グレー、グレー、グレー

sui

グレー、グレー、グレー


己に生きる意味を見出せなかった日にイーゼルを広げた。

ある種の匂いだけが漂う暗い部屋。古びた机と不安定な椅子。中身が干上がったバケツ。そして洗い忘れて汚れたままのパレット。


こびり付いた絵具の上に同じ色を乗せて、指先で草臥れたキャンバスに擦り付ける。

モデルもない。イメージもない。衝動の発露。



ネトリとした触感に湿り気。

滑らせる程に色が移り、擦れてくると指先がヒリヒリとした。

一本の指が赤、一本の指が黒、一本の色は青。

強く引けばあっという間。じわじわ動かせば震えるように。指を転がすなら細く細く。

爪を引っかれば抉れてしまう。


いっその事と直接チューブを押し付ければ絵具がヌタヌタ嫌そうに姿を現し、そこからゆっくり雪崩れていく。忌々しい重力の悪戯。

力の限りに掌で塗り広げていった。時には抗うように上へ上へと向かわせる。

そんな事をしている内に、色のなかったキャンバスはどんどんと染まる。

白地に乗り切れなかった絵具が行き場を失い、混じって濁り出す。

始まりは明るかったのに、終わりが見えてくる頃にはどれもこれもが暗い色。


重ねなければ良かったのかも知れない。

せめてシンプルであったなら見所として認められる部分もあっただろうに。

労力と結果の不等号。

刺棘としたそれに触れてしまえば心はビリビリと破ける。

そして破けてしまえばもう、どうしようもない。



迷いながらなお絵具をこねくり回す。いよいよ残らぬ清い色。キャンバスを埋め尽す汚い色。耐えかねて大量の黒を搾り出す。


黒、黒、黒。全てを黒が潰していく。

最早何もない。

それが絵になる筈であった事実も、一本一本引かれていた線も、そこに至る迄の葛藤さえも。


描いたのは己。それを消しているのもやはり己。

耐えられぬ現実に思わずイーゼルを蹴飛ばした。


頭を抱えてしゃがみ込み、我に返ってキャンバスを引っくり返せば、汚れた床と埃塗れのなり損ないが現れる。


嗚呼、また。


この日その日に苦しみながら延々繰り返している喜劇。

いつになっても価値はつかない。そうだ、そうだ。だって己で消してしまうのだ。

これでは存在すら見つけてもらえる筈がない。

掬われない。でも耐えられない。止める事すら出来やしない。



誰か、誰か知りませんか。此処にいるんです。



零れ落ちたナトリウムの水がぼかしを加えて、キャンバスに不思議なグラデーションを描いた。

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