神様トンボ

秋犬

神様トンボ

「あ、神様トンボ」


 秋晴れの気持ちいい午後、みやびは確かにそう言った。


「見ると幸せになれるんだって」


 青空に似つかわしくない、多少気の早い冬服の黒いセーラー服に身を包み、雅はトンボを捕まえようとホームの端へ走って行こうとする。


「あれは正確にはハグロトンボだ。貴重な虫なんだからそっとしておけ」

「全く、現実的なんだから」


 走るのを止めた雅は口を尖らせる。次の電車が来るまで、僕らはこの無人駅から出ることはできない。スクールバスはこの駅までしか走らない。そこから僕らの生まれた村に帰るには、利用者がほとんどいない電車に乗るしかない。


雅史まさしは卒業したらどうすんの?」

「どうって、高校に行くんだろう? 雅は志望校決まってないのか?」

「そうなんだ」


 雅は不思議な返事をして、赤いスカーフをいじりながら笑う。


「私はね、神様になるんだ」

「何馬鹿なこと言ってんだ?」

「雅史もなるんだよ、神様」


 雅はきょとんとした顔で僕を見る。


「僕は神様にならないよ」


 雅がまた不思議なことを言い出したので、僕はどきりとして彼女から離れる。彼女の長い黒髪が秋風にたなびき、ここではない場所へ連れて行こうとしているように見えた。


「約束したのに」


 雅は切り揃えた前髪を撫でながら言う。僕は首を傾げて見せた。今日の彼女には付き合いきれない。


 ようやく電車がやってきた。僕らは誰も乗っていない電車に乗り込んで、家路についた。


***


 その夜、僕は夢を見た。


 真っ暗な無人駅のホームに、黒いセーラー服を着た雅がいた。その前には白い夏服のセーラー服を着た雅がいる。雅が二人いることは、問題にならなかった。


 黒い雅が、白い雅を食っていた。


 黒い雅が、頭からバリバリと白い雅に食らいついている。白い雅は事切れたようにぐったりとして、黒い雅に身を任せている。長い黒髪が雅の咀嚼に合わせてふらふらと揺れた。白い雅の頭部は黒い雅に噛み砕かれ、白いセーラー服が虚しく転がっている。


 なんだ、この夢は。


 黒い雅は僕に気がつかず、一心不乱に白い雅を食らっている。僕はそれをただひたすら見つめていた。白い雅の白い腕は地面に落ち、黒い雅は顕わになった白い雅のセーラー服の中身に顔を埋めている。それはガラスのように透明で、黒い雅はパリパリと腹の中に収めていく。


「なにやってるんだ?」


 ようやく声が出せた。黒い雅は僕を見て、にっこり笑った。


「神様になるの」


 彼女の口から一筋の血が垂れる。それが白い雅の上に落ちて、ひどく鮮やかで美しいと僕は思ってしまった。


 そこで目が覚めた。黒い雅も白い雅も駅のホームも消えて、ベッドに投げ出されている僕の身体だけが残った。


 ……本当にこれは僕の身体なんだろうか?


 何か僕は大切なことを忘れている気がする。

 とても大切な、何かを。


***


 それからしばらく、僕も雅も何事もなかったように学校に通った。誰もいない電車に乗り、そこからスクールバスで街の中学校へ。日々のくり返しの中に、進路という言葉がやかましいほど入り込んできた。誰かはどこの高校を受験する、模試の判定ではどうだった、そんな話ばかりが耳に入ってくる。


「ねえ、覚悟決めた?」

「何の」

「神様になるの」


 すっかり日が暮れるのが早くなり、暗くなりかけた無人駅のホームで再び雅が言い出した。マフラーに半分包まれた顔から、彼女の表情はあまり見えなかった。


「だから、僕は神様にならないよ」

「嘘。私と神様になるって言ったじゃん」

「そんなこと言ったっけ?」

「覚えてないの?」


 覚えてなどいない。こうして人間の生活にすっかり馴染んでからそんなことは……?


「覚えてるじゃない」


 雅はケラケラ笑う。


 ああそうだ、そうだった。


「なろうか、今から。神様」


 雅が僕の手を取る。


「でも、電車が来る」

「そんなの、しばらく来ないよ」


 雅はマフラーを捨てると、柱を伝って駅の屋根に登る。僕も柱なんか登ったことなかったけれど、どう動けばいいのか身体が知っていた。


「あ、一番星」


 雅が空を指さす。すっかり日の暮れた空に金星が輝いていた。


「ねえ、早く」


 わかっている。僕は後ろから雅を抱きしめた。


「神様になっても、一緒にいてくれるか」

「さあ」


 それは僕にも自信がなかった。神様になったら、今までの僕らとは違う僕らになってしまう。そのくらい、神様になるということは僕らに大きな変化をもたらす。


「ああ、死んでしまいそう」

「神様になるんだ、頑張れ」


 雅は黒いセーラー服を脱ぎ捨てる。僕も学生服をその上に脱ぎ捨てた。赤いスカーフが風に乗ってどこかへ飛んでいく。


「背中が、背中が熱い」


 雅の背中が先に割れた。中から漆黒の羽根が飛び出す。この夜空に飛び立つのに、相応しい美しい羽根だった。


「きれいだよ」

「そっちも」


 僕の背中からも羽根が生まれ出た。後は、この肉体を脱ぎ捨てるだけだった。人間の身体というのは、実に動きにくい。電車に乗らなければどこにも行けない。


 でも、神様になればどこにでも行ける。


 僕は必死で上方を目指す。上へ上へ昇っていくように身体をよじると、ずるりと頭が肉体から離れる。


 僕は青い空気を腹一杯吸い込む。幼体だった頃の空気とは違う、別の次元の空気だ。頭が出れば、後は身体を引き出すだけだった。僕は腕を引き出し、時空の狭間に捕まる。肉体は抜け殻のようにずるずると足元で小さくなっていった。足を引き抜くと、僕は完全に幼体の姿ではなくなっていた。後は羽根を乾かすだけだ。


 そっと雅だったものを見る。僕より先に神様になっていた彼女の羽根はすっかり乾いていた。彼女は先に舞い上がる。僕は飛翔する彼女を見て、やはり彼女は美しいと思う。光沢のある瑠璃色の身体を誇らしげに、黒い羽根で飛び回る彼女は神様だった。そして僕も、もうじき彼女のところへ行ける。


 ぐっと背中に力を入れると、乾いた羽根が震える。これから飛び回る見たこともない世界、食べたことのない獲物、そして繋いでいく僕らの子孫。ああ、子孫を残すなら彼女とがいい。たくさん子供を産んで、新たな僕らを作らなければ。


 先に飛び上がった彼女は僕を待っていてくれた。僕が彼女の周りを飛び回ると、彼女はそれに応える。


「見つけた」

「見つけた」


 僕らは幸運だった。神様になっても、再び巡り会うことができたのだから。


〈了〉

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