2. the vacancy
「……最近、来ないな……」
"door"からのDMが途絶えた。先週まで、二日に一回はやり取りがあったというのに。きみの新作を書くペースが早くて追い切れない、でも楽しみにしている、とても良くなった、などの褒め言葉や雑談なども交えてくれるようになったというのに。
小説投稿サイトで、私の作品の評価はどんどん上がっていった。これも"door"のおかげだ。彼――一人称は「俺」だった――のアドバイスを素直に受けて注意しながら執筆したところ
もちろん、うれしかった。自分が丹精込めて書いた作品を評価されたのだ。うれしくないわけはない。それでも私の心の一部は、そんな
最後のDMから二ヶ月経つが、"door"はまだ現れていない。サイト運営会社からは様々なオファーが飛び込んでいる。このまま仕事としてオファーを受けてもいいのだが、そのためには今の仕事を辞めなければならない。自分の人生を大きく変えて生きていく自信がない。そう、私は自信がない。"door"が、彼がいなければ、私はここまで高く評価されることもなかった。好きな言葉だけをきれいに並べただけで独りよがりの悦に入るような、寂しい人間だったのだ。
「……探さなきゃ。お知らせしたいし」
ついただの口実を口走ってしまうことに、一層の寂しさを覚える。口実がなければ何かしてはいけないわけではないのに。あのとき感じた腹が熱くなるような感覚は、口実などいらなかった。
乾いた空間は、どんどん心を侵食している。こんな思いなんてしたくなかった。両手を挙げて喜べないのは彼のせいだ。私は、何気なく処女作の編集画面を開いた。するとそこには、多くの読者からのメッセージの中、明らかに異質なメッセージが紛れ込んでいた。『vacancy』とだけ書かれた、シンプルな。
「何、これ……って、ユーザー名"door"!? 気付かなかった……!」
それが"door"からのメッセージだとわかり、私の心は震えた。"door"のユーザーページを表示させると、一つだけ投稿された小説があった。タイトルは『vacancy』。
パソコンの画面を凝視しながらマウスカーソルをゆっくりと近付けてタイトルをクリックしてみると、しっかりと文字が植え付けられた、小さくも美しい庭園が現れたような錯覚に陥る。
ミステリー風の物語の舞台は東京駅八重洲口周辺で、主人公は女性。会社では男女ともに嫌われ、趣味は読書、ネットでの交流、小説投稿。そうやって孤独に生きる、妙齢の――
「何これ、まるで私のことじゃない……!」
一瞬ではあったが、自分がその世界に入り込んだのかと思った。主人公の設定が、とても自分に似ていたのだ。
「……やっぱり、探さないと」
感想コメントが付いていない『vacancy』に、私は最初のコメントを書いた。「おもしろかったです。良い作品でした」という一般的な内容で。その数分後にSNSのDMが届き、急いで開く。差出人は"door"で、ファンシーグッズを扱う雑貨店が写った写真だった。壁に「ヤエチカ」と書かれているから、東京駅八重洲口の地下街だろう。
「……会わないと……」
幸い、明日は土曜日で仕事は休みだ。小説に書かれている事件が起きた日付は十月五日の土曜日、午前十一時。ちょうど明日の日付だ。彼はどこまで読んでいたのだろう。
『明日十月五日、午前十一時、ヤエチカ雑貨店前』
返信はそれだけで十分だった。
多くの人が行き交う東京駅に到着すると、私は八重洲口の地下街ヤエチカに向かった。だんだん体が熱くなるのを感じるのは、歩いているからという理由だけではないだろう。
スマートフォンの時計で時刻を確認する。十時五十分。目的の雑貨店が見えてくると、私はスマートフォンをぎゅっと右手で握りしめた。
「……ここかな」
小さな声でつぶやき、雑貨店前で立ち止まる。念のためDMで送られてきた写真を確認し、間違っていないことにほっと息をつく。
私は何をしたいのだろう。会ってどうするというのだろう。しきりに自分に投げかける問いに、答えを返すことができないでいる。どうして会いたいのかもわからない。
『書籍化のオファーが来たことを知らせたいから』
『一緒にお祝いしてほしいから』
『お礼を言いたいから』
浮かんでくる理由など、どれもDMで事足りる。それでも私は……それでも……!
「"こだま"さん?」
不意に小説投稿サイト内でしか使っていない自分のユーザー名を呼ばれ、声の方に視線を映すと、そこには三十代くらいと思われる男性が立っていた。
「よくわかりましたね、あの感想コメント。埋もれちゃってたんじゃないですか?」
にこにこと邪気のない笑顔を振りまく彼に、得体のしれない思いが湧き上がる。
「……そう、ですね、気付くのが遅くて……」
「いや、すごく有名になってますからね、仕方ないですよ」
「ありがとう、ございます。あなたのおかげです。書籍化の話ももらってるんです」
「本当ですか、それはおめでとうございます」
彼の当たり障りのない言い方が、私の心をじわじわと炙っていく。
「……どこまでっ……」
「ん?」
「どこ、まで、読んでいたんですかっ!」
「どこまでって、未来なんかわからないけど、わかる範囲?」
「……じゃあ……、どこから……?」
想定していなかった涙が言葉を邪魔する。熱くなる目を下に向けると、彼は私の顔を覗き込んでこう言った。
「タクシーでね」
「……タクシー、って、もしかして」
ぱっと顔を上げて間近になった彼の顔を直視できず、もう一度下を向く。
「スマホ、見ちゃった。ごめん」
「そ、それだけで?」
「それだけ? まあ、そうだけど?」
気持ちに余裕なんかなくなっている私に、彼は飄々と話を続ける。そのことに何だか腹が立ち、私は思わず空いていた右手を振り上げ、彼の頬に直撃させた。
直撃させた、はずだった。ぱしっという軽い音とともに、彼に手首を掴まれていなければ。
「ちょっ!」
「そうきたか、おもしれー女」
心底おもしろいと言わんばかりの表情で、彼は私の手首を掴んだまま言う。
「vacancyって空虚って意味もあるんだけど」
「……それが何?」
「埋まった?」
「……何でそこまで読んでるの!」
「何でって、わかる範囲だから?」
そう、確かに埋まっている。今の状況では、悔しさという感情で。私の手首からもう彼の手は離れているけれど、悔しいことに変わりはない。
「せっかく会えたんだし、お茶でもしよう。ああ、おなかすいてるならどこかで飯でも」
「いい、けどっ……、何で私、なの」
「何でって……、きみの虚ろな目が気になって。ほら、あの男といたとき。でも趣味の話をしてたときにミラー越しで見たきみの表情がとても良くてね。忘れられなかった」
「それだけ……?」
「そうだけど。何か問題でも? まあ、ここで話すのも何だからさ、場所変えようよ」
観光客と思われるキャリーケースをカラカラと引いている集団が、そばを通り過ぎていく。
「……はい」
「一筋縄じゃいかない女だろ、きみ。回りくどいやり方ってのはわかってるんだけどね」
余裕のある態度を崩さない彼にいつか一発入れてやると決意し、私は彼の横に並んで歩き始めた。
vacancy 祐里〈猫部〉 @yukie_miumiu
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