パンダヒーロー 1.プロパガンダ

@codama

第1話 プロパガンダ

 太古の時代から、人はヒーローなくして生きられなかった。パンと寝床とヒーローを人は欲した。玉座にヒーローを座らせ、ヒーローは玉座からの景色を知りたかった。知るために剣を振った。




 その町のほとんどの建物は、背が高い。天へ向かって上へ上へと聳え立ち、鉄の肌を誇らしげに太陽に煌めかせている。さながら銀の林のようなそのビル郡の中に、ひと際目立つ、巨大なビルが一つだけあった。人を拒むほどの大きさだった。大抵の人間は見上げると首を痛め、逆に登ろうとすればあまりの高さに恐れおののく。何十年も、そんな平凡な人間を振り落としてきた、威厳たっぷりの塔である。

 ところが、世の中というのは思ったよりも人で溢れているもので、中には例外もいるのだ。あのビル、あまりに落ち着か気なあの場所に、悠然と腰を据える人間、そんな人間も世界中に一握りはいた。



 その巨大なビルの一室に、二人の男がいた。

 一人は長身で、部屋の一部の壁全体を使った大きな窓ガラスに寄りかかっている。彼の中で取り分け目を引く頭部の豊かな黒い巻毛の波打ちが、血や鉄に慣れているのであろう暗い瞳を、幾分か優しくしていた。

 もう一人は窓に背を向けて、デスクの前の椅子に座っていた。窓際の黒髪と対照的に、彼の髪は明るい金色で、瞳は夜明けの青だった。顔立ちは美しい。若さや性別に助けてもらわずとも、後数年はこれだけで食っていけるだろう。だがその瞳の青い虹彩の周りに、何度瞬きしても剝がれない影がこびり付いていた。

 二人の男の優美な顔立ちは、時には嘘とも言えた。顔立ちよりも瞳が、彼ら二人の本性をよく物語っている。

「イーサン」

 しばらくの間流れていた沈黙を、金髪の男性が不意に破った。彼は後ろを向き、さっき自分がイーサンと呼んだ黒髪の青年を見る。そしてデスクに置いてあった新聞記事を、彼に投げてよこした。イーサンは金髪の方を碌に見もせず、片手で記事を受け止めた。彼が記事に目を通し始めたのを見て、金髪が口を開き喋り始めた。

「まずいことになった。見過ごせない事態に」

 イーサンが彼に言葉を返すまでに、多大な時間がかかった。二十分も三十分も、彼は新聞を凝視し続け、ようやく口を開けた頃には、金髪は煙草を取り出そうと自分のジャケットを弄っている所だった。

「何をするつもりだ」

 金髪は煙草の箱をデスクの上に置き、今度はライターを探しながら「殺す」と一言だけ言った。

「俺を馬鹿にしてるのか、ロバート」

 イーサンがようやく金髪を名前で呼んだ。

「できるわけがない。俺もお前もそんなことできるわけがない。今回の件は他とはわけが違う。相手が誰だか分かっているのか」

「やるさ。少なくとも俺は」

ロバートは何食わぬ顔で親指でライターを弄った。

「イーサン、俺が妥協する人間に見えるか? いや、今まで一度だって俺が妥協したことがあったか? いいか、やつは俺の敵だ。敵なら容赦しない。相手が誰だって敵ならみんな平等だ。だからやる。イーサン、お前なら俺のことを一番知ってるだろ?」

 イーサンは沈黙した。やがてロバートが再び口を開いた。

「だけどな」

 妙に明るい声色だ。さっきまでの静けさが嘘のような。

「このピンチは捉えようによっちゃ、ビッグチャンスかも知れん。イーサン。やつは危機と共に幸福ももたらしてくれるらしい」

 そう言うとロバートはイーサンを手招きした。イーサンがそっと歩み寄ってロバートのデスクの上に腰を掛ける。彼はこうした無作法を許されている人間だった。目の前のこの男、底冷えするほど美しく威厳に溢れたロバート・クロスに断りなく接吻しても、彼だけは頭を撃ち抜かれることはない。誰しもがそう知っていた。ロバートはイーサンの、新聞を掴んでいる指先のあたりを見つめながら話を続けた。

「近頃この町では物忘れのひどい連中が増えたようだな。立場も礼節も弁えず、俺を好き勝手中傷したり、暗殺の計画をひそひそ酒場で囁いたり。俺の若いころはみんなもう少し慎ましかったと思うが。ま、とにかくこの町は一度規律を正す必要があると思ってな」

「規律を正す?」

「ああ」

 ロバートがイーサンから視線を外した。

「一種のプロパガンダだ。公衆面前の場でことを済ます。そして頂点が誰であるか分からせるんだ。もう二度と俺のような奴が現れないように」

 イーサンが上半身を捻ってロバートと視線を合わせた。先にロバートがそらした。

「ロバート」

 長い長い沈黙の果て、やがてイーサンが口を開いた。

「ならそれは俺がやる。必ず俺がやる。そうしなくちゃ、俺の気が収まらない。やらせてくれ、頼む」

「ダメだ」

 ロバートの声に、イーサンが弾かれたようにデスクから降りた。

「ダメ⁉ なぜ! いつもやってきたのは俺だ! みんなみんな、俺が殺してきたんだ! なのになぜ急に……」

 イーサンは荒い息で言った。しかし、当の本人は呑気に煙草に火を着けている。そのいつも通りの仕草に、イーサンは眉根を寄せて今度は静かに言った。

「じゃあ、一体誰にやらせるつもりだ?」

「もう決めてあるさ」

 ロバートは唇の隙間から煙を吐いた。そして手で口を押えるとそっと、誤魔化すように咳込んでから、言葉を続けた。

「巷である噂が流れていると聞いた。ある何でも屋についての噂がね。そいつは報酬次第でどんな仕事もこなすらしい。どんな、仕事、も、どんな」

「誰のことだ」

「パンダだよ」

「パンダ? パンダってあの、白黒の熊みたいなやつのことか?」

「ああ。だが、中身は人間だ」

「まさか……」

 イーサンは短く空気を器官に送った。そして絞り出すような声で言った。

「パンダヒーロー」

「そう、パンダヒーロー」

 ロバートは自身の口が咥えている、煙草の先端から立ち上る煙を目で追った。

「パンダの着ぐるみを纏い、素顔を隠し続ける謎多き暗殺者。イーサン、プロパガンダには印象付けが必要なんだよ。可愛らしいパンダが凶器を振る姿。なかなかのインパクトだろ?」

 イーサンはロバートの声に、沈黙で答えた。その間にロバートの深い呼吸が、煙草の火が燃え上がる度に大きく響く。

「素顔も分からないやつに彼を殺させるのか?」

 イーサンの静かな声が、ロバートの呼吸音を止めた。やがて「ああ、心配ない」と、けろりとした調子のロバートの声が彼に被さった。

「パンダヒーローが忠誠を誓うのは金払いのいいやつだ。なら、この町でパンダヒーローを従えられるのは一人しかいない。そうだろ?」

 イーサンは再び沈黙を答えとした。問を無視されても、ロバートは不満に思う素振りも見せず、手に持った煙草の灰を、とんとんと灰皿に落とした。

「ああ、いい」

 やがて彼はそう言った。

「お前は黙っていてくれ。どうせ分からんだろう。何も心配することはない。直に解決するから」

 座れよ、という風にロバートはデスクの端を手で指した。イーサンが大人しく腰掛けると、彼は煙草を左手に持ち替えた。

「決行当日はパンダヒーローと共にジェフェリー、マッテオ、マサヨシ、ナヒマナ、ヤン、ローガン、この六人を行かせる。後で指示しておけ。お前は、当日はここで待機だ」

 イーサンの相槌も頷きも確認することなく、ロバートは再び顔を俯けて煙草を唇に挟んだ。この角度は彼の長い睫毛が一番際立つのだが、イーサンは気に掛けなかった。それでもロバートは、自身の下腹から腿までの間を見つめて、顔を上げなかった。

 部屋のドアが拳で軽く叩かれたのは、丁度そんな風に三分ほど経った頃だった。

「何か!」

 顔を上げたロバートの声に、ドアの外の声が答えた。

「リーズ・ドーキンスです。ミスター・クロス」

「どうぞ」

 ドアが開いて赤いウールのドレスを着た、一人の女性が入って来た。彼女の姿を見るや否や、ロバートは素早く煙草を灰皿に押し付け、イーサンはデスクから降りた。リーズ・ドーキンスは手慣れた手つきで後ろ手にドアを閉め、ロバートの方を向いた。

「ミミの授業が終わりましたので、私はこれで失礼します」

「そうですか。お気をつけて。今、車の用意を」

 ロバートが内線の受話器を取るのと同時に、リーズは優雅に微笑して体を返した。ドレスの赤が、窓から差し込む陽光を浴びて粒子をまき散らすかのようにように光る。その様子に、イーサンは灰色の瞳を細めた。彼女の後ろ姿を二人は黙ってみていたが、ノブの音が聞こえた瞬間、急にロバートが彼女を止めた。

「お待ちください、ミス・ドーキンス」

 リーズはノブに掛けた手をそのままに振り向き、「なんでしょう?」と答えた。ロバートは彼女の視線を取り戻したことを確認すると、いつになく丁寧な口調で言った。

「ミミをここに呼んでくださいませんか」

 リーズは赤く化粧された唇に指をやって首を傾けた。

「ミミを? あの子に何かお話でも?」

「ええ、少し」

「少しですか」

 やがてリーズは、マニエリスム絵画のような優雅な笑みを浮かべて軽く膝を折った。

「すぐに呼んでまいりますわ」

 洗練された動作で音もなくドアを開けると、やがてリーズは廊下へと姿を消した。彼女のローヒールが床を打つ音が遠ざかっていくのを確認し、イーサンはそっと眉間に指先を置いた。まだ彼女の鮮やかな赤色が、部屋を漂う粒子のように残っているような気がした。

「あの子に女中も使えなくなったんだ」

 イーサンは呟いた。別に何の返答も期待しなかったが、それでもロバートの方に視線をやった。予想通りの結果が分かると、彼は戸棚の中身に思いを巡らせた。酒のボトルが何本か、グラスがいくつか、紅茶のセットとそれからクッキーの缶。


 


 一九二七年、アメリカ合衆国中部、アメリカンマフィアの跋扈する都市シカゴから北に少し上ると、ある小さな町に行き当たる。その名もネオンライトタウン。町の起こりは十九世紀の前半で、無論お堅い名前で役所に登録されているが、電球が生まれた時代から徐々に明るい電気がピカピカと街中を照らすようになって、それでネオンライトタウンと呼ばれるようになった。その名に相応しく、この町は眠ることを知らない。詩は諳んじても憲法は知らず、薬やら銃やらの怪しげな商売が横行し、区分ごとに貧民が溢れ、眼光のやたらと鋭い者もいれば、ただその日のパンだけを瞳孔に映すのみの者もいる。そんな治安の悪い町だ。

 そのネオンライトタウンは、さらに三つの区分に分けられ、それぞれにインドの神々の名前が付いていた。

 一つ目がブラフマー街。

 いわゆるスラムだ。路傍に子供達が寝起きし、建物のほとんどが安い値で身を売る女達の娼館だった。地面には死体が転がり、いつの間にか消える。

 二つ目はヴィシュヌ街。

 ここはスラムに住むほどではないが、金持ちでもない、そこそこの儲けの人間が居を構える場所で、建物もアパートか工場か雑貨屋がほとんどだった。

 そして三つめがシヴァ街。

 この場所は莫大な富を持つ商人達の住み処だ。通りを走るのはフォードではなくロールスロイス。そこから降りてくるのも、毛皮に包まった高級娼婦か恰幅のいい男達だった。ニューヨークやロサンゼルスにも引けを取らないその華やかな装いは、ネオンライトタウンの治安の悪さを忘れさせるほどだった。

 ところが、そのシヴァ街にも影は映った。ライトが明るければ明るいほどはっきりと。

 その街は華やかであっても決して上品ではなかった。彼らの財はこの町にふさわしくいかがわしい商売によるものが、ほとんどだったからだ。殺し、密売、詐欺。そんな悪事に成り立つ企業の中の、親玉とも言えるのが、かのヴァルナ社だ。

 この会社はネオンライトタウン一の権力を持っていたが、そのいかがわしさもネオンライトタウン一だった。怪しげな麻薬や、殺傷能力の高い武器を開発しては、シカゴマフィアや諸外国に高値で売りつける。そうして得た富を、子供がポケットにビスケットをいっぱいに詰め込むように、執念深く守っている。

 当然のごとく、ヴァルナ社のトップは悪徳者でなければならない。そうした歴代トップの中でも、最も悪名高いと言われるのが、現ヴァルナ社社長ロバート・クロスだ。彼は現在三十二歳。社長就任時はまだ二十歳になったばかりだった。この異例の若さが彼の腹の黒さを裏付けしていた。

 己のためなら手段を選ばない男。巷では人々は彼をこう呼ぶ。汚い商売を、まるで歯でも磨くかのようにこなし、呼吸同様に嘘をごてごてと飾り付けては吐き、時には自分の美しさすら鋭利な武器にする。彼に憎悪を抱くその代表たる人物は、資産家の男でもなんでもなく、人妻だった。邪魔な人間は徹底的に排除し、腹心のイーサン・カーターを始めとした暗殺者を何人も従えているともいう。

 こうして貯めこんだ富を、貧困に喘ぐ貧民達に分け与えようともせず、巨大なビルの内側にしまい込んでいる。

 そう、このネオンライトタウンで、ロバート・クロスというのは、事実上の独裁者であり、権力者であり、悪徳商人であり、欲深い男娼だった。そんなロバートの住まうヴァルナ社のビル、あの鋼鉄の塔の下には、彼への底知れぬ激情が、憎悪が、羨望が、欲望が今でも渦巻いている。ネオンライトタウンとはそういう街だった。



 ヴィシュヌ街のある人気のない路地裏のレンガ壁に、粗末なドアが一つ張り付けられていた。それをくぐると、その路地裏の壁の内側は住居になっている。大雑把な作りだが、その住居は隠れ家だった。今まで誰も侵入して来なかったのは、あまりに自然にドアが佇んでいるので不審に思うきっかけもなかったからだ。

 その隠れ家の主は、玄関に置かれていた紙切れを拾い上げたところだった。紙切れにはタイプライターで打ち出された文字で、手短かに要件が記されてあった。

「今度のはおっそろしく仕事が早いなぁ」

 頭を掻きながら呟いた。

 おそらくこの文字の、というかタイプの持ち主に、この住処を割り出され、そいつの部下か誰かがここに直接置いていったのだろう。

 彼は紙切れをテーブルの上に置いて、部屋全体をぐるりと見渡した。

 まあ、すぐに引っ越す必要はないか。少なくとも仕事を終えるまでは。

 彼は部屋干ししてあった洗濯物を全て取り込み、ガス栓を閉め、着替えをするためにクローゼットを開けた。



 二度目のノックが聞こえた時、ロバートは灰皿の中で弄んでいた吸い殻をようやく離した。そして、煙の苦い匂いが残るジャケットの肩口あたりを軽く手で払って、彼は入室を促した。

「どうぞ」

 リーズがドアを開けた。再びリーズの赤色が部屋を照らす。しかし、彼女の後ろにはもう一人、人がいた。十二歳ほどの女の子だ。

「入りなさい、ミミ」

 ロバートが静かに言った。その声の静けさに、ミミの肩が僅かに引きつった。リーズはミミの肩の緊張を手の上に感じ、同時に彼女の感情も読んだ。

「あの、ミスター・クロス。私もここに残ってよろしいかしら?」

 リーズは遠慮がちにロバートに尋ねた。そんな彼女に、彼は無感情に答える。

「いいえ、ミス・ドーキンス。私はミミに言うことがあるのです。帰りの車は下に着けてありますから、このままお行きになってください」

 リーズは唇を引き結んでロバートから目をそらし、次はイーサンの方を見た。しかし、彼は丁度、壁掛け時計の隣に備え付けられた戸棚を開けている所で、こちらを見てはいなかった。

 リーズは小さくため息をつき、そっとミミの肩に触れ「平気よ」と囁いた。そして小さく膝を曲げると静かにドアを潜り抜け廊下へ消えた。

「ほら、座りなさい」

 三人だけになった部屋に、ロバートの声が響いた。ミミがゆっくりとした動作でロバートのデスクの向かいに置かれた椅子に腰を下ろす。黒い革張りの椅子に、深紅の髪が鮮やかに映った。

 ロバートはしばらく黙っていた。イーサンが戸棚の中を弄り、ガラス瓶がぶつかり合うガチャガチャとした音だけが、奇妙に大きく響いた。ミミの手が服の上できつく握りしめられた。顔や肩の、女の子らしい柔らかな筋肉が強張っている。

「ミミ」

 ロバートが、ついに言葉を発した。

「勉強は進んでる?」

 ミミは思わず「え?」と気の抜けた返事をした。あの重苦しい沈黙や、相変わらずしんとした表情の後で、勉強の進度を聞かれるとは、さすがに思ってもいなかったのだ。

「はい、ええと、大体……」

 ミミは口ごもりながら答えた。

「数学は……大体覚えました。二次方程式とか、三角関数とか……」

「歴史は?」

 と、ロバートがすかさず尋ねた。

「いろいろ教えてもらいました……。ナポレオン、百年戦争、後はリンカーンとかアレクサンダーとか……」

「本は何を?」

「ためになるものは大体……。ドストエフスキーとか、スタール夫人とか……。意味は分からなかったけど、あらすじは言えるわ……」

「そう」

 ロバートは何かを結論づけるように声を大きくして言い放った。

「つまり、お前は大抵の計算はできて、大抵の教養は持ち合わせているわけだ」

 ミミははっと顔を上げた。褒めてくれたのかしら。ところが、彼女の眉尻は結局緩むことはなかった、ロバートは相変わらず人形のように綺麗で無感情な顔で、こう言い放ったのだ。

「じゃあ、もうここから出て行きなさい」

 男の人の物とは思えない、ふっくらと豊かな上下の唇が音を立てた他には何もない、静かな声だった。ミミはしばらく何も答えなかった。ゆっくりと自分の右肩を見、次に左肩を見、そしてロバートの方へ視線を戻し、ようやく「出て行け」と言われたのが自分だと認識した。

「出て行けですって……?」

 ミミはポツリと呟いた。するとその言葉で栓が抜けたように、次々と感情の波が溢れ出した。

「出て行けですって⁉ 私を追い出すってのね⁉ こんな所に閉じ込めて好き勝手して、挙句の果てには出て行けってのね! 本当に都合のいい人達だこと!」

 ミミは怒っているのか、泣きたいのか、分からずに叫んだ。もうどのくらいそういう声を上げていなかったんだっろう。しかし、彼女が大声を出してもロバートは静かだった。彼の隣のイーサンも、戸棚から驚いたような顔を背けてこちらを見ているというのに。ミミが感情のままに言い放つのに対し、ロバートは無表情に口を開いていった。

「じゃあ、お前はずっとここに居たいの?」

 この文句はミミの溢れ出た感情を見事に切断した。ミミは必然的に黙った。ロバートの、この挑戦とも冷酷とも取れる質問に、ミミは肯定も否定もできなかった。ただ、自信を持って頷くことだけはできないと、それだけ分かっていた。

「そうだろうね」

 ロバートの声に合わせてバタンと言う音がした。イーサンが戸棚の扉を閉めたのだ。

「まあ、でも安心しなさい。何もお前を着の身着のまま放り出すわけじゃないんだよ」

 次に続けたロバートの声から、冷酷さがほんの少し削り取られていた。あのふっくらした唇も、ふんわりと曲線を描いている。

「そう心配しなくても、お前の行く当てならちゃんと用意してあります」

 優しく穏やかな声だ。その声に、ミミは恐る恐る緊張を解いた。

「じゃあ、私どこに行くの?」

 声にちょっぴり抑揚ができていた。出て行くことにほんの少し希望が見えていた。もしかしたら、違う所で幸せになれるんじゃないかしら。これは、もしかしたらチャンスなんじゃないかしら。

「私が仕事のためにいろんな人を雇っているのは知ってるね」

 ロバートの問いにミミは口ごもった。彼がいかがわしいことで儲けていることぐらい、幼いミミにも分かっている。かと言って自信たっぷりにも頷けないので曖昧に首を動かした。

「今度も私は人を雇った。暗殺者だ。重要な仕事をしてもらわなきゃならなくてね」

 彼は深く息をついた。これは大切なことを言う前の彼の癖だと、ミミとイーサンは知っていた。

「私はそいつと信頼関係を築かなければならない。まあ、つまり仕事をやってもらう前にこちら側の誠意を見せなきゃならないわけだな」

「誠意? 前金か? いくら渡すんだ?」

 イーサンが口を挟んだ。ロバートは彼に視線を移して言った。

「いや、金だと少々弱い。渡すなら一つしかないもの、もっとインパクトのあるものでなければ」

「じゃあ……」

「ああ」

 ロバートはミミに視線を戻した。そして宥めすかすように言った。

「前金はお前だよ、ミミ」

 ミミはポカンと口を開けた。女の子が状況を読み取れていないことを感じると、ロバートは嫌に優しい声で説明した。

「言っただろう? 私はその暗殺者を従えるためにインパクトのある物を渡さなきゃならないんだ。で、その前金にあたる物がお前。お前には私達の誠意を背負ってもらう。だからこれからは私達のために、その暗殺者の所で暮らすんだ」

 この優しい声に、あの子供ながらの鋭い思考が働き始めた。

 つまり、この人達は自分達の誠意の身代わりになれと言ったのだ。だから出て行けと言ったのだ。出て行って、顔も知らない人、それも暗殺者と暮らせと。いや、誠意の身代わりなんてそんな聞こえのいいものじゃない。

 私を人質にするつもりなんだわ。

 それを確認した途端、あの新しさに対する希望と自信

が消え失せ、代わりに怒りがむらむらと湧き上がって来た。

 ミミは目の前に佇むイーサンとロバートの、憎たらしいほど綺麗な顔を睨みつけた。この人達は自分を物品のように扱った。本人の目の前で自分のことを『前金』と呼んだのだ。そして次はまるで駄々っ子でも宥めるように言ってのけたのだ。

「バカにしてるわ!」

 とミミは怒鳴った。ロバートの顔は、今までの優しさを打ち消し、冷たさを再び取り戻していた。

「そうは思わないがな」

 彼は小狡い計算を唇の端に浮かべた。

「つまり、お前は前金になるだけの価値があるんだよ」

 ミミは乱暴に椅子から立ち上がった。瞼に力を込めて彼を睨みつけた。

「じゃあ、私はミミじゃなくて価値ってわけね! そのために私を育てたのね!」

 ロバートは何も答えなかった。ただ先ほどの微笑を打ち消して真っ直ぐにミミを見つめていた。ミミはとどめを刺すように声を上げ、ドアに向かった。

「あんた達はやっぱり人でなしだわ! いいわよ、こんな所、頼まれなくてもこっちから出てってやる! もう二度と帰ってくるもんですか!」

 それだけ吐き捨てると、ミミは残りの怒気をドアのノブに込めて乱暴に開けると、体を潜らせ足で蹴り飛ばして閉めた。

 彼女の靴音が遠ざかっていくと、流れていた沈黙を蝶番が軋む音が破った。イーサンが再び戸棚の扉を開け、一番手前にあったチョコチップクッキーの缶をロバートの机の上に置いた。そして奥にあった白ワインの瓶を取り出し唇に宛がうと、一気にラッパ飲みした。



 次の日の昼頃、大勢がそうしていたように彼もまたヴァルナのビルを見上げていた。空に拳を振り上げるかのような、その挑発的な建造物に、彼は唯一、一抹の同情を払った。そのどっしりとした腰の据え方に、ほんの少しの危うさを感じたのだ。

「まるでバベルの塔みたいだな……」

 彼はくぐもった声を出した。視界が狭いので彼が見ているのはヴァルナ社のビルだけだった。そのおかげで道行く人々が彼を気味悪そうに見ていることにも気が付かなかった。

彼はそのままのそのそと歩き出し、ビルの中に入っていった。その様子に、路傍の人々は目を見張った。何しろ初めて見る光景だったのだ。ネオンライトタウン一の富豪の住処にこんなふざけた、パンダの着ぐるみを着た人間が入っていくのは。



十分後に、彼は豪奢な書斎の椅子に腰をかけていた。およそ他人に等価的なマナーは気を付けても遠慮はしない彼は、そのパンダの着ぐるみの中で書斎を見渡した。

まず、壁から壁を埋め尽くす、端から端まで木彫りの装飾を施された書棚を見た。そして幾何学模様を描く羽目板の床を見た。次に自分の膝元にある、梨の木の小卓を見た。あの冷徹さで人々を見下しているビルの一部だとは思えないほど優美な書斎だった。

最期に彼は小卓の向かい側に座る、彼がここにいる理由である人物に目を向けた。その人物は微笑を浮かべて彼に言った。

「ようこそ、パンダヒーロー」

「ああ、どうも。ミスター・ロバート・クロス」

 彼は着ぐるみの中で微笑を返した。そして自分の呼び名を確認した。

 俺の名前はパンダヒーロー。



 一方、その頃ミミは自分の部屋で持ち物を選抜している所だった。たくさんの衣服の内、機能性の優れた六着はすでにこの選抜試験に合格し、スーツケースに慎ましく収まっていた。ミミは大層な衣装持ちであったから、この選抜には中々骨を折った。持っている服は全てふんわり肌触りが良く、最新流行の型を取った動きやすく美しい物ばかりだった。

 服を選び終えると、次はブラシや髪を結うためのリボン、下着に靴下がスーツケースの新たな住人となった。ミミは生活必需品が入ったスーツケースを閉じると、今度は小型のトランクを持ち出して開けた。窓際の、小鳥のレリーフが入った小さな書棚から本を数冊抜き出して入れ、次に燦々と日に照らされた書き物机の引き出しを開けた。中には筆記具やノートなどの細々した物に守られるように、青い花模様のクッキー缶が一つ収めてある。

 ミミはそのクッキー缶の蓋を開け、中身を眺めた。中にはクッキーではなく、ちょっとした美しい小物が大事にしまってあった。ミミは一つずつ手に取っては眺め、缶の横に置いた。

 Mの刺繍のついたレースのハンカチ、手作りの可愛い貝殻のブレスレット、フクロウの尾羽のように茶色い羽ペン、あまりに美しすぎて実用的に使えなかったオーロラ色のリボン、星模様のキャンディの包み紙が数枚、コバルトブルーの中に金の粒子が浮いている、ラピスラズリ色のインクが入ったガラス壺。彼らは気づまりな生活を送るミミを慰めてくれる宝物達だった。

 ミミは缶の横に散らされて置かれた宝物達をしばらく眺めた。この気づまりな生活の中で、こういった綺麗な小物達を一体どうやって手に入れたのか思い返そうとしたが、それらしい記憶は出てこなかった。ミミはため息をついてそれらを缶の中に戻そうとした。

 その時、缶の底にしわくちゃで変色した、古いチョコレートの包み紙が張り付いているのに気が付いた。

(こんな物、あったかしら)

 ミミは紙の端に爪を立てると、用心深く剥がした。包み紙は、「sweet chocolate」という印字以外は読み取れないほど色あせていた。多分、昔はもう少し鮮やかな赤色だっただろうが。それでも、かなり痛んではいる割に、どこも破れてはいない。きっと大事にしまってあったのだろう。

 ミミはしばらく考えた後、包み紙を机に置き、他の小物は全て缶の中に入れた。そしてトランクの元へ向かい、中に缶をしまうと鍵を掛け、もう一度書き物机を振り返った。机の上には窓から差し込む陽光が、何か聖杯でも祭るように、古ぼけた紙切れを荘厳に照らしている。

 ミミはほんの少し唇を釣り上げて微笑した。まるで皮肉を含んだ置き土産を残していく気がして妙に気分がよかった。ミミはひじ掛け椅子に腰を掛け、メイドが呼びに来るまで待つことにした。



 パンダヒーローはこの豪奢な書斎に、パンダの着ぐるみを着た場違いな自分が段々と溶け込み始めているのを自覚した。ふかふかとした肘掛け椅子を着ぐるみ越しに楽しみながら、彼はやがて、まだ義務的な挨拶を並べ立てているロバート・クロスの観察を始めた。

 なんと美しい。

 そう彼は素直に思った。

 美しい。ロバート・クロスという男を一言で表すとしたら、まずこの言葉が出てくるだろう。いくら彼を嫌いぬいている人でも、彼の美しさに難癖をつけることは到底できまい。ブロンド、青い瞳、白い肌。美人の三つの条件を取りそろえた完璧な配置の顔。腰や腿はほっそりしていながらも妙に肉感的で、全身から匂い立つ官能は誰しもを飲み込むほど強烈だ。しかし、パンダヒーローはさすがだった。彼はロバートの曲線に飲み込まれることなく、すぐにロバートの美に潜む計算を見抜いた。この男はよく知っている。自分がいかに美しいか、その美しさで何ができるか、どの程度首を傾ければ瞼を伏せれば、白い額を長い睫毛を際立たせられるか。それを見て人がどう思うか。どう思われれば自分が勝つか。

 ロバートの退屈な挨拶が終わった。暫くの間彼は言葉を止めると、やがて自分の背後に立っている青年を手で指した。

「で、パンダヒーロー。この男はイーサン・カーター。私の、まあ、何と言うか色々だ。商談を邪魔したりはしないから、気にしないでくれ」

 パンダヒーローの観察は、イーサンの方へと向けられた。定規で当てながら作ったかのように整った顔、黒い豊かな巻毛、瞳はしん、と静かだ。年の頃はロバートよりも少しばかり若い。二十五歳ほどだろうか。だが、その若さに似合わないほどの静けさが彼を取り巻いている。彼の長い脚はきっとチャールストンのステップなんて知らないだろう。知っているのは死の瀬戸際の疾走だ。そしてしなやかな筋肉のついた胸。その胸は若い娘の髪を受け止めるためではなく、銃を撃った時の反動に耐えるための物だろう。相当な銃の手練れだ。そうパンダヒーローは思った。できるだけ、敵にはしたくない人だな。

 計算高い美貌のロバート・クロスと、物静かな凄腕のイーサン・カーター。この二人はパンダヒーローに、このヴァルナ社のしてきた悪行を姿で物語った。

「さて、パンダヒーロー」

 ロバートが商談用の冷めた微笑を唇に乗せると、足を組みなおして言った。

「そろそろ本題に入りたいと思うのだが、まず単刀直入に言えば君にやってもらいたいのは……」

「殺しだろ?」

 パンダヒーローは着ぐるみの中で欠伸を交えて言った。

「分かりきったことさ。それが俺とあんたの生業なんだからなあ。でもよ、ミスター・クロス。あんたは何人もの殺し屋を従えてるんだろ? わざわざ俺に頼まなくたって、そこの黒髪の兄さんにやらせりゃいいんじゃないのか?」

「まあ、確かにそう思うだろうが、まず順番に聞いてくれるかね?」

 ロバートはパンダヒーローの返事を待たずに、小卓の上に一部の新聞記事を置いた。パンダヒーローがその大きな頭を傾けて記事に目を通し始めたのを見て、ロバートは口を開いた。

「先週出た記事だ。ここ最近のメディアは正直だな。好ましくは思うが、まあ、厄介でもある」

 新聞の見出しには、「ネオンライトタウンで新たな勢力台頭⁉ パールバティ社のジョン・ヘイスティングス、ヴァルナ社のロバート・クロスに宣戦布告!」と太い文字で記されていた。

「つまり、俺のターゲットはこのジョン・ヘイスティングスってわけだな」

「その通り」

 ロバートは視線をほんの少し遠くへ向けて続けた。

「このパールバティ社は最近酒の密造でシカゴマフィアに取り入って勢力を伸ばし始めてな。わが社も酒に手を出そうとしたのだが、どうやら先を越されたらしい。もう今じゃ、パールバティはわが社の脅威になっている」

 パンダヒーローは一九一九年に政府が出した禁酒法を思い出した。犯罪がわが物顔で跋扈するネオンライトタウンではそんなもの無に等しいので、しばらく忘れていたが。

「つまり、お前さんと同じでこいつも違法に儲けているんだな。でもさ、そんなこと新聞に書かれちゃヘイスティングスの方もまずいんじゃないか?」

「見出しだけで判断せずちゃんと全文を読め。密造で儲けたなんて一言も書いてないぞ」

 ロバートの指が、苛立たしそうに記事を叩いた。

「パールバティは酒で儲けてはいるが、表向きは清涼飲料を製造する会社ということにしてある。うちもそうだ。世間様には医薬品や護身用の武器を販売する商社と言っている。まあ、本気で信じている人間はいないだろうが、それでも噂だけでは警察は動けない。だから私も彼もいい思いをしているというわけさ」

 そこで彼は一旦言葉を切った。

「だが、ヘイスティングスの場合は誰かの指示を受けたんだろうな。あの男はそこまで上手い嘘を言える質じゃない」

「ふーん」

 パンダヒーローが相槌を打った。

「じゃあ、俺もお前さんも好きに仕事ができるってわけだ」

「そうだな」

 ロバートは小卓の新聞記事の上に紙を一枚置いた。ネオンライトタウンの地図だ。

「さて、パンダヒーロー。獲物の素性が分かった所で、そろそろ狩りの方法について説明しよう」

「方法? 俺の好きにはやれないのか?」

「ああ、すまないがこの殺し方に意味があるんでね。こちらの要求に従ってもらう」

 そう言うとロバートは地図に引かれた赤い線を指で指した。

「見てくれ。これがジョン・ヘイスティングスが六日後に通るルートだ」

 ロバートの白く長い指先が指す赤い線を見て、パンダヒーローは着ぐるみの中で身震いした。

(そこまで調べ上げているのか、この人は……)

 ロバートは赤線を薔薇色の爪でなぞりながら話を続けた。

「ヘイスティングスは六日後の午前九時頃、商談のためにデトロイトに向かうという情報を得た。自動車を使うようだから、おそらくミシガン湖沿いに進み、シカゴを通っていくだろう。このルートを行くとなると、必ず通らなければならないのが、このガネーシャ通りだ」

 ロバートの指はそのまま赤線を滑り行き、ある一点に止まった。その点を、細い指先が軽く打つ。

「決行はここ、ガネーシャ通りの端、つまりシヴァ街とヴィシュヌ街の交点にあたるこの広場だ」

 パンダヒーローはロバートの指先の下にある赤い点を見つめながら言った。

「随分人通りの多い所でやるんだな。ここはシヴァやヴィシュヌだけじゃなくてブラフマー街からも見える場所だ。俺がヘイスティングスを殺す瞬間なんて、街中から丸見えだぜ」

「ああ、もちろん。それが目的だからね」

 パンダヒーローは着ぐるみの中で少しだけ息を漏らした。そして重たい頭を、擡げて言った。

「ああ、なるほど。わざわざ俺を使うのはそういう訳か」

 ロバートは何も答えなった。

「要するに、一人ずつ邪魔者を消していくのが、面倒になったんだな? そこで、俺を使ったプロパガンダを計画した。自分に対抗する勢力の台頭を防ぐために、わざわざ人通りの多い場所を選んで凄惨な殺害の瞬間を見せる。金払いのいいやつにしか、忠誠を持たないこの俺を雇ってな」

「ああ」

 ロバートがようやく声高に答えた。

「中々頭が切れるじゃないか」

「ありがとさん。でも、まだ分からないことがある。プロパガンダは分かったが、でもお前さん方、こんな大それた事を公衆面前でやれば、たちまち警察にマークされるぜ? 今まで暗殺や汚職がバレなかったのは、こっそり隠れてやってたからだろ? それを白昼堂々とやりゃぁ、プロパガンダどころか、豚小屋まっしぐらじゃねぇか?」

「だからなんだというんだ」

 ロバートの声が途端に重みを増した。全く声を荒げてはいないのに、自然と恐怖を覚えてしまうくらい、重く響いてくる。

「警察がなんだ。警察にさえ手出しできないほどの力を見せればいいだけだ、パンダヒーロー。全てはお前がどれほど人を惹きつけ、どれほど人を味方に引き入れられるか、それに掛かっている。だからこそ、大仕事だぞ。なんとしてでもヘイスティングスを葬り、人々に力を見せ、そして人々を仲間に引き入れなければならない」

 パンダヒーローは大きな頭を傾けて頷いた。

「分かったよ。なるほどな、ただ邪魔者を消せばいいってだけじゃない、沈黙の味方も増やさなきゃならないってわけか。そのためのパフォーマンスなんだな」

「ああ、その通りだ」

 ロバートが身を乗り出して、パンダヒーローに煙草の箱を差し出した。彼が片手で断ると、すぐに箱を自分の方へ戻し、中から一本取って自分の口に咥える。そしてポケットからライターを取り出した。その、銀色に光る小さなライターを見て、パンダヒーローを何気なしに尋ねた。

「それ、なんだ?」

「ライターだ、見たことないか?」

「ないね。初めて見る」

「そうなのか」

 ロバートは今度はスーツの胸ポケットに挿さっているペンを取り出して、パンダヒーローの前にかざした。

「これは?」

「ペンだろ? でも随分細いな」

「シャープ・ペンシル。鉛筆の代わりに使うものといえば伝わるかな」

「へえ、聞いたことないな。さすがはこの街一のお金持ち。持ってるものが違うや」

「君にも持たせてやれる」

 ロバートはライターをしまい、マッチで煙草に火を着けた。少しだけ時間がかかった。そんな彼をぼんやり眺めながら、パンダヒーローは呟いた。

「いいや、別に欲しいとは思わねぇなぁ。ライターもマッチで事足りるし、そのナントカペンシルよりも鉛筆の方が俺には合ってる」

「パンダヒーロー」

 ロバートが火の着いた煙草を吸いもせず、彼に尋ねた。声は相変わらず静かだった。静かだが、さっきよりもほんの少し熱が籠っていた。

「ジョン・ヘイスティングスのことだが、仕留める時は必ず一発で仕留めろ。一発だ。そして失敗だけは絶対にするな。もしもそうなったら……」

「命で贖ってもらうか?」

 軽い調子で彼は言った。

「心配しなさんな、ミスター・クロス。俺は殺しはするが人を痛めつける趣味はねえ。ヘイスティングスさんも、一発で送り出してやるよ。それに失敗もしない。俺を見くびってもらっちゃ困るね」

「そうか」

 一拍の間を置いた後のロバートの声は、少しばかり大きめだった。大きく、はっきりと、強さの滲んだ声だった。

「私の意図が分かったなら、もう私達は立派な主従だな。よし、パンダヒーロー。改めて言う。ジョン・ヘイスティングスを公衆面前の場で殺せ。そしてこの街が誰のものであるかを示せ」

 羽目板の床に、大きな頭の影が頷くのが映った。

「ああ、お前さん次第でな」

 ロバートは椅子に預けていた背を再びすっきりと伸ばして、取引前の、あの人の好さそうな顔を見せた。

「報酬だが、もし成功すれば一万ドル渡そう。だが、失敗した場合は、さっきも言ったが分かるな?」

 ロバートの背後で、影のように静かだったイーサン・カーターが途端に鋭い視線をパンダヒーローに送った。それを見て、彼は着ぐるみの中で首を縮め、わざとらしい声を出した。

「へえへえ、分かってますよ。クロスさんに、カーターさん。俺だって命も一万ドルも惜しいんでね。ベストを尽くしますよ。カーターさんには結果の前に休暇を差し上げますよ、ハイ」

「ほう」

 ロバートが先ほどの人の好さそうな表情を打ち消し、代わりに瞳だけを鋭く尖らせた。鑑定士が紛い物を見定める時に使う、あの表情だ。

「では、パンダヒーロー。少しずれた話をさせてもらう。信頼のことだ。私も君もお互いを疑いたくないだろうが、万が一ということもあるんでな。というわけで、私と君との間に強い信頼関係を築くために前金を用意したんだが」

「前金?」

「ああ」

 ロバートは体を捻って書斎の扉の方を向いた。その時露わになる見事な腰の括れに、燃え立つような官能が立ち昇った。パンダヒーローは首を振って、彼の曲線の力に抗ったが、ロバートはそんなことには露ほども気づかず、扉に向かって声を掛けた。

「お入り」

 扉の開く音がして、パンダヒーローはロバートの腰から視線を移した。そして、着ぐるみの中で目を見開いた。おそらく、報酬の一万ドルとは別の金が入ったトランクが、うんとこさと持ち込まれるのだろうと彼は思ったが、入り口に立っていたのは大量のトランクケースでも、金塊らしき物を持った人間でもなかったのだ。

 立っていたのは一人の女の子だった。清潔な美しい服を着て、小型のスーツケースを二つ、体の両脇の床に置いている。パンダヒーローは呆気にとられて彼女を眺めた。

 そばかすの浮いたふっくらとした頬に、三つ編みのお下げにした赤い髪、体つきは女の子らしく、ほどよくぽっちゃりとして小柄だ。顔立ちは極々平凡で、特別美少女というわけではない。衣装ばかりが華美である。むしろ、もう花盛りを過ぎたロバートや、男の肉体のイーサンの方が遥かに美しく、女の子の方が劣っているとも言えた。

 そこまでは見てくれから判断できたが、その先の、彼女が持つ意味までは分析できなかった。先ほどまで、こいつを殺せ、成功したらいくら渡す、失敗したら命はないぞ、などといった物騒なやり取りをしていた場に、この平凡な女の子は全く相応しくない。

 やがてロバートが、女の子にそばに来るように細い顎で合図した。女の子は無機質に腰を屈めてスーツケースを持ち上げようとしたが、どうにも重いのか、たちまち困り顔になった。その様子を見て、パンダヒーローは自然に頬が緩むのを感じた。きっとここまではメイドが運んできたのだろう。

 彼女の力のなさを見兼ねたのか、イーサンが女の子の方へ近づき、そのトランク二つを軽々と持ち上げてロバートの方へ運んだ。女の子はきまり悪そうに彼の後ろをとことことついて来た。

 ロバートは傍らでぴたっと立ち止まった女の子の肩にそっと手を置いて口を開いた。

「さて、パンダヒーロー。この子はミミ。まあ、訳あって私が育てていた子だ」

 そして彼女の肩を押してパンダヒーローの方へぐいっと押し出した。

「で、この子が前金だ。受け取ってくれ」

「はあ⁉」

 パンダヒーローは思わず叫んで立ち上がった。着ぐるみの内側で間抜けな顔をして、口をパクパクと開閉させる。

「いや、ちょっと待ってくれよ、前金って……ミスター・クロス、それが女の子だってのか……?」

「そうだけど?」

「そうだけどじゃないだろうが!」

 パンダヒーローは勢いよくミミを指さし、ロバートとイーサンを睨みつけた。

「この子が前金だって⁉ 冗談じゃない! いいか、ロバート・クロス! 俺は確かに金で人を殺す汚い仕事をしてるが、でもな! 俺は何の関係もない女の子を巻き込むほど人を捨てちゃいねえぞ!」

「へえ、そうか。残念だったね、ミミ。この人はお前を気に入らないってさ」

 ロバートがけろりと答え、パンダヒーローははっと口を閉じた。

「いや、そういう意味じゃ……」

「いいんだよ、別に。気に入らないものを渡すわけにいかないじゃないか。じゃあミミは変わらずここにいてもらうことにして、君には他に何かあげよう。今度はもう少し美人がいいか?」

「お前な!」

 こんなに腹が立ったのは一体いつぶりだろう。そんなことを疑問に思う余裕すらなく、パンダヒーローはロバートを激しく睨んだ。着ぐるみの頭を取ってしまおうか、そんな考えすら一瞬頭をよぎった。

「なんだこれもダメか。じゃあ、お前どうするんだ? ミミを連れて行くのか、返すのか。早く決めてくれ」

 冷水を浴びせられたような心地がして、パンダヒーローはロバートからミミへと視線を移した。ミミの顔は静かだった。緑色の瞳は彼の心の奥底まで見透かそうとするように、パンダヒーローに注がれている。その鋭い目つきが、彼女の子供らしい顔立ちに影を落とし、痛々しいほど姿を小さく見せていた。とてもこの年頃の女の子がするような表情ではなかった。

(だめだ。この子をここにはおいていけない)

 優しく、それでもしっかりとパンダヒーロ―は言った。

「分かった、ミスター・クロス。ミミを貰おう」

 ロバートの唇が、糸のするする解けるように綻んだ。そんな風に笑うと、彼は随分幼く見えた。

 ロバートは体を傾けてミミを見ると、嫌に優しい声で語りかけた。

「それはよかった。そら、ミミ。ここから晴れて出て行けるよ。ちゃんとお愛想よく、気に入ってもらえるようになさい」

 だが、ミミは最早彼の言葉など聞いてはいなかった。彼女の視線はパンダヒーローの方へだけ向けられていた。

 彼女の表情は先ほどの影を孕んだものとは違っていた。初対面の人に向ける、あのおっかなびっくりした、小さな女の子の顔だ。パンダヒーローはようやく彼女のこういったそれ相応の表情を得られたことを感じ、ほんの少し胸の底が暖かくなった。

「さあ、これで商談は終わりだな!」

 ロバートが子気味よく、二度手を打って愉快気に言った。

「そうと決まれば早くその子とアジトに帰り給え。外に部下が待っているから、そいつが出口まで送ってくれる。さあ、ほら行った行った! 私もまだやることが残っているんだからね、あまりぐずぐずしないでくれよ」

 パンダヒーローは途端にこの美しいロバート・クロスにいやらしさを感じ、彼の言葉など聞こえていないふりをした。今まで随分多くのクソ野郎と付き合ってきたが、ロバート・クロスはその中でも生粋のクソ野郎だ、と彼は思った。

 彼が意識を向けたのは、ロバートではなくミミだった。彼は大きな体をのそのそと動かして、ミミの前に屈んだ。

「ミミ」

 ミミが上目を使って彼の方を見た。彼は優しい声で続けた。

「ミミ。俺と一緒に来てくれるかい?」

 ミミはしばらく黙ってそのパンダの顔を眺めていたが、やがて小さくうなずき、背後のトランクに手を伸ばした。パンダヒーローは微笑むと軽く首を振り、女の子の重たいトランクをひょいっと持ち上げて歩き出した。今度はイーサンは、手伝おうとはしなかった。

 パンダヒーローは書斎の扉を開ける手前で、ロバートの方を振り向いた。そして傍らにぴったりとくっついているミミに視線を落としながら彼に言った。

「なあ、ミスター・クロス。もし俺が任務に失敗したら、この子はどうなるんだ?」

 ロバートは相変わらず二人に背を向けたままで答えた。

「さあ?」



 パンダヒーローの後に続いてシヴァ街の街道を抜けている時、ミミは最早自分が前金にされたことなど忘れていた。今、彼女を取り巻いているのは部屋の静けさではなかった。バスの発信音、ピーチピンクやスカイブルーの帽子の女達の匂わしい笑い声、革靴の踵の音。ディキシーランドジャズに合わせて娘達が道端で踊っているあれは、チャールストンだろうか。ロールスロイスやフォードのゴムタイヤの音、美しいドレスや下着を飾ったショーウィンドウ、胸いっぱいに空気を吸えば、シャネルの五番が甘く香る。

 ミミはパンダヒーローのずんぐりとした体の後を、半ば駆けだしながら歩き、シヴァ街の創造しさに溶け込んだ。

 信じられない!

 小さなミミの胸に浮かんだ文言は、たったのこれだけだった。

 信じられない!いつも四角い窓に区切られ、見下ろしていた街がこんなに賑やかだったなんて!

 発作的な笑いが喉にせり上がって来た。上を見上げると、空が少し高くなった気がした。天を突き上げるほど高いビルの中で暮らしていた頃には思いもよらなかったほど。

「ミミ」

 呼び止められてミミは、はっと笑いを収めた。前を歩くパンダヒーローがもこもこした指で前方を指し示している。

「ここからはヴィシュヌ街だぜ」

 ミミは用心深く周りを見渡した。気づけば高級店や高級車の姿は後ろへと流れ去ってしまっていた。そして街を取り巻く騒々しさも、華やかで煌めいたものから実用的なものへと変化していることに気づいた。

 規則的な物音を繰り返す工場、キャンディや玩具の指輪を売る露店、歩道の角で馬飛びをする子供達。女も男も、シヴァ街の人間のように毛皮を着たり、香水を着けたりしている者は一人もいなかった。ミミはその簡素で清潔な街を、どこかすっきりと好ましく思った。

 パンダヒーローはミミの前で片手を上げ、道行く人々と挨拶を交わしていた。ミミは自然と目を見開いた。シヴァ街での人々の彼の扱いときたら、「何者なんだ、こいつは」という意味の視線を一つだけ寄越すだけだったのに。

 パンダヒーローは途中、声の大きい女店主が営んでいる露店に立ち寄り、棒付きキャンディを巡って彼女と値切り交渉を始めた。店主は海軍顔負けの、腹の底から押し出すような声で高くもない売値を死守し、パンダヒーローも負けじと声を張り上げたが、着ぐるみを間に挟んでいるせいで、結局声量でも度量でも負け、着ぐるみのポケットから小銭をジャラジャラ言わせながら取り出す羽目になった。

「かっこいいとこ見せようと思ったのになぁ」

と、ぼやきながら彼はキャンディをミミに渡した。ミミは一言お礼を呟いた後、キャンディをポケットにしまおうとした。

「食べないのかい?」

 と、パンダヒーローが小銭を大きな手でポケットに入れるのに苦心しながら、ミミに聞いた。ミミは何も言わなかった。まだ手を洗っていないから、とか、歩きながら食べるのは行儀が悪いから、とか彼がすんなり納得しそうな言い訳なら五万とあるはずなのに、どれもミミには思いつかなかった。

(ああ、私どうしたらいいか分からないんだわ)

 ミミはポケットに半分顔を突っ込んだ棒付きキャンディを見つめた。こうして自分のためにその場で何かを買ってもらったのは、初めての事かもしれない。それも、細かい効果やおおっぴろげで遠慮のない商談を交えて。

「ああ、なるほど!」

 パンダヒーローがぽふっと可愛い音を立てて手を打った。

「包み紙が取れないんだな! よし分かった、ちょっと貸してごらん」

 彼はミミの手からキャンディを取ると、あれほど小銭を使うのに苦労していたのに、器用にくるくると包みを剝き取った。黒い手に持たれたそれは、ピンクのハート形で、中央に金色の、めちゃくちゃな文法の短い文字が飾り付けられている。

 ミミはキャンディを両手でそっと受け取った。そしてもう一度、「ありがとう」と言った。パンダヒーローは満足気に頷くと、また前を歩き出した。

 キャンディは得体の知れない甘さがした。材料の全く分からない味は、いかにも体に悪そうだったが、それでもミミは気にしなかった。ミミは三歩進むごとにキャンディを口から離して日に翳した。どうやら金文字は「マイ・フェア・レディ」と記しているようだ。スペルが二つ間違っていた。



 ミミが丁度、棒付きキャンディではなくキャンディなし棒をしゃぶり始めた頃、二人はヴィシュヌ街のひっそりとひっそりとした路地裏に入っていった。パンダヒーローはその路地裏の壁に貼り付けられているドアの前で立ち止まった。そして再びポケットを弄り始めた。

「さあて、どこにやったかなぁ。ああ、全く、なんで大事なものはこうも小さいのかね、お、待ってよ? ああ、あったあった!」

 パンダヒーローは手に持った物をミミに見せた。鍵だ。

「そのうち、もう一つ作らなきゃ」

 彼は背を向けて、ドアのノブに鍵を差し込み回転させた。その間、臀部に付いている丸い尻尾が愛想を振りまくように左右に揺れた。

「はい、入ってミミ」

 パンダヒーローは子気味よく大きな顔を傾けて言った。おそらくウインクをしているのだろう。ミミは彼の後ろからその住居らしき壁の内側に入った。

 ドアの向こうには、そこそこの幅の廊下があった。廊下の先には開け放されたドアがあり、その向こうは居間になっているらしい。テーブルと椅子がちらりと見えている。廊下を挟む左右の壁には、また新たにドアが三つ付けられていた。おそらく寝室か浴室だろう。

 この家の狭さは、普段からミミが想像していた殺し屋の隠れ家そのものだったので、彼女はこの事に関しては、さして何も思わなかった。ところが、ミミは絶句してはいた。家の狭さではなく、汚さに。

 ただでさえ、そこまで広くはない廊下は左右に積み上げられたボール箱に圧迫され十五インチにまで狭まっており、床には本来ここにあるべきではない物、靴下、雑誌、フォーク、他には名前の見当のつかない物が散らばり、歩くのに多大な労力を課している。

 パンダヒーローは床に散らばった物品を上手く避けて廊下を進み、両手を広げてくるりと回った。

「ようこそ、我が家へ!」

 その後さらに、「まあまあ散らかってるけど、そこそこ快適なスイートホーム!」と続けようとしたらしいが、ミミは最後まで聞けなかった。先ほど、くるりと回った拍子に、腰がボール箱の塔に当たったらしく、大量の積み上げられた箱が彼の頭に降り注いだ。



 タイプライターで最後の一文字を打ち出すと、ロバートは長年の癖で背を後ろにのけ反らせた。腰の緊張が緩むとすぐタイプから紙を取り外し、指を添わせながら読み始めた。誤字を二つ見つけると、修正液で消し、その上にペンで直した。

 確認が終わると、ロバートは直筆署名をするためにポケットからシャープペンシルを取り出した。数回カチカチと音を立てて芯を繰り出し、そのあまりにも細い芯をしばらく眺めた。眺めた後、彼はペンを置き、引き出しから鉛筆を出して先を舌で舐め、署名欄に注意深く名前を書いた。鉛筆が紙から離れるとそこで初めて息を吐いた。

 入室の許可を求める声が外でしたのは、丁度ロバートが鉛筆の文字を万年筆でなぞり始めた頃だった。

「入れ」

 その一言で扉が開けられ、年若いメイドが一人入って来た。

「失礼します、旦那様。先ほどお嬢様の部屋の掃除が終わりまして……」

「そういう報告はメイド長にしてくれ」

「いえ、それが……」

 メイドは、集中のあまりロバートの眉間に寄った皺に困った顔をしながら続けた。

「ミリーさんには、もう報告済みなんです。でも、お部屋にこれが残されていて。ミリーさんに聞いたら、旦那様の所に行くようにって……」

 メイドはおずおずと、白いエプロンのポケットから紙切れを一枚取り出した。チョコレートの包み紙のようだ。随分と古いものなのか、すっかり茶色に変色し、皺が寄っている。

 ロバートは黙ってメイドから包み紙を受け取り、しばらくじっと眺めた。

「これはどこに?」

「書き物机の上です。机の引き出しは全部空になってたのに、これだけ置いてあったから、あたし変だなって思って……ゴミ箱には捨てられなかったんです」

「そうか」

 ロバートは引き出しから紙幣を二枚取り出すと、メイドのエプロンのポケットに入れた。

「ありがとう。もう下がっていい」

 メイドが部屋から去ると、もうロバートは署名のことなど忘れていた。しばらく包み紙を手の中で弄び、そしてふと、壁掛け時計の方を向いた。



 ボール箱の雪崩の餌食となったパンダヒーローをミミが何とか救い出すのに結構な時間がかかった。今や彼は体にのしかかる重圧から逃れて、ダイニングの椅子にきまり悪そうに座っていた。テーブルを挟んで向かい側には、ミミが腰かけている。

「ミミ。さっきはいろいろ済まなかった。助かったよ。で、改めて言うと俺はパンダヒーロー……」

「知ってるわ」

 ミミは左手でテーブルクロスを弄りながら言った。

「もうご存じでしょうけど、私はミミ」

「うん、ミミ。よろしく。可愛い名前だね。誰につけてもらったの?」

 パンダヒーローが少し身を乗り出すように言った。ミミは、はっとクロスを弄る手を止めた。

「えっと……」

 彼女は口ごもった。ミミが視線を落ち着かな気に彷徨わせるのを見て、パンダヒーローは慌てて言った。

「ああ、いいんだ! 嫌だったら別に無理して言わなくていいんだよ!」

 ミミは視線を彼に固定した。

「でも……」

 と、どもりながら続ける。

「でも、分からなくても、答えなきゃ失礼になるわ」

 そして椅子から立ち上がると、パンダヒーローを一直線に見て、先ほどとは打って変わって、強い声で言った。

「ねえ、パンダヒーローさん。私はクロスさんとあなたの信頼関係のための前金なんでしょ? クロスさんはね、私に前金になるだけの価値があるって言ったの。だから、私は前金としての価値を、あなたに示さなきゃならない。ねえ、私は数学が得意よ。フランス語だって喋れるし、教養だって他の子よりも格段にあると思うわ。それに勉強だけじゃない。お料理も洗濯も掃除も、全部やり方を知ってるわ」

 ミミは深く息を吸った。頬が熱く火照っている。

「さっきはキャンディをありがとう。その分のお礼はかならずするわ。だから……だからあの人達みたいに、私を追い出したりしないよね?」

 パンダヒーローはミミが片手にキャンディの棒をしっかりと、指先が白くなるまで握りしめているのを見つめた。そして徐に席を立つと、彼女の隣に立ち、その右手を大きな柔らかい手で包んだ。

「ミミ」

 と、彼は優しい声で言った。

「ミミ。人に何かしてもらったら、ありがとうって素直に言えばいいだけなんだよ。それに前金としての価値なんて、どうだっていいさ。あの人にとってお前はお金だろうが、俺にとってはそうじゃない。だからね、お前が例え料理が下手で、フランス語ができなくても、俺はお前を追い出したりしないさ」

 ミミは目を丸くして彼を見た。生まれて初めて言われた言葉だった。彼は自分に、全くの無価値でもいいと言ったのだ。

「だけど……」

 ミミはそろそろと差し向けるように言った。

「どうして今日会ったばっかりの私に、そこまで言ってくれるの?」

 パンダヒーローはしばらく何も言わなかった。ミミは不安になって彼を恐る恐る見つめた。やがて、パンダヒーローは唸るような声で話し始めた。

「どうしてって言われると……どうしてだろうな。俺は殺しを生業にしてるけど、基本的にターゲット以外の人には手を掛けないようにしてるし、女子供に対しては尚更さ。だけど、お前は、ただそれだけが理由じゃない気がする」

 そして、またしばらく彼は黙った。ミミは、今度は不安には思わなかった。ただ彼が必死に言葉を考えあぐねているのを見ると、心臓が激しく波打ち、血が管の中を勢いよく流れるのを感じた。

「つまり、理由なんてないんだな」

 やがて、パンダヒーローは柔らかな吐息を交えて言った。

「ただ、ミスター・クロスの隣に立っていた君に笑ってほしいって、あの時確かに思ったんだ。俺は今まで何人もの人を殺めてきたけど、君はそんな俺を真っ直ぐ見つめてくれた。それが嬉しかった。嬉しくて、今度は君の笑った顔が見たいって思った。君に喜んでもらいたいって」

 ミミは泣いてみようかと思った。涙脆い方ではないが、今なら泣ける、と彼女は思った。

 しかし、それは結局失敗に終わった。

 代わりに彼女は、今までの表情全てを切り裂くように破願した。そして、パンダヒーローの見えない素の表情を知った。

 本当は数学もフランス語も、ためになる本を読むことも嫌いなミミは、勢いよくパンダヒーローに抱き着いた。



 イーサン・カーターは、寝室の厚い唐草模様のカーテンの向こうで日が昇ったことを肌で知った。彼の引き締まった体がシーツの上で蠢き、やがて持ち上がった。薄い日光が布の隙間から微かに部屋を照らしている。イーサンはあの光で自分のむき出しの肌を温めたいと思った。しかし、今彼が裸身のまま寝ていた部屋は、太陽の光とは相性が悪かった。

 娼館の一室はやはり夜が美しい。オダリスク風の豪奢な天蓋付き寝台も、ペルシャの絨毯も、清国の桃の木の翡翠細工も、梅の絵の金屏風も、暗闇の中、息を押し殺した静けさの中、蝋燭の橙色の光を受け、ゆらゆら揺らめいているのが一番似つかわしい。そしてその中のイーサンの黒髪も、夜によく似あう。

 イーサンは髪を二、三度指で掻き揚げると、全裸のままそっと寝台を出て絨毯を踏んだ。裸足の足を壁に掛けられた姿見の前で止めると、彼はまじまじと自分の肉体を見つめた。完璧な体。肉付きも肌艶もバランスも全てが完璧。引き締まった筋肉、腹の盛り上がりと窪み、太腿のしなやかさ。彼はやがて自分の足の間に視線を定めた。自分の性器についてはよく分からなかった。人と比べて分析するだけの知識は彼にはない。少なくともロバートに比べたら。

「じゃあ、こういうことは誰に教わってきたっけ」

寝台脇のびっしり彫刻が施された小卓に丸めて置いてあるガウンを手に取り、イーサンは唇だけで呟いた。頭の中を、数人の男友達の顔が掠めた。数少ない彼の友達。

「イーサン?」

 ふと、彼が寝台に置き去りにした女性が目を覚まして彼を呼んだ。

「もうお行きになるの?」

 イーサンは衣装箪笥を開け、シャツとズボンに着替えながら答えた。

「ああ、ヴァレリア。今日は何となく気が進まない」

「昨夜もそうじゃなくて?」

 ヴァレリア・デュヴィーヌがそっと、娼婦らしく作り込まれた見事な裸体を掛け布から出した。イーサンはその肉体のパーツの一つ一つに昨夜の記憶をはべらせた。

「お疲れなら数日はお控えなさいな、イーサン。昨夜のあなたったらずっと心ここにあらずでしたもの」

「すまない」

 ヴァレリアが枕元で炊いていた香炉の火をふっと吹き消し、寝台を出た。イーサンの横で彼女もガウンを着る。見事な深紅の着物だ。裾には流水紋の金刺繍が入った、日本趣味な手織りの色打掛。

「よろしければ下まで送りましょうか」

 ヴァレリアは再び寝台の上に座った。天蓋から垂れたカーテンの暗がりで、彼女の打掛の赤と金髪が鮮やかだ。

「いや、大丈夫だ。ここでいい」

「香水を気にしてらっしゃるのね。せっかくあなたが好きなものを着けたのに。最近のあなたは本当に上の空だわ」

 ヴァレリアが眉尻を下げて言った。イーサンがもう一度「すまない」と言う。

「いいんですのよ、少しからかっただけだから」

 彼女がくすくすと笑った。イーサンは既にジャケットまで着終えていた。帽子を探す彼に、ヴァレリアが優しく言った。

「でも、もし誰か女性と会うようなら、一度体を洗ってからになさいな。特に仕事のある女はね」

「すまない。俺は気の利いた男じゃないから」

「気にしませんわ。あなたは顔がいい」

ヴァレリアはこちらを見もせずに寝台へ戻った。外套のボタンをかけ終わった頃にはもう寝ていた。



 ミミが前金になった最初の夜が明けた。ロバート・クロスが自身の仕事部屋に招き入れたのは、他ならぬリーズ・ドーキンスだった。

「解雇です、ミス・ドーキンス」

 ロバートの言葉に、リーズはさっと唇に指を添わせて、首をほんの少し傾けた。

「解雇ですって?」

「ええ。ですがもちろん退職金は十分支払いますし、それにあなたはタイピストの資格をお持ちでしょう? しばらく生活には困らないはずですし、よろしければ新しい働き口を用意させていただきますが」

「いいえ、生活の面では問題ありません。でもまだミミの授業が済んでいませんわ。特に歴史なんて進みが悪くて。まだバスティーユ襲撃までしか……」

「いえ、もう必要ありません」

 ロバートはわざとぼんやりと手の爪のあたりを眺めながら言った。

「ミミは私が雇った殺し屋に前金として引き渡しましたから」

 リーズは唇に宛がった指を強張らせた。二人の間に沈黙が凍り付いたように張り廻ったが、やがて甲高い声で打ち破られた。

「なんですって⁉」

 と、リーズが叫んだ。

「ミスター・クロス、今なんと⁉ ミミを殺し屋なんかに引き渡したとおっしゃったの⁉ それも前金にしてですって⁉」

「ええ」

 ロバートは変わらず涼し気に答えた。

「ミミは素直で勉強も家事もよくできる子になりました。人に渡すのに、充分な素質を持ち合わせている。ミス・ドーキンス、感謝しますよ。あなたがそれだけの価値をあの子に与えたのですから」

「私はあなたの私欲のために、あの子を教えたんじゃありませんわ!」

 リーズは普段の優美さからは想像もできないほどの怒声を上げた。

「呆れましたわ、ミスター・クロス! あなたはあんなに小さな女の子でさえ、道具としてお使いになるのね! ええそうよ、最初っからそのつもりだったんだわ! 解雇⁉ 大いに結構よ! こんな所こっちから願い下げだわ!」

 リーズは音高くヒールを鳴らすと、荒々しく踵を返した。そしてドアを勢いよく開けるかと思ったが、そこで彼女は一旦止まった。リーズは首を捻ってロバートを見ると歯の隙間から押し出すような声で言った。

「あなたは昔から変わらないわ」

 ロバートは寒々しい芝居をやめた。彼女を真っ直ぐに見据え、低い声で言った。

「そう見えますか」

「知りません!」

今度はけたたましい音と共にドアが閉まった。

「殺し屋なんかか……」

 ロバートは一人、ぽつりと呟いた。



リーズは下を向き、陸軍顔負けの獰猛さで廊下を歩いた。そのせいで、前からやってきたイーサンに、彼女は気が付かなかった。

突然スーツ姿の男性の胸元が視界に飛び込み、リーズは先ほどとは打って変わって、慎ましやかな悲鳴を短く上げた。

「ミス・ドーキンス⁉ すみません、お怪我は?」

「いえ、ミスター・カーター」

 リーズはイーサンの若々しく秀麗な顔が自分を見つめているのを見て、さっと顔を赤らめた。その様子にイーサンが「ご気分でも優れませんか?」と言い、彼女の肩に手を掛けた。

 その時、彼の首筋あたりから女物の香水が香った。その香りが届き、リーズは緩んでいた顔を再び引き締めた。

 確かこの香りは、汗と交わりあうと一層強くなるとかいう、あの下品な香水のものだ。このシヴァ街の流行かぶれの娼婦達に人気だとかいう……。

 リーズは途端に、なぜ彼がこんな時間に入口の方から歩いて来たのか、その理由を悟った。

「汚らわしい!」

 と彼女はイーサンの手を払いのけ、また威勢よく歩き去っていった。

 一人廊下に残されたイーサンは、急に「汚らわしい」と言われた意味を推測する羽目になった。考え込みながら、何となくスーツの襟のあたりを弄ると、そこにヴァレリア・デュヴィーヌの置き土産があることに気が付いた。イーサンは、ヴァレリアの気遣いを無下にしてしまったことにそっとため息をつき、湯の用意をしてもらおうとフットマンの少年を呼びに向かった。



 自室が用意されていなかったミミは大量のボール箱に半分生まれていたソファで一晩過ごした。自分のベッドを使うか、とパンダヒーローは言ってくれたが、なんだか恥ずかしくて断ってしまったのだ。

 日の出と共にミミは飛び起きた。部屋の小窓から陽が斜めに差し込み、ガラクタの一角を神秘的に照らし出している。どうやら日当たりはいいようだ。

 ミミは何とかガラクタを押しのけ進み、台所らしき場所を見つけた。調べてみると、ガスも電気も通っているし、水も出る。なんと電気冷蔵庫までついていた。

「これならすぐに仕事にかかれそうね」

 と、ミミは着ぐるみを着たまま床の上で鼾をかいているパンダヒーローを見て呟いた。彼はソファで寝るミミに気を使ってベッドを使わず、少し距離を取って寝てくれたのだ。そんな彼が少し自分との間に作った間隔が、何だかミミは気恥ずかしかった。

「それにしてもお腹が空いたわ」

 ミミはガラクタの中からフライパンを引っ張り出しながら呟いた。昨日はすっかり歩き疲れて、何も食べずに寝てしまったおかげで、空腹が耐え難かった。ミミはフライパンを火にかけると、次は冷蔵庫を開けた。



 パンダヒーローが目を覚ましたのは、着ぐるみ越しでも分かるほどの香ばしい匂いがしてきた時だった。

 凝り固まった体をゆっくり解しながら起き上がると、右手に皿を持ち、左手でテーブルを占領するガラクタを押し分けているミミが見えた。

「あら!」

 ミミは彼が起き上がるのを見て、顔を綻ばせた。

「おはよう! 今コーヒーを淹れてくるわ!」

テーブルの上にはトーストとハムエッグの皿が二つ乗っていた。どうやらミミが料理上手というのは強がりではなかったらしい。普段パンダヒーローはパンも卵も三分ほどの加熱でもさもさと食べるのが常であったため、きちんと皿に盛られた朝食を見て、嬉しそうに目を細めた。

「まるでホテルのルームサービスみたいだなあ」

「あら、あなたはホテルに泊まったことがあるの?」

 気づくと、ミミがコーヒーカップを携えて彼を見ていた。

「汚い安宿なら何度かあるさ」

 彼は陽気に答えた。

「でも高級なのは一度もない。そしてこんな美味そうな朝飯を見るのも、生まれて初めてさ」

「よかった、気に入ってくれたのね!」

 ミミは首を傾け、惜しげもなく歯を見せて笑った。昨日の、あのロバート・クロスの隣に立っていた彼女からは想像もできない表情に、パンダヒーローは言わずと知れず嬉しくなった。

「それより、あなた早く顔を洗ってらっしゃいよ。その着ぐるみを脱いでね」

 パンダヒーローはほんの少し厳しい彼女の言葉に、さっと首を縮めた。

「いやあ、脱いじまったら俺はパンダヒーローじゃなくなっちゃうわけで……」

「じゃ、何よ、あなたは普段ずっとそれを着たまま過ごしてるわけ?」

「いや、普段は脱ぐんだけど……」

「今は無理なのね」

 ミミは唇を尖らせて言った後、少し不安げに彼を見上げた。

「それは私のせい?」

 パンダヒーローの肩がびくりと痙攣した。そして忙しなく手を動かしながら弁明を始めた。どうやら、これは慌てた時の癖らしい。

「ああ、ミミ! 違うんだよ、どうか誤解しないでくれ!」

 まだミミの顔が不安を湛えているのに気づき、彼は益々早口になった。

「別にお前を信頼してないから、とかじゃないんだ! 俺が素顔を見せないのはもっと他の、ほら理由があって! えっと……その……」

 ミミは狼狽する彼をしばらく見つめた。そして忙しなく動く彼の手にそっと触れた。

「大丈夫よ。変なこと言ってごめんなさいね。嫌だったら無理しなくていいのよ」

 パンダヒーローは狼狽を止めた。そして片手に添えられているミミの小さくふっくらした手に、もう一方の手を重ねた。

「ごめんな、ミミ。だけど決して自分のせいだなんて思わないでくれ。俺が本当の顔を見せないのは俺が臆病なせいなんだ」

「臆病? あなたが?」

「ああ」

「でも、あなたってとっても強いんでしょ?」

「そりゃ、傍目から見たらみんな強く見えるさ。道を歩いてる人がどれほど苦しんでるかなんて、俺達には分からない」

 パンダヒーローはまだ湯気の収まらない朝食に目を落としながら言った。

「でもね、そんな人達だって十二歳だった時があるんだよ。もちろん俺にも」

 そう言うと、彼は大きな体をのそのそと動かして椅子にかけた。

「朝食にしようぜ。こんなに美味そうなのに冷めちまう」

 ミミもまた微笑してコーヒーカップを持ち上げた。パンダヒーローは胸の前で着ぐるみの手を重ね合わせて下を向いた。

「敬虔なのね」

 ミミが笑って揶揄うと、パンダヒーローは恥ずかしそうに言った。

「小さい頃から食前のお祈りだけは欠かさないんだ。ミミはやらないのかい?」

「クロスさんやカーターさんは信者じゃないもの。牧師さんの知り合いはいるみたいだけど。でも、あなたがやるんだったら私もやるわ」

 そう言ってミミもまた指を組んで俯いた。しばらくして顔を上げ、元気よくトーストを持ち上げる。と、そこでミミはふとした疑問をパンダヒーローに投げかけた。

「その恰好でどうやって食べるの?」

「ああ、見てな」

 パンダヒーローがもそもそと身動ぎを始めた。どうやら着ぐるみの中で腕を袖部分から外しているらしい。しばらくすると、ジーっという音がして、パンダの顔の口元がパカっと開いた。人間の男性の口唇が覗いている。

「こんな風に中から開けられるようになってるのさ」

 ミミは声を立てて笑った。可笑しく思う反面、彼の口元が思ったよりも若々しく引き締まっているのが、なんだか少し気恥ずかしかった。



 二人が食べ終わった後の食器をなんとか発掘した洗い篭の中に入れ、洗剤を探している時、玄関のドアからノックの音が聞こえた。パンダヒーローは体を強張らせると、傍らに転がっていた角材を構えた。同じようにフライパンを構えるミミに、「出てくるんじゃないぞ」と口早に言い、彼は用心深く玄関へ歩いた。そしてドンドンと喧しい扉を勢いよく開けた。

 速度と力量の加わった扉に、額を強打された者はいなかった。ノブの音が乱暴にした瞬間に、身を捻ってドアの角を避けたのだろう。そしてこの賞賛すべき身体能力の持ち主は、むっつりとした顔で開け放された扉の後ろから現れた。

「ミスター・カーター……」

 イーサンは不愛想に返事をした。彼の後ろには、体格のいい男が数人控えている。

「悪いな、あんただとは知らないで。毎回こんな風に開けるもんだから、つい……」

「そうか。次からは内開きにしてくれ」

 イーサンは咳払いを一つして続けた。

「パンダヒーロー。決行の詳細を伝えに来た」

「え?」

 パンダヒーローは首をかしげて言った。

「そのためだけに来たのか?」 

「は?」

 次はイーサンが首を捻った。

「だって、わざわざここに来なくても、俺を呼び出した時みたいにメモを残せばいいだけの話だろ?」

 イーサンは眉間に皺を寄せて黙りこくった後、静かに「私はあまり考える方じゃないからな。まあ、色々事情があるんだろうさ」と呟いた。

「色々ねえ」

「伝える内容に変わりはない。手っ取り早く済ませよう。中に入れてくれるか?」

「それはちと無理だな」

「なぜ?」

 パンダヒーローは扉の奥を一瞥して言った。

「ミミがすっかり不審者が来たもんだと思って、武器を構えて手ぐすね引いて待ってる。一歩踏み込めばたちまち滅多打ちにされるだろうさ」

「ミミが?」

 イーサンの暗灰色の瞳から僅かに瞼が上がった。そしてそっと片手で自身の黒い巻毛に触れると、また静かに言った。

「ならいい。車に乗ってくれ。場所を変えて話そう」

「ああ。でも、ちょっと待っててくれ」

 パンダヒーローは後ろを振り向くと扉の奥へ消えた。しばらくすると、イーサンの耳に、ミミの相槌を打つ声が届いた。

「ええ、分かったわ。多分そうすると思う」という言葉で二人の会話は締めくくられたらしい。パンダヒーローが右手に鍵を持って出てきた。そして彼は「俺がいない間に何かあったら困るからな。家から出ないように言っておいたんだ」と言いながら、鍵を穴に差し込んで回転させた。彼の家の扉には両側に鍵が付いているらしい。

「無駄だと思うぞ」

 イーサンが突然パンダヒーローに言った。

「何が?」

 と彼は聞き返した。その問いにイーサンは答えず、「ついて来い」とだけ言うと、背を返して歩き出した。彼の背後に控えていた数人の男達に混じって、パンダヒーロ―はイーサンの後を追った。



 二人が乗った車はT型フォードだった。車内は狭く、着ぐるみ一体が乗り込めばイーサンのスペースはギリギリだった。彼が瘦せ型なのが、唯一の救いだろう。

 他の男達は後ろの車に乗ったので、運転手を除けば、パンダヒーローはひたすら親指の爪をかじるイーサンと二人きりだった。しばらく何も喋らす、スピードに身を任せていた。

「パンダヒーロー」

 イーサンが唐突に指を離して口を開いたのは、丁度パンダヒーロ―が彼の波打つ黒髪を、何気なしに眺めていた時だった。

「朝食は取ったか?」

 パンダヒーローは呆気に取られて彼を見た。人殺しの説明のために、朝食が一体なんの意味を成すのだろう。そう、心に浮かび上がった波一通りの疑問を飲み込み、とりあえず彼は「ああ」と答えた。

「作ったのはお前か?」

「いや、ミミが用意してくれた」

「ミミが?」

「ああ、すごく美味かった。あの子は本当にすごいな。なんでもできる」

 パンダヒーローは優しく温度の籠った声で言った。イーサンはしばらく間を置いた後、小さく「そうか」と呟き、また親指の爪を口に入れた。

 ミミのことを思い出すと、隣で窓の外を見つめるイーサンが変わって見えた。昨日は物静かで冷徹だった横顔も、ふんわりと和らいでいるように思える。

「カーターさん」 

 と、彼は特に何を思う訳でもなくイーサンに話しかけた。

「あんた、人のこと、大事にしたいって思ったことあるかい?」

 イーサンは変わらず髪を弄りながら、かなりの時間を間に挟んでいった。

「分からん」



 二時間して、パンダヒーローは帰って来た。イーサンが口にしたのは、決行の手順や時間だけの、簡単な内容だった。

「私はこの計画には参加しないから、当日は部下の指示に従ってくれ」

 そう言って彼は締めくくった。迂闊に前線に出ないお偉いさんなら何のためにわざわざ自分を訪ねたのだろう、とパンダヒーロー思ったが、何も言わずに頷いた。

 フォードが自宅の前に着くや否や、パンダヒーローは飛び降りた。そして車内を振り返りながらイーサンに言った。

「ありがとよ、カーターさん。当日はしっかりやるから、任せてくれ」

「ああ、頼むぞ」

 イーサンは血の気のない白い顔をして答えた。先ほどの、朝日に照らされていた、ふんわりした頬はもう見えなかった。

「頼むぞ」

 イーサンがもう一度言った。眉間に皺が溜まり、頬もひんやりと引き攣っている。

「何度も言わなくたってちゃんとやるよ、カーターさん。失敗しないって」

「一発で仕留めるだろうな?」

「もちろん」

「一発だぞ。余計な攻撃は一切するな。狙う場所は急所だけだ。生半可な気持ちでやったら、私が承知しない。もし、外したり失敗したら……」

「命が危いだろ?」

 パンダヒーローは静かに言った。

「俺が一番分かってるさ」

 イーサンはほぼ顎を傾けるような仕草で素早く頷いた。そして身を乗り出すと、車の扉を閉めようと手を伸ばした。しかし、扉が車体の枠と接触しそうな寸前、彼は突然口早に言った。

「それよりお前、早く後ろを向いた方がいいぞ。全く、俺の言う通りだった」

 パンダヒーローはその通りにした。フォード車の扉が背後で閉まり、やがて去っていった。自宅の方を見て絶句するパンダヒーローを残して。

「ミミ!」

 彼は絶叫して自宅に走り寄った。鍵を掛けたはずのドアが開いている。それだけではない。内側いっぱいにしまい込んであったはずのボール箱やガラクタが、掻き出されたかのように外に転がっている。まさか自分がいない間に誰かが押し入ったのだろうか。そうなると、ミミはまさか……。

 パンダヒーローは玄関に残っていたガラクタ類を押し分けながら入り込んだ。着ぐるみの狭い視界で必死にミミを探す。どこにも見当たらない。彼の背に滴っていた汗が一気に凍り付いた。

「ミミ! ミミ!」       

 彼が半狂乱で叫んだ、その時だった。

「あら、もう帰って来たの?」

 のんびりした声が、彼の背後からかかった。パンダヒーローは凍り付いた背を返して声の主を見た。

 女の子だ。お下げの髪を後頭部でまとめ、三角巾を巻き、箒を持っている。

「ミミ!」

 パンダヒーローは勢いよく彼女に抱き着いた。その時の衝撃でミミが箒を取り落とした。

「ちょっと、急に何よ!」

「ああ、よかったよかった! 大丈夫なんだな! 無事だったんだな!」

「平気よ! 全く大袈裟ね。ここには私以外誰もいないもの」

「そうか、それならよかった! ……いや、ちょっと待てよ?」

パンダヒーローは少しミミから体を話して言った。

「じゃあ、なんで鍵が開いてるんだ?」

 ミミは途端に落ち着かな気に眼球を上に向けて、もごもごと言った。

「あ、あれはね、自分で開けたの」

「自分で⁉」

「ええっとね、私が教わったのは勉強や家事だけじゃなくて、錠前破りとか暗号解読とかもそうなの。だから結構簡単にできたのよ」

「とんだ英才教育だな……」

 パンダヒーローは頭を抱えて唸った。そして今度はほんの少し怒気を交えて言った。

「ミミ。何かあるといけないから絶対に外に出ないようにって言ったよな? なんで約束を守れなかったんだ?」

「約束たって、私は多分そうするって言ったのよ? つまり半分だけは守るってこと。私はあなたが出かけてから一時間は、ちゃんと中にいたわ!」

「ふざけないでくれ、ミミ」

 パンダヒーローはもう一度ミミを抱擁した。ミミは驚く代わりに、頬を赤らめた。

「もしお前に何かあったらと思うと、居ても立ってもいられなかった……。分かるかい、ミミ。俺はお前を心配してるんだよ」

 パンダヒーローが静かな声で語るのを聞いて、ミミは赤くなった頬に熱が籠るのを感じた。てっきり結構な年上だろうと思っていた彼の声は、間近で聞くとかなり若々しかった。中に入っているのは十代か二十代かの青年なのだろうか。

「ごめんなさい……」

 と、ミミはほんの少し細い声で言った。

「でも私、おうちを掃除したくて……。この状態じゃあ、満足に歩くこともできやしないんだもの」

「そうだったのか」

 パンダヒーローは大きな手で、彼女の頭を優しく撫でた。

「それなら、ミミ。仲直りもかねて一緒に片付けようぜ。俺もそろそろ掃除しなきゃな、と思ってた所だったんだ」

 ミミはそれを聞くと、元気よく取り落とした箒を拾い上げた。パンダヒーローも、積み上げられていたボール箱を抱えた。



 家中を占めるガラクタを運び出し、ゴミを捨て、埃を一掃し、家具をセンスよくセッティングし終えると、二人はライ麦パンにチーズを乗せた簡単な昼食を取り、やっと一息をついた。

 ミミは長らく物置と化していた一室を、自室として貰い受けた。そこまで広くはないが、南側に小さな窓がついた、こじんまりとして居心地のいい部屋だった。ベッドはまだないので、しばらく床にマットレスを敷いて寝起きすることになるだろう、とミミは心を弾ませながら思った。

 ミミは昨日からずっと開けていなかったスーツケースを持ち出すと、中の着替えを箪笥替わりの空き箱に移し始めた。衣類がケースから消えると、ミミはもう一つのトランクを持ち出し、中からクッキー缶を取り出し蓋を開けた。そしてポケットからキャンディーの棒を出し、オーラロ色のリボンを巻き付け、缶の中に収めた。美しい小物達の中の棒きれは大層みすぼらしく見えたが、ミミは満足だった。きっとどれだけこの缶が遠くにあっても、自分はこの棒をきっと見つけられるだろう。

 ミミは立ち上がって缶を収納する場所を探そうとした。その時、ふと昨日自分がチョコレートの包み紙を自室の机に置いて来たのを思い出した。

(見つけられたかしら……)

 ミミは缶を手に持ったまま立ち尽くした。

(あの人達、見つけたかしら……)

 ミミはこの瞬間まですっかり心から消え去っていた、その二人を思い出した。片頬を手の上に置いて、書類を眺める青い目。銃の引き金を弄る長い指。

(そもそもあの人達、私の部屋に行くかしら……)

 ミミの脳裏に、さらにまざまざと彼らの姿が浮かび上がる。細い顎の線。波打つ腰。そばかす一つない白い肌。真っ青な目。豊かな巻毛。

(いいえ)

 ミミはそっと首を振った。

(ゴミにされるだけね)



 残り僅かな冷蔵庫の中身を一掃し、ミミは二人分の夕食を用意した。

「お金が入ったら、まず最初に食品を買ってよね」と言いながら、ミミがスープの深皿をテーブルに置く。そんな彼女を、パンダヒーローは落ち着かな気に眺めていた。

「あら、どうかしたの?」

 彼の視線に気づいたミミが、彼に尋ねた。

「ああ、いや……」

「お言いなさいよ、気になるから」

「じゃあ、言うよ」

 パンダヒーローは居住まいを正し、言いづらそうにゆっくりと喋り始めた。

「なあ、ミミ。昨日から気になってたんだが、お前、ミスター・クロスやミスター・カーターとどういう関係なんだ?」

 ミミが二、三度瞼を開閉させる。それを見て、パンダヒーローは慌てて付け加えた。

「いや、ね! ほら昨日も言ったけど、嫌だったら無理して言わなくてもいいんだ! でも、ちょっと気になってさ……。家族ぐるみには見えないし、とは言え孤児を引き取るなんて慈善活動、あの人達がするとは思えないし……」

 後半がどもるようにあやふやになるのを聞いて、ミミはそっと微笑んだ。

「いいよ、あなたにだったら全部話すわ」

 ミミは椅子に腰かけると、視線を上に向けて語りだした。

「はっきりとは覚えてないけど、私は大分小さい時からあの二人に育てられてたわ」

「引き取られたってことかい?」

「多分そうね。少なくとも、あの人達は私の父さんでも兄さんでもないもの」

「へえ、あの人達がねえ……」

「まあ、何がどうしてこうなったかは分からないけど。……もしかしたら忘れてるだけかしら」

 ミミは片頬を手の平の上に置いて眉根を寄せた。そんな彼女に、パンダヒーローはさらに注意深く聞いた。

「何かひどいことをされたのかい?」

「え?」

「いや、ほら……叩かれたりとか……」

「ああ……いいえ」

 ミミはきっぱりと首を振った。

「別に何も。虐待めいたことはされなかったわ。叩かれたことだって怒鳴られたことだって一度も……一度? いいえ、取り合えず心配しなくても大丈夫よ。あのビルで私は、きちんとした服にきちんとした食事、それにきちんとした教育を貰ったわ。そのおかげで私はフランス語も数学も家事もできる」

「よかった。大切にはされてたんだな」

 パンダヒーローは肺の奥底から溢れ出たような声で言った。ところが、ミミは苦し気にこう答えた。

「まさか! そんなわけないじゃない!」

 パンダヒーローは体を固めた。きっと着ぐるみの中には目を丸くする青年がいるのだろう。そう思ってミミは続けた。

「あなたも知ってるでしょ? あの人達はいい人じゃないって。私が世間知らずだと思ったら大間違いよ。結構知ってるんだから。カーターさんは人殺し。クロスさんはお金に目がなくて、しかもフシダラ。それって悪い事なのよね、そうでしょ? そういう事普通にする人達が、私みたいなの本気で大事にするわけないじゃない」

 ミミは木製のテーブルを、爪でがりがりと引っ搔いた。

「あの人達が私をしっかり教育したのは結局全部自分のため。前金として出て行けって言われて、ようやくはっきりと分かったわ。私はね、クロスさんやカーターさんの道具なのよ。大人の言う事なら何でも聞く、扱いやすい金銭なんだわ」

 パンダヒーローが言葉を失っているのを感じとり、ミミはそっと微笑した。

「でもね、いいこともあったわ。家庭教師のリーズ先生はあの人達とは別。先生はちゃんと私のこと、考えてくれてた。何がいい事で、何が悪い事なのか教えてくれたのもあの人」

 パンダヒーローは彼女の表情が緩んでいるのを見て、少し安堵した。

「ミミ」

 と、彼はさらに注意深く、草陰から兎の番でも覗き見るような様子でそっと尋ねた。

「俺はその別の人に含まれてるかい?」

 ミミはテーブルを傷つけていた爪の動きを止めた。しばらく呆けた顔をして、やがてミミは、海底から浮かび上がったような笑顔をいっぱいに広げた。

「当たり前じゃない」

 ミミはテーブルから身を乗り出し、彼の両頬にそっと触れた。

「あなたは違う。あなたは私にフランス語も料理もできなくていいって言ってくれてわ。例えあなたが殺し屋でも、そういうことでお金を貰っていても、人を価値でしか見ないあの人達とは違う。あなたには人間が見えているんだわ」

 パンダヒーローは手を、頬に添えられたミミの手の甲に置いた。できれば抱擁してやりたかった。しかし、二人の間のテーブルがそれを阻んでいた。

「後五日で行くんでしょ?」

 ミミは少し泣き声の混じった声で言った。

「噂で聞いたの。ジョン・ヘイスティングスはクロスさんやカーターさんに負けないくらいの極悪人で、怖い人を何人も抱えてるって。戦争に行ったこともあるんだって。おまけに貧乏暮らしからの成金。そのおかげで他人に対して血も涙もないみたいなのよ。あなた、そんな人と戦うのよね? 戦場帰りのそんな怖い人と。ねえ、私怖いの。あなたが帰ってこなかったらって」

指が微かに震え始めた。

「ねえ、あなた。帰ってくる? 帰って来るわよね? また一緒にこうやってご飯を食べれるわよね?」

 震える彼女にパンダヒーローは大きく頷いて椅子から立ち上がった。そして、可笑し気な動作でくるりと回ってポーズを決めた。

「当ったり前さ! 俺は天下のパンダヒーロー様! どんな敵も華麗にバッタバッタとやっつける!」

 ミミが思わずプッと吹き出した。先ほど目の端に溜めた涙が、今や可笑しさのものになっている。

「その様子じゃあ、あのカーターさんも敵じゃないわね!」

 ミミはテーブルの傍を通り抜けて彼に飛びついた。そしてそのまま笑い続けた。上下の歯列を大っぴらに見せた、大変下品と言われる笑い方だったが、ミミは今までの鬱屈した日々が剥がれ落ちていく心地よさを感じた。

「帰って来た時には……」

 言葉の端に笑い声の名残を残しながら、それでも慎重にミミは言った。

「帰って来たら、あなたの本当のこと、教えてくれる?」

 パンダヒーローは着ぐるみ越しに彼女を見つめた。その視線を感じ取り、ミミはさらにもっと、発音一つ一つを置くように続けた。

「あなたの本当の名前とか顔とか。あなたが私を前金じゃなくて一人の人間として見てくれたみたいに、私もあなたを殺し屋じゃなくて人として見たいの」

パンダヒーローが吹き出す声が聞こえた。

「いいのかい、ミミ? 俺はクロスさんみたいな美人でも、カーターさんみたいなハンサムでもないかもしれないぜ?」

「それが一体何だってのよ」

 パンダヒーローは熱い血の流れに押された動脈の、熱い脈打ちを内側に感じた。そして思うまま、ミミを強く抱きしめた。

「分かった。強くなるよ、ミミ。君に本当の俺を分かってもらえるように、勇敢になって帰って来るよ」



 彼の言った事は事実であるようで、イーサン・カーターは計画に関与しないらしい。

五日後、パンダヒーローはガネーシャ通りの末端に位置する広場を見下ろしていた。彼がいるのは広場の西側にある洋裁店の二階だ。この店はどうやらクロス一派の息が掛かっているらしく、店主は訳知り顔で彼を二階へと通したのだった。

窓から見える広場には、スーツ姿の人物が数人いた。買い物客を装っているが、彼らは計画の細部を担う、パンダヒーローと同じ暗殺者達だった。ジョン・ヘイスティングスの車が通りかかった時、彼らが合図をし、それを確認したパンダヒーローが華麗に二階から飛び降りて事を済ます、という算段だ。

パンダヒーローはしばらく窓から協力者達をぼんやりと眺めた。新聞売りの少年と談笑している者もいれば、ショーウィンドウに飾られた帽子を物欲しそうに見ている者もいる。子供達と遊んでやる者もいれば、花屋の娘にしつこく絡んでいる者もいる。

そんな彼らの人種は様々だった。黒人、中国人、日本人、ネイティブアメリカン、イタリア人、アングロサクソン系。中には女性も混じっている。そんな、世界中の人間が集まったかのような彼らは、人の波に溶け込むのが上手いのか、一見しただけでは見分けるのが難しいほど普通の人間に見えた。

パンダヒーローは肩にかけた金属バットを手でそっと撫でた。長年彼の杖であったそれには、二つの矢印が互いの尻を追いかけている風変わりなステッカーが貼ってある。ヴァルナ社のロゴだ。

ふと、窓の外で歓声があがった。日本人が子供達に独楽回しを披露していた。そして階下の洋裁店からは、新品のドレスを強請る少女が母親に窘められている声が聞こえてくる。

「駄目よ、トレイシー。兄さんのお給金が入るまでは待ちなさいって言ったでしょ?」

 パンダヒーローは、ふと何気なしにミミのことを思い出した。彼女は今朝、豪勢な朝食ととびっきりの笑顔で自分を送り出したのだった。

 彼女の、眉間に皺が寄るほどの突っ張った笑顔を思い出し、彼の口角が持ち上がった。しかし、例の時刻が迫っていることを思い出すと、大急ぎで彼女を脳裏から消し去ろうとした。

 五分ほどそうやって苦闘し、結局彼は諦めた。穏やかにため息をついて、逸る心臓を宥める。

(大丈夫だ、俺。何しろミミが付いてくれてる)

やがて壁に掛けられた振り子時計が鳴った。午前十一時。意を決して窓の外を見ると、窓枠から車のヘッドライトが徐々に表れてくる。日本人が彼の周りの子供達を追い払い始めた。黒人と中国人、ネイティブアメリカンとイタリア人が何気ない体を装い、ポケットに片手を突っ込み欠伸をしながら、広場を走る車に近づいた。変にスピードの遅い緑色のT型フォードが、広場の中央に進み始める。

決行開始だ。

銃声が四発鳴った。少し遅れて人々が騒めきだす。走っていたフォードが、タイヤを撃ち抜かれて急停止する。その車の扉が勢いよく開き、中から銃を構えた護衛が三人飛び出た。ところが、装填を済ませてあるのはこちら側である。護衛の内一人は早くも黒人に肩を撃たれて銃を取り落とし、もう一人は中国人の鋭い蹴りを食らわされ地面に伸びた。最後の一人は勇敢だった。彼の放った弾はイタリア人の体をすれすれで掠めた。傍らの日本人が目を見開く。ところが、彼の勇気よりもネイティブアメリカンの女性の足の方が勝っていた。赤いドレスの裾と褐色の足が翻ったと思ったのも束の間、彼は気づけば地面にノックアウトしていた。

最期の一人の額が地面につく直前、アングロサクソン系の男が手鏡を持った腕を上げ、大きく旋回させた。鏡に反射した光が一回転し、合図を示す。

今だ! 行け!

パンダヒーローは金属バットを握りしめた。三歩下がって助走を着け、彼は勢いよく窓に突進した。体がガラスを突き破る。煌めく破片と共に彼は降下した。

やがて彼は車の屋根の上に着地した。重苦しい音と共に足首に鋭い痺れが走る。痛みに一瞬眼球が裏返ったが、それでも彼は、車内の男が音に驚いて外に出てくるのを見逃さなかった。高価な服を着た髪の短い男。思ったよりも若い。

ジョン・ヘイスティングスだ。

ヘイスティングスは屋根の上のパンダヒーローを見て、はっと目を瞬かせた。そして奥歯から絞り出すように、「ロバート!」と呟くと、地に転がる部下達をそのままに走り出した。

パンダヒーローは、彼の後頭部が自分に向けられたのを見て勝利を確信した。

彼は車の天井を蹴って跳躍した。ゆるやかに空中で弧を描くと、バットを持った手を振り上げ、そして下ろした。

何かが潰れる柔らかい音の後に、金属バットと頭蓋骨がぶつかる重い音が響く。頭を割られたヘイスティングスは、呆けた顔をして五歩ほど歩いた。そして六歩目を踏み出そうとしてとうとう倒れ伏した。タイルの地面に血が広がっていく。

先ほどまで静かだった広場が、一気に騒がしくなった。男達がどよめきだす。女達が甲高い悲鳴を上げる。少女達が泣き出し少年達は興奮で頬を染める。

パンダヒーローは、バットを一振りして血を払い、それを高く掲げた。二つの矢印が描かれたステッカーが、陽の光を受けて煌めく。

喧噪が膨れ上がった。

「見ろよ、ヴァルナのロゴだぜ」

「じゃあ、まさかロバート・クロスが……」

「間違いねえ。ロバート・クロスに逆らったらすぐにでも尻を蹴飛ばされるってわけか」

「まあ、怖いわ」

「でもあのパンダの野郎は一体何者なんだ?」

 と、誰かが放ったその言葉が再び沈黙を呼んだ。みすぼらしい成りの者も、毛皮を着た者も、皆首をかしげて彼を見る。しかし、その中で、そこそこの身なりの者だけが、彼に怪訝そうな視線を向けていなかった。

「パンダヒーローよ」

 一人の少女が小さく言った。質素な服を着ている。彼女の声は小さかったが、沈黙に穴を開けるのには十分だった。彼女はそれを自覚し、さらに声を上げた。

「パンダヒーロー! 彼はパンダヒーローよ!」

沈黙が打ち破られ、騒がしさが戻った。人々が口々に言い始めた。

「そうだ、あれはパンダヒーローだ!」

「パンダヒーロー? なんだい、それは?」

「シヴァ街の奴らは知らないんだな。いつもパンダの着ぐるみを着てるっていう謎の多い暗殺者さ」

「ヴィシュヌ街じゃ、結構有名だぜ。でも暗殺者って言っても普通の人には危ない事しないぜ? なかなかフレンドリーなやつだし」

「へえ、根はいい人なのか」

「でも彼もとうとうロバート・クロスの手に渡ったのね」

「ああ。あの成金一体いくら払ったんだろうな」

「怖いわね。あの淫売、自分のためなら何でもするのね」

「まあでも、パンダヒーローは悪くないだろ。命令したのはあくまでロバート・クロスさ。アイツは無実な人を手にかけるほど非道じゃない」

「とは言え、やっぱりヴァルナ社は恐ろしいわねぇ」

 当の本人は喧噪の中心にいても心はすでにここになかった。彼は最早パンダヒーローではないのだ。ただ彼は、あの狭いドアの奥を心で見ていた。あのドアを開けた先にある赤い髪、緑の目、きっと緩むであろうそばかすの頬。



 さて、道に転がっていたジョン・ヘイスティングスの遺体はその後どうなったのだろう?

 彼の知ったことではないが、それでも玄関のドアの前に立つと、どうしてもそう思わずにいられなかった。

 彼はやがて、着ぐるみを脱ぎ始めた。空気が直接に目を刺し、一瞬涙を落としそうになる。

 生身の彼はそっと扉を開けた。長い廊下の突き当りの奥に、テーブルに置いた本を読んでいるミミがいる。

 やがて彼女は首を擡げて彼を見た。一瞬顔を引き攣らせたが、彼が見知らぬ人でないことに気づくと、たちまち笑顔になった。

 次の瞬間、彼は胸に、廊下を走り抜けてきたミミの柔らかい頬を感じた。

「お帰り!」

 と、彼女は朗らかに言った。彼はその挨拶に、別の言葉で返した。

「ジョッシュ・ワイルダー。俺の名前、ジョッシュ・ワイルダーっていうんだ」



 一方その頃、ロバート・クロスは仕事部屋で六人の部下から報告を受けていた。

「死んだか」

 報告の後に、彼は吐き捨てるように言った。

「遺体はどうした?」

「いつも通り、ミスター・オーウェルの所に」

「最後にヤツは何か言っていたか?」

「ええ。確か、ロバートと一言」

「お粗末な遺言だな」

「本当に」

 そう口を挟んだのはイーサンだ。

「もう少し言いたい事があっただろうに」

 彼はロバートの方を見ずに、部下達に話しかけた。

「君達は走っている車のタイヤを銃で撃ち抜いたらしいな。いくら手練れとは言え、高速で動き続ける物を一発で撃つのはかなり難しい。これは君達の腕が私以上だという認識でいいのか?」

「いいえ、それが……」

 ネイティブアメリカンの女性、ナヒマナが顔を傾けながら答えた。

「車のスピードが、その、物凄く遅かったのです。おかげで例えあなた様でなくとも、容易にタイヤを撃てましたの」

「遅かった? 道中狙われても不思議でないのに?」

 イーサンは柳眉を顰めて、さらに尋ねた。

「それで、君達はヘイスティングスの護衛を殺さずにケガだけで動けなくしたらしいな。それはまたどうして?」

「ケガだけで十分だったんです」

 そう答えたのは、日本人の昌義だ。

「護衛はびっくりするほど弱かったんです。一発殴られたくらいで、もう地面から起きようとはしませんでした。あくまで狙うのはヘイスティングスただ一人でいいと指示されていましたが、いくら何でも護衛を止めるのがこんなに簡単だとは思いませんでした」

 しばらく沈黙が流れた。イーサンは怪訝そうな顔で六人を眺め回し、六人は気まずそうに下を向いた。

「私からもいいか?」

 やがて、ロバートが沈黙を破った。

「パンダヒーローを見た人々がどう反応したか教えてくれるかね?」

「怖がっていましたよ。パンダヒーローをというより我々や旦那様を。他は珍しがって興味津々というのが大半で。あ、後もう一つ」

 イタリア人、マッテオが顎を触りながら言った。

「『でも、パンダヒーローがあのろくでなしのヘイスティングスをやっつけてくれたのは有難いよな』。こう言っている者もいました」

 ロバートはしばらく頬杖をついて、机の木目を見つめた。

「分かった。君達もよくやった。もう下がっていい。報酬は後で渡す」

 やがて彼はこれだけ言って、イーサンと二人きりになった。扉が閉まる音と共に、ロバートは途端、机の上にぐたりと打ち伏した。

「ああ、くたびれた……」

 彼は吐息と同時に言った。その時、ふと肩に手が添えられるのを感じた。右手の指に固いしこりのできた白い手。首を持ち上げて見ると、先ほどまで背後に控えていたイーサンだった。

「で、お前の方はどうだったの」

 ロバートの言葉に、イーサンは首を傾げた。

「どうだったって?」

「バカ言うな。何のためにお前を苦手な車に乗っけて行かせたと思ってんだよ」

「あ、そうだった」

 イーサンはすこし怪訝そうな顔で言った。

「俺の見た限りでは、多分問題ないと思うよ」

「そうか」

 ロバートがくるりと椅子を回転させて、イーサンを正面に見た。そして自分の膝を指で指す。

「ほーら、おいで。いい子ちゃん」

 イーサンは黙って彼の膝の上に座った。ロバートは皮膚と骨との間に僅かな肉しかない腿に、イーサンの全体重がかけられるのを感じ、嬉し気に顔をしかめた。

「重くなったね、お前」

「俺だって二十六だよ、もう。いつまでも子供な訳ないんだから」

「二十年前なら、お前はまだ六歳だったか。俺は十二歳。あの時のお前ったら俺が抱っこしてあげなきゃ眠りもしなくてさ。おまけに夜中に何度も便所に起こすから大変だったっけ」

 ロバートは指でイーサンの巻き毛を絡めとって梳いた。イーサンの瞼が、心地よさそうに降りる。ロバートは空いた片方の手で、彼の背を撫で摩って言った。

「いいよ、そうやって寝ておいで。なんにも心配することありませんからね、いい子ちゃん」

 そして、彼の前髪を掻き分け、露わになった額にそっと接吻した。チョコレートの香りが、優しく漂っていた。

















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