キミと僕、そして小さな蜘蛛。

卯月二一

キミと僕、そして小さな蜘蛛。

 僕はまどろみ、ぬるあたたかい思考の海の中をぼんやりと漂っていた。じっさいは大西洋でも日本海でもなく瀬戸内海でもない自室のいつものベッドの中なんだけど。


 いつもと違うのは、目の前に僕ではない誰かの白い陶器を思わせる素敵な背中があるということ。はて? 僕は視線を自分の浮かぶこの小さな海から陸地の方へ向ける。背の低い、冬はこたつとして使っている四角いテーブルが、どこかの感じの悪い大国が無理やり建設した人工島のように浮かんでいた。そこには僕が中学生、いや小学生か。長い付き合いである銀色の目覚まし時計が、呆れた感じで僕を眺めていた。文字盤の針は十時二十三分を示している。カーテンの隙間から差し込む陽の光からすると朝のようだ。


「ううんっ」


 その華奢な背中が僅かに動いたかと思うと、彼女が寝返りをうってこちらを向いた。幼さをのこす可愛らしい顔だ。


 いやいや、この誰だよ?


 自分も全裸である時点で気づいてはいるのだけど。カタチのよい手のひらサイズの彼女の胸に自然と手が伸びる。ああ、この感触はたしかに記憶にある。


「んんっ? あっ。ああ、おはよう……。あ、朝なんだ」


 目を開けた彼女は僕の顔を確認する。そして薄い毛布を全部手繰り寄せ、ふたたび背中を向けて丸くなった。すると、そのすべすべの背中に一匹のがぴょんと跳ねて張り付いた。最近世間さまのいうところの不同意性交とか青少年保護育成条例なんて言葉がそのとき頭をかすめていたのだけど、そんなことよりも僕の意識は小さなそいつの方に向けられていた。


 家グモである。田舎の実家にはよくいたが、大学生になって一人暮らしをするようになってから久しぶりに見た気がする。俺はこいつが好きだ。家グモというのはハエトリグモのことで、『アダンソンハエトリ』や『チャスジハエトリ』なんかが日本の家屋ではよく見られる。こいつがどっちなのかまでの知識はないが、毒も無いし、あのうっとうしい巣なんてものも張らない。自ら小さな虫に飛びかかって仕留めるなのである。僕はこの家グモをただじっと観察するのが子どもの頃から好きだった。


 例外もあるのかもしれないが、世の多くの女性がそうであるようにクモというのは忌み嫌われる存在である。多くの彼女たちは、こいつが部屋に侵入する害虫を退治してくれる『益虫』であるとしても、たとえ僕が多くの科学的論文や事例を列挙してその有用性を示したとしても、聞く耳をもつことはないだろう。実家でも無慈悲な母により僕の目の前で多くがその儚い命を散らしていった。きっと、この彼女に気づかれでもしたら……。


 僕はこいつを救わねばならないという義務感にも似た衝動に駆られる。僕は人差し指をそうっと家グモちゃんに近づける。すると小さくぴょんと跳ねて躱された。そうそうこの感じ。勉強中にやってきたこいつを机の上なんかで鉛筆の先っちょなんかで追いかけたものだ。そうしているとぴょんとその先に乗ってくれたりするのだ。僕は彼女の背中の上で夢中になって追いかける。


「ああ、もう……。くすぐったい。まだ足りないの? センパイ?」


 センパイだと? 俺の指が止まる。家グモも不思議に思ったのかピタリとその動きを止めた。


「あっ、もうこんな時間。急げば昼の講義には間に合うか……」


 彼女はベッドから床にあった白のトートバッグに手をつっこんで取り出したメガネをかけ、こたつテーブルの上の銀の目覚まし時計を見てそう言う。彼女は身体に毛布を巻きつけるとベッドから降りてこちらを振り返る。


「シャワー借りますね」


「あ、ああ……」


 フレームのしっかりした黒のメガネが本来あるはずの正しい場所に戻ることで、俺はようやく彼女が何者なのかを認識できた。サークルのふたつ後輩の江崎えさきだ。昨日は珍しく俺も飲み会なるものに参加したのだ。酒なんて飲まない俺はいつもなら早々に帰宅するはずなのだが、なんでだっけ? まったく思い出せない。居酒屋からカラオケ屋、そんな流れだったような気もする。たぶん酒を飲んで、きっと泥酔したのだろう。だが、黒メガネを掛けた天使が僕の部屋に降臨している理由やその手がかりになるような記憶は一切ない。


 彼女は浴室へ消える。シャワーの音だけが聴こえていた。


 やはり、酒なんてものは飲むべきではないのだ。まだ俺には酔って忘れたいような過去なんてものはないし、酒のせいで昨日の晩の貴重な体験が曖昧でぼんやりとした記憶へと成り下がってしまったのだ。いや、お酒のおかげなのかもしれないのだけど……。くっ、この状況は何なんだ!


 ふとベッドのシーツの上に目を向けると、家グモちゃんはまだ逃げずにそこにいた。するとこの彼だか彼女はその場で二回小さくジャンプした。ん? 家グモの観察歴は長いが、こんな挙動を示す個体は見たことがない。俺は驚いて起き上がる。すると家グモは三回ジャンプしてベッドからいなくなってしまった。


「そ、そうですか……。家グモ、あんたって蜘蛛は……」


 昨日の酒が残っていたせいかもしれないのだが、この小さな師匠が『』を僕に伝えてくれたような気がした。僕の熱いナニカが身体の奥の方から湧き上がってきたようである。いや、すでに目に見えるカタチで湧き上がっていたのだけれども。


 僕はそのままベッドから降りると、まっすぐに彼女のいる浴室へと向かうのであった。


 

 了

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