のか細い手首を掴もうとする。しかし、

「お、おれもむかし地元にツチノコ出るって話があったわ」

 さらにその隣にいた男が、別のニンジンを振ってくる。掴もうとした手は、小川の小魚より早く逃げていった。

 彼女の興味の対象がわかったのだろう男たちはようやく、彼女を奪うためのスタートラインに立ったのだ。

 ――電波じゃん。

 一方の僕はといえば、動画配信でよく流れるネットスラングが、脳内に続々と流れた。 

 僕の固定された『普通』という枠から離れた彼女の行動に、心にあった危険スイッチが押されてしまった。

 彼女には悪いが、僕をかわいがってくれたばあちゃんはそう言う話が嫌いで、僕の根幹にもそれが根付いている。あんなにも熱く燃え上がっていたマグマは、冷たいばあちゃんの存在に瞬く間に、冷やされてしまったのだ。

 僕はようやく、へのへのもへじ一から四の顔を認識しようとするが、時すでに遅し。皆、口のへは鋭角に鋭く尖らせていた。

 ここからの挽回は無理だと諦め、大人しくしていようと、ドリンクメニューに手を伸ばす。すると、

「君は?」

 音叉おんさのような透き通った声に、僕が反射で振り向くと、珠子がパーソナルスペースをガン無視して、真後ろにいた。

「へ」

 途中から追うことを諦めた話の流れに、僕は間抜けヅラを晒し、目を瞬かせる。

「だから、きみのとこにはないの」

 変わらず主語のない言葉に、チラリと大貴の方に目を向けた。

「だから、おまえのところには変なもんはいないのかって」

 呆れた顔をして突っ込んだ大貴を、だからってなんだ、と睨みつける。

「ツチノコに、座敷童に、UFO、人魚にんぎょ、みんなたくさん知ってるんだね」

 一番端のサッカー部は人魚を出したのか、とジト目を送る。

「んー、あるかもだけど、興味はないかな。」

 さらりと告げた僕に、彼女はキョトンとした後、小さくなって、黙り込んでしまった。

 一瞬にして、その場の空気が凍りつく。やらかしたと気づくが、もう遅い。

 彼女は、へのへのもへじ一に引き取られ、大人しく、自分の席に戻っていく。男はもちろん、女達の眉も、「へ」が直線になり、眉間に寄っている。小さく庇護欲そそる彼女は女子達からもかわいがられているらしい。

 結局、葬式のようになった空気は戻らず、僕はこの出来事から、一時期、クラッシャー田主丸たぬしまるの異名を取ることになった。

 

 そんな嵐が過ぎ去ってしばらく経った十月の終わり、事件は再び起こったのだ。

田主丸たぬしまる―」

 空き教室でいつものメンバーと、カツサンドを頬張っていた僕は、呼ばれた声に振り返る。

 僕を読んだのはソース顔のイケメン、どこかで見たような顔、と思い出す前に、

「おー高嶺たかみ」

 と隣の大貴が反応した。ああそうだ、合コンで一緒だったサッカー部の高嶺だ。

 ちなみにあれ以来、僕と高嶺に交流などなかった。そんなやつにどうして呼ばれたのか、と首を捻れば、日焼けした立派な体躯の後ろから、白い顔が覗く。

「珠子ちゃん」

 僕より先に反応したのはやはり大貴で。

小柄な彼女は、男達の浮き足だった空気にも臆することなく、大きな一歩で僕の元までやってきた。

「少しいいかな」


 僕は彼女に請われるまま、体育館裏へ連れ出された。

 その日の彼女の格好は綿のティシャツに、ジーパン。小柄な彼女が背負うには大きすぎるパンパンに詰まった登山用のリュック。

 合コン時の可憐なワンピース姿とは違う。きっとこれが彼女の標準仕様なのだろう。そんな姿にようやく、彼女も僕と同じ空気をすって生きる生物なのだと理解する。

 そんな彼女に僕が

「何のよう」

 と問えば、

「君に会いたくて」

 と、体育館裏とセットで九九パーセントの男子が勘違いしそうなセリフを告げられる。 

しかし、くだんの一見で、彼女の僕に対する好感度は、その辺に生えたぺんぺん草よりも下だと理解していた僕は一パーセントの可能性を模索した。

 ーー待てよ、彼女はオカルトが好きだと言っていた。冷静に考えてみれば、男からチヤホヤされ慣れている彼女にとって、塩対応をかました僕は、彼女にとってはUMAのように稀有な存在かもしれない。珍獣として扱われる不安に僕がビクビクしていると、

グー

 間延びした明らかにお腹の鳴った音がした。僕ではない。隣を見れば、腹を空かせたテンプレとも言える格好で、珠子が腹を抑えていた。

 僕はタッパーに詰め込んだカツサンドを何も考えずに、彼女に差し出した。

「食べる?」

「いいの?」

 彼女は瞳を輝かせ、カツサンドに手を伸ばした。なんだ、オカルト以外にも彼女は目を輝かせるのだ、と僕は拍子抜けした。しかし、美しい指でつままれたサンドイッチが珠子のさくらんぼの口に挟まれる間際、僕は重大なことを思い出した。

 そうだ、あれは昨日バイト帰りに買った、見切り品のとんかつを使ったカツサンド。

 賞味期限も昨日までの代物だった。気持ち程度の野菜も冷蔵室のくたびれた葉野菜を適当に挟んだものだ。僕の中では、お馴染みの昼食メニューだが、とても清女の彼女に食べさせていい代物ではない。

 あの、と僕が止めようとする間もなく、珠子は口一杯に分厚いカツサンドを頬張った。

「おいしい」

 ーーいっぱい食べる君が好き〜。

 脳内にCMソングのワンフレーズが流れる。

 危険スイッチによって冷やされたと思った心は、下から爆発的に吹き上がった源泉にホカホカと一杯に満たされる。

 そういえば、ばあちゃんも、いっぱい食べる子に悪いやつはいないって言ってたっけ。

 それからというもの、珠子は時々僕の大学にきては、僕のなんちゃって、カツサンドを頬張った。ちなみにあの後、お腹を壊すこともなかったらしい。彼女が外目も気にせず、大きなカツサンドを口いっぱいに、リスのように頬張る様は見ていて、気持ちのよいものだった。


 ーー平凡な僕と、突拍子もない美少女の珠子、傍目にはチグハグな関係ではあったのだろうが、人としての波長は不思議と合って。

とある昼下がり、食事を終えて、飲み物を買いに行くのと同じタイミングで、振り返りざま、付き合ってくれないか、告白した。すると、彼女もまるで、一円を貸してくれ、とでも言われたような気やすさで、いいよ、と頷いてくれた。

 珠子とは、お付き合い、同棲と、とんとん拍子、一年の間であっという間に関係が進んでいった。

 結婚を切り出されたのも一年目の記念日だった。

 珠子からプロポーズされたのだ。社会人一年目、就職先はアルバイト先のスーパーと、慣れた環境ではあったが、変わった立場に、僕は二つ返事で頷くことはできなかった。

 しかし、小動物のようなまんまるの瞳を傾けられ、なにが理由なの、と問われれば、理詰めで反論するような材料もなく。僕たちはフォトウエディングだけを撮って、あっという間に籍をいれた。

ーー以来十年、僕達は仲睦まじい夫婦のままだ。


 ーー残暑の熱に浮かされた僕が、セピア色の思い出とポスターを抱えて、バックヤードへと戻れば、休憩室から女性達の声が漏れてきた。

 つま先から歩くようにと教育された足を、かかとから踏み込むようにして、ぺたんぺたんと行儀の悪い足音を鳴らす。気持ち少しだけ、速度も下げた。

「お疲れ様です」

 制服のキャップを整えつつ、ドアの手前から、「お」の発音をしながら部屋へと入る。そこには昼休憩をとっていたのだろう、パートのベテラン従業員三人が近所の噂話をするよう、狭いテーブルに寄って、弁当をつついていた。

「お疲れ様、店長も休憩?」

 アルバイト時代から世話になっている、この三人には店長となった今でも頭が上がらない。

「はい」

「ならこっちで一緒に食べんね」

 そういって、リーダー格の坂本さかもとさんが、ロッカーに囲まれた四人がけテーブルの開いた席を叩いてくる。

「すいません」

 僕は持参したお弁当を持って、体を丸めながら、入り口に一番近い席へとお邪魔する。

「あいかわらずえらかねー。男の人なのにきちんとお弁当ば作ってから、うちの人は水筒の一つも自分でいれんばい」

 対角に座った坂本さんが、僕の弁当を見ながら、ポテトサラダの大きなじゃがいもを頬張った。

「これもよかったら食べんね、きゅうりのキューちゃんもどき、友達に習ったとよ」

 隣の角田かくたさんは家から持参したのだろう、タッパーに入った漬物を勧めてくれる。

「ほんと、角田さんはなんでん上手うまかですね」

 と、角田さんを持ち上げ、漬物を頬張るのは、正面、二人よりも若い茶髪の田中たなかさん。

 僕は勧められた漬物を箸の反対側で取ると、ひっくり返した弁当の蓋に置いた。冷えたご飯にキューちゃんもどきを少しだけのっけて頬張る。本当だ、美味しい。

「あっそういえば、この前教えていただいた水羊羹、妻にも好評でした」

 僕は、ここぞとばかりに角田さんに報告する。

「よかった。市販のあんこ使えば、水羊羹も意外に簡単やけんね。型は牛乳パック使えばよかし」

「はい妻も半分、ペロリと食べてました」

 たまちゃんの至福の笑みは色褪せず、僕の胸にある。角田さんは機嫌よく、キューちゃんのレシピも、余った特売チラシの裏にマジックで書いて手渡してくれた。すると、坂本さんがキューちゃんをつまみながら、聞いてくる。

「そういえば、今年も奥さん、どこかいっとっらっしゃるちゃろ?」

「はい、アフリカと、タイ、あとは、バリですかね。もうすぐ帰ってくるとおもいます」

 僕はレンジで作った、だし巻き卵を口に運びながら答えた。

「忙しかねー」

 坂本さんの言葉に追随するよう、両側の二人も頷いている。職場の人には、彼女のことは民俗学者だと言っている。

「はー。店長も大変やね。毎回、毎回」

 坂本さんは少し焦げた卵焼きを口に運びながら、僕の代わりとでもいうようにため息を吐いた。

「いえいえ」

 慣れましたから、とは死んでも口に出したくない。たまちゃんのあの無垢な笑顔を、ほどよくぬくい体温を、感じ取れないのは寂しい。

 けど好きなことを追いかけている彼女だからこそ輝いている。僕が首を突っ込むことはないが、陰ながらには応援しているのだ。

 あまり良い話の流れではなさそうだと、僕は右手の時計を見て、驚くふりをした。

「すいません、昼から、キャンペーン商品の発注があったこと忘れてました」

 そう言って、お弁当をかき込むと、早々に休憩室を後にした。

 あと三十分、どう時間を潰そうかと、胸ポケットに手を伸ばすも、そこにはなんの膨らみもなく、休憩室に携帯を忘れたことに気づく。今の時代、何をするにもスマホは必需品。休憩室に回れ右して、トボトボもどっていると、

「今日も帽子、外さんやったよね」

 先ほどより大きな声が休憩室から聞こえてくる。まずい、油断した。今からでも靴音を鳴らすかと思ってはみたが、僕は、ふと、そのまま休憩室の扉にもたれかかって、腕を組んでみることにした。

「わたし、見ちゃったのよね……」

 坂本さんが名物家政婦ばりのためを作る。二人の生唾が飲み込まれるのを待っているのだろう。

「田主丸くんの頭のてっぺんに十円ハゲがあるの」

「いやー若ハゲ」

 おそらく、口元を押さえたであろうものの、よく響く悲鳴を上げたのは田中さん。そして、話題の中心にいたのはやはり僕だった。

 おいおい、セクハラもいいところだぞ、と思わずキャップの上から、頭を押さえた。

「奥さん、今年も海外に行ったって、それもなんか危ないとこばっかりよね」

 か細い角田さんの声もする。

「ねー。私やったら旦那さんほっぽり出して、そんなに長く家を開けれませんよ」

「奥さん一回見せてもらったけど、すごい美人やしね。田主丸くんも苦労しとらすとよ」

 なんでも知ったふうにいうのは、坂本さんの癖だ。

 きっと昔の呼び方で話題にされるあたり、悪口ではない。本当に心配してくれているのだろう。他意はない。しかし、それが本人にとって、必要なおせっかいであるかどうか、彼女達には関係ないのだ。

「田主丸くんもパッとせんけんね。いつも同じチェックシャツやし、時計はなんかゴム製のやつじゃなかったっけ。大事なものってよったけど、もう三十やろ。せめて金属の時計をしたがいいっちゃなかとかね」

「「ねー」」

 これはたまちゃんが僕のことを考えてくれた時計だ。大事にしてなにが悪い。

「カッパのごつなったらどうしよう」

 角田さんがあまりに悲壮な声で言うから、それ以上は居た堪れず、僕は、そっとつま先で地面を蹴るようにその場を後にした。


 たまちゃんから帰ってくると連絡があったのは、その日の仕事終わり。家の鍵を開けて、部屋の電気をつける前に、スマホの画面が光ったのだ。僕はそのままメッセージを開く。

『明日の正午に福岡につきます』

 ということは、二時くらいには、この家に帰るはず。よかった。明日は休みだ。

出迎えの算段を考えていると、暗い部屋に車のヘッドライトが入り混む。視線が自然とリビング奥の窓へと移った。ベランダにはグリーンカーテンにと、毎年きゅうりを植えている。

 ふと、角田さんのくれたキューちゃんのレシピが浮かぶ。

 が、昼間の出来事が突っかかり、仕事用のトートバックのファイルに伸ばす手を止めた。

 たまちゃんは、帰国するといつも僕のご飯を食べたがる。和食ではなく僕のごはん。だけど、できるだけ白ごはんに合うものを作るようにはしている。キューちゃんはきっとほかほかご飯に相性抜群だろう。でも……。

 

 たまちゃんが帰ってきたのは、次の日の二時過ぎ。大きなスーツケースもそのままに、リビングへと突っ込んで、ソファにダイブを決め込んだ。

「おかえり、たまちゃん」

 僕はキッチンから声をかける。

 たまちゃんは、背もたれからひょっこり顔を覗かせ、なにより尊い笑みをこちらに向けてくれる。

「ただいま」

「ごはんできてるよ。手洗いうがいしてきて」

 汁物を運ぶついでに、猫のように伸びたたまちゃんに声をかける。たまちゃんは嬉しそうにうなずいて、洗面所にかけていった。


「いただきます」

 たまちゃんのご飯茶碗は夫婦茶碗の大きい青い方。いつも以上に大盛りよそってやる。

 今日のメニューは、たまちゃんの大好きな和風だし汁のロールキャベツに、明太子を中央に巻いた甘い卵焼き、キャロットラペに、具沢山の豚汁。そして、

「これ、おいしい」

 たまちゃんの瞳が宇宙の煌めきを見せたのは、小さく刻まれた黒い物体をほかほかご飯に乗せて、かき込んだ時だった。

「それね、スーパーの従業員さんに習ったんだ。きゅうりのキューちゃんもどきだって」

 僕の言葉に、たまちゃんはベランダへと視線を向けた。グリーンカーテンは午後の日差しを優しく遮ってくれる。

「毎年してるよね」

「小さい頃からばあちゃんがやってたからね。涼しい、美味しい、一石二鳥」

 たまちゃんはもう一度それをかき込むと、おかわりとご飯粒を口元につけながら綺麗な茶碗を差し出した。この笑顔を前にすれば、僕のちっぽけなプライドなど、ペラッペラのちり紙にすぎない。結局、キュウリのキューちゃんを作ってしまうのだ。

僕はたまちゃんに山盛りによそった茶碗を差し出しながら尋ねた。

「ねえ、たまちゃん聞いていい」

「ん?」

 たまちゃんは、ハムスターのように口いっぱいにご飯を頬張りながら首を傾げる。可愛い。

「たまちゃんはどうして僕を選んでくれたの」

 たまちゃんは初めて会った時のように、キョトンとした顔をさらす。ごくりと、小さな喉を大きく鳴らして全てを飲み込んだと思うと、

「結構いい加減で、何事にも深く関心がないところ」

「へ」

 思わぬ言葉に、僕はピンクの茶碗を取りこぼしそうになった。

「繊細そうに見えるけど寝たら、意外になんでも忘れるタイプだよね」

 確かに、胃痛なんかには苦しめられたことはない。

「共感することもないけど、一緒に盛り上がるわけでもないけど、一回身には取り込んで、でもやっぱり自分にいらなかったら、ポイって簡単に捨てちゃうし」

 たまちゃんは、言葉を発したことでさらに勢いを得たのか、マシンガンのように喋り出す。

「オカルトの世界って、マリアナ海溝に潜るみたいに、思考が深く深く一点に入っていっちゃうことも多いんだよね。でも君、私が深刻な顔で言ったって、へーそんなこともあるんだって、結構普通に流すよね」

 やばい記憶にない。そんなこといっただろうか。

「出会った時も全く興味なさそうでさ」

でもそれが逆に私としては新鮮で、とたまちゃんは笑った。

「そんなこともあるんだ、って流せるってことは他にも世界が広がってるって、知ってるってことじゃない。そしたら、ああ、海って縦にも深いけど横にも広いだって、いろんな海があるんだって気づかせてくれて、暗かった視界があっという間に開けるんだよね」

 たまちゃんがかけてくれる言葉に、僕は全身の熱が上がったような気がして、並々と注がれたコップの水を一気に口に含んだ。

 たまちゃんは、まだいる?と言葉を紡ごうとするから。僕は結構です、とストップをかけた。

 そして、続け様、たまちゃんが唐突に、

「君のこどもが欲しいな」

 といいだす。たくさん飲んだ水がむせて違うところに入る。

「ゴホッゴホッは?本気」

 僕が慌てて身を乗り出すと、

「うん、子どもってそこにいてくれるだでエイリアンみたいに未知の存在じゃない。きっと可愛くて探究心が詰まってて、君に似た存在を毎日育めるだけで幸せだろうなあ」

 エイリアンと子どもを同列にしてしまうのに、顔は慈愛を滲ませた表情をみせるから、結局、僕はそんな彼女に勝てはしないのだ。

 僕もたまちゃんとの愛の結晶が欲しい。

 しかし、僕は、その前に大きな問題を片付けなければならない。

 ずっと、結婚してからも、後回しにしてきた事実。

 僕もたまちゃんに伝えないといけないことがある。

 僕がたまちゃんを好きな訳に、金属に弱い体質と、小さい頃から消えない十円ハゲのようなおできの正体。それに、実家が先祖代々きゅうり農家の理由を。

 ーーきっと大丈夫、彼女は笑いながら僕に、僕たちの未来の子どもに、さらに興味を持ってくれるはずだ。

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平凡な彼の秘密 白木 春織(しろき はおる) @haoru-shiroki

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