第10夜

 今上帝の後宮には、帝の寵愛を一身に集める中宮がいる。……というよりも、主上は中宮ただ一人を寵愛するあまりに他の女御や更衣を置くことを認めず、左右の大臣にも『娘の入内なんて企んだ暁には、これまでに握った弱みを白日の下に晒して島流しにしてやるからな』と睨みを利かせている、と言った方が正確な説明ではあるのだけれど。


 過去を語れば長くなるが、主上も最初から中宮一筋だったわけではない。それどころか、今、『中宮』と呼ばれている橘則実の娘は、主上の三番目の妻だった。

 主上にとって東宮の頃からの長い付き合いだった『承香殿の女御』が病を得て内裏を出ることになったとき、承香殿の女御は『自分の代わりの話し相手に』と、己と面差しの似た従姉姫を主上の側仕えとして残していった。もちろん、それは『知らない政敵の娘に帝の寵愛を奪われるくらいなら、旧知の従姉に譲った方がましだ』という考えだったのだろう。

 主上は、承香殿の女御が内裏を去ることを悲しんだが、次第に、美しく才気煥発な従姉姫に惹かれるようになり、彼女を左大臣の養女として女御に迎え、彼女が皇子を産んでからは中宮に据えた。

 聡明な中宮は、日嗣の御子である一の宮を産んでからも謙虚で奢侈を好むこともなく、後宮で淑やかに主上の訪れを待っている――……というふうに、世間には噂されているらしい。


「うえぇぇんっ! かあさまっ、四郎がひどいんだっ!」


 なお、実際には、後宮での暮らしだけでも気を配ることが多すぎて、他のことまで手を広げる余裕がない、というだけの話なのだけれど。

 沙那の真実の不満が世間の噂に反映される日は、訪れそうになかった。


「どうしたの、一の宮」


 涙と鼻水でべちょべちょに汚れた顔のままで、母の袴の裾にひしと抱きつこうとする角髪みずら姿の幼子――一の宮を、沙那は慌てて抱き上げた。衣装を丸ごと駄目にされる前に、彼の顔を綺麗に拭ってやらなければならない。

 それにしても、幼児とは不思議な生き物である。ほんの少し前まで、一の宮は、年上の子らに混じって、にこにこと機嫌よく蹴鞠をしていたというのに、何が気に障って大泣きしたのだろう。

 一の宮の鼻をかんでやりながら、彼が拙い言葉で訥々と語るところを聞けば、概ねこういうことらしい。


「中宮様っ! 申し訳ございません! 私どもが至らなかったせいで、一の宮様が毬を落としてしまい……っ!」


 最近ようやく蹴鞠の所作を覚えたばかりの一の宮は、童殿上わらわでんじょうをしていた公卿の子らの蹴鞠の輪に混ぜてもらったらしい。

 ところが、公卿の子らもまだ子どもだ、幼子相手に上手く手加減してやることができなかった。彼らがいつも通りに、同じ年頃の子らと蹴鞠をするときのように、つい強く蹴り出して遠くに飛んだ毬を、一の宮は受け止められずに地面に落としてしまった。つまり、一の宮は、蹴鞠の『負け』が悔しくて泣き出したのだろう。

 童殿上とは、将来の出世が見込まれる公卿の子弟が、幼い頃から内裏に出入りして礼儀作法を学び、早くから人脈を築くために行うものである。ここでの絆が一生ものの財産になるのと同時に、ここでの失敗は一生ものの負債になってしまう。

 将来の帝である一の宮から『四郎がひどい』と名指しで非難された大納言の息子は、可哀想なほどに青ざめた顔をしていた。彼の脳裏には、これをきっかけに大納言家そのものが没落する未来の像も浮かんでいることだろう。


「……事情は分かりました。四郎、怖がらなくて大丈夫よ。あなたやお家に悪いことは起きません。私が約束します」

「っ、ありがとうございますっ! 中宮様!」


まずは可哀想な少年を落ち着かせるのが先だと、沙那が口と開くと、四郎たちは露骨にほっとした顔になった。やはり、萎縮させてしまっていたのだろう。


「それから、一の宮。あなたはもっと、大人にならねばなりませんね」


 顔を拭い終えた息子に向き直って、沙那が怖い顔を作って見据えると、一の宮は小さな唇を尖らせて不満を示した。


「だって、四郎がわるいのに。宮は、ちゃんと、けまりもできるもの。きょうだけ、まりを落としたのは、四郎がいじわるしたんだもの」

「一の宮」

「おとなになるって、なに? おとなになったら、宮は、ないちゃだめってこと? はかせのじいじが、そういってたの」

「お父さまがそんなことを? いいえ、そういう意味ではありません」


 一の宮が『博士のじいじ』と呼ぶのは、一人娘の入内を見届けて、心残りも無くなり、学問の道に戻った父、則実のことだ。

 父には一の宮の講学を任せていたけれど、孫可愛さにか、真正面から叱ることができないらしい。これは、我が子をなかなかの井の中の蛙に育ててしまったものだ、と沙那は小さく息を吐いた。


「一の宮、しっかり聞きなさい」

「かあさま?」

「いいですか? 今まで、あなたが蹴鞠で周りに勝てていたのは、接待です。あなたの実力ではありません」

「中宮様っ!?」


 四郎たちが悲鳴のような声を上げたのは、『まだ幼い一の宮さまに残酷な真実を伝えるなんて可哀想だ』という非難だろうか。気にしても仕方がない、我が子相手に真実を伝えることすらできない親にはなりたくなかった。

 言葉の意味を知らない一の宮は、きょとん、とまるい目を瞬かせた。


「せったい、って、なに?」

「周りの大人は、あなたに気を使って、手を抜いていた。あなたのために、わざと、負けていたのです」


 平易な言葉で言い換えれば、幼い彼にも意味が理解できたらしく、彼は目を瞠り、ぎゅっと沙那の袖口を握り締めてきた。不安になって、落ち込んでしまったのだろう。


「うう……っ」

「でもね、一の宮。あなたは子どもなんですもの、大人や年上の子に勝てなくたって落ち込まなくていいの。皆、あなたと同じ年頃のときは、蹴鞠が下手だったわ」


 膝の上に抱き寄せた一の宮は、まだ小さくて軽くて幼い。この子はきっと、これからもっとずっと大きく、強く、賢く、健やかに育つはずだ。そうであってほしいと、母として願う。


「今日負けたのは、あなたが弱くなったからではないわ。負けることは、駄目なことじゃないの。だから、誰かのせいにして、『負け』から逃げないで」

「でも……っ、宮はっ、けまり、がんばったのにぃっ!」

「ええ、あれだけ蹴鞠の練習をしたんだもの、あなたはどんどん上手くなっているわ。それを母さまは知っているわ。だから、そのうち、皆にも勝てるようになる。わざと負けるなんて妙な気の使い方をしてもらわなくても、自分の力で」


 きっと、『勝ち』を譲られるよりも、自分の力で勝てるようになった方が楽しいわ。

 沙那の言葉に、一の宮はこくりと頷いた。目尻にはまだ涙を滲ませていたけれど、『四郎、ごめんね』と謝ることまでできたのは、かなり頑張った方だろう。

 我が子が無性に愛おしく思えて、そっと頭を撫でると、彼はぐりぐりと頭を掌に押しつけてきた。一の宮は甘えん坊なのだ。


「……それにね、たとえ、あなたが負けてしまったとしても、母さまはあなたのことが大好きなの。あなたが大人になってから泣いたって、『何があったのかな』と心配することはあっても、『泣いちゃ駄目』なんて怒ったりしないわ」

「ほんと?……あのね、宮もね、かあさまのこと、だいすき」

「まあ、嬉しいわ」


 胸に抱きついてきた一の宮の背中を擦っていると、彼の小さな頭はこくりこくりと舟を漕ぎ、やがてぽかぽかと温かい身体はずしりと重くなった。眠ってしまって、身体の力が抜けたからだろう。

 じいっと様子を見守っていた四郎たちに、『待たせてしまってごめんなさいね』と声をかけると、彼らはぶんぶんと首を振った。子どもながらに弁えすぎている彼らのことが気の毒に思えて『お詫びに何か欲しいものはあるか』と尋ねると、四郎がおずおずと口を開く。


「あの……もし、よろしければ、中宮様に、撫でていただきた――」

「――なんだ、早く出て行こうかと思っていたのに、中宮が場を収めてしまった」

「主上」


 背後から聞こえた涼やかな声に振り返れば、沙那の夫が立っている。

 妙に険しい顔をしているのは、また、朝議の場で大臣たちが無益な言い争いを繰り広げたりしていたのだろうか。


「おかえりなさいませ」

「ただいま。……ああ、子らは退がっていいよ。菓子の用意があるそうだから、厨に寄るといい」

「っ、ありがとうございます!」


 きっと、菓子の用意の気遣いが嬉しかったからだろう、主上が現れた途端に蜘蛛の子を散らすように逃げていく童たちを、沙那は微笑ましく見守った。

 夫は、どういうわけか、深々と溜息を吐いていたけれど。


「……沙那は罪深いな」

「は? 何ですか、寛高さま」


 いきなり悪口を吹っかけてくるなんて、機嫌が悪いからといって八つ当たりをしないでほしい。

 すかさず睨みつけると、寛高は『そういう意味じゃなくてだな……』と口ごもってしまった。どういう意味だというのか、はっきりと言ってくれればいいものを。


「……まあ、その面倒見の良さが、沙那の良いところだからな。ませがきどもはこちらで釘を刺しておけばいいか」

「なんで『妥協してやった』みたいな言い方なんですか」

「それはもういい。お前が、一喝しているのを久しぶりに聞いた」

「そうでしょうとも。日々、中宮らしくなろうと頑張っておりますのよ?」

「猫を被ることを頑張っていると?」

「まあ、酷い言い方!」


 揶揄うように言われてむっとはしたものの、反論のしようがない。

 沙那が淑やかさに欠けていることは事実だ。もし、紗子が『中宮』になっていたら、と久しぶりに想像した。


『めでたくまとまって良かったわぁ。じゃあ、沙那がこれからも『承香殿の女御』を続けて、主上が中宮宣下をすれば済むわね!』


 数年前の騒動のときに、沙那と寛高の想いが通じ合ったことを知った紗子はにこにこと微笑みながら、手を打ち鳴らしていた。……彼女の祝う気持ちに嘘があるとまでは思わないが、さすがに少々、虫が良すぎる。


『それは駄目。紗子はしっかりけじめをつけるべきだし、なあなあにするのは良くないと思うの』

『ちぇっ。沙那ったらお固いんだから』

『それに……私は、紗子の身代わりだと思われたくないもの。寛高さまには、ちゃんと『私』を見て、『私』のことを好きになってほしい……』

『分かった、安心してくれ! すぐに紗子は追い出す!』

『あら、まあ。そういうことなら仕方がないわね』


 羞恥に堪えながら告げた沙那に、どういうわけか、寛高も紗子もあっさりと要望を受け入れて、迅速に動いてくれた。

 左大臣家に帰された紗子は、療養の名目で別邸へと移り、別邸の管理人として良直を引き抜いた。今は、二人は夫婦同然の暮らしをしているという。

 また、寛高は、入内した沙那を女御の位に就けた後、懐妊が分かるや否や、とんとん拍子に中宮に引き上げたというわけだ。


(それにしても、寛高さまは、私のどこが好きなのかしら)


 何年経っても、子を儲けても、納得はいかない。

 妃としては紗子の方が相応しい素質を持っているし、寛高は紗子と仲も悪くない。むしろかなり気が合って、気を許している感じがする。

 お互いが恋愛対象ではない以上、日嗣の御子を儲けることができないという問題は残るけれど、寛高が自分の子を帝としたいと考えないなら、それで済む話である。

 やはり、何度考えても、彼が沙那を選ぶ理由は無いように思うのだ。


「沙那の言葉は、刃物のように鋭いが、毒も嘘もない。だから、宮も、童殿上の子らも、沙那を慕うのだろうな」

「あら? 今度は褒め殺すおつもりですか?」


 そんなことを考えていると、夫がぽつりと呟いた。

 我がことながら、素直には受け取りがたい褒め言葉だ。厳しいことを言われて、良い気持ちがする者がいるわけはないのに。


「褒め殺し? 中宮を見習って、本心を述べたつもりだが」


 ところが、夫は顔色一つ変えずに言葉を吐くと、膝の一の宮ごと沙那を抱き締めた。


「本当だ。一番、お前に惹かれているのが俺なんだから」

「……っ」

「昔、紗子が言っていたな」

「なっ、何と言っていたの?」


 面映ゆくて話を逸らした沙那に、寛高は存外真面目な顔で答えた。


「紗子が話す沙那の話に、俺が興味を示した後に。紗子は、『沙那のことが気になるのか』と尋ねてきた」

「あの子、本当に遠慮が無いのよね」

「ああ、良直にどうにかしてほしいところだが、あれは紗子に惚れ込んでいて、頼りにならんからな。紗子は、俺が『世間話をしていただけなのに、すぐに恋だなんだと勘繰るなんて馬鹿馬鹿しい』と言うと、『自分の直感は当たるのだ』と言い出した」


 それは若かりし頃の寛高と紗子が、二人で交わした会話だった。同じ学び舎の学生のように、気も遣わずに遠慮なく。


『そんなに言うなら、賭けをしませんか?』

『何の賭けだ。何を賭ける?』

『あなたの恋心を』

『恋心? 馬鹿なことを。俺は恋なんかしない。浮ついた女どもとは違う』

『うふふ。こんなことを言っていた男が恋に振り回されたら、滑稽ですわね。まあ、自信が無いなら賭けなくてもいいですけれど』

『……いいだろう。乗ってやる。だが、俺に近づいてくる女は、父に命じられるまま、妃の地位目当てでやってくる者だけだろう。そんな女を好きにはならない』

『おりますわ。そうじゃない女だって。そういう人を妻にすればいいのよ』

『いるわけがない』

『じゃあきっと、あなたは、沙那を見たら、驚いて腰を抜かしちゃうわね。ねえ、本当よ。あなたはきっと、妻に恋をするわ。あなたが恋をするに足る妻を連れてきたら、私の勝ちね』


 ――そうやって、紗子は呪いをかけた。


 いざ、寛高がそんな女に出会ったときに、紗子の言葉を思い出して、その女を妻に迎える想像が、脳裏にしみついて離れなくなるように。


「賭けは、俺の完敗だ。毎日、それを思い知っているところだ」

「は」

「どうした、そんなに赤くなって。照れ臭かったのか? ん?」

「もうっ! 調子にっ、乗るなっ!」


 頬が熱い。檜扇を置き忘れたことに気づいた沙那は、寛高の胸に顔を埋めて隠した。



 終

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待宵月奇譚~身代わり姫君、女御失踪の謎を解く~ 湊川みみ @mimikaku

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