第4話 鯨もどき
そんな風に舞の練習をしたり、
長い距離を歩いたり、それなりに速く走れるようになると、私たちの行動範囲も徐々に広がっていきます。最近の私の趣味は、おっちゃんの縄張り周遊散歩について行くことです。
「みゃー(おっちゃん、これから散歩?私も行く!)」
私は、歩き出したおっちゃんの後をちょこちょこ短い足を動かしてついて行きます。
最初の頃はカギとダミも一緒に行っていたのですが、「そのうち出て行かなきゃならない縄張りに詳しくなっても意味がない」と言って、2匹ともあまりついて来なくなりました。楽しいのに。
おっちゃんの散歩コースの最初は、私たちの住む裏路地から歩いてすぐの所にある、ミケ爺の住む
ミケ爺は、雄には珍しい3色柄の老猫です。船乗りの間では雄の三毛猫は縁起が良いとされていたせいで、幼いころに人間にさらわれて船に乗せられ、以来、長い間『船猫』として海に出ていた数奇な運命の猫です。あ、船猫というのは、家猫の亜種でして、家の代わりに船に住む猫のことです。船のネズミを獲るのが仕事だったそうです。
何度か住む船を変えていたそうですが、最後の船の船長(家主みたいなものですかね)と気が合ったそうで、船長が船乗りを引退して
ミケ爺は気の良いお喋り好きなお爺さんで、本当か嘘か分からない海の不思議な話をしてくれます。私は彼の話を聞くのが好きでした。あと、ときどき食事を分けてくれるのも好きでした。
「みゃみゃみゃ(それでよう、俺は
ミケ爺は、家の扉に付けられた彼専用の小さな戸を開けて自由に外出できる家猫です。今日も家の前で私たちを出迎え、かつて船で寄った島に住む雄猫を、雌のふりして騙して貢がせたお話をしてくれます。
「み…(いや、無理があるだろう。確かに三毛は雌の柄だけど、匂いで雄ってばれるだろう、普通…)」
おっちゃんが冷静に突っ込みますが、ミケ爺は気にしません。
「みゃう(それがな、結構分からないものなのよ。海辺の猫だから潮風で鼻が悪くなっていたのかもな。俺は昔から
「み…(へえ…)」
「みゃ(ところがよ、ある日つい油断して、そいつにお尻を向けてしっぽをぴんと立てちまったんだ。俺の立派なタマタマが見えて、ついにばれちまった。
『お前、
「にゃあ(きゃはは)」
私は大笑いしました。
こんな風に、ミケ爺は嘘か真か分からない、おそらく私たちが一生行くことはないであろう海や海を越えた所にある島のお話をしてくれるのです。
彼の話の中でも、私は『鯨もどき』の話が一等好きでした。
「にゃにゃ(ミケ爺、鯨もどきのお話して)」
「みゃ(またかい?おハナは鯨もどきの話が好きだな)」
そう言って、ミケ爺は、鯨もどきのお話をしてくれました。
*****
あれは、
俺たちは、北の島から主島に船で荷を運んでいた。荷物は北の島で取れる魚や海藻の干したやつが多かったな。
晴天が多く順調な航海だったが、奴らが出た。奴ら―――海賊だよ。
海賊ってのは他の人間の船を襲って荷物や人間をさらって行く嫌な奴らのことだ。だから普通は船や荷物を傷つけないようにするんだが、そのときやってきたのは海賊の中でも残虐なやつらで、何か見せしめが必要だったらしく、荷物には目もくれず、乗り込んできて船員を殺し、船に穴をあけて火を放って去っていきやがった。
船は燃えて沈み、船員は俺たちを除いて全滅だった。俺と船長は、奴らに殺されそうになって逃げまわっているときに甲板から海に落ちて助かった。
船長は、海に浮かぶ樽につかまって、自分の船が燃えるのを見ていた。俺はその船長の頭につかまって同じものを見ていた。船長が現在、まだそれほどの年じゃないのに頭に毛がなくなってしまったのは、そのとき俺が必死にしがみついて爪を立てたせいかもしれん。
他に生存者がいないか確認したが、海の上に動くものはいなかった。船長と俺は、樽につかまったまま泳いで陸地を探した。幸い季節は夏で、北の海とはいえすぐに凍死する心配はなかった。
しかし、そこは主島と北の島のちょうど中間で、人間が泳いでたどり着くには何日もかかることが予想された。水や食料なしに泳ぎ続けることはできない。それでもわずかな希望にかけて、俺たちは南の主島を目指した。
――――と、悲壮な決意で泳ぎだした俺たちだが、すぐに転機はやってきた。俺たちが海に落ちたのは朝だったから、半日も経っていない昼過ぎくらいかな。そいつと出会ったのは。
最初は、黒い何かが波の間に見えた。鱶だったらどうしようかと俺たちは身構えたが、どうにも生き物ではなさそうだ。黒い岩だろうか。岩礁が海面から顔をのぞかせているのかもしれない。もしそうならそこで一休みできるかもしれない。そう思った俺たちは、その黒い物を目指して泳いだ。
岩ではなかった。岩ってのは、ごつごつして、貝とか色んなものが貼り付いてにぎやかなもんだろ。そいつは、黒一色。のっぺりつるつるした肌で、ずっと海に浸かっていたはずなのに、牡蠣の1つも付いていなかった。
自然にあるものじゃない。人間の作る船のようなものだと思う。見た目は鯨に似ていた。鯨ってのは海に棲む大きな黒い魚だ。その鯨が海面に少しだけ頭を出している姿に似ていた。
その顔を出している所に俺たちはよじ登った。久々の陸地だ。地面があるってのはこんなにありがたいものなんだなとしみじみ思ったよ。俺と船長はしばらくそこに仰向けに寝そべった。
やがて船長は起き上って、この鯨もどきを調べ始めた。黒一色だと思っていた鯨もどきだが、少し色の薄い丸い部分があった。船長がそこを押したり叩いたりしていると、その鯨もどきが喋った。
「――――――」
人間の言葉だった。
俺は船長以外の人間の言葉は分からないんでなんて言ったかよく分からなかったが、船長は分かったようで、何か答えていた。しばらく会話が続いていたが、やがて鯨もどきは喋らなくなった。船長が丸い部分を何度も叩いたが、うんともすんとも言わなくなった。
「資格がないんだとさ」
船長はそれだけ言って寝転んだ。その鯨もどきは、ときどきゆっくりと泳いでは止まるを繰り返していた。俺たちはその上に乗って過ごした。幸いなことに2日目に雨が降った。俺たちは口を天に向けて水を飲んだ。俺は雨も水も嫌いだが、あの時ばかりは雨に感謝した。船長は樽に雨水を溜め、少し気持ちに余裕ができた。樽の中身は干鱈で、俺たちは水にふやかしたそれを少しずつ食べた。
5日目、陸地が見えた。このまま近くに行ってくれという願いもむなしく、鯨もどきは方向転換し、陸地から離れていく。俺たちは決断した。船長は樽につかまり、俺は船長の頭につかまり、鯨もどきと別れて陸地を目指した。
浜辺に泳ぎ着いたとき、俺たちは海を振り返った。
鯨もどきの姿はもう見えなかった。
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箱舟の鯨 良宵(よいよい) @yoi_yoi
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