『プラネタリウム』

槙野 光

『プラネタリウム』

 

「プラネタリウム?」


 大学一年生の秋。音楽サークルの部室でソファに座って歌詞を綴っていると、背後から彼の声が降ってきた。


「あーちょっと勝手に見ないでよ!」


 慌てて両手でノートを隠すと、彼が私の隣に腰を下ろす。


「それさあ、書き終わったら俺にちょうだい? 曲つけるから」

「えーやだよ」

「なんで」

「だって恥ずかしいし」


 「下手だし」と口を尖らせると、彼が小首を傾げる。


歩夢あゆむの歌詞、俺は好きだけど?」

「……じゃあ、書き終わったらね」


 面映い気持ちになりながらもそっけなさを装って言うと、彼がガッツポーズをして無邪気に笑う。


「やった!」


 その姿が可愛くてつられて笑みを溢すと、彼と目が合った。ふと沈黙が降りて、テーブルの上に落ちた人影が重なりあう。影は、茜色と共に紫紺の空にゆっくりと溶けていった。


 部室の本棚にノートを戻した後、彼と手を繋いで帰り道を歩いた。

 彼と一緒に見る夜空はプラネタリウムよりも美しくて、ひとつ、またひとつ現れる星にこんな日々がずっと続けば良いと強く願った。


 でも、叶わなかった。

 

 大学二年生の秋。

 星空に見下ろされながら彼と手を繋いで歩いていると、彼が唐突に言った。


「俺、大学辞めるから」


 驚いて、足を止めて隣に立つ彼を見上げる。


「……なんで?」

「音楽活動、本格的にやろうと思ってさ」

「そんなの、大学辞めなくたってできるじゃん」

「アーティストは感受性が大事だから、ちょっと旅に出ようかなって」


 笑って、さらりとなんでもないことのように言う彼に、急激に怒りが湧いた。


「なんでそんな大事なこと勝手に決めちゃうの? 私ってそんなに頼りない?」

「そんなこと――」

「あるよ! 結局、のぼるは私のこと信用してないんだよ。別れたいなら、素直にそう言えば良いじゃん!」


 涙ぐみながら責め立てる私に、彼は何も言わなかった。代わりに、彼の手がゆっくりと離れていく。


「もういいよ!」


 気付けば私は、飛び出すように逃げ出していた。

 彼が追いかけて来てくれるんじゃないかって、淡い期待をした。でも結局彼は現れなくて、私は人目も憚らず大声で泣きながら歩き続けた。


 歩く度に遠ざかっていく温もりが、胸に刺さる。

 痛くて痛くて、たまらなかった。


 それから少しして彼は大学を辞めて、私の足は彼と過ごした部室から次第に遠ざかっていった。


 大学四年生の夏。

 面接帰りに街中を歩いていると、高校時代の先輩と偶然出会した。挨拶を交わしそのまま立ち話をしていると、ふと先輩が顔を曇らせる。


「それにしても、大変だよなあ」

「何がですか?」


 私が小首を傾げると、先輩が言う。


のぼるだよ昇」


 久しぶりに聞いた彼の名前に、鼓動が跳ねた。


「おやじさん、倒れたんでしょ? それで大学辞めて田舎に帰って、あんなに好きだった音楽やめてさあ……。まあ、笹山ささやまがいるから大丈夫か。あいつに頑張れって伝えといて」

 

 先輩が、私の肩を叩いて去っていく。でも私は、その場から動くことができなかった。雑多な人混の中で、別れ際に見た彼の顔が幾度も脳裏をよぎる。でも、涙で滲んでいて分からなかった。


 あの時、彼はどんな想いで私を見ていたのだろう。

 どうして、ちゃんと彼の話を聞かなかったんだろう。


 幾つもの後悔を抱えたまま、気付けば私は部室の前に立っていた。怖くて、何度も躊躇いながらもドアを開けると、ほんの少しだけ埃の匂いがした。

 立ち尽くして、少しして本棚からノートを取り出した。ソファに腰掛けて、テーブルの上に広げたノートを捲っていく。


 一枚、また一枚。そして、ふと手を止めた。


『プラネタリウム』


 目の奥が、熱くなった。

 夜空に浮かぶ星のようにひとつ、またひとつ想い出が現れては涙と共に消えていく。

 

 ああ、この恋はもう、終わってしまったんだ。


 悲しくて苦しくて、どんなに涙を流しても変わらなくて、私は心の悲鳴を聞きながらノートに歌詞の続きを綴った。

 一文字一文字。

 彼への想いを書き移すように、ゆっくりと。


 私の声が、二度と彼に届かなくても。


 そして私は彼を置き去りにして、彼と過ごしたこの学び舎から卒業した。


「ねえねえ、この曲めっちゃよくない?」

「いい、ていうか声がめっちゃ良い」


 婚約者とのデート帰り。茜色に染まる駅のホームでベンチに座って電車を待っていると、弦を弾く柔らかな音が耳に届いた。

 隣を見ると、大学生らしき女性がふたり肩を寄せ合いながらひとつのスマホを覗き込んでいた。


「声もいいんだけど歌詞が良くてさあ、ほらここ」


 君と見た幾千億の星

 忘れないよ いつまでも

 

 ――君に この声が二度と届かなくても


 心臓が、飛び出そうになった。


「ねえ、それなんて歌なの?」


 電車が滑り込んできて、雑多な人混みに歌が紛れていく。

 

「これ? これはね――」


 ふたりの姿が車内に吸い込まれ、発車音が鳴り響く。でも私は立てなくて、込み上げてきた涙を隠すように目を伏せて電車を見送った。


 風が、髪を攫う。


 遠くの空で星が瞬いたような気がしたけれど、それはきっと、気のせいなのだろう。

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『プラネタリウム』 槙野 光 @makino_hikari

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