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祐里〈猫部〉

1. the door


 その女は、狙いを定めていた同僚の男を私に盗られたと言っていた。私は何もしていないというのに。

「男を誘うなんて最低」

「最低、って」

「私に対する当てつけ?」

「そうじゃなくて……」

「もういい。どうせそんなエロい体には敵わないし」

 女は勝手に傷付き、立ち去ってしまった。男を誘っただなんて言いがかりだ。吐きかけられた「最低」への最適解がわからない。

 そんなふうによく嫌われる私は、徐々にネットでのコミュニケーションに夢中になっていった。アニマル動画サイトのチャットページのやり取りは、パソコンのキーボードやスマートフォンで入力する「こんばんは」の五文字だけで普通に挨拶が返ってくる。私が女だと言わなくても、動画の中でかわいらしい姿を披露する動物たちについての会話はできる。管理がしっかりされているおかげで性的なことは話題にならない。なんて素晴らしい世界。


 ある日、別部署の男にしつこく誘われて仕方なく食事に付き合った帰り、繁華街の裏通りで今度はラブホテルに誘われた。体に触る男の手にぞわりと鳥肌が立つ。

「嫌なんだけど」

「そんなに拒否しなくても」

「私たち、付き合ってるわけじゃないでしょう」

「はぁ……」

 男はため息をつく。傷付いたのだろうか。こんな実にならない会話には興味が湧かない。さっさと帰宅してアニマル動画サイトでかわいい動物たちを愛でたい。それに、好きな女性作家の真似事で書いている自作の小説の続きを早く書きたい。

 スマホアプリで呼んでおいたタクシーが到着するのは早かったが、男がまだ「いいだろ」としきりに誘いをかける。獲物がタクシーに乗ったら狩猟失敗とでも思っているのかもしれない。四ヶ所の窓を細く開けて待つタクシーに目をやると、後部座席のドアが開いた。

「家帰って何するの? 俺も行っていい?」

「だめ、大事な用があるから」

「大事な用って何?」

「……何でもいいじゃない」

「お客さーん、乗るの? 乗らないの?」

「あっ、すみません」

 突然タクシー運転手の太い声が割り込み、私は慌てて後部座席に乗り込んだ。すぐに閉まったドアにほっと息をつき、行き先を告げる。

「お客さん、すみません、さっきの」

「えっ?」

「横柄な言い方しちゃって」

「あ、いえ……、助かりました」

「窓、全部閉めますね。前のお客さんの香水もう残ってないですよね」

「えっと、そうですね、大丈夫みたいです」

 私の答えを待って、静かに窓が閉まる。運転手は「家に帰って好きなことしてたら、嫌なことも忘れますよ」と笑いを含んだ声で言う。

「もうそういう時代でもないんですが、僕は読書が趣味で」

「そうなんですか、私もです」

 そんな会話から趣味の雑談に興じているうちに、タクシーは目的地である家の前に到着した。少々残念な心持ちになりながらタクシーを降りマンション入口まで歩いたところで、背中に「お客さん!」と声がかかった。

「これ、忘れてますよ!」

「あっ、ごめんなさい……! ありがとうございます」

 座席にぽんと置いたスマートフォンを、運転手が持ってきてくれたのだ。「すみません、ありがとうございます」と何度も言う私に彼は「よかった、すぐに見つけられて」と笑った。

 一人になったあとも運転手に心の中で礼を言い続けながら家に入り、まずはシャワーで体を洗う。気持ち悪い感触が残っている背中や腰を、特に入念に。


「んー、あまり固定読者がつかないな」

 人気の恋愛ジャンルは避け、主にヒューマンドラマの作品。そんなずぶの素人の書いたものでも、好んで読んでくれる人はいる。ただ、その数が少ない。ランキング上位など狙えるはずもないことはわかっていた。

 最初はそれでよかった。だが、会社や飲み会などでイライラすることがあった日は、帰宅して自分の作品に評価やコメントなどの動きが何もないと、一層イライラが募ることが多くなった。

 ある日、スマートフォンにSNSのDMダイレクトメッセージが届いたという通知が入っていた。名前は"door"。昼休みになってから見てみると、そこには『きみの小説には迫力が足りない』だの『言い回しがおかしい部分があり読みづらい』だの、アドバイスとも文句ともつかない言葉が並んでいた。

「フォロワーじゃないよね……どこから辿ってきたんだろ。ちょっと気持ち悪いから適当に返信しておけばいいかな……」

 ぼそぼそとつぶやく独り言に反し、目は釘付けになってしまう。自分の作品に対して理路整然と並べられた含蓄のある言葉は、まるで物語のようだ。これまでにもらったことのある感想とは全く違い、重々しく、湿り気さえ感じる。そんな異質なメッセージを鬱陶しいと思う自分と興味を持つ自分とが混在していることに、密かな驚きを覚える。

 ひとまず『参考になります、ありがとうございました』と送り、私は新しい物語に取り掛かった。


「……やっぱり、そんなに読まてれない、か……」

 小説投稿サイトでは、新たに登録して投稿を始めたユーザーは一般的に不利と言われている。交流のあるユーザーが多ければ多いほど読まれる回数ページビューが増え、作品への評価が高くなりやすいからだ。

「はぁ……、わかってはいたけどへこむなぁ」

 会社では孤立していて、おしゃべりするような相手もいない。最後の雑談はあのタクシーの中だった。なんて寂しい女なんだろう。年頃なのに恋人もいない、友人もいない、孤独な一人暮らし。

「書くのは楽しいんだけど」

 全世界が閲覧できる環境に自分の作品を投稿するのは、最初こそ緊張したが、五作目を超えたあたりから気軽にできるようになった。だが、数少ない交流のあるユーザー以外はあまり訪れてくれない。

「作品数ばかり多くしてもなぁ。かといって長編を書くほど……、って、DM?」

 SNSのDMの通知を見て、少し躊躇する。差出人は"door"だ。前回と同じような作品への指摘だとしたら、落ち込んだ気分のまま見ても大丈夫だろうか、もっと落ち込むことになったりしないだろうか、と。

 だけどそんな躊躇なんて、全く意味がなかった。興味を押さえられなかった私は、即刻DMを開いてしまったのだから。思ったとおり、そこには新作への指摘や意見がずらずらと並んでいた。時々「そんなこと私にはできない」「そのやり方は嫌いなんだけど」と思うようなこともあったが、指摘内容は当たっている。自分が迷いながら書いた箇所や上手な言い方が見つけられず仕方なくお茶を濁してある箇所へ、正確に切り込んでいるのだ。

 メンタルへの影響は、プラスに働いた。数度読み返しているうちに少しずつやる気が湧いてきて、いつも執筆に使っているテキストエディターを立ち上げる。私にはできる、これだけの文字数で意見を伝えてくれる人がいるのだから。腹の底に熱い何かを感じ、私はキーボードを叩き始めた。

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