ハルキテンセイ

卯月二一

ファンのみなさん、ごめんなさい。(これでも一応好きなんです)

 大学に入学してから、夏休みも終了した9月にかけて、僕はほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。その間にフランスでオリンピックが開催されたが、そんな四年に一度という世界における時間の刻み目は僕にとってとくに何の意味も持たなかった。自らの命を絶つことは僕にとって、何より自然で筋の通ったことに思えた。そんないまなら生死を隔てる敷居をまたぐのは、生卵をひとつ呑むより簡単なことだ。僕が死んでしまえば、ここにある世界は存在しない。この世界にとって自分がもはや存在しないのと同じ理由によって、自分にとってこの世界もまた存在しない。それは魅惑的なことに思える。


 僕が彼女と出会ったのは偶然の成り行きだった。


 横断歩道を歩きながら僕は井戸のことを考えていた。井戸を見るたびに硬貨を放り込んでみたくなる。硬貨が深い井戸の水面を打つ音ほど心の休まるものはない。ふと財布の中の硬貨の枚数が気になり確かめていたら、信号が変わり、僕は大型トラックにはねられた。「やれやれ」と僕はため息をついた。


「もっと嬉しそうにできないのかしら」と不服そうに彼女は言った。「いや」と言って、僕は自分が死んでいることにまだ気づいていない死者であることを確認し、しばらく生の欠落について思いを巡らせた。自分のことを女神だという彼女の乳房は見れば見るほど異常に大きいように思えはじめた。きっとゴールデンゲート橋のワイヤ・ロープのようなブラジャーを使っているのだろう。神聖な存在に性欲を感じるというのは奇妙なものだ。


「ちいさな頃から井戸が好きだったのね」と自称女神は感心したように言った。僕は肯いた。いくぶん用心深く。僕は自分のことを、工科系の学校や職場でしばしば見かける専門馬鹿のおたくだと彼女に思ってほしくなかった。でも結局はそういうことになるのかもしれない。「うん、小さい頃からなぜか井戸が好きだった」と僕は認めた。


「かなり一貫した人生みたいね」と彼女は言った。いくぶん面白がってはいるものの、そこに否定的な響きは聞き取れなかった。


 女神は尋ねた。「この先あなたが生まれ変わるのは、剣と魔法のファンタジー世界よ。あなたはどんな人生を生き、どんな夢を見たいのかしら?」


「最近は死ぬことばかり考えていたけど、それまでの人生にとくに不満はないし、自分の生い立ちも気に入っている。友だちともうまくやってきた。これまで何人かの女性と交際した。どれも結局中途半端だったけれど、それにはまあいろんな事情もある。僕のせいばかりじゃない」


「でも戻るべき場所はもうないのよ。あなたにとっての乱れなく調和する場所は」


 僕はそのことについて考えてみた。あらためて考える必要もなかったのだけれど。


「ああ、もうやってらんない! あなたのそのかったるいその思考なんとかなんないの! 全部ワタシ、聴こえてるんだけど、これだから純文学勢ってヤツは!」


 なぜか突然女神は怒り出した。僕の前には暗い淵が大きな口を開け、異世界にまでまっすぐ通じていた。そこに見えるのは堅い雲となって渦巻く虚無であり……


「だから、もういいって言ってんでしょ! ファンタジー勢のライトなノリをちょっとは見習いなさいよ!」


「やれやれ」と僕はため息をついた。そして転生した。 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハルキテンセイ 卯月二一 @uduki21uduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画