第5話
「人間に生まれ変わった私は、達広さんを探した。覚えていた匂いを頼りに四十年近く色んな場所を巡って、あなたに会えることを信じ続けた。そして三年前、ようやく再会できた。面影が残っていたから、すぐに達広さんだとわかったわ」
「そうか。きみは、あの時の仔猫のユリなのか」
「覚えていてくれたの?」
達広は目を細めた。目尻の皺が深くなる。
「覚えていたとも。捨てられたきみのことが心配で、父に見つからないように毎日探し歩いたんだよ。あの時は飼えなくてすまなかったと思っていたけど、でもまさか、転生を繰り返していたとは。信じ難い」
「信じられないわよね。でも、それならそれでいいの。これは、私の自己満足だから」
「どうして今、明かしてくれたんだい」
「今まで何度か、打ち明けようと思ったことはあるわ。でも、昔助けてもらった仔猫なんです、なんて言っても信じてもらえないでしょ? 信じたとしても、私の正体を知って拒まれてしまうのが怖かったの」
柔らかだった百合の表情に、影が落ちる。会いたいと願っていた四十一年間の複雑な思いが、金色の瞳をほのかに揺らした。
「きみを拒む?」
「だって。何度も転生してるなんて話、物語でしか聞いたことないでしょ。そんな話を真面目な顔をして言っても、大抵の人は笑って本気にしてくれない。きっとあなたも同じ反応をすると思って、ずっと言えなかったの」
百合が人間に生まれることを望んだ唯一の望みが、命の恩人であり価値観を変えてくれた達広への恩返し。その相手に拒まれてしまえば、望みは叶わず、人間に転生した意味を見失ってしまう。
生きる目的を失うことが怖かったのだ。猫として生きていた時はそんなことは一切思わなかったのに、たった一人の人間から嫌われるのを死ぬこと以上に恐れていた。そう思うのは、再会するまでの長い年月の間に、百合の達広への気持ちが変化していったからだった。
百合は目を伏せ、瞳に不安の陰を落とす。そんな彼女の様子は、あの時の怯える仔猫を達広に想起させた。
達広は、首を横に振った。
「僕は、きみの話なら信じるよ。きみが覚えているエピソードは、僕と、両親と、きみしか知らない。なんと言ったって、その金色の目は、僕が覚えている仔猫のユリの目と同じだからね」
「私を、拒まないの?」
「拒むものか。きみが僕の大好きな人なのは、変わらないよ。今でも気持ちは、商店街のお惣菜屋さんできみに出会った瞬間のままさ」
そう言って、達広は自分の胸に手を置いた。そこにあるものを確かめるように。
「達広さん……」
達広は、滅多に感情を取り乱さない、穏やかで紳士的な人だった。趣味は寺社巡りで、ギャンブルにも興味はなく、年末の宝くじだけは来年の運試しで買うくらい。他の人間と比べるとつまらないと言っていいほどの、優しい人だった。
「人間は世界に何十億といるのに、こうして僕たちが再会できたのは、本当に奇跡だね。巡り会って一緒にいられるのも、僕がきみのことを覚えていたのも、もしかしたら、神様が手伝ってくれたのかもしれないね」
「……そうね。私たちを導いてくれた神様に、感謝しなきゃ」
達広の晴れた大空のような優しさが、百合の心を覆う。
再会が約束されていた訳ではなかった。だから、探しても見つからなくて諦めそうになったことが何度もある。でも、他の男性から交際を申し込まれても断り続け、独身を貫いた。そこまで百合が希望を失わなかったのは、達広への確かな気持ちがあったからだ。
「と言うことはだよ、百合さん。僕たちは、二度の運命の出会いをしたことになるね」
「二度?」
「二度目は今生。一度目は、少年だった僕と仔猫だったきみが出会った、六十五年前。あの出会いは、僕たちが再会する前提の出会いだったのかもね」
「それは思い込みじゃないかしら」
「そうかい? でも、考えてみてよ。あの出会いがなかったらきみは僕を探さなかったし、人間に生まれ変わろうとも思わなかったんだよ?」
「達広さんは、本当にロマンチストね。そうやって、亡くした奥様も惚れさせたんでしょ」
「僕は、ナイスガイだからね」
「そういうの、自分で言わないで。あとそれ、死語って言うんでしょ」
二人は同時に笑った。傾く日の光が、二人の笑顔を横から照らした。
年の差が二十九歳でジェネレーションギャップがあっても、流行りを教えたり聞いたりして、お互いの理解を深めてきた。周囲にあらぬ噂を陰で囁かれても、大丈夫だと支え合った。事実婚にしたのも、話し合った結論だった。高齢の達広が、自分が先にいなくなっても、百合に自由な恋愛をしてほしいと望んだからだった。彼の遺産に興味がない百合も、それならそれでいいと受け入れた。二人でいられれば、かたちはどんなものでも良かった。
笑いが途切れると、達広は憂えた表情になった。
「でも、すまないね。せめて、あと何年か一緒にいたかったんだけど、余命宣告されるなんて……。せっかく再会できたのに、本当に申し訳ない」
「そんなことはないわ。さっき話したでしょ。私は、達広さんに恩を返したくて人間になったって」
「どうして、そこまでして僕に?」
「それは、達広さんが私の価値観を変えてくれたから」
「きみは、そんなに酷い目に遭ってきたのかい?そう言えば、僕と出会う前のことを聞いていなかったけど。一度目に何かあったのかい?」
尋ねられた百合は、鮮明に記憶に刻まれた過去を思い起こす。その瞳はどこか、恐れに震えているように見えた。
「……一番初めの時、私は男の人に拾われたの。小さい頃にお母さんから、『人間は危険な生き物だから信用しちゃだめよ』って言われていたけど、とても良い人に見えたから大丈夫だと思ったの。だけどその人は、お酒を飲むと別人になったように豹変して、私に暴言を吐きながらお猪口や湯呑みを投げて来たり、私を蹴ったりした。耐えられなくなって逃げ出したけど、その体験がトラウマになって……」
百合は、人間から虐待を受けた過去があった。しかもそれが、一番最初に心を許した人間からだったこともあり、裏切られたという気持ちが深く、体験はトラウマとなり、人間が信用できなくなったのだった。
「すまない。辛いことを思い出させてしまったね」
「だからずっと、人間は信用してなかった。でもあなただけは、信じ続けられたの」
「どうして?」
「別れる時、あなたは謝りながら泣いてくれたでしょう?その泣き顔が、ずっと印象深く記憶に残っていたの。そのおかげで私は、人間をちゃんと見ようと思うことができて、信用していい人間は必ずいることに気付けた」
「いやいや。僕はただ、自分の無力さが悔しかっただけだよ。きみに影響を与えるようなことじゃない」
「そんなことはないわ。あなたの素直な感情が私の心に突き刺さっていたから、私は価値観を変えることができたの。私にとっては、とても大切な出来事だったのよ」
幼い子供の涙なんて、人間の人生に影響を与えるほどのものではないかもしれない。けれど、仔猫の彼女から見た幼い子供の涙は鮮烈で、号泣していたというだけで心に刻まれた。だから、百合にとって幼い達広との出会いは、彼女のその後の運命を変えるターニングポイントとなったのだ。
「じゃあ、今の話だと、きみの恩返しは終わったということかな」
達広がそう言うと、百合は首を横に振った。
「いいえ。まだ終わっていないわ」
「でも、年老いた僕を好きになってくれたし、入院してから毎日お見舞いに来て、世話をしてくれているじゃないか」
「それだけじゃ、恩を返したことにはならないわ」
もう十分だと思う達広は、眉頭を寄せた。
「きみはこれ以上、どうやって恩返しをするつもりなんだい。僕は、もう長くは生きられないんだよ?」
「だからよ。私はこの時を、ずっと待ってたの」
百合は口元に笑みを湛え、嬉しそうに目を細めた。
「待ってた?」
「私は最初から、同じくらいの価値で返したいと思っていたから」
そう言ってベッドサイドにそっと腰かけて、百合は話し始めた。
「知ってるかしら。猫には九つの命が宿ってるって話」
「うん。一度は聞いたことがあるよ」
「もちろん私にも九つあって、五度猫に生まれて、六度目は人間に生まれた。そして、神様に代償を払ったのは、二つ分の命」
「あと一つ、残ってるんだね」
「その一つは、大事な時に使えるように残してもらったの」
「大事な時って?」
「大切な人の命が、消えそうな時」
聞いた達広は、言葉をなくした。畏怖する神様にお願いしてまで残した、一つ分の命。その命をどう使うかを、人間に転生することを決意した時点で彼女は決めていた。全ては、大切な人への恩返しのために。
「病気にかかるのは自然なことだから、それを原因とした命の終わりに手を加えるのは間違ってることはわかっているの。それが、達広さんの寿命だということも。だから、私がやろうとしていることは、ただの自己満足なの。それでも私は……」
「でも、最後の一つなんだろう。だとしたら、きみはもう、猫にも人間にも生まれ変われなくなるんだよ?」
「私はもう十分に生きたわ。人間に転生して四十一年だけど、その前の猫の間だけでも、人間の年齢に換算したら百八十六年よ」
「そんなに……」
達広はまた驚いて目を丸くした。
「私は、あなたに恩返しをすることだけを考えて生きてきた。だからこれで、私が生きる理由はなくなるの」
「生きる理由がなくなるなんて、そんな悲しいことを言わないでくれ。それに、命をもらうなんてとんでもないよ」
達広は百合の意志を拒んだ。感謝の気持ちは素直に受け取れるが、命を分けてもらってまで生きたいとは望んでいない。そんなことをするなら、自分のために使ってほしかった。百合は、そんな夫の心情もわかっていた。
「私のわがままは迷惑?」
「迷惑だなんて……」
「私は猫よ。都合の良い時だけ人間にすり寄って、満足したら離れて行く、気まぐれな生き物。でも、こんなわがままを誰かに言うのは、達広さんが最初で最後。それだけ、あなたに惚れ込んでいるのよ」
「百合さん……」
「どう? あなたのマネをしてみたんだけど」
ふふっ、と百合はおちゃめな表情をして見せた。彼女のかわいらしさに、達広は眉をハの字にして一笑する。
「参ったな。惚れた人にそんなことを言われたら、絆されてしまうよ」
余命宣告をされて、その日が来るのを覚悟する日々だった。七十年も生きたなら、もう十分だろうと。
ただ一つ。大切な人との永遠の別れだけは、二度目だろうと考えたくなかった。けれど、医者にどうにもできない病に、気持ちで抗えるはずがない。だからせめて、その日までの時間を魂に刻むつもりだった。
それなのに、死に別れる覚悟をしていたのに、彼女は簡単にその意志を折ろうとする。商店街で初めて出会った時のように、一瞬で心を誘導して、掴んでしまう。
達広は観念し、白旗をあげた。
「百合さん。僕は、もう少しだけ、きみと一緒にいたいな」
目尻に深い皺が刻まれていても、その笑顔は、初めて出会った少年の頃の面影を残していた。
百合は、シミが浮かぶ彼の頬に手を添えた。達広も、百合の白い手に自分の老いた手を重ねた。
「達広さん。私を助けてくれて、変えてくれてありがとう。あなたを好きになれて、とてもしあわせよ」
百合は達広に、口づけをした。
季節は、桜前線が北上し始めた春の入り口。達広は、夏までもつかと言われていた。
やがて春は過ぎ、梅雨を経て蝉が鳴き始め、紅葉や銀杏が山を鮮やかに染め上げ、雪が大地を真っ白に埋め尽くした。季節が移ろい巡り行く時間を、二人は共に過ごした。噛み締めるように。魂に刻むように。
そして、延命してから六年目の初春。病の再発により、達広はこの世を旅立った。
彼の旅立ちを見送った百合はその後、神様が決めた寿命が来るまで一人で生きた。大切な人との思い出と、心に刻まれた気持ちと一緒に。二度と転生ができず、運命の人との再会はもう永遠に叶わないとわかっていても、その心は満たされ続けた。誰かを信じ大切に思うことが、この上なくしあわせだったから。
人間を愛することができたから。
おわり
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最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
この作品は、書く少し前(2023年当時)、猫がバラバラにされてしまったニュースを観て「もっと人間と猫(動物)って仲良く共存できるはずなのにな……」と思いを抱き、書くに至った物語です。
人間視点にしなかったのは、「人間に不信感を抱いても、人間を理解したいと思っている動物がいてくれているかもしれない。」そう考えて、猫のユリの視点にしました。
感想がありましたら、書いて下さると嬉しいです。
一輪の花をあなたに 円野 燈 @tomoru_106
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