二人の旅人
梅丘 かなた
二人の旅人
一
ゼスがその街にたどり着いたのは、昼下がりだった。彼は、重いバッグを背負って、歩いている。歌の都と呼ばれるソダルの街の中を、のろのろと歩く。今頃、どこかのコンサートホールでは、美しい顔立ちの歌手が、今夜の出番に備えて、練習かリハーサルでもしているだろう、とゼスは思った。どのみち、自分には関係ない。今からではチケットは取れないだろうし、音楽をゆっくりと聴く気分にはなれなかった。
彼にとって、ソダルは、列車の旅の途中に寄った街の一つに過ぎなかった。うわさ通り、
ゼスは、街の老女に教えられた古い宿屋に向かっていた。彼は、宿泊できるのなら、どんなところでも良かった。旅のさなか、野宿をしたこともある。それと比べたら、どんな宿屋でも天国同然だった。
宿屋に辿りついた。百年前から変わらないであろう石の建物の中に、ゼスは入っていく。中は、思いのほか清潔そうで、新しかった。そう遠くない過去、内装工事をしたのかもしれない。
「あんた、すごいカッコだね。旅人?」
宿屋の主人が、カウンター越しに声をかけてくる。薄汚れた旅姿のゼスに対し、嫌そうな表情は浮かべていなかったが、歓迎しているふうでもない。
「まぁ、そんなところです。列車で一人旅をしているんですよ。一晩、泊まれますか?」
「今、空き部屋がなくてね。君と同様、旅をしている男のお客さんが一人いるんだけど、その人と相部屋になるのは、どう? ベッドは二つある。俺の方から、うまく言っておくよ」
「俺の方は、それで構いません。お願いします」
宿屋の主人は、階段を上り、二階に向かった。 すぐに戻ってきて、ゼスに伝える。
「向こうも、相部屋で構わないって言ってる」
ゼスは、ほっとした。これで、相手が常識的な人間だったら文句はない。
二
ゼスは、「5」と書かれたドアをノックした。
「どうぞ」
低い男の声が聞こえる。
ゼスがドアを開け、その部屋に入ると、イスに腰かけ、本を読んでいる男が一人いた。
男は、ハンサムではないが、独特の
「今夜だけ、俺と同じ部屋になっても大丈夫ですか?」
ゼスは、念のため聞いた。
男は、乾いた笑い声を響かせた。
「ずいぶんと丁寧なんだな。君の故郷では、それが当たり前なの?」
男は、握手を求めてきた。ゼスは、男の手を軽く握り、言う。
「初対面だし、一応」
ゼスは、男の手を離した。
「俺は、エディル。君は?」
「ゼス」
「ゼスか。よろしく」
会話は、それきりだった。エディルは、再び本を読みはじめ、ゼスはぼんやりと考え事をし始めた。
三
ゼスは、すぐに退屈になり、街に出たい衝動にかられた。しかし、街へ出ると、どうしても買物したくなってしまうだろう。旅費はなるべく節約したい。
「エディル、今、好きな人はいる?」
エディルが本を読むのをやめたタイミングで、ゼスは話しかけた。二人とも、イスに腰かけている。
「いないよ。いたとしても、大切にできないかもしれない」
そう言ったエディルの瞳は、かすかに
「旅をしているから?」
「それは関係ないな。旅をしてなかったとしても、一人と関係を続けるのは難しい」
「男を好きになったことはあるか?」
ゼスは、大した恐怖もなしに、質問した。現在、同性愛はたいていの地域で、特別、抑圧されていない。
「男を好きになったことしかない」
「エディルも? 俺も、恋愛の対象は、男だ」
エディルは、この偶然の一致を驚いていないし、ありがたがってもいない。ゼスは、そう確信していた。自分自身、大した
「男と最後に付き合ったのは、いつだ? 付き合ったこと、あるだろ?」
ゼスが問うと、エディルはほほ笑んだ。
「最後に別れたのは、二年前かな。色々あって、結局、別れちゃったよ」
「付き合ったのは、その一回きり?」
「いや、何度かあるよ。ある時は、職人と付き合ったり、またある時はレストランのシェフと付き合ったり。でも、一人で旅をしていた方が、よっぽど楽しいな」
ゼスは、寂しげなエディルの笑顔に、胸の中がかすかにきしんだ。
「今度は、君のことも聞かせてくれよ」
エディルは、笑顔のまま、そう言った。
「俺も、似たようなものかな。付き合っても長続きしないし、楽しいというより、苦しい感じ。あまり恋愛をしたいとは思わない」
「君、いくつになる?」
「27。エディルは?」
「俺は29。やっぱり、年が近いんだな。見た感じで、分かったよ」
やや間があって、エディルが続ける。
「俺は、もう少ししたら、旅をやめて、国に帰るんだ。やってみたいことがあるから」
ゼスは、それが何なのか、聞くことをためらった。しかし、好奇心の方が勝った。
「やってみたいことって?」
「旅行記を書くんだ。出版されるまで行かなくてもいい。ただ、旅で経験したことをつづりたくて」
エディルのその言葉に、ゼスは、やり切れない思いになる。
「俺は、何もやりたいことがない。旅から帰ったら、何をやるべきか……」
「きっと、何か見つかるよ」
そう言った後で、エディルは、ゼスの瞳を見つめた。ゼスは、胸がときめくのを感じた。恋に似た、その小さなときめきは、ゼスの胸にしばらく留まり続けた。
四
その夜、ゼスとエディルは、宿屋の一階にあるレストランで、一緒に食事をした。二人とも、旅費を気にして、あまり
部屋に戻った二人は、会話をせずに、地図を見たり、ぼんやりと旅の計画を練ったりした。
ゼスの胸は、今、満たされているようで、悲しいようでもあった。
エディルは、二つ並んだベッドのうち、片方に寝ころんでいる。その姿をもう一つのベッドの上からちらりと見ながら、ゼスは奇妙な感情になった。どこかで、こんな夜を経験したことがある。いつだったかは思い出せない。頭の中か、心の中で、その記憶が騒いでいる。
まだ部屋の明かりが点いたままで、二人とも眠るつもりはない様子だ。
「エディル、少し話をしないか」
ゼスがその言葉を言うには、何となく勇気が必要だった。
「いいよ。どんな話をする?」
エディルの顔が、ゼスの方を向いた。エディルは、ベッドに寝ころんだままで、ゼスは、ベッド上に座り込んでいる。
「どんな話でもいいけど……、エディルはもう恋愛をするつもりはないのか?」
「未来は分からない。今は、恋愛は嫌だけど、誰かと付き合う可能性だってある。君も、さっきは恋愛したいと思わないって言ってたけど、実は興味あるんだろう?」
ゼスは、やはり分かっていたか、と思う。
「まあな。ただ、恋をするのは、気が重くもあるんだ」
「気が重い、か。分かる気がするな。ある程度、恋がどんなものか知ってしまうと、な」
「もっと若いときは、恋を夢見ていた。それはそれで苦しい時期だったけど」
そう言いながら、ゼスは、エディルの心をもっと知りたくなっていた。
「エディルは、過去に戻りたいと思う?」
「思わない。過去には、嫌なことが多すぎる」
エディルの過去には、どんな出来事が存在したのだろう、とゼスは想像しようとする。しかし、具体的な出来事は何一つ思い浮かばない。
「俺は、過去に戻りたいと思う」
ゼスは、ぽつりと言う。さらに、続ける。
「後悔していることが一つ、あるんだ」
「どんなこと? 話せる範囲で、聞かせてくれよ」
エディルの瞳が、好奇の光を宿している。
「俺、前の恋人と付き合っているときに、他の男と寝てしまって……。要するに、浮気したんだ」
「俺は浮気したことないけど、そのくらいひどいことをしたことがあるよ」
「それって、どんなこと?」
「彼氏とケンカして、思わず殴ってしまったんだ」
エディルが人を殴るイメージがなかったので、ゼスは驚く。思わず、苦笑が
「それも、なかなかだな」
「ケンカの原因は、ささいなことだった気がする。口論がヒートアップして、気がついたら殴ってた」
ゼスは、エディルが、現在は誰とも付き合っていないという事実を思い出した。当然、その彼氏とも別れたのだ。
「その彼とは、どういう風に別れた?」
ゼスは、恐る恐る聞いてみる。
「暴力を振るうヤツとは付き合えないって言って、後で別れを告げられたよ。殴った俺が悪いんだから、自業自得だけどな。それが、前に言った、二年前の話」
「そうか……」
「君は、浮気した後、どうなった? 今、誰とも付き合っていないということは、別れたんだろ?」
「何となく終わっていった。今思うと、たぶん浮気もバレてた。普段から、その相手を大切にしていなかった気がする。だから、俺はそのときに戻って、やり直したいんだ」
「過去に戻るより、未来で出会う人を大切にすればいい。過去に戻れるはずがないんだから、それしかできないだろう? 過去にとらわれると、せっかくの未来が見えなくなる。未来に出会う人を、過去の誰かだと思って、優しくすればいい」
エディルのその言葉に、ゼスは
「俺の人生の後半で出会う人の方がラッキーだな。年月の分、少しは成長しているから、俺に傷つけられることも少ない」
そう言って、ゼスは笑った。
「そう考えたことは、俺もなかったよ」
「エディルの言葉で、何となく気づいたんだ」
やがて、どちらともなく、寝る支度を始めた。ゼスは、今の気持ちを取っておきたい気持ちだった。久しぶりに胸の中が満たされた気がする。
明かりを消すと、部屋が暗闇に包まれた。ゼスは、すぐに眠りの世界へと落ちていった。
五
朝の光が窓から漏れ出ている。ゼスは、眠りから目が覚めた。明かりをつけなくても、部屋の中は充分明るい。
隣のベッドに、エディルの姿がない。彼の姿は、部屋のどこにも存在しなかった。ゼスの心臓の鼓動がかすかに早くなる。
ゼスは、小さな机の上に、紙切れが置いてあるのに気づいた。
「一足先に出発するよ。君と出会えて、楽しかった。君と相部屋になったのは、ラッキーだったよ。よい未来、そしてよい旅を!」
ゼスは、紙切れに書かれた丁寧な文字をどこか他人事のように眺めた。
やがてゼスの胸を、小さな悲しみが
今、思えば、エディルがどこへ向かう予定だったのかも、ゼスは知らない。もう、エディルに会うことはない。その事実が、ゼスの胸を突き刺していた。
やがて、ゼスは旅支度を始める。新しい街へ向かうのだ。エディルの旅の幸運を祈りながら、ゼスは部屋を後にした。ドアを閉める。あとには何も残らない。やがて、新しい客が入っていく部屋。
ゼスは、エディルの優しげな顔を思い出していた。今頃、どこへ向かっているのだろうか。どこを旅して、やがてどこの国に帰るのだろう。
二人の旅人 梅丘 かなた @kanataumeoka
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