策謀の真相


 王国軍の兵士たちは整然と都市を占拠した。ハルネたちは領主の館に留まるよう命じられた。

 三日後に、王国軍の指揮官との会談が設定された。

 それまでの間、館の周りは王国軍の厳重な監視があったが、館の中は自由に過ごすことができた。それに、ハルネたちの生活に必要なものは王国軍の兵士たちが何でも持ってきてくれた。

 気掛かりはボスリムの街の様子だったが、兵士たちと話した感じでは、大きな略奪や市街戦は起きていないようだった。それでもハルネは、王国軍の規律を無条件に信じることができず、気が気でなかった。


 会談の日。

 王国軍の兵士に連れられてハルネが広間に入ると、指揮官は先に部屋で待っていた。こちらを見ると椅子から立ち上がった。彼は手に巻物を持っていた。

「ハルネ様。お会いできて光栄です」

 そうして指揮官は自然な流れで、ハルネに謁見者の側ではなく領主の席に座るように促した。

「わたしはアリアスタ王国第九軍団の将軍でメナスと申します、閣下」

 閣下という呼び方にハルネの心がざわついた。メナスの表情を探ってみるも、それが皮肉なのか、敬意なのか、どちらもあり得そうだった。

 お世辞にも体格に恵まれているようには見えなかった。今ここで飛び掛かれば、この男ひとりの命を奪うくらいならわたしにもできるのではないか……? ハルネは戦闘の訓練は受けていた。父の仇を討つのであれば絶好の機会だったかもしれない。

 しかし降伏を申し出た上に騙し打ちをするような真似をしたくなかった。

 これは――信義か? 倫理?

 そのようなものが、ボスリムの領主に本当に必要なのか、ハルネにはもはや分からなくなっていた。そして、自分でも不思議だったが、ハルネは大好きだった父のことよりも、自分の何かを優先してしまった。

「メナス将軍。我が領民の生命と財産を保証するのであれば、どのような条件であろうと受け入れる覚悟があります」

 メナスは口の端を釣り上げて笑みを見せた。

「立派なお覚悟です。実は詳細な条件については、すでにアンギム殿と合意しております。閣下にはそちらの条件を追認していただきたく思います」

「アンギムは有能な家臣です、さぞ素晴らしい条件を取り付けてくれたのでしょうね」

 謀反人の名前に、嫌味のひとつも言いたくなった。反射的に言ってから後悔した。敗者の嫌味など、勝者の将軍からはさぞ無様に見えよう。ハルネは唇をぎゅっと閉じた。

 しかしメナスは、ハルネの言葉を素直に肯定した。

「戦場ならともかく、テーブルを挟んで彼の相手をするのは、しばらくは遠慮願いたいですね」

 メナスは、手に持っていた巻物を、護衛の兵士に渡した。護衛の兵士がハルネのところまでそれを運んできた。

 ハルネは巻物を広げて、内容を確認した。そこには、ボスリムとアリアスタの間で結ぼうという条約の内容が、帝国語で記されていた。

 曰く、ボスリムとアリアスタは双方に対して軍事行動をしないこと、ボスリムはアリアスタからの交易品に関税をかけないこと、ボスリムはアリアスタの軍団を輸送するために船と港を提供すること、ボスリムの領主の座はアンギムが継ぐこと、ボスリムが他国と条約を結ぶときはアリアスタの承認を得ること、そして――。

 ――領主の座は、十年後にハルネに引き継がれること。

「は――?」

「条約文にはありませんが、閣下が再び領主の座に戻られるまでの間、閣下の身柄は我々が引き受けます。アンギム殿とその点について議論がありましたがね……最終的には了解をいただきました」

「あの……」

「大丈夫ですか?」

 ハルネは言葉を飲み込んだ。何も言えなかった。

「では、承認いただけるのであれば、こちらの文書に署名をお願いします」

 そうして言われるがまま署名した。王国の紙とペンは驚くほど質が良かった。

 続いてメナスも署名した。

「今後の具体的なことはまたいずれ。何か不便があれば、部下にわたしの名前を出してください。それでは、わたしはこれで」

 多忙なのか、メナスは署名文書を持って、あわただしく退室した。

 残されたハルネは、ふっと力が抜けて、しばらく椅子の上から動けなかった。




 五日後、ハルネは荷物をまとめて領主の館から退出した。有力な家臣の多くは王国軍に蟄居を命じられていたため、ハルネを見送る人の数は少なかった。

 見送る家臣の顔ぶれには、ニーデもアンギムもなかった。ハルネはアンギムと会うことを要求していたが、王国軍はそれを黙殺していた。ボスリムを離れる前に、アンギムと例の講和条件のことを話したかったのだが。

 それでも、ハルネを見送る家臣たちの中には、涙を流している者もいた。

 ハルネが領主の座にいた期間は二年にも満たない。ボスリムの歴史を振り返ってもこれだけ短命な領主はいないだろう。しかも短命なだけではなく、ハルネはボスリム失陥という失敗を犯した。そんな無能な領主にも涙を流してくれるなんて。と、不覚にも貰い泣きしながら思った。

 ハルネの身柄が王国軍に引き渡されるまでは、形だけではあったものの、都市防衛隊の兵士たちがその供についた。その中にはレプティスの顔もあった。

「レプティス」ハルネは別れ際に言った。「ボスリムをよろしくお願いします」

「わたしの忠誠心は常にボスリムにあります」

 そうだろうな、と思った。レプティスの忠誠の対象は最後まで、ハルネではなくボスリムそのものに向けられていた。だからこそ、彼のことは最後まで信用できたのだが。もし領主がわたしでなければ、彼の忠誠の対象になっていたのだろうか。己の未熟さを痛感する。


 王国軍の兵士はハルネのことを粗雑には扱わなかったが、さりとて貴人をもてなす感じでもなかった。ハルネの存在は、どう贔屓目に見ても「人質」だった。

 はっきり言えば、愉快な状況ではない。

 しかし、今ここで喉に短剣を突き立てるよりも、人質として王国軍に同行する方が、短期的にはボスリムの将来を保証することになる。ハルネはそれを考えるとき、自分の命を惜しんだり、逆に王国軍へ一矢報いたい気持ちを思考から取り除くのに苦労した。

 それにしても。彼らはハルネの父を殺した仇である。

 その仇が、自分が将来やがて領主の座につくことの保証人になっているという事実もたまらなく不愉快だった。


 王国軍の本隊は城塞都市の外に留まっていた。アンギムとメナスの間の約束に、都市での略奪の禁止が含まれていたのもあって、メナスは最小限の軍団のみを都市に入れていた。

 ハルネが王国軍の本隊に合流したとき、宿営地ではすでに撤収が始まっていた。聞けば、王都に戻るのではなく、このまま次の戦場に向かうのだという。従ってハルネもこのまま戦場に同行することになる。

 ハルネを連れてきた兵士たちは、とりあえず天幕をあてがったところでそのままハルネを放置した。兵士たちは撤収作業でハルネの相手をするどころではなさそうだった。撤収に忙しく駆け回る王国軍の兵士たちを眺めながらやることもなく初日を過ごした。

 翌日の夕方、宿営地を引き払うのが完了した頃になって、やっとメナス将軍が会いに来た。

「心苦しいところですが、王都に戻るまでは多少の不自由は我慢していただきたい。いや、あなただけを王都に送り届けるという案も考えたのですが、何せ難しい情勢ですから、万が一あなたの身に何かあると困る」

 といきなり言い訳を並べ始めた。

「無用な配慮です」

 とハルネはメナスの弁解を一言で切って捨てた。

「……それはどーも。さらに言えば、アンギム殿からは、将来のためにあなたのことを鍛えるようにと頼まれています」

「――望むところです」

「であれば、当面の間は私の側近として共に戦場に赴き、見聞を広げていただきたい。ハルネ殿は戦場に立った経験もないと聞きます」

「ええ、しかし、あなたの軍を食い止めていたボスリムの兵士は、わたしの指揮下にありました」

 反射的に言葉が突いて出た。すぐに恥ずかしくなった。

 幸いなことに、メナスはその反論について涼しい顔で何も触れなかった。勝者の気遣いが余計に腹立たしかった。

 そのとき、王国軍の兵士が天幕に入ってきてメナスを呼んだ。

「メナス様、そろそろ参りませんと、隊長がお待ちです」

 若い男だった。茶色の長い髪を後ろで縛って一本にしている背の高い男だった。

「あっ!」

 ハルネは男の顔を思い出して思わず声を上げた。頭が真っ白になる。

 硬直したハルネを見て、メナスは「ああ……」と、納得したように頷いた。

「そうか、まだ紹介してなかったね。この男はキレレウ。私の直属の……まあ、知っての通り器用な男なので、便利に使っている。そのうち君の役に立つこともあるだろう」

 キレレウとメナスは、ハルネを一人残して天幕を去った。


 ここから先はハルネの推測である。メナスに真相を問い質す機会はいくらでもあったが、ハルネはそうしなかった。そうしないことが敗軍の将としての最後の矜持だった。

 メウリトリアの使者キレレウは殺されていなかった。

 では建物にあった死体は何だったのか。

 もちろんあれはキレレウ本人の死体ではない。身代わりだ。しかしキレレウにはずっと監視がついていた。身代わりを都市の中で調達することは不可能だ。だから、死体は都市の外から持ち込んだものである。

 謁見の場でも手元から離さなかった、大きなカゴのことを思い出した。

 あの夜、見張りの兵士たちが言ったとおり、建物には誰も近づいていなかった。建物には最初から最後まで、生きている人間はキレレウ一人しかいなかったのだ。

 彼は、カゴの中に隠していた死体を自分の身代わりとして建物に残し、火をつけた。自分は監視の目から死角となる、通りとは反対側の方に出て、そこから城壁を越えて海に降りた。

 海から崖の上まで気づかれずに登るのは不可能だが、逆に、崖の上からロープを使って海に降りるのは十分に可能だ。そのための道具も死体と一緒にカゴの中に入れていたのだろう。

 カゴが現場から消えていたのは、犯人がカゴの中身を狙ったのではなく、逆で、カゴの中が空だったからだ。空のカゴが残されていれば、必然、その中身がどこに消えたのかを勘繰る。カゴをその場に残して中身だけを持ち去った理由を考える。カゴの中身は持ち去られたのではなく、建物の中に残っていたのではないか――という推論で、死体にたどり着くかもしれない。

 海に降りてロープを始末してから、キレレウはどうしたのだろう?

 おそらく港から上陸し、それからは商人のふりをして都市に潜伏していたのだろう。王国軍が海路を完全に封鎖しなかった理由もここにあったのだ。それをしてしまうと都市にはボスリム人しかいない状況になり、異邦人であるキレレウが身を隠す難易度は一気に跳ね上がっただろう。都市に見知らぬ人間がいる状況を作りたかったのだ。

 ひょっとして、彼は監禁されたアンギムに接触して交渉する役割をも担っていたのではないか。今にして思えば、ニーデの元から脱出したアンギムが、脇目も振らずに王国軍との接触を目指したのは唐突感があった。事前にそういった申し出がアンギムの耳に入っていたのではないか。

 この一連の事件を裏で指揮していたのはメナスだ。

 その目的は、今となっては明らかだ。

 ボスリムの主戦派と和平派を分断させる。彼はいささかの政治的な妥協と引き換えに、軍団の血をほとんど流さずにボスリムを手に入れたのだ。

 事件当夜、現場が兵士の監視下にあったのは意図したものではないと思われる。「主戦派が独断で使者を殺した」というストーリーを意図したのであれば建物への侵入が不可能だった状況はありがたくないだろう。

 そこから気づくべきだった。

 目の前にあった手掛かりを掴めなかったばかりに、ボスリムの分裂を見ているしかなかった。

 ――やられた。

 敵に主導権を握られたまま、その目的も、手段も分からぬまま国を奪われたのだ。

 ハルネはしばし、意識が遠くなるほどの憤りに襲われたが、やがて自分の力だけで冷静さを取り戻した。領主には何よりも自分の感情の制御が必要だとニーデも言っていた。

 視点を変えれば、ボスリムは軍事的に破壊されたわけではない。幸いにして都市防衛隊はほぼ無傷だ。都市も領民も破壊や殺戮を免れている。ハルネ自身も健在であり、しかも二度目の機会も約束されている。

 ――まだ復讐の機会はある。

 ハルネは自分にそう言い聞かせた。




 ボスリムから軍を引き上げる直前、メナスは出発の挨拶に領主の館を訪れた。

 アンギムは、つい先月までハルネの席だった場所で、メナスを広間に迎え入れた。メナス率いる第九軍団の抑えが利いているとはいえ、アンギムは大過なくボスリムを制御下に置いていた。

「メナス将軍。わざわざご挨拶いただけるとは光栄ですな」

「アンギム殿。我が軍団への補給をありがとうございました」

 それから、ボスリムと軍団の間にあったいくつかの事務的な事項について、情報を交換して約束を結んだ。

 もともと領主をやっていた男だ、そうした振る舞いは板についている。

「それから、船の件ですが――」

 メナスが言うと、アンギムは大きく頷いた。

「大急ぎで船大工をかき集めておるところです。軍団が使うまでの間は好きに使っていいということでしたが――」

「猶予はそれほどないとお思い頂きたい」

「……またボスリムが戦場になると?」

「遠い将来のいつ嵐が来るのかは誰にも分かりません。それ故に人は家を建てるのです。それから――次期領主の件は、よく承知しておくように。もしボスリムがこの約定を違えるのならば、たちどころに次期領主の命運は尽き、あなたの忠臣としての名声も地に落ちましょう」

「いかにも。わたしは二度目の機会を、ボスリムの安定と、次期領主の足場を固めるのに費やすつもりです。……あの子は、上手くやっていますか?」

 ついでのように、しかし優しい声でアンギムは尋ねた。

「私は人を育てたことがありません。したがって彼女を育てるつもりもありません。彼女には一人で成長してもらうしかない。彼女が成長するための困難な問題は、いくらでも用意できますから」

「……あの子は、成長できますかな?」

「そうでなければ国が亡ぶだけです。我々の国も、あなた方の国も。――では、私はこれで失礼」




 軍団の行軍とは、ハルネが想像していた以上に困難なものだった。

 数千人の人間を遠くの場所に決められた期限までに送る。軍団の全員を同じルートで送るわけにもいかず、いくつかの小集団に分けさせて、それぞれの小集団に道を伝え、分進する先々での補給を計画して、事前に人を送って準備させる。さらに戦闘集団を維持するための食料や武器の輸送計画も必要だ。もちろん計画通りに移動できるわけがない。地図が古い、道に迷う、現地民とのトラブル、敵の待ち伏せ、問題の種を挙げればきりがない。

 笛を吹いて目的地を告げるだけで移動する……なんて、単純なものではないのだ。

 ハルネは行軍計画を立てている事務方の手伝いにつけられていた。

 これにはいささかのエピソードがあった。行軍計画の策定が遅れに遅れ、メナスにせっつかれ続けた担当官がとうとうキレて、将軍の天幕の前で事務方の増員を大声で訴えてから気絶して倒れた。話によれば五日ぶりの睡眠だったという。

 メナスも事務方の負荷の大きさは承知していたが、そうだとしても今すぐ解決できる問題ではなかった。とはいえ何かしなければ事務方の不満は決して解消しないだろう。メナスの第一の仕事は戦争で勝つことだが、そのためには部下たちの心を掌握する必要もあった。

 そうしてハルネが「緊急の助っ人」として行軍計画の策定チームに放り込まれた。

「とにかく時間がなくて、細かい部分は移動が始まってから決めるしかないんです。なので、今のうちに大雑把に何パターンか計画を立てておいて、それぞれの計画の前提条件を――」

 行軍計画の責任者は、地図や報告文書が乱雑に散らばったテーブルの上に、さらに別の地図と報告文書を並べてまくし立てた。情報共有は途中から泣き言に変わっていた。

 呆然としている暇なんてない。

 ハルネは胸を張った。領主であったときのことを思い出す。

「分かりました。それでは、仕事を始めましょう」

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ボスリムの女領主には探偵癖がある 叶あぞ @anareta

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