欧米人と『多様性』に関する散文

平沢ヌル@低速中

欧米人と『多様性』に関する散文

 こう、19世紀以前の歴史とかを考えてみると、欧米人が主張する多様性とかに素直に信頼が置けないのは確かなのだが。

 同時に、それは手痛い教訓であり、彼らにしかその危うさを感じ取れない薄氷のような正義の概念であるというか。


「多様性を声高に主張する欧米人、多様性に対するアンチテーゼを排斥するじゃん」

という主張は頻繁になされるのだが、多分どこかずれていて。

 それは単なる傲慢さとか思考停止ではなくて、地獄の釜の蓋を必死で抑えてるみたいな感じ。


 まず、現代で『多様性』について語るとき、それはマイノリティ排斥や女性差別、同性愛等に対する差別に反対する思想、という意味合いを持つ。

 ここではその意味で語られる多様性について考える。


 ヨーロッパを貫く思想性は歴史的にはずっと多様性とは真逆だった。

 自分、中学演劇でジョージ・エリオット『サイラス・マーナー』を演じたのだが、原作本読んだら「犬畜生にも劣る異教徒」という言葉が平気で出てくる。

 中世から近世、近代に移るにつれて異教徒、異民族、性的少数者排斥の信仰はだんだん形を変えていったけど、結局20世紀までそれは紛れもなく生き残り続けた。

 国家権力による同性愛者排斥といえばコンピュータの祖であるアラン・チューリングの最期などは悲惨の一言でしかないのだが、なんと第二次大戦後だという。


 じゃあ現代ではそれが跡形もなく消えているか? って言ったら、そんなことないと思うんだよね。その思想のおぞましい残滓ざんしは、現代にも生きている。きっと。

 だって人間は、自分たちが自分たち以外と比べて優れていると保証してくれるもの、それをささやく誘惑をそう簡単に振り払い、捨てられるような生き物ではない。

 そしてそれは、我々よりも彼らにとっては、ずっとずっと強いものだろう、きっと。


 差別は英語で discrimination だけど、この単語のラテン語的な原義は「二つのものを区別する」という意味だったんだよね。

 現代の英語では第一には差別の意味だけど、第二の意味として原義の方が説明されている。

 それを考えると、伝統的なヨーロッパの差別思想って、元々は良いものと悪いものを区別しているつもりだったのではないかと思っている。

 それらは元々は正義に基づくもの、合理的で正しい教えとされていた。優生思想、骨相学、反ユダヤ主義、などなど。

 で、結果的に様々な、信じがたい悲惨が地球上に生まれたけど、その極致、一つの集大成がナチズムなのではないかなあ。

 現代の欧米の思想は、ナチズムに対する批判、反省を原点というか、重要なターニングポイントにしている気がしている。


 現代の日本でも「差別じゃなくて区別です」という言葉を発する人々がいるけど、それこそが差別の本質ではないのかなと。

 神の教える正義と人間の善良さに従い良きものと悪しきものを選別しているつもりが、その情熱そのものが際限のない憎悪と悲惨と争いの原因になる。その引き金が引かれたら、個々の人間には制御できず否応なくその渦に巻き込まれていくことを彼らは知っている。

 少なくとも『反差別』や『多様性』の概念を構築する核となっている人々は理解している。


 欧米人って、進歩的な人々の表面的な振る舞いに反して、強固な信仰を持つ、宗教的に情熱的な人々ではある気がしている。

 だから彼らは信じるものを変えた。神や信仰そのものの否定というよりは、それらの第一の所産である思想的な根幹を書き換えた。そうしなければ、単一の正義が内包する邪悪さが彼らの世界を呪い続けることを彼らは理解していた。

 で、その新しい思想の根幹がある場面では『多様性』と呼ばれるものなのではないのか、と。


 日本人は片方の結論に陥ることを嫌がる傾向があり(※)、

「えーでも、『多様性』を否定する人々を否定したらそれ多様性じゃないじゃん」

とか

「どっちの側にも一面での真実があることを理解しないと」

みたいなことを言いがちだけど。

 それは論理的な意味では真実に近くはあるけど、究極的には論理的に真な命題ってその実、何も言ってないのと同じになってしまう。


 だから、上記の主張は一見正しそうに見えても

「現実の問題に対して介入する気はありません」

「そのことにより世界のどこかで苦しむ人間がいるのは仕方ありません」

「だって、それはそういうものだから」

みたいなニュアンスを含んでしまう。おそらくは不可避に。


 結局、問題の根幹は世界のどこかで苦しむ人間がいて、そのことにより憎悪の渦が発生し広がって、誰の手にも収拾がつかなくなることであるので。

 それを忘れると倫理的相対主義はこの上なく残酷なものになってしまう。

 論理的な正しさと、行動の上で何がより良いのか、じゃあ結局我々は何を選び取るべきなのかということは、完全に同じではない。完全に逸れることもないのだと思うが。


 で、

「『多様性』論者がその憎悪の渦を引き起こしてるんだ!」

という主張も実際なされているけど、問題の核は多様性自体ではないのではないかなと。


 人間は正義に燃える時、強烈な信念を守る必要に駆られている時ほど悪意の犠牲になりやすくて、それはどんな主張を掲げるどんな人間でも例外ではない。

 当然、『多様性』を主張する人々も、それに反発する人々も。

 正義は捻じ曲がって悪に転じる。

『多様性』、あるいはアンチ『多様性』。その皮を被った文化否定と排斥、男性嫌悪、女性嫌悪、逆説的な差別。

 結局はお馴染みの無理解、悪意、嘲笑、攻撃がここにも返り咲いていること。

 それは直接的で注意深い言葉で表現し、問題を指摘すべきものであって、十把一絡げに『多様性』と呼ぶべきものではない。

 何よりも、自分自身が正義の言葉で悪意を語っていないか、あるいは悪意の言葉で正義を語っていないか、そこに一番注意すべきなのではないかな。


……って思いますね、私としては。


(※)とまあ、19世紀から20世紀の歴史において日本が果たした役割についてはさっくりスルーして議論してみたけど。ある方面から怒られるかもしれない。

 ただ私はどうも、日本人の内面性をよりよく表すのは、歴史的な経緯よりも現代人が語りがちな相対主義な気がしているけど、語り始めると多分泥沼に突っ込むので、この辺で。


(おわり)

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