行方不明の秋

蛙鳴未明

行方不明の秋

 郷里の夏はねちねちとしている。盆地を囲む山々が熱を逃がさないのだ。郷を離れていた二十数年のうちに、そのしつこさは一段と増したらしい。九月も末だというのに、汗を垂らしながらインターホンを押す。家主を待つ間、くすんだ塀を背に負って立つ、ホウセンカに少し見惚れた。ドアが開く。ひっつめ髪の彼女は、驚いたように目を丸くした。


「あれ、ヒー坊」

「ユイねえ、おひさ」

「電話では木曜って……」

「木曜は今日だよ」

「……ああそっか」


 やつれていた。見慣れぬ皺も増えていた。けれどやっぱり『ユイねえ』だった。小学生の時みたいに、にやにやしながら聞いてみる。


「なんか見られたくないものある?」


 こう言うと、ユイねえはいつも俺をちょっと睨んで、黙って家に駆けこんだ。それをどたばた追いかけるのが、遊ぶ時のお決まりだったのだ。


「……もう、ないかな」

 ちらりと見えたえくぼに、懐かしさと哀しさを同時に感じながら、俺は招き入れられた。




「今年も異常気象みたいね」

「な。毎年これなんだから、もう『異常』って言うのやめりゃいいのにな」


 貰ったタオルで汗を拭く。座敷の窓は開け放たれ、扇風機が三台回っている。首を振りあって、難しい会議をしているみたいだ。


「エアコン未だにないんだ」

「まあ、古い家だから」

「無理にでもつけた方が良いよ。最近の暑さは命に関わる」


 ユイねえは目を伏せて、お盆に向かって言い訳するように呟く。


「父さんと母さんがいるなら考えたけど……私一人なら、どうにかなるし」

「ユイねえ一人だから心配なんだよ」

「私なら大丈夫だから」


 ユイねえは、少し強い音を立てて麦茶を置いた。ちゃぶ台が揺れる。曇ったグラスに反射している色とりどりは、化粧台の家族写真だ。幼いユイねえをおじさんがお姫様抱っこし、おばさんがそれに寄り添っている。家族三人そろった写真は、それ一枚だといつか聞いた。


 写真を撮ってから間もなく、おじさんは飛行機事故で亡くなった。おばさんはユイねえを育てるためにきりきり舞いし、しばしばユイねえを俺の家に預けた。ユイねえを大学まで行かせて東京に送り出し、一安心というところでボケが始まった。ユイねえは実家にとんぼ返りして、ずっとおばさんの面倒を見ていた。


 この家で最後まで二人で、とユイねえは言っていたけれど、おばさんは結局去年から老人ホームにいる。……この前の電話でそれを聞いた時は驚いた。おばさんとユイねえはすごく仲が良かったのだ。それでも離れざるをえないほど、介護というのは過酷なのだろう。


 ユイねえはまた宙を睨んでいる。何年ぶりの電話で、何年ぶりの再会か。積もる月日を数えないうちにユイねえは、こうして虚空ばかり見つめるようになってしまった。俺は悔しさで下唇を噛む。


「二十……五年も経ったんだね」


 ぽかりと言ったユイねえの、クマの濃さは残酷だ。彼女は空白を埋めるすべを探すように、切れ切れに声を出す。


「あんた、高校出てすぐ東京出た、よね。ミュージシャンにはなれたの」

「いや、全然。なれたのはバツ二だけ」

「子供いるの」

「さあ? 俺のか分からん」

「いるんだ」


 短く発せられたその四文字に、袈裟懸けに斬られたようにくらっとした。恨みとも哀しみともつかないタールのような重みが畳に跳ねて、部屋の明度を下げたように思えた。


 そうだ、ユイねえは恋も仕事も捨てるしかなかったのだ。


 盆地の隅で慎ましく、母を支えて生きるなかで、このような毒々しい澱を溜めて溜めて、虚空をじっと見つめているしかなかったのだ。俺は息が詰まった。可哀想だと思った。けれどそう思うこと自体が、ユイねえを貶め、さらに救いようのない洞穴へ突き落してしまうような気がした。


 俺は手土産の洋菓子を睨んでじっとしていた。視界の端で、ユイねえの唇が動くのを見ていた。


「私達、変わっちゃったね」


 その声は微かに震えているけれど、泣きたいのか怒りたいのか分からない。ユイねえの手はお盆を強く握りしめて、静かな嵐を押し殺しているようだった。扇風機の風が蜂のように唸りながら、ユイねえの背中を撫でていく。庭だけが明るい。


 ぼうぼうに伸びた下草の間で、季節外れのバッタが跳ねた。ユイねえはゆっくりと背筋を伸ばす。何かを忘れて置き去るように。


「……実家にも帰りなさいよ。おばさんたち心配してるって」

「帰れねえよ、さすがに」

「すぐそこじゃない」

「月より遠いよ」


 沈黙が流れた。ちらりと見るとユイねえは、背中を固く強張らせたまま、手土産の洋菓子を睨んで唇を真一文字に引き締めている。だから皺が増えたんだ、と思う。俺と一歳しか変わらないのに、すっかり老けてしまった。様子を見に来てよかった。もう遅すぎたかもしれないが、白髪がもっと増えていたら、俺はもっと悲しかった。汗をかいたグラスに手を伸ばす。乾いた喉によくしみる。ユイねえも釣られたように手を伸ばし、引っ込め、思い出したように俺を見上げた。


「電話で言ってたけど……母さんに会いに行ってくれたんだよね。元気だった?」

「ああ。顔見れてよかったよ。笑顔ってのはいくつになっても変わらねんだな。昔通りの『ニコおばさん』って感じ……笑いながら窓の件を問い詰めてきたのにはビビったが」

「まど」

「割ったろ昔。夕立ちでさ、ユイねえの部屋でキャッチボールしてたらパリンと。ほんで風のせいにした……」


 ああ、そういえば――とは言うものの、思い出してはないようだ。今度は、揺れるカーテンをぼーっと眺めている。さあさあと、幾度か風がそよぎ、ユイねえはしばらくぶりに瞬きをする。


「そう、母さん元気ならよかった。……ごめんね。本当は私が行かなきゃいけないんだけど――」


 言葉を切って、目を落とす。ユイねえはささくればかりいじっている。それをそっと押さえると、彼女はほうっ、とため息をつく。


「……最近、家のことも手につかなくて」

「メランコリーってやつ?」

「……秋、だしね」


 しばし黙って庭を眺めた。伸びっ放しのくさぐさはペンキを塗ったように真緑だ。庭木には苔や蔦が這い、そこら中に溢れかえる生気にむせかえりそうになる。紅葉のこの字もない。キンモクセイも香らない。セミがうるさい。


「秋、ねぇ……行方不明の秋だな」

「ユクエフメイ」


 俺の言葉を繰り返して、ユイねえは遠くを見るように顔を上げた。不意に不安になって口早に付け足す。


「『秋が』行方不明なんだぜ。夏に追われちまってよ」

「私達も同じようなもんよ。バツニとニート。こんなとこに吹き寄せられてさ」


 「『こんなとこ』なんて言うなよ」とは言えなかった。ユイねえが口をきいてくれなくなるような気がした。


「……それもそうか」


 ユイねえはクツクツと、あまり声を出さずに笑う。目に光がともっただけで俺は嬉しい。彼女は、今度は遠いところをハッキリと見据えながら、


「ねえ、前もこんな秋、あったよね」

「……そうだっけ」

「そうだよ。ちいさい秋を探しに行って……そのあとタイムカプセル埋めたじゃん、あのキンモクセイの下にさ」


 真っ直ぐに伸びた指先を見て、やっと朧げに思い出す。確か小四か小五の秋だ。一緒に「ちいさい秋」を探しに行った。あんまり夏が去らないものだから、不安になったのだ。このまま一生夏のままなんじゃないかって。それをユイねえが慰めてくれて、きっと秋はどこかにあるからと、探検に出かけたのだ……


「確かにそうだ、探しに行った。でも、なんでタイムカプセル埋めたんだっけ?」

「世界が夏だけになった時、誰かが秋を救えるようにって……あんたが言ったのよ」

「年頃だったんだなあ……」


 クツクツと笑う声は、さっきよりほんの少し色づいている。少年時代に交わした笑いが不意に思い起こされて、その華やぎにのるように、呟いてみる。


「掘り出してみようか、タイムカプセル」


 え、と驚く声を背に、俺は庭に飛び込んだ。


 サンダルの死骸をつっかけて、キンモクセイの傍の雑草をもいでいく。露になった土の上を虫どもが逃げていく。どこに埋めたか――そう、ここだ。青みがかった石が、土から半分顔を出していた。それに手をかけて引っ張ると、ぼろぼろと土が崩れ、どっと蟻が這い出して来る。二十五年、二十五年だ。思い出のよすがも蟻の巣穴になり替わる。ここは既に違う命のねぐらだ――でも構うものか。


 俺は植木鉢のスコップを引き抜き、錆びた切っ先を土に刺す。ユイねえ、あの頃のユイねえがどこかにいる気がしてならないんだ。顔にひっ被さってきた草をちぎると汁が出て、手に青臭い線がつく。慌てふためく蟻どもを土ごと掘り返して放る。こいつらは何世代目だ。この庭のくさぐさは幾度の冬を越えてきた? その生命の堆積を、俺は掘り返す。訳の分からない衝動に突き動かされて、いつの間にか歯を食いしばっている。


 きっと、悔しいんだ。背中に感じるユイねえの視線が、こんなにくすんでしまうまで、俺は何もしなかった。俺は俺が憎らしい。そしてこいつらのことも憎らしい――ユイねえが身も心もすり減らす間に繫栄し、俺達の秋を覆い隠してしまったこの虫と、この草と、この夏が。


 がつ、とスコップが引っ掛かり、古びた缶が現れる。あったよ、と思わず叫び、銀色の断面を高々と掲げて振り返る。ユイねえは縁側に腰かけたまま、微笑んだ。


「そう、よかった」


 寂しそうな笑みだった。タイムカプセルを、ちらとも見ようとしなかった。身体を拭かないとね、と言って、いそいそと暗い室内へ戻っていった。


 俺は唖然として、がらんどうの座敷を見つめた。ユイねえが遠い所へ旅立って、二度と帰ってこない気がした。廊下では物音がする。ユイねえはすぐタオルを手に戻ってくる――分かりきっている。しかし俺にはそれが信じられなかった。扇風機が三台も首を振っていて、風の音がうるさかった。不意に手が震えて、チャンピオンリングのように掲げていたタイムカプセルが、草の中にぼてりと落ちた。俺はそれを拾うと、元の穴にそっと戻し、土をかけた。幾度も幾度も土をかけ、ならした土にスコップを刺した。まるで墓標のようだった。


「ヒー坊、タオル」


戻ってきたユイねえは、やっぱりやつれていて、どこか遠くを見つめていた。俺は黙ってタオルを受け取りながら思った。きっとユイねえは、秋に行方不明のままでいて欲しいのだ。やるせなくて、空っぽの麦茶のグラスをあおる。ヒグラシがうるさく鳴いていた。

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