茜の空

長船 改

茜の空


 日の当たらないうす暗い部屋のなかで、男はひとり、ギターを手に途方に暮れていた。

 

 外を見やると、空が茜色に染まり始めている。


 遠くの方で微かにサイレンの音がする。魚屋か八百屋のおやじの威勢の良い声も聞こえてくる。そろった掛け声は走り込み中の運動部員たちか。ふと風が吹くと、男の部屋の窓はガタガタと鳴った。


 木造アパートの2階。4畳半のこの部屋の中は閑散としている。畳は擦り切れ、家具は傷だらけの机だけ。窓にはカーテンすらも引かれていない。


 机の上には大学ノートが開かれており、そこには書きなぐったような文字……もっと言えば、これからとなるはずだった文字たちが並んでいる。

 

 歌手になる夢を抱いて上京してきて、これでもう半年になる。作った曲をカセットテープに録音してはレコード会社に持ち込み、断られる日々。そのたびに男は「所詮、こいつらにはオレの曲が理解できないんだ」と反骨心をたぎらせ、さらなる曲作りに励んだ。


 しかしこの日、挫折は突然訪れたのだった。


 新しい曲が……歌詞が……も思い浮かばない。

 これまでにも何度かさいなまれたこの現象に、男はとうとう抗う気力を失ってしまった。否定されるたびにたぎらせてきた反骨心の裏で、自分でも気づかないうちに、少しずつ、少しずつ……、男は自信を喪失していたのだった。

 

 不意に、隣の部屋のラジオから、一曲のフォークソングが流れ込んできた。


(いい歌だな……。)


 男は素直にそう思い、そしてはたと気付いた。


 (いつからだろうか。オレは愛するフォークを聴いても、オレの方がオレの方がと対抗心ばかり抱くようになっていたんだ。)


 男の目にみるみる涙が浮かんでくる。感情が込みあげてくる。男はそれに気付かない振りをして、机の引き出しを開けた。そこにはガラスで出来た灰皿と、マッチと、くしゃくしゃになったの箱。男は中からその1本を取り出すと、不器用な手つきでマッチをすり、火をつけた。


 涙は今にも零れ落ちそうなほどに溜まり、我慢しようとするほどに喉が震える。煙を吸い込むとむせてしまったので、わざと大きく咳き込んでやると、畳にいくつか染みが出来た。煙は部屋の中を漂い、なおも流れるメロディと混ざりあって空へと溶けていった……。 


 やがて曲が終わり、ほどなくしてラジオの音も消えた。

 短くなってきた煙草の煙を男はもう一度深く吸い込み、細く、ゆっくりと、時間をかけて吐き出した。


 余韻――。


 いつの間にか涙もすっかり乾いていた。男は煙草を丁寧に灰皿に押し付けて消し、引き出しを閉めた。そして机の前に座り直すと、開いてあった大学ノートを1枚めくって、やおら鉛筆を走らせ始めた。


 その表情は、何か秘めたものを感じさせる。憑き物が落ちたような、それでいて寂しさをまとったような微笑みを浮かべている。


 外では、子供たちがバットとグローブを手に走っている。豆腐売りのラッパの音に、電車の音。大声。歓声。笑い声。


 穏やかな活気をよそに、男は再び曲作りに没頭し始めた。


 この男に、これから日向へ向かう未来はあるのだろうか?


 茜の空は答えを知らず。ただ見守るのみである。 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

茜の空 長船 改 @kai_osafune

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ