一輪の花をあなたに

円野 燈

第1話




 季節は、桜前線が北上し始めた春の入り口。遠くに見える山脈はまだ春支度をする前で、ウグイスの鳴き声だけが一足先にやって来ていた。

 そんな季節の一片を窓枠から眺められる病室に、一人の老年の男性が病床に伏していた。七十歳となる彼はガンに侵され、余命を宣告されていた。頬がこけて骨の輪郭が浮かび上がり、日に日に悪くなっていく顔色が刻限が迫っていることを教えていた。心電図モニタと繋がっている電極が痛々しくもあり、それが、まだこの世に繋ぎ止められている証でもあった。

 末期状態でありながら、男性の目蓋が窪んだ目にはそれでもまだ生気が宿っていた。その眼差しは、傍らに佇む人物に向けられていた。

 眼差しの先には、白いワンピースを着た清楚な女性が立っていた。彼女は、男性の内縁の妻だ。年齢は男性よりもかなり年下だが、実年齢よりもだいぶ若く見える、色白の美人だ。しかし、一つの違和感が彼女を異様に見せていた。

 目の色が、金色なのだ。

 だがその佇まいは、病の夫に静かに寄り添う妻であった。男性を見つめる表情も、とても穏やかだった。


「私はこの時を、ずっと待ってたの」


 彼女はそう言って、嬉しそうに目を細めた。




 ❋ ❋ ❋ ❋ ❋




 彼女は、とある農村で生を受けた。雪を被った山々に囲まれた、昔ながらの美しい景観の場所だ。

 生まれた環境は、お世辞にもあまりいいとは言えなかった。それでも母親は、元気な子供を生んだ。彼女は、四きょうだいの末っ子だった。他のきょうだいとは違い生まれた時から色白で、かくれんぼでどこに隠れてもすぐに見つけられた。

 ある夏のこと。家族と近所に散歩にでかけた。好奇心旺盛な彼女は、虫を追いかけたりしてチョロチョロしていた。ところがふと気が付くと、母親やきょうだいたちとはぐれてしまっていた。


「お母さん。みんな。どこ?」


 幼い彼女は懸命に呼んだ。何度も何度も呼んだ。けれど、遠くに行ってしまったのか、誰からも返事がなかった。

 周りは田んぼだらけ。村の人を頼りたくても、しゃべったことはないし、近付くのは怖かった。

 置いてけぼりにされて心細くなった彼女は、草むらに隠れるように蹲った。いつもなら、いなくなったことに気付いた母親がすぐに探しに来てくれる。だから今日も、そのうちきっと迎えに来てくれる。そう願って待った。けれど、待てど暮らせど、自分を呼ぶ母親の声は聞こえてこない。

 上空にはカラスが飛んでいた。カラスは彼女を見つけると、まるでからかって楽しむようにくちばしで何度も突いて傷付けた。蹲る彼女は、小さな身体をさらに小さくして抵抗し、怖くなって再び母親を呼んだ。


「お母さん!お母さん!」


 その時。カラスを目がけて石ころが飛んできた。それと同時に、人の声も聞こえた。


「何やってんだお前!」


 三〜四個投げられて、そのうち一つがカラスに命中した。「何するんだ!」と叫ぶようにカラスはひと鳴きすると、弱い者いじめを諦めて上空に逃げて行った。

 安心したのも束の間。石を投げた相手が、草むらに分け入って来る足音が聞こえてきた。彼女は身構える身体を震わせ、逃げ出すこともままならなかった。


「大丈夫だったか。何してんだ、こんなところで」


 草を分けて覗いてきたのは、虫取り網と虫籠を提げた坊主頭の少年だった。それが、のちの内縁の夫、達広たつひろ。当時五歳だった。

 迷子の彼女を放っておけなかった達広は、保護して家に連れて帰ることにした。人が怖くて声が出せなかった彼女は、一方的に連れて行かれた。

 達広は良かれと思って連れ帰った。ところが。


「そんなこ汚いの、どこから連れて来たんだ。うちに置いてやる義理はない。くれてやる飯もあるか!」


 と怒鳴られた。農家を営んでいたが、始めたばかりで収入が安定しておらず、家族以外を養うほどの余裕がないから父親は激怒したのだ。母親も夫の言う通りにするしかなく、家に入れてやることはできないと許してくれなかった。当然、まだ幼い達広に盾突くことはできなかった。

 とは言え、彼女を見捨てることができない達広はどうにかしたいと考え、元いた場所に置いて来ると見せかけて、納屋の裏へ連れて行った。そこで何をするのかと思えば、納屋から持って来たすのこを壁に立て掛けて、そこにボロ布を被せたり敷いたりした。


「これなら、雨が降っても大丈夫だ」


 達広は、即席の小さな家を作ってくれたのだ。身体が小さい彼女には、十分な家だった。


「そうだ。お前、名前なんて言うんだ」


 彼女は聞かれたが、言えなかった。だから達広は好きなように呼ぶことにし、その見た目から「ユリ」と呼んだ。

 ユリは達広を警戒しながら、そこで寝泊まりをした。食事も、達広が父親にバレないように自分の分をわけ与えてくれた。母親にはすぐに気付かれてしまったが、彼女も何も言わずに少しだけご飯をわけてくれた。そして土砂降りの日には、こっそり納屋に避難させてくれたりもした。

 母親の言い付けや経験から、これまで村の人と関わり合ってこなかったが、達広からは悪意の類のものは感じられなかった。


(こんなに私に優しくしてくれる。もしかして、この人は大丈夫なのかな……ううん、だめ!あの時も同じように家に連れて行かれたけど、後悔したじゃない!)


 教えと違うことに戸惑い、初めて触れた人の優しさを素直に受け止められなかった。けれど、笑いかけてもらうたびに、警戒心は少しずつ解かれようとしていた。

 しかし、保護されて二週間が経った日。隠れて世話をしていたことが、父親に見つかってしまった。


「ごめんなさい!これからは言うこと聞くから!」

「だめだ!手を離せ!お前も一緒に放り出すぞ!」


 達広はどうにかして父親を止めようとしたが、力がなくて全く歯が立たず、ユリは父親の手に渡ってしまった。達広は無力さに号泣し、連れて行かれる彼女に「ユリ。ごめんね、ユリ。ごめんね」と、姿が見えなくなるまで謝っていた。

 ユリは村外れまで連れて行かれ、野原に放り出されてしまった。また一人ぼっちになってしまったユリは、寂しさでなき始めた。けれど辺りには何の気配もなく、カラスの鳴き声しかしなかった。

 暫くして諦めたユリは、歩き始めた。だが、来たことのない村外れでは、どの方向に進めば家族のところに帰れるのかもわからなかった。当てずっぽうに進んで行ったが、人っ子一人会わなかった。

 しかし、幼くて小さいユリが大人の支えなしでこの世界を生きるのは、まだ早過ぎた。無防備なところをまたカラスに攻撃されたり、野犬にも何度も襲われ、傷だらけになった。そんな目に遭っても誰にも見つけてもらえず、助けを求める声すら出せず、やがて彼女は、人知れず命の灯火を消したのだった。

 それが、彼女の二つ目の命の終わりだった。



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