想うは、貴女一人だけ

わだつみ

想うは、貴女一人だけ

 「9月の早朝、白露の頃に、曼殊沙華(まんじゅしゃげ)が咲いてる、寺へと続く一本道を歩いてると、曇り空のような灰白色の髪に、死に装束の女の幽霊が、曼殊沙華の中に佇んでいるらしい」


 そんな怪談話を村の子供たちがしているのを、私が聞いたのは、昭和初期の頃だった。小学校からの帰り道で、男の子も女の子も共に、噂話に盛り上がっていた。

 

 私は、道端で怪談話をしている彼ら、彼女らに、どうか気づかれませんようにと祈りながら、家への帰路についていた。しかし、その祈りは通じず、噂話と暇つぶしの為の虐めには目のない村の子供達は、私を見逃さなかった。

 「ここにも『幽霊女』が来たぞ」

 一人の男の子が、私を見るなりそう言って、他の子達もどっと笑った。

 村の健康で活発な、日によく焼けた子供達には、確かにあの頃の私は『幽霊女』のようにしか見えなかっただろう。気が弱くて、学校に友達もおらず、家で本を読んで過ごしてばかりの、青白い子だったから。

 噂話をしていた子供達に私は囲まれ、いきなりこう告げられた。

 「いい事思いついた。お前が、霧の朝に曼殊沙華の道を歩いて、寺まで行って戻って来い。そうしたら、お前が弱虫女じゃないって認めてやる」


 9月の朝、密かに家から抜け出して、村の「曼殊沙華の一本道」の入り口まで私は呼び出された。

 子供達も既に集まって、この早朝の肝試しを私が達成できるか、試すように意地の悪い笑みを浮かべていた。

 

 霧が出ませんようにという祈りもむなしく、その朝は薄っすらと白い霧も出ていた。

 前が見えない程ではないが、白い霧の中に仄かに見える、曼殊沙華の怪しい赤の花が連なっている景色は、この世ならざる場所へと続く道と、その道を照らす異界の灯火のように見えて、足が竦む。

 

 一人の女の子が容赦なく、弱虫女と叫んで、私の背中を突き飛ばす。

 私は地面に倒れ、また笑い声が上がる。

 立ち上がって振り向くも、道の入り口は、既に私が引き返すのを阻むように悪童らが屯し、塞いでいる。

 寺まで行って帰ってこない限り、この道から出してはもらえないだろうと、私は絶望しながらも、歩みを進めた。

 早朝の霧は大して濃くないが、村の民家も、目的地の寺も薄ぼんやりとしか見えず、目に映るのは畦道に咲き乱れた、曼殊沙華達だけだった。

 このまま、私は冥界に行ってしまうのではないかという、そんな恐怖が押し寄せる。

 白い霧の中、曼殊沙華の花びらに滴っている朝露が血の雫に見えて、余計に怖くなった。

 そんな時、一筋の冷たい風が私の頬を撫でた。

 

 異様な感覚に固まっている私の瞳に、赤い灯火のような花達の中、一人佇んでいる若い女の人が映った。

 

 しかし、一目で、村の人でも、この世の人間でさえもない事が分かる。

 

 早朝の風に揺れていた、彼女の髪は薄く曇った灰色の空のような色で、更に、葬儀でしか見ないような、真っ白の死に装束姿だったから。

 

 彼女に気づいた時、私は地面に座り込んで、悲鳴を上げてしまった。あの子達の怪談話が頭をよぎる。蛇に睨まれた蛙のように、体は固まり、動けない。

 

 しかし…、恐怖に最初、打ち震えていた私は、彼女が何もしてこないのに気付いた。

 彼女のその澄んだ瞳も、形の良い口元も、儚く哀愁を感じさせるが、悪意は何も読み取れなかった。

 その美しさは、同じ女の私でさえも吸い寄せられそうになる程のものだった。私の瞳が、彼女の瞳とお互いに真っ直ぐ見つめ合う形になる。


 ぱたぱたと、軽快に道を駆けてくる足音がする。はっと我に返り、私は、あの子達が私の悲鳴を聞いて、面白がって様子を見に来たのを悟った。


 「なんだよ、素っ頓狂な声上げて…」

 面白がり、そんな言葉を口にしていた、村の子供達の余裕は、私の視線の先にいた、灰白色の髪に、死に装束の美女の姿を見た途端に、かき消された。

 次の瞬間、情けのない悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らすように彼ら、彼女らは私には目もくれず、来た道を全速で引き返して逃げ去っていった。


 後には、私と、曼殊沙華の中に佇む彼女だけが残った。

 彼女は、先程の悪童達の私への態度などを見て、何かを察したのか、口を開く。

 それは不思議な感覚で、私の耳ではなく、頭の中に直接語り掛けるように、彼女の澄んだ声が響いた。

 「貴女がここに来たのは、もしかして、さっきのあの子達の為?」

 私は、恐る恐る頷く。

 「白露の季節に幽霊が出るこの道を、寺まで歩いて帰ってこられたら、見直してやるって、そう、言われたから…」

 と、自分でも驚くくらいの弱々しい声で、彼女に答えた。


 「お姉さんは、幽霊なの…?」

 私はそう尋ねた。

 「幽霊…とは違うね。でも、貴女達と同じ、人間ではないというのは正しいわ」

 彼女の声や表情からは、少なくとも、私に何かしようというつもりはないのは分かり、胸をなでおろす。

 しかし、幽霊でないのなら、彼女は何者なのだろう。

 「お姉さんは、ずっとここで、一人ぼっちなの…?」

 そう尋ねると彼女は頷く。

 「そっか…。じゃあ、お姉さんも、私と一緒なのね」

 人ならざる者が相手と言うのに、私は何故か、彼女に親近感のようなものを覚え始めていた。

 「私を見て、腰を抜かして逃げていかなかった人は、貴女が初めてよ」

 「だって、お姉さんは、悪い人には見えないから…。それに、何だか寂しそうにしている」

 その直感は本当だった。彼女の瞳には、邪悪な気配などなく、寧ろ、その澄んだ瞳を塗りつぶしているのは、孤独の色だった。

 「私は、村には友達が誰もいないの。もしもお姉さんが良ければ、お友達にならない?」

 私の言葉を聞くと、彼女は驚きに、目を大きく見開いた。

 しかし、拒む事はなかった。

 「ええ、私も友達になってくれたら嬉しいわ。また、朝の、日が昇り切る前の時間にきてくれたら、お話ししましょう」

 そのうち、朝の日が高くなり始めて、霧も薄れ始めた。

 さっきは不気味だった、露に濡れた曼殊沙華も、今は、明るい日の光を受けて煌めいている。

 それは、冥界へ続く灯火よりも、勢いよく燃えるかがり火のように見えた。

 

 私が、彼女の申し出に答えようとした時、彼女の姿はもう消えていた。

 畦道をいくら見回しても、朝日の中、燃える炎の花が見えるだけだった。


 それから、私と彼女の、朝日が昇り切るまでの間の、不思議な「友人関係」が始まった。彼女は、草花に詳しく、秋の野花について、道を歩きながら私に教えてくれた。

 道端に咲く、一輪の、朝露に濡れた青く可愛らしい花弁の花に私が目をとめていると

 「その青く、可愛らしい小さな花は露草ね。気に入ったの?」

 と私に聞いてくる。

 私が頷くと、彼女は灰色の空のような色の長髪をさっと翻してしゃがみ、「ごめんなさい」と一言、その花に謝るようにしてから、青い花を摘んでくれた。

 それを私の耳と髪の合間に、挟むようにして添える。

 「やっぱり。一目見た時から、絶対、貴女に似合うと思った」

 髪飾りの類など着けた事がない私は、照れくさくて顔が赤くなる。

 彼女がくれたこの露草の花を、絶対に大事にしようと思い、また、彼女にこの花の髪飾りのお礼をしようと思った。

 あくる日の朝、また、彼女と曼殊沙華や、秋の野花の咲き乱れる道を歩いていた時、私は布に包んだ、あるものを彼女へと見せた。

 「この赤い飾りは…、玉簪(たまかんざし)?」

 「そう。母さんが沢山持っていたから、一本お借りしてきたの。お姉さんは髪が綺麗だから結わないと、勿体ないと思って」

 そうして、彼女を道端の石に座らせ、いつも鏡の前で母親がしているのを思い出しながら、見様見真似で彼女の灰白色の真っ直ぐな長髪を結い、最後に玉簪でまとめてあげた。馬の尾のように、彼女の頭の後ろからひと房の髪の束が揺れる。

 私は

 「髪を結った方が、お姉さんは綺麗に見える。もっと、綺麗なものを身に着けてほしいわ」

 と言った。

 今度は彼女の方が「きっと似合わないわ」と言い、恥じらうような仕草を見せた。

 

 幽霊でないにしても彼女はやはり不可解な人だった。昼間は何処にいるのか、何処に住んでいるのか、という問いには口を濁す。

 それに、口癖のように去り際には「また会える日を楽しみにしているわ」という。

 明日も会うのに仰々しいと、私は思っていた。

 

 しかし、彼岸が終わる頃に、彼女から私へその言葉は急に告げられた。

 「来年の白露の頃まで、私は貴女の前に現れる事は出来なくなるわ。ごめんなさい…。でも、来年には必ず、会いに来るから。また会える日を、楽しみにしているから」

 あまりにも急に、曼殊沙華の花達が散るのと同じ頃に、彼女は消えてしまった。

 私は泣き明かしながらも、露草を大事に押し花にして、栞にして、それを見つめた。来年の9月を一日千秋の思いで待ち続けた。

 そして、またこの村に霧が立ち、曼殊沙華が咲く季節に、彼女は帰ってきた。

 赤色の玉簪で髪を結った、あの姿で。

 会えない1年の間にあった事、話したい事は沢山あった。

 しかし、それを話して、秋の訪れを二人で楽しんでいる間に、また彼女は消えてしまう。

 それは私が女学生になっても、毎年続いた。彼女が消えていく時はいつも、

 「また会う日を楽しみに」

 という言葉を残していった。


 あの言葉の意味を知る為に、高等女学校の図書館で花言葉の本で、曼殊沙華を調べてみた。

 そこで、『曼殊沙華の花言葉:白の花にはまた会う日を楽しみに、の意味あり。想うはあなた一人、などもあり』との一文を見つけた時、本の前で私は固まっていた。

 

 あの畦道の一面の赤の中に、一輪だけ咲いていた、白の曼殊沙華が脳裏に浮かんだ。

 彼女は、あの白の曼殊沙華の精だったのだと、私は確信した。


 それでも、私と彼女が友達である事は変わらなかった。


 -縁談がまとまり、私がこの村を去り、遠くの街へ移り住む事が決まるまでは。


 その前の白露の時期を、彼女と過ごせたのは幸いだった。私の話を、彼女は静かに聞いている。途中で、泣き出してしまった私に諭すように言った。

 「どうか、泣かないで。これもまた束の間の別れに過ぎないのだから。私はまだ何十年もこの場所で、貴女を想いながら待つ事が出来る。また、この曼殊沙華が咲く道で、会える日を楽しみにしているわ。そして…これを貴女に返すわ」

 彼女は、髪をほどき、玉簪を私の手に乗せた。それは私と彼女を何より繋ぎとめるものだった。

 「村を離れ、嫁ぎ先に行っても、これがあったら、少しでも、寂しくなくなるでしょう?そう思って…。貴女もすっかり大人になった。きっと、この玉簪も似合うでしょう」


 しかし、言葉は落ち着いていても、彼女もまた、辛そうな表情を浮かべている。

 そんな顔を、別れの間際に見た、最後の彼女の表情にしたくない。


 「私も…想うは、貴女一人だけよ…。私を救ってくれた、優しい、白の曼殊沙華の精のお姉さん」

 私の言葉に、彼女は一瞬、驚きの表情を見せるが、やがて、ふっと微笑む。

 「もう、気付いていたのね、私の正体に」

 「ええ。貴女がよく、別れの間際に口にしてた言葉を手掛かりに調べたの。ここの曼殊沙華は皆赤いけど、一輪だけ…白の花がある」

 私は、次第に強くなり始めた朝日を浴びて、小さな灯火が燃えるように輝く、一輪だけの白い曼殊沙華に目を向けた。

 赤い花達の中で孤独に、しかし朝露を光輝かせ、気高く咲く白き花を。


 「生きてさえいれば、また会えるから。私の気持ちも同じよ。想うは、貴女一人だけだから」

 そう話す、彼女の目に浮かぶ、花弁の上の朝露の如き涙もまた、日の光を浴びて、宝玉のように煌めく。

 朝日で彼女が消えてしまう前に、その涙を止める術を、私は、一つしか知らなかった。

 私は瞼を閉じると、そっと、彼女の唇に、自分のそれを重ねた。

 彼女は、体を持たない花の精だ。

 その筈なのに、彼女と口づけをした時、私は、この身に浴びる朝日の光よりも熱い感覚を、この唇に確かに覚えた。

 「必ず、また会いに来てね…」

 彼女の声で、微かにそう聞こえた。今、瞼を開ければ、涙がとめどなく溢れだしそうで、目を閉じたまま、私はその声を聞いていた。

 

 瞼を開けた時には、彼女の姿はもう消えていた。

 彼岸の季節も、もうすぐ終わる。

 「貴女と過ごした、この場所にしか、私の青春の思い出はない…。白露の季節に、必ずまた、貴女に会いに来るから」

 冷たさを感じるようになった、朝の秋風に揺れる、白の曼殊沙華を撫で、私はそっと囁いた。


(了)

 

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