玉響城の釣り道楽

だいたい日陰

俺に釣られてくれるのか

 潮のかおりに導かれるように階段をくだっていく。

 木材と竹ひもで組まれた足元は、ヤナの体重がかかるたびにギシギシと悲鳴をあげ、それでもしっかりとその役割をはたしていた。

 下へと足を進めながら「ふわあ」と欠伸をする。

 昨夜は寝つきが悪く、すこし寝不足だった。

 たまには夜まで布団にくるまっていたいところだが、それでは生活ができない。

 それに、朝の鐘の音で起きることが身体に染みついており、自然と目が覚めてしまうのだ。

 今日は満月。

 海の底をうごめく月は一日ごとに姿を変え、それによって釣れる魚の種類も釣り方も変化する。

 満月は、いい魚が、いちばんよく釣れる月だった。

 少女がくだっていった先には、ぽっかりとした空間がひらけ、海底からの月の光を浴びて明るかった。

 小さな舟着き場を作ってある以外にはなにもなく、ヤナが小さいころから、父親と通いつづけた場所だった。

 果てなき海に浮かぶ玉響(たまゆら)城。

 広大な構造物すべてが、流れ着いた木材で作られ、人はその中で日々の営みを繰り返す。

 ヤナもまた、玉響城の中で生を送るひとりだった。

 歳は十をすこし過ぎ、肩まである黒髪を頭の後ろで結んでいる。

 麻づくりの衣服を身に着けた体は小柄で、手に持った長い釣竿が不釣り合いだった。

「お」

 いつもの釣り場に着くと、珍しく先客がいた。

 身なりがよく、腰に大小の刀を差しているところを見ると、どこぞの大名に属する侍のようだ。

 いい釣竿を使っているが、まだ一尾もあげていないらしい。

 そこまで確認すると、ヤナも腰を下ろして釣りの準備をはじめた。

 釣り鉤と糸がしっかりと結ばれていることを確認すると、エサ籠からソウモンムシを取り出す。

 水面に近い木材の隙間によくいる蟲で、たまに海に落ちることから、魚の好物になっているようだ。どの月であっても、食いのいいエサだった。

 ソウモンムシの頭を指でちぎり捨て、そこから釣り鉤を刺していく。

 途中で鉤をクルッと回してやると、鉤先がエサからとび出し、食ってきた魚の口をうまく貫いてくれる。

 釣り糸を垂らしてしばらく待つと、アタリがあった。

「よっ」という声とともに、さっそく一尾を釣り上げる。

 サクラハナウオ。

 小型の魚で塩焼きにするとうまく、どこの市場でも扱っているし、買い取ってくれる。

 サクラハナウオをもう何匹か釣り上げたところで、竿が大きくしなった。引き方で、どの魚がかかったかわかる。

「よし、ギンリョウウオ!」

 今日の狙いが、この魚だ。

 ヤナは海に引きずり込まれないように足を踏ん張ると、やりとりを開始した。

 魚が潜ろうとすれば横にそらし、離れようとしたら上に向ける。

 そうこうしているうちに魚が上に向かって突進し、その瞬間をのがさず、竿をいっぱいに立ててやると、水面から銀色の魚体がとびだしてきた。

 足場に着地した魚の大きさは、ヤナの身体の半分ほど。

 びたんびたん、という音とともに、釣りあげられたギンリョウウオは大暴れしている。

 これで今日の日銭は十分に稼げた。

 ほくほくとしながら小刀でギンリョウウオの脳髄を突いて締めると、手際よく腹を裂いて内臓を引き抜いていく。

 抜いた内臓を海に放り投げると、小魚が群がって、たちまち食ってしまった。

 本当は血抜きまですれば完璧なのだが、身体の小さなヤナは重たい魚体をうまく扱えず、難しい。

 それに、ギンリョウウオは煮てもうまい魚なので、血抜きはそれほど価値に影響しなかった。

 ギンリョウウオのエラに紐を通し、運びやすくする。

 サクラハナウオの入った魚籠(びく)を手に取り、さて市場へ行くかと目を上げると、ヤナがくる前から釣りをしていた侍の姿が目に入った。

 どうやらまだ釣れていないようだ。

 ちょうどエサを替えようとしているらしく、もたもたと鉤とエサを手でもてあそんでいる。

 苦戦しながらも、なんとか鉤にエサを刺した。

「それじゃ釣れん」

 意識せず声をだしてしまった。

 相手に悪かったかと思ったが、侍は不機嫌になるでもなく、「釣れぬか」と返した。

 歳は三十前後といったところか。

 おだやかな表情を浮かべていて、ヤナの知る侍たちとは違った雰囲気を身にまとっていた。

「どうしたら釣れる?」

「エサのつけ方が悪い。まっすぐ刺してから鉤先を抜かねば、水の流れで変な動きをする。魚が怖がる」

「なるほどな」

 侍が、言われたとおりにエサをつけなおしてみせる。

 ヤナから見れば下手くそだが、さっきよりはマシになった。

 釣り糸を垂れながら侍が尋ねる。

「おぬし。魚を釣って生活しているのか?」

 ヤナは、ああ、とうなずいた。

「母上が病で死んでから親父どのと暮らしていたんだが、先の謀反騒ぎで親父どのも死んでしまった」

「そうか」

 侍はそれだけ言うと、竿先に集中しているのか、言葉が続かなかった。

 気を取り直して市場へ行こうと立ち上がると、また侍が口を開いた。

「俺に釣りを教えてくれぬか」

「は?」

 変な声を出してしまった。

「それはかまわんが」と答えかけ、「いや、魚を釣らないと生活できん。教えている暇はない」と言い直した。

 侍が、ぐっと身を乗り出す。

「もちろん金子(きんす)なら払おう。教える時間は朝の一刻だけでいい。悪くない話だと思うが」

 たしかに、魚の釣り方を教えるだけで稼ぎになるのだから、ヤナにとってはいい話だった。

「釣った魚はおぬしにやろう。それを売ればいい」

「よし、教える」

 もはや断る理由がない。

「おっと」

 侍の竿にアタリがあったが、驚いて竿をあげたので、魚の口に鉤がかかる前に逃げられてしまった。

 ふむ、とヤナはあきれるような、感心するような心持ちだった。

「わたしは魚を釣って金子を得ているが、金子を払って魚を釣りたい御仁もおるのだな」


 ***


 翌朝から、ヤナは侍に釣りを教えはじめた。

 侍は荒木弥八郎と名乗った。

 上背も横幅もある体つきだが、話し方に威圧感がなく、やわらかな性格をうかがわせる。

 侍といえば居丈高な者ばかりという印象だったので、珍しい生き物を見るような気分になる。

 聞けば、駒乃鈴(こまのすず)家につかえる衛士とのことで、ヤナは「駒乃鈴家といえば、天下様につぐ大大名ではないか」と驚いた。

「といってもな」

 エサを指でつまみながら弥八郎が苦笑する。

「俺は刀のほうはさっぱりで、よく女房にしかられている」

「しかられるのか?」

「ああ、家で本ばかり読んでいるから強くなれないのだと。外で鍛錬でもしてこいと、早朝から家を追い出されるようになってしまった」

 フラフラしていたところで釣り場を見つけ、「ひとつやってみるか」となったらしい。

「釣りがうまくなっても刀はうまくならんぞ」

「だよなあ」

 弥八郎が鉤にエサをつける。

 何度かやりなおさせただけあって、まあまあの仕上がりだ。

 弥八郎は竿をふってそれを海面に投入すると、魚のアタリを待つ態勢になった。

 釣り糸の先には、海底にある月が見えている。

「あかるいな」

 弥八郎がぽつりと言う。

「上で暮らしていると、月あかりを意識する機会などない。こんなにあかるいものなのだな」

「わたしは見飽きたけどな」

 ヤナも釣り鉤を投入した。

 ちなみに、ヤナはすでにサクラハナウオを何尾か釣り上げていた。弥八郎はボウズだ。

「あまり見るとまぶしさで目がおかしくなるぞ」

「目が……そうだな」

 エサだけ取られたらしい。

 弥八郎は竿をあげると、むき出しになった釣り鉤をつかんだ。

「俺は薄闇ぐらいがちょうどいい」

「なんだって?」

 釣り上げたサクラハナウオの口から鉤をはずしながら、ヤナが聞き返す。

「なんでもないさ。さすがにここも新月は暗くなるのであろうな」

「そうでもない。新月は光を発する小魚が浮いてくる。それなりにあかるいぞ。ただ、いい魚は釣れん」

「そうなのか?」

「ああ」

 ヤナが、もう一尾あげてみせる。

 弥八郎はやはり釣れていない。集中力の問題なのであれば、刀がうまくないのもうなずける。

「新月の日は、ハチジョウウオという、エサをつけなくても食ってくるくせに、でかいだけでうまくもなんともない魚しか釣れない」

「ほお。立派な名前だがな」

「畳八枚ぐらいのでかさ、という意味みたいだ。でもまずい」

「そんなにまずいか」

 弥八郎が小さく笑う。

 ヤナも笑いながらつづけた。

「新月に釣れるといえば龍神だな」

「龍神?」

 弥八郎が聞き返す。

「死ぬ前に親父どのが言っていたんだ。新月は魚の代わりに、たまに龍神が釣れるとな。気になって、エサはなにで、どういう誘い方をするのかと聞いたら」

「うむ」

「龍神が、こいつになら釣られてやってもいい、と思った人間ならば釣れるそうだ」

「向こうの気分次第では、どうしようもないではないか」

「わたしも同じことを言った」

 しばらく、ふたりで笑いあう。

 すると、弥八郎の竿先にアタリが出た。

「おっと」

「まだ!」

 あわてて竿をあげようとする弥八郎を制止する。

「まだ食ってない」

 弥八郎が真剣な面持ちで竿先を凝視する。

 くっ、くっという小さな動きだったのが、ある瞬間、ぐっと深い動きに変わった。

「いまだ! あわせろ!」

「おう!」

 弥八郎が思い切り竿を立てる。

 竿全体が大きくしなると、バシャリという水音とともにギンリョウウオが飛び出してきた。偉丈夫の腕力にかかってはギンリョウウオといえど抵抗すらできなかったようだ。

 足場に落ちて暴れている魚を見ながら、ヤナが喜びの声をあげた。

「やったな、弥八郎どの!」

 師匠役の面目躍如だ。

 だが、弥八郎は浮かれ騒ぐでもなく、黙っておのれの手のひらを見つめていた。

「どうした? ケガでもしたか?」

 魚のヒレに刺されることはよくあるが、弥八郎は魚にさわってもいない。

 顔をのぞきこむと、なにやらブツブツと独りごちていた。

「釣りなど退屈なものだとばかり思っておったが……釣れぬ焦燥や、逃がすのではないかという恐怖。そして釣りあげたときの愉悦」

 弥八郎が、ぐっとこぶしを握る。

「ヤナどの!」

「お、おう」

 いきなり大きな声で名を呼ばれて、ヤナはすこし後ずさる。

 しかし、次のひと言で脱力に変わった。

「釣りとは楽しいものだな!」

 弥八郎は満面の笑みを浮かべていた。


 ***


 それから何日かするうちに、弥八郎の釣りの腕はめきめきと上達した。

 さすがにヤナほどは釣れないし、ヤナとしても負ける気はないが、今日などは「もうここまでにしておくか」というぐらいの数を釣ることができた。

 いまは、弥八郎にも手伝ってもらい、市場へ魚を売りにきている。

 最下層にある釣り場から、上へ四階層ほどあがったところに市場はあった。

 両側にひしめく屋台は提灯を並べたて、それぞれに買い物客の目を引こうとしている。

 薄暗い空間の中で、提灯のにじんだような橙色だけが、どこまでも続いていた。

「ヤナどののお父上は、ずっと漁師をやっておったのか?」

 賑わう市場の通りを、魚をかかえて歩きながら弥八郎が問うてきた。

「ああ、わたしも小さいころから手伝っていた。ここへも、物心つく前から通っているぞ」

「やはり、あの釣り場で?」

「いや、前は小さな舟を持っていた」

「ほお」

 弥八郎が興味深げな声をだす。

「親父どのの親父どの、たぶんもっと昔のご先祖様の代から漁師をやっていたからな。玉響城のすみずみまで、どの月にどこへ行けば、どんな魚が釣れるのか、すごく詳しかったぞ」

「それは、ヤナどのも?」

「わたし? まあ、教えてもらったというか、親父どのの漕ぐ舟に乗って、一緒に釣りしていただけだがな」

 ヤナはすこし考えてから「でも、だいたい覚えてるな」とつなげた。

「そうか」

 つぶやくような弥八郎の声は、なにかを思案しているように聞こえた。

 馴染みの魚屋で魚を売り払うと、ヤナは手にした金子を服の隠しへしまい込んだ。

「よしよし」

 思わず、笑みがこぼれる。

 その様子を見て、弥八郎が苦笑した。

「嬉しそうだな」

「それは嬉しいさ。金子が嫌いな人間はおらんだろう」

「なにか欲しいものでもあるのか?」

 弥八郎の質問に、ヤナはちょっとモジモジしてみせる。

「あるにはあるが……いや、しかしなあ」

 すっかり釣り仲間になってしまった弥八郎になら話してもいい気はするが、なんとも言えぬ恥ずかしさもある。

「無理には聞かぬよ」

 弥八郎のそのひと言で心が決まった。

「こっちへ」

 ヤナは弥八郎を手招きすると、歩きながら先導していく。

 しばらく進むと、屋台ではなく、店が並ぶ一画へと出た。

 持ち運べるような小物ではない、大きな、または価値の高いものを扱う区画だ。

 屋台のあたりと比べて往来する人の数も減り、提灯もまばらとなっていく。

「ここだ」

 とある店の前でヤナが立ち止まると、後ろからついてきた弥八郎が首をかしげた。

 扉の隙間からは、蝋燭の光がこぼれ出ている。

「質?」

 弥八郎が店の看板を読む。

 ヤナは、ああ、とうなずいた。

「親父どのが死んでから生活が苦しくなってな。わたしの竿以外、舟もなにもかも処分してしまったんだ」

 言葉にすると、いまでも心の奥がしめつけられるような感覚がある。

 父親を失った悲しさ。

 天涯孤独の身になった寂しさ。

 ひとりで生活をしていかねばならないという恐ろしさ。

 その中で、父親が愛用していた釣り具を売り、生活を立て直すという決断をした。

「それでも、親父どのの竿だけはなんとか買い戻そうと、未練がましく金子を貯めておるのだ。質の主も話のわかる御仁でな。売らずに保管してくれている」

「ヤナどの」

 その言葉に顔をあげると、弥八郎がヤナの目をまっすぐにとらえていた。

「それは大変であったな」

 体温を感じさせるような、そのひと言に、思わず涙がこぼれそうになった。

「いや、いやいやいや」

 頭をふって、なんとかこらえる。

「わたしなど、命があるだけマシな方だ。戦に巻き込まれ、大勢の亡骸とともに海に沈んでいった子もたくさんいるからな。さあ、戻ろう!」

 泣きそうな顔をごまかすために一気にまくし立てると、また屋台の方へ歩きはじめた。

 弥八郎はヤナを気遣ってくれているのか、なにも言わずにあとに従った。

 しばしの沈黙。

 あっという間に耐えられなくなり、ヤナは適当な話題を口にした。

「そうだ。明日は新月だから釣りは休みだぞ」

「おお、釣れるのはまずいハチジョウウオだけであったな」

「もしくは龍神だな。味は知らんが」

「はははっ」

 弥八郎が笑うと、ヤナの心の緊張は、たちまち解きほぐれた。

「ならば、俺は龍神を狙ってみるとするか」

「なに? 釣りするのか?」

「ああ」

 弥八郎が情けない表情を浮かべる。

「どうせ、朝になれば女房に追い出されるからな」

「そうだった。仕方がない、つきあおう!」

「金子が目当てであろう?」

「そのとおり!」

 笑い声をあげながら、ふたりは提灯の明かりを目指して歩みを進めていった。


 ***


 竿を手にいつもの階段をくだり、いつもの釣り場へと向かう。

 物心ついたころから通ってきた道だ。新月の暗さであっても、ところどころにある蝋燭の光だけで迷いなく歩くことができる。

 釣り場に近づくと、ふわりとした光が下から感じられた。

 新月が近くなると海面まであがってくる小魚たちが発する光だ。

 階段をくだりきり、そこに立っていた侍の後ろ姿に声をかけた。

「さあ、はじめようか。弥八郎ど……の?」

 そこにいたのはひとりだけではなかった。

 腰に大小を差し、頭に鉢金を装着した侍が五人。

「おまえがヤナか」

 弥八郎とはまったく違う威圧的な声。

 胃の腑からこみ上げるような嫌な予感に、ヤナの身体は自然と逃げ出していた。

「ああっ!」

 侍のひとりに背後から髪の毛をつかまれ、地面にねじふせられる。

「殺すなよ」

「わかっておる」

 侍たちの会話が聞こえる。

 ヤナを抑えている侍は片腕しか使っていないのに、太い木につかまれているかのように身動きができない。

 痛みと恐怖で涙がにじみだす。

「荒木はどうした?」

「あの腰抜けのことだ。逃げたのやもしれぬ」

「遅れるわけにはいかん。娘を乗せろ」

 あらがうことのできない力で、ヤナは無理やり立たされた。

 うっ、と痛みで声が漏れる。

「乗れ!」

 見ると、舟着き場に舟が浮いていた。父親が使っていたものとは形状は違うが、釣り用の小舟だ。

 侍のひとりがすでに乗りこんでおり、ヤナをつかんで引っ張る。

 一瞬の浮遊感があり、すぐに舟の床に落下した。

 頭を舟のへりにぶつけ、視界がゆれる。

 朦朧としているヤナのことなど気にせず、侍たちが舟に乗り込んできた。

「いこう。縄をほどけ」

 侍たちを指揮している者だろう。

 ひとりの若侍が命令すると、ややあって舟が動き出した。

「娘」

 その侍が、冷たい目でヤナに告げた。

「本城の下まで案内せよ」


 ***


 玉響城は、果てなき海に浮かぶ巨大な建築物だ。

 その中央にあるのが本城で、「天下」と呼ばれる一族が支配し、玉響城全域の統治をおこなっている。

 ただし、天下の一族は時代時代によって入れ替えをおこなう。

 つまり、権力争いに勝利した氏族があらたな天下となり、追い落とされぬよう、次なる権力争いを繰り広げるのだ。

 現在の天下は院瀬見(いぜみ)家。

 二年前に謀反をおこし、あらたな天下となった一族だった。


 ヤナは、水先案内人を強要された。

 玉響城の下は、城全体を支える巨大な浮きが並んでいる。

 また、一部の構造が壊れ、大量の木材が海に突き立っている場所などがあり、広大な迷路のようになっていた。

「その浮きを右に、そのまま、まっすぐだ」

 ヤナの案内に従って侍のひとりが櫓を操り、舟の進行方向を変える。

 きぃ、という櫓の音と、たまに小魚が跳ねる音だけが響く中、舟はすべるように進んでいった。

 さきほどまでは光を発する魚がちらほらと姿を見せていたが、侍たちの殺気におびえたのか、いなくなっていた。

 侍たちが手にする提灯だけが唯一の光源だ。

 暗闇の中で、ヤナはものすごい怒りを感じていた。

 舟のへりにぶつけた頭からは血が流れ、ずきずきとした痛みの波が襲い掛かってくる。

 だが、痛みなどはどうでもいい。

(弥八郎どの。次に会ったときは三枚におろしてやるからな!)

 侍たちの会話を聞いたところ、どうやらこの五人は弥八郎と同じ、駒乃鈴家の者たちらしい。

 なにをしに本城に行くのかは聞くまでもない。

 現在の天下である院瀬見家に対し、駒乃鈴家が謀反を起こすのだ。

 また戦か。

 刀を振りまわし、敵対する者を片っ端から斬り捨てていく侍たち。

 凶行は住人にも及び、ヤナの父親はそれに巻き込まれて命を落とした。

 体温を失っていく亡骸にすがりついて泣き叫んだのは、たったの二年前だ。

 二度と味わいたくもない経験だが、今度はヤナが新しい戦のきっかけを作るらしい。

 あの日、弥八郎がなぜ釣り場にいたのか。

 本城へと忍び込むための進入口を探っていたのだ。

 そこに、海をよく知るヤナが現れたときは、さぞかし己の運の良さを喜んだであろう。

「見えてきたぞ」

 櫓を操る侍が進行方向を指さし、ほかの四人がそちらに視線を向ける。

 その隙を逃さず、ヤナは釣り鉤を海へそっと落とした。

 この舟は、どこぞの漁師から奪ってきたものらしい。

 ヤナの竿は釣り場に置いてきてしまったが、舟の持ち主が使っている竿が残っていた。

 ことが謀反であれば、殺気立った侍たちに容赦はない。ヤナの役目さえ終われば、斬って捨てられるのは間違いなかった。

 海中にある釣り鉤を動かすのに竿は不要だ。

 指先で糸だけつまんで、魚を誘うように動きをつけてやる。

「みな、覚悟はよいか」

 指揮をしている若侍の言葉に、他の侍たちが、おう、と呼応する。

「水面口から侵入し、一気に勝手口まで駆けのぼる。途中にいる者は容赦せず、すべて斬れ」

 侍たちがうなずく。

「本隊を城に入れたら天守を落とす。駒乃鈴が次の天下ぞ」

 本城には水を汲むための水面口がある。

 そこにはだれの姿もなく、ヤナは安堵した。

 もし水汲みのために女中でもおりてきていたら、無残に斬られていただろう。

 もっとも、人のことを心配している場合でもない。

「さて、案内ご苦労であった」

 水面口が近づくと、若侍が、すら、と刀を引き抜く。

 それをヤナに突きつけながら続けた。

「悪いが死んでもらうぞ」

「ことわる」

 言い終わるのを待たず、ヤナは竿をつかんで舟の床に押し立てた。

 突然の挙動に侍たちがひるむ。

 腕の力だけではたりない。

「ぬおおおりゃああ!」

 竿に肩を当てると、全身を使って魚を引っ張りあげた。

 大きなしぶきが聞こえ、なにかが水面から跳びあがる。

 ヤナが振り返ると、平たい身体をもった巨大な魚が舟の上に落ちるところだった。

 ハチジョウウオだ。

「おのれ!」

 巨大魚が墜落した舟は、大きくかしいだ。

 その衝撃で、侍の何人かが海に落ちる音がする。

 一緒に提灯もいくつか落ちたようで、水音ともに闇が一層、深くなっていった。

 落水をまぬがれた若侍はヤナを捕まえようとするが、その手がとどく前にヤナは水中に身を投じていた。

 一瞬にして、全身が冷たい水につつまれる。

 伊達に海のそばで暮らしてきたわけではない。水練は得意中の得意だ。

 二度、三度と手で水をかくと、あっという間に水面口へと到達した。

 水から上がるための足場を見つけ、両腕の力とあわせて、ざばり、と全身を持ち上げる。

 衣服が水をふくんで、とても重たい。

 走って水面口に逃げ込もうと思った次の瞬間、脇腹に衝撃が走り、ヤナの身体は床に転がった。

「ぐっ。は……」

 あばらのあたりが痺れて息がうまく吸えない。

 涙でにじむ視界の先では、さきほどの若侍が水からあがってくるところだった。

 どうやら殴られたらしい。

「小娘があ!」

 若侍の顔は怒りに染まっている。

 泳ぐために上衣を脱ぎ捨て、重たい本差を舟に残し、脇差だけを手に持っていた。

 若侍はその脇差を抜くと、ヤナへと迫る。

「お……」

 逃げ出したいが、体が動かない。

 死をもたらす鋼の色を見つめながら、ヤナは無意識に言葉をこぼした。

「親父どの」

「おう」

 不意に、ここしばらくで聞きなじんだ声が聞こえた。

 驚きで若侍の目が見開かれる。

 次の瞬間、背後の暗闇から伸びた刀が若侍の右肩に突き立った。

「親父どのでなくて申し訳ないがな」

「荒木ぃ!」

 肩を刺された若侍が後ろに下がる。

 刀が抜け、血が噴き出した。

「若様。お覚悟」

 弥八郎はヤナの背後から飛び出ると、若侍との距離を詰める。

 前進しながら刀を上段に構え、頭を狙って振り下ろした。

 若侍がなにも纏っていない左腕でその一撃を受け、ぼき、という骨の折れる音とともに絶叫した。

「がああああっ!」

 弥八郎はもう一度、刀を振り上げると、守るもののない頭を斬りつける。

 刀が若侍の頭にめり込み、その瞳からは、こぼれるように意識が失われていった。

 ややあって身体が床に崩れ落ちる。

「よくやった、荒木どの!」

 また、ヤナの背後から声。

 振り向くと、水面口の奥から武装した侍たちが出現していた。

 それぞれの手に持った提灯がまばゆく、ヤナは目を細めた。

「残党を殺せ! ひとりも生かしておくな!」

 状況を考えると、天下である院瀬見家の家臣たちだろう。

 槍や弓を手にした院瀬見家の侍たちは、水辺まで押し寄せると、水からあがろうともがいている駒乃鈴家の侍たちを殺していった。

 次々と悲鳴があがる中、弥八郎がヤナのそばまで歩み寄る。

 ヤナの前にひざまずくと心配そうな表情を浮かべた。

 いつもの弥八郎の顔がそこにあった。

「無事か、ヤナどの」

 言いながら、ヤナが頭から血を流していることに気づいたらしく、すまぬ、とつなげた。

「ケガをさせてしまったな」

 大きな手で頭を撫でられる。

 言いたいことはたくさんあるのに、安堵で喉の奥がつかえて言葉がでない。三枚におろしてやる、と怒りをぶつけてやりたいのに。

 そんなことを考えているうちに、院瀬見家の侍たちをたばねている男が近づいてきた。

「お見事であった。覚悟のほど、とくと見させてもらったぞ」

 弥八郎が立ち上がり、深々と頭をさげる。

「こたびのこと、なにとぞ」

「ああ。駒乃鈴家の若君を討ち取ったのは、我々、院瀬見である。おぬしが生きているからといって、裏切りを疑う者はおるまい。もっとも」

 院瀬見家の男がつづけた。

「もはや、その必要もなさそうだがな」

 ふっ、と弥八郎が静かに笑う。

「荒木どの。刀をお預かりしようか?」

「かたじけない」

 弥八郎は腰の大小を鞘ごと抜き取ると、男に渡した。

 それをうやうやしく受け取った男は、「御新造へは間違いなく」とだけ告げ、配下へと声をかけた。

「この場はもうよい! 外にひそむ鼠どもを討ち取りにいくぞ!」

 院瀬見家の侍たちは、もう弥八郎も、ましてやヤナに視線を向けることもなく、水面口から去っていった。

 提灯をひとつ残していってくれたようで、そのぼんやりとした明かりだけが、暗闇から世界を切り取っている。

 駒乃鈴家の侍たちがどうなったのかと見ると、死体はすべて海に捨てられたようで、若侍が作った血だまりだけが唯一の痕跡だった。

 無人となった舟が波に揺られて足場にぶつかる、ごん、という低い音が響く。

「さてと」

 弥八郎がヤナに手を差し伸べた。

「うちへ帰ろう、ヤナどの」


 ***


 きぃ、という音をたてて、ヤナが櫓を操る。

「俺は舟を漕いだことがない」という弥八郎だったので、必然、ヤナが舟を進めることになった。

 気がつけば、光を発する小魚たちが戻ってきており、提灯を使わなくても視界を得ることができた。

「つまり、わたしはエサにされたのだな」

「許せとは言わぬよ。ケガもさせてしまったしな。すまぬ」

 弥八郎がぎこちなく頭を下げる。

「ふん」

 不貞腐れてみせながら、反面、ヤナの怒りはすっかり収まっていた。

 詳しく事情を聞いたわけではないが、院瀬見家の家臣とのやりとりから察するに、弥八郎は駒乃鈴家を裏切ったのだ。

 本城への侵入口を探っていた弥八郎だからこそ、あの場で待ち伏せをすることができた。

 では、なぜ裏切ったのか。

 駒乃鈴家の侍たちが言っていたように臆病者だからか。

 そうではないだろう、とヤナは思う。

 謀反はとうぜん大罪だ。もし失敗すれば家族にまで累が及ぶ。

 それに、成功したとしても城内での争乱は必至だ。二年前と同じく、たくさんの犠牲者が出ただろう。

 ようやく院瀬見家の天下が形になってきたところで、また混沌が生まれることになる。

 深いところでの弥八郎の思惑は不明だが、ヤナとしては、ただ感謝の気持ちしかない。

 ヤナのような、親を殺される子どもを生まずに済んだのだから。

 途中で、上の方から鬨の声のような音が響いてきた。決着がついたのであろう。

「まもなくだ」

「うむ」

 見慣れたいつもの釣り場に戻ってきた。

 ヤナは船着き場にぴたりと舟を寄せると、身軽に舟から飛び降りる。

 そういえば、この舟の持ち主をどうやって探そうか、と考えていると、弥八郎が降りてこないことに気づいた。

「どうした、弥八郎どの」

「いや……なに」

 どうにも様子がおかしい。

 ヤナは舟に戻ると、弥八郎の正面に位置した。

 腹のあたりの着物が濡れている。

「血? まさか、刺されたのか?」

 そうだとしたら、さきほどの死闘のときだろう。

 刀を左腕で受けた若侍は、右手に持つ脇差で、弥八郎に致命傷を与えていたのだ。

「ヤナどのの教えどおり」

「え?」

「魚が鉤を食うまで待ってみたが、どうにも……俺の刀がまずかった」

 いつもの笑顔。

 しかし、その顔からは血の気が引いていた。

「医者を!」

「いい。それより、ちょっと手伝ってくれ」

 よろ、と弥八郎が立ち上がる。

 ヤナはすぐに横につき、弥八郎が舟着き場から釣り場にあがるのをささえた。目の前で、着物に血の染みが広がっていく。

 弥八郎が、どさりと座り込んだそこは、いつも釣りをしていた場所だった。

「あれは、ヤナどのの竿か?」

 弥八郎の視線の先を追うと、ヤナが侍たちに連れ去られたときに落とした釣竿があった。

「ああ。さっき落としてしまった」

「貸してくれぬか」

 ヤナは釣竿を取ってくると弥八郎に手渡した。

 弥八郎はエサもついていないままに、釣り鉤を海に落とす。

 糸と海面が触れるところに、小さな水紋が広がっていく。

 それを見ながら、弥八郎はぽつりとつぶやいた。

「楽しいなあ、ヤナどの」

 次第に力を失っていくその声に、ヤナは返事をすることができない。嗚咽をこらえるのに精いっぱいだった。

 ふ、と弥八郎が視線をあげる。

「俺に釣られてくれるのか」

 なんのことかとヤナも目を向けると、音もなく出現した巨大な生き物がこちらを見ていた。

 海から突き出した顔は銀色の鱗に覆われていて、両側に赤い双眸が見開かれている。

 するどい牙の並ぶ口は深く裂け、その圧倒的な力を感じさせる姿にヤナは全身を硬直させた。

 胴体は海の中に入っており、見ることができない。

 しかし、首から上の部分だけで、ヤナが見たこともないほどの大きさであることを確信させた。

 特徴的なのは眉間にある模様。

 そこだけ金色の鱗が覆っており、まるで月を連想させた。

「女房に、自慢できるかな」

 弥八郎が静かに立ち上がる。

 動きをあわせるように龍神の口が開かれる。

「達者で。ふたり、とも」

 龍神は、ばくり、と弥八郎の身体をくわえると、現れたときと同じように音もなく海の底へと潜っていった。


 ***


 何度目かの満月が訪れた。

 あれからヤナは釣りをしていない。

 なぜかそんな気にならず、しかし釣り場にだけは足を運び、ただ海底をうごめく月を見続けていた。

 玉響城内は、駒乃鈴家の謀反騒ぎの話題で持ち切りだった。

 失敗した駒乃鈴家の手配が悪いだの、先手を打った院瀬見家はさすがだのという話が聞こえてきたが、ヤナと一緒に釣りをしていた男の名前が人の口にのぼることはなかった。

 ぱちゃり、と水面をサクラハナウオが揺らす。

 そろそろ釣りをせねば生活ができなくなる。

 父親の釣竿を買い戻そうと思っていた弥八郎からもらった金子は、ここしばらくの米に変わっていた。それも、もう底をつきそうだ。

「わたしも連れて行ってくれたらよかったのに」

 ぽつりとつぶやいた。

 父親も、弥八郎もヤナを置いていく。

 この薄暗い世界にヤナだけ残して、あのまばゆい月の世界にいってしまった。

 こつ、こつ、と釣り場の階段をくだる音がする。

 このあたりではあまり聞かない、身分のよい女人が履く下駄の音だ。

 しばらく待っていると、竿をかついだ女が現れた。

 艶やかな黒髪で結われた丸髷には、赤色の玉のついた簪を刺している。

 身にまとう薄浅葱色の着物も、やはり身分のよさを表していた。

 目からは芯のある意思が感じられ、その瞳はまっすぐにヤナを見つめていた。

 まるで、どこぞのお侍の女房のような。

「ヤナさまですか?」

 そのひと言で、ヤナの疑念は確信に変わった。

「弥八郎どのの奥方か」

「はい。ヒサと申します」

 弥八郎の女房は品の良い仕草で床に座った。

 魚くさくはないだろうかと、すこし自分のにおいを気にしてしまう。

 ヤナは、ヒサが持っている竿に目をとめた。

「それは……親父どのの竿ではないか」

 質にあるはずの竿を、どうして弥八郎の女房が持っているのか。

「俺になにかあったら、これを買い戻してヤナさまにお渡しするようにと言われました」

 店の詳しい場所がわからなくて、ほうぼう探しました。そう言ってヒサがヤナに竿を手渡す。

 ほほえむ表情は、どこか弥八郎を思わせた。

「ねえ、ヤナさま」

 背中を優しくなでられる。

「ともに暮らしませんか?」

「わたしは」

 どう言ったものだろうか。

 すこし考えてから、つづけた。

「この場所で……この場所がいい」

 父親と弥八郎。

 ふたりの男の思い出がある。

「では、こういたしましょう」

 ヒサは立ち上がると、両手を腰に据えて怒ったような表情になった。

「あの人はいつも、どんな魚が釣れただの、今日はボウズだっただのと、嬉しそうに話すんです」

「はあ」

「独りで、そんなに楽しそうなこと。ずるいです」

 話が見えない。

 ヤナが視線で話の続きをうながす。

「だからね、ヤナさま」

 ヒサはまた、弥八郎を思わせる笑顔を浮かべた。

「わたしに釣りを教えてくれませんか」

 その言葉にヤナが目を見開く。

 ややあって、笑顔で返した。

「ああ。金子さえくれれば教えてやるぞ」

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玉響城の釣り道楽 だいたい日陰 @daitaihikage

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