第10話 取材

真実の入手が取材の最重要課題であり疑いを入れる余地はないが、これで事足れりという牧歌的時代では最早なくなっていた。唯一のはずの真実さえ、思い込みで、いかようにも姿を変えるところが又、厄介であった。

「女に惚れたときのことを思い出せよ。思い入れが強いと、アバタもえくぼに見えるだろう。ああなるとダメだ。真実なんて、掴めっこないんだ。だから、白紙で臨むんだぞ。端(はな)から、取材対象に惚れるようなヤツは、ブンヤは失格だ。いいな、白紙だぞ!」

 駆け出しのころ、キャップだった前田に浴びせられた決まり文句で、今も耳にこびりついているが、南埜への取材に際し、恒彦は肝に銘じなければならなかった。判官びいきも手伝い、白紙ではいられないのだ。鼻山病院にとって、老人医療・老人福祉は、集金と政党への集票のキャッチフレーズにすぎなかったのか。市政や府政、はたまた国政を批判する資格が、鼻山病院や耳原会にあるのか。革新団体の実像が、南埜純夫への取材で、より鮮明になろうとしているのであった。

「こんにちは、源サン」

 恒彦の右腕を抱いて、麗子が意味あり気な笑顔で、ブタジュウのガラスドアを開ける。

「よっ! 麗子ちゃん。随分ご機嫌だね」

「こんにちは、いらっしゃいませ」

 小百合の挨拶は今日も新鮮で、初々しい。

「よう! 恒。どうしたんだ? 奥方と違って、今日はばかに仏頂面じゃないか」

 定食のみそ汁を椀に盛る手を止め、源治が、無愛想の恒彦をからかう。上機嫌を隠すとき、よくこんな顔をするのだ。

「うん。実は、‥‥‥いや、ちょっとな。ま、いいじゃないか」

 恒彦は話そうとして、もったいぶった。親友を無視して、そのままトントンと階段を駆け上がる。

「おい、ちょっと待てよ。気になって、仕事が手につかないじゃないか。―――小百合ちゃん、あとお願い。麗子ちゃん、ニコニコしてないで、これ、頼むよ」

 肩透かしを食うと、余計、気になるものだ。麗子にエプロンを手渡し、源治は慌てて恒彦の後を追った。

「な、恒。電話があったんだろ? 南埜さんから」

「おい、落ち着けよ。こんな狭い階段、並んで上がることないだろ。―――それに、取材の秘密ってものがあるんだから」

 恒彦は仏頂面のまま、カクテルコーナーのドアを開けた。

「もう! もったいぶらずに教えてくれよ。商店会の若手店主はみんな、お前の書く記事を、首を長くして待ってんだから。な、あったんだろ、電話」

 カウンターの椅子に腰を下ろして、源治は恒彦の顔をのぞき込んだ。

「うん。ほんのついさっき、電話をくれたんだ」

「そうか。やっぱり電話があったか。昨日、大学の帰り店へ寄ってくれて、お前のことを聞いていたから、今日あたり電話が入るんじゃないかと期待してたんだ」

 聞きたいことが分かると、源治は急に口をつぐんだ。ようやく事件が明るみに出るかと思うと、感無量なのだ。取材の手順を考えながら、シェーカーを振る編集長の邪魔もしたくなかった。

 カウンターをはさんで、源治がマンハッタン、恒彦がベジタブルジュースのグラスを、黙って口に運んでいると、

「お待たせしました。ブタジュウ自慢の定食が、ようやく出来上がりましてよ。さあ、ムッシュー・カクテル」

 麗子が定食を運んできて、恒彦の前に豚玉とみそ汁、ご飯に漬物、それに冷や奴を一つずつ、まるで宝物を扱う鑑定士のように恭しく並べる。

「源さんの分も持ってくるから。―――いいのよ、座っててよ。ムッシュー・マスター。お昼は、私と小百合さんで十分間に合うんだから。気が合うのよ、私たち。―――お二人と一緒で」

立ち上がろうとした源治の肩も、摂関家の執事さながら恭しく押さえ、麗子は恒彦に吹き出しそうな笑顔を隠し階下へ下りていった。

「取材はどこで? カクテルコーナーにするのか」

「いや、南埜さん宅へ伺うことにしたよ。内容が内容だから、ここじゃぁな」

 リキュールのボトルやグラスに目をやり、恒彦が渋い顔をした。

「そうだな。その方がいいだろう。それに家だと、若子さんの話も一緒に聴けるから」

「そういえば、南埜さんの奥さん、洋子さんの親友だったんだって」

 恒彦が、源治の亡妻の名前を出すと、

「‥‥‥うん。小学校の時から、大学までずっと一緒だったんだ。良くできた人でね、洋子の看病まで引き受けてくれて。―――小百合とのことも、若子さんのおかげなんだ。余計なことを言わない人でね。見合い話が進み結納まで済んだ小百合に、『小百合ちゃん、今なら、まだ間に合うのよ。‥‥‥さあ、泣いてないで、源さんとこへ行きなさい。おじさん、おばさんは、私が説得するから』。そう言って、小百合の肩をやさしく押してくれたんだって。後のゴタゴタも、全部、若子さんが引き受けてくれて。―――ま、それやこれやで、俺は彼女に全く頭が上がらないという訳なんだ」

 源治は照れくさいのか、ウォタ―グラスをグッと飲み乾した。

「―――で、亡くなった南埜宏さんも、若子さんが世話をしていたのか」

「うん。病院は完全看護なんだが、彼女は毎日のように行っていたよ」

「ところで、病院側が調停委員に述べているところでは、治療費や病院への謝礼に五万円まで、彼女が渡しているということなんだが」

「ああ、あれか!」

 源治は怒気を含ませ、吐き捨てた。

「治療費は、看護師の三崎が彼女に要求したんだ。当直医がミスをしゃべるなど、夢想だにしなかったのだろう。自分の点数でもあげるつもりで治療費を要求したんじゃないか」

「でも、どうして支払ったんだ」

「それはね、ケースワーカーの才山課長が、『病院への感謝の気持ちと、こちらのミスとは別ですから。病院長に、会う時間を取らせますから』と、病院側の誠意ある対応を約束したもんで、矛盾を感じながら支払ったらしいんだ、南埜さんの了解を得ずに。謝礼の五万円も、お母さんに手渡されて仕方なく持参したんだ。お母さんには、ミスで亡くなったことは最近まで伏せていたからね、ショックを与えないために。ところが葬儀が終わっても、病院からはナシのつぶてなんで、南埜さんが電話を入れて病院長に会いに行くと、同席した総婦長が猿芝居を打った、というわけなんだ」

「で、南埜さんの要求は何なんだ? 慰謝料なのか?」

「慰謝料は当然支払うべきだという考えだが、額にはこだわっていないよ。だいたい、慰謝料が支払われても、世のために役立つことに使いたいと言っていたし、それは事務長の村木にも伝えてあるんだ。病院側も、村木の電話の録音で了解していることだろう。南埜さんの要求は、誠意ある謝罪と事故防止策の確立だろう。しかるに、同じ病院長の下で、院内感染による多数の死者が最近のように出たりすると、父親の死は何だったんだ! という気持ちなんじゃないか」

「‥‥‥なるほど。―――ところで、麗子の話でもそうなんだが、南埜さんは病院に随分、感謝の気持ちを持ち続けているらしいんだが、なぜ、ここまでこじれてしまったんだ」

「それは、生命に対する尊厳が微塵も感じられない事務長と総婦長に対する怒りだろう。調停委員に怒鳴りつけられても、幼稚な嘘をつき通した二人の無能さと、そんな無能な人物が、革新団体を標榜する鼻山病院のトップにいるという救いようのない現実。人工呼吸器がつけられていたといっても、食事をとりテレビまで観ていた患者を、植物状態で今まさに死にゆく者と信じ込ませるカルテを調停に提出する、病院側の卑しさ。数え上げれば切りがないが、それらが時の経過とともに、遺族の怒りを増幅させてきたんだろうな。‥‥‥事故直後に、正直に打ち明けて謝罪すれば、わずかの見舞金で済んだものを、本当に愚かな奴らだ。南埜さんが、事務長と総婦長を堺南署(現、西堺警察署)に告訴にいった気持ちが、今になってよく分かるよ」

「南埜さん、事務長と総婦長を告訴したのか!」

「うん。事実を南署の刑事に伝え、告訴手続きをとろうとしたんだが、結局、思い止まったんだ。担当の影岡先生がメモを読みながら、事故の経過を南埜夫妻に伝えたんだが、その用紙は恐らく処分されているだろう。一番世話になった人に、証拠隠滅の嫌疑をかけるわけにはいかないし、病院内で一番つらい立場の山内ナースには、あまり怒りは湧かないらしいんだ。ただ、‥‥‥ナースコールを押して、ナースの来るのを待ちながら薄れゆく意識の中で、息子である自分の名前を呼び続けたと思うと、南埜さんは堪らないんだろうな。『主人の胸中を想うと、私にはそれが一番苦痛なの』って、若子さんが言ってたよ」

「‥‥‥そうか。お前の話を聞いて、二人の心情がよく分かったよ。―――さあ、これから、南埜さん宅へ行ってくるよ。午後ならいつでもいいって言ってくれたけど、あまり遅くなると、夕食の準備に支障が出るだろう。下の息子さん、まだ小さいらしいから。―――今だったら、十分話が聴けるだろう」

 北野間が三十年来愛用の、オメガの自動巻きで時間を確認する。予備知識はこれくらいにして、あとは直接取材でまかなうべきなのだ。

「よし! それじゃ、車を借りるぞ!」

 恒彦はカウンターから身を乗り出し、源治の肩をギュッと掴んで興奮を抑えた。戦いの火蓋が、自分のペンで切られる予感がこみ上げてきたのだ。百戦錬磨のベテランが、駆け出しさながら胸が高鳴り、武者ぶるいを抑えることが出来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

堺の鳳が舞台の【ジパング通信局】(父南埜宏と息子南埜正五郎への追悼作品) 南埜純一 @jun1southfield

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る