インスタント・メメントモリ

奥行

インスタント・メメントモリ



爪を噛む癖が大人になっても終ぞ治らなかった。




もう家に帰る。やっと帰れる。

大した音量でも無い日常の雑音が、何か置かれる程度の音が、扉の開閉音が、まるで耳元で爆音のクラクションを鳴らされたように感じる。

きぃぃぃ、と耳鳴りがして、耳から指先まで神経がピリピリ痺れていく。じわりじわり手汗が滲む。

頼む。頼むから静かにしてくれ。

世界中がうるさい。

仕事が終わり、車に入ってバッグを置いてシートベルトを付けてエンジンを入れてサイドブレーキを下ろしてヘッドライトを付けてギアをドライブに入れる。

一刻も早く帰りたいが、しかしコンビニに寄りたい。明日でも今日でも労力が同じなら今日済ませておきたい。

通り道にある1番入りやすいコンビニがいい。出来る限り無心でいたいので、狭い駐車場、他の車の出入りが多い、なんてのは以ての外だ。

コンビニに入って雑誌コーナーを抜けてドリンクの棚からカフェイン含有量が1番高そうなエナジードリンクを2本掴んで酒コーナーを通ってレジへ向かう。


「レジ袋お付けしますか?」


いりません。に対して返事が返って来ない。

前の人にはかしこまりました等と言ってたのに。

一呼吸、息を吸って吐いた。嫌な汗と痺れが全身に回る。このレジの人とは金輪際もう二度と会いたくない。ああ、もう早く帰りたい。誰も居ない所で何も話さず何も聞かず静かにしていたい。私が存在する事で被る不利益を誰にも与えたくない。

足早に会計を済ませて車へ戻る。ありがとうございましたも聞こえなかったな。何で買い物しただけで人に嫌われるんだろうな。死ねばいいと思われてるのかな。うるさいな。こっちだって死ねたら死んでる。


車に入ってシートベルトより先にエナジードリンクを1本飲む。何故か分からない悲しさが込み上げて泣きそうだった。飲み干した缶を思いきり捻り潰して再度車を降りる。

缶はここのコンビニに捨ててやる。普段なら迷惑だろうから家に持って帰るけど絶対ここのコンビニに捨ててやる。

息巻いて、ビン缶と仕分けられたステンレスのゴミ箱に缶を放った。誰も気にとめていなかった。


車に戻ってシートベルトを付けてエンジンを入れてサイドブレーキを下ろしてヘッドライトを付けてギアをドライブに入れる。帰り道だけは少しだけ、ほんの少しだけ無心になれる。

閉じた車内で遮音されるおかげで、世界のうるささがホワイトノイズ程度には緩和される。


家に着くまでの間にも頭の中は自分の事でいっぱいだった。

「みんな同じように辛い思いをしてる」って言うのはみんなきっちり私と同じ量の辛い思いをしていて欲しい。でなければ同じく辛い思いをしてるっていう言葉の辻褄が合わなくなる。そうじゃないならみんなってどこの誰の話をしているんだろう?でもきっと私以外の人間の話だ。

何故そんな風に簡単に、他人の苦労を自分のものさしで測るんだろうか。そして大抵そのものさしは使い古された1本だけだ。

いや、もしくは、何故その言葉を「どんな辛い出来事にも当てはまる万能な慰めの言葉」だと思っているのだろうか?何も言わない方がマシな事に早く気がついた方がいい。

沈黙は金なんて格言を知っていればだけれども。


家に着いてヘッドライトを消してサイドブレーキを引いてエンジンを切ってシートベルトを外して車から降りる。早くベッドに辿り着きたい。自分が安らかに生きていられる場所はもうそこしかない。幅100cm×長さ195cmの安全地帯だけだ。

家の鍵をノブに差し込む、はずが手元が暗くて鍵穴が見えない。足元からじわじわ登ってくる、冷える感覚に似た痺れを感じながら、手元をスマホのライトで照らした。

そこには銀色に光るノブと、鍵を握る手、つまり、とても人には見せられない恥とコンプレックスの塊の指先があった。

何でだか、映画でよくある、スポットライトに照らされる犯人みたいだなと思った。他人事みたいに少しだけ可笑しかった。すぐに冷えた痺れが胃まで登って来て吐き気がした。


爪を噛む癖は大人になっても終ぞ治らなかったな。

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