後宮の弔い人

白川明

後宮の弔い人

 自室に戻った私はすぐに机に向かい、日記を開き、筆を取った。


「よく飽きないわね」


 同室の鈴鈴れいれいは寝台に横たわりながら、言った。

 鈴鈴も文字の読み書きは出来たが、書を読むことも文を書くことも好んではいなかった。


「多分、私はこのために生きているのよ」

「ふうん……あなた男だったら良かったのにね」


 親族に何度も言われた言葉だった。

 でも、鈴鈴に言われてもそこまで心には刺さらない。彼女にとってのそれは、「帝のお手付きになって妃嬪になれたらいいのに」と同じくらいの意味のない声掛けなのだから。




 私の名は依依いい

 今は皇后さま付きの女官だ。

 数日前まではよう常在ーー楊雪月せつげつさまに仕えていた。


 ここはしょう国の宮城の一角、妃嬪の住まう後宮である。


 私は元々皇后さま付きの女官であったが、雪月さま付きの女官に異動になった。

 雪月さまはそれほど位の高い妃でもなく、帝のお渡りも絶えて久しい。しかし、皇后さまと古くからの付き合いで親しく、かつ立后に大きく貢献したという。

 雪月さまに仕える者に欠員が出て、数名の女官と宮女が補充された。そのうちの一人が私だ。

 

 お仕えするまで、雪月さまのことはあまり印象になかった。

 美しいが、地味だ。

 妃なのだからお美しいのは当たり前だ。ここは後宮、美女はそこら中にいる。私とて見てくれはまあ、良い方だと思う。そうでなければ女官になることは出来なかった。

 地味だと思うのは、その装いのせいだろう。

 いつも、頭から爪先まで、黒かその他の暗い色のものしか身に付けていなかった。

 他の妃嬪は装いも艶やかであるから、並ぶと、より彼女は霞む。




「依依と申します」


 私は雪月さまの前に跪いてそう挨拶した。


「立ちなさい」


 涼やかな声がそう告げる。

 私は感謝を述べて顔を上げる。


 そこだけ夜の闇を切り取ったような人がそこにいた。


「これから頼むわね……あら?」


 粗相をしたかと焦る私に、雪月さまはのんびりとこう言った。


「あなたの後ろにいるのはお姉さんかしら?」


 その言葉に私はぎょっとした。


 勿論、ここ雪月さまのお部屋には雪月さまと私しかいない。

 そもそも姉は、私の異母姉はこの世にはいない。



「お姉さん、まだいるのね」


 それから数日後のこと。私が雪月さまにお食事を運んだとき、そう声を掛けられた。

 雪月さまは銀の箸で食事をしている。

 何と返せばよいかと私は迷い、黙っていると、雪月さまは箸を置いた。


「驚かせたかしら。わたくしはね、亡霊が見えるのよ」


 何でもないことのように雪月さまは言った。


「お姉さんはあなたを怨んでいるのね」

「……はい」


 私は霊や妖などは信じていない。

 しかし、死んだ姉が私を怨んでいることは信じられた。


 私の父はいわゆる名家の出身だ。私を産んだ母は父の家の元使用人であり、妾だ。

 父には正妻との間にも娘が一人いた。それが姉だ。

 父は正妻よりも母を愛し、とうとう正妻と離縁し、母を正妻として迎えた。姉は四十歳上の商人の男の後妻として強引に嫁入りさせられた。そして程なく病死した。

 その男に嫁ぐのは私のはずだった。姉の母が私を追いやるために、父に内密に進めた縁談だった。私を溺愛していた父はそれに怒り、私の代わりに姉を差し出した。先方にとっては若い娘であればどちらでも良かったらしい。


 お前とお前の母さえいなければ。

 それが姉の口癖だった。



「怖がらせてしまったかしら」

「いえ、滅相もございません」


 私は姉が好きではなかった。父がいる時は仲の良い姉妹のふりをして、父のいない時は私をいないものとして扱った。

 それでも、姉が老人の慰み者にされたあげく死んでよかったとは思えない。

 私は逃げるように後宮で働くことを選んだ。


「恐れることはないわ」


 どこか厳かに雪月さまは言った。


「亡者に人を殺すことは出来ない。いつだって生者を殺すのは生者よ」




 雪月さまは死者が見える妃だった。


「ここです」


 雪月さまが指差した先は、地面が綺麗にならされていた。一度掘り返してから埋められたように。

 その言葉を受け、宦官たちが地面を掘り返す。

 ここは後宮内にある庭園だった。

 私は雪月さまを支えながら、宦官たちの仕事を眺めていた。

 ほどなくして、地面から布に包まれた何かが出てきた。


そう貴人です」


 行方不明になった妃の遺体だった。



 あのあと、私たちは遺体から遠ざけられた。

 自分の宮に戻ってきた雪月さまが椅子に凭れ掛かるようにして座った。


「お休みになられますか?」

「いいえ。わたくしは何もしていないもの」


 雪月さまは行方がわからなくなった曹貴人の亡霊を見て、彼女の遺体の場所を示した。

 今日に限らず、雪月さまは亡霊を見ては、様々な問題を解決していった。

 それだけ後宮をさまよう亡霊が多いとも言う。

 当然だ、後宮とはそのような場所だ。人が簡単に死ぬ。


 曹貴人は最近答応ーー雪月さまより一つ下の位から一気に貴人に上がった。入宮して間もない若い妃で、帝の覚えがめでたいらしい。

 現在、後宮で最も寵愛を受けているのは劉貴妃だが、曹貴人への帝の傾倒ぶりは彼女をしのぐほどだった。

 そんな曹貴人が数日前から姿を消していた。

 後宮を管理する皇后さまは早々に殺されていることを予測し、雪月さまに彼女の亡霊の発見を頼んだ。

 依頼を受けてすぐに雪月さまは曹貴人の住む宮を訪れ、彼女の亡霊を見つけた。そしてその亡霊の話を聞き、遺体が隠された場所を示した。



「曹貴人はどうして亡くなられたと思う?」

「……わかりません」

「そうね、わからないわよね」


 寵姫である劉貴妃は嫉妬深く、皇后の座を狙っていることを隠そうともしない。それだけ帝からの寵があつく、また父親は宰相であり、権力もある。

 ほぼ確実に劉貴妃か、その一派によるものだろう。


 しかし後宮では発言一つで命取りになりかねない。だから私は黙っていた。



 雪月さまが就寝されたのを見届けて、私は自分の部屋に戻ってきた。

 決して広くはないが、一人部屋であり、小さいが机もあった。

 私は日記を取り出し、文章をしたためた。

 字を学んで以来ずっと続けていることだった。

 その日の出来事や、考えたことを書き留めていく。

 近頃は雪月さまのことが大半を占めていた。



 数日後、曹貴人の下手人が捕まった。

 その翌日、劉貴妃が曹貴人殺害の罪で捕えられた。

 同時に皇后さまより、雪月さまに蟄居を命じられた。


 曹貴人殺害の幇助をした疑いあり、と。



 雪月さまはいつも通りの様子で過ごしていた。


「おかしいです」


 その日、私はとうとう堪えきれずにそう言ってしまった。

 雪月さまは首を傾げた。


「どうかしたの、依依」

「雪月さまがこうして外に出れないのはおかしいです。そもそもどうして曹貴人を殺したなんて……!」

「そうねえ」


 おっとりと彼女は笑った。

 なぜそんな顔をするのか私には理解できなかった。

 今はまだ疑惑の段階であるから蟄居で済んでいるが、確定となればよくて冷宮送り、悪ければ自害させられるか処刑されるだろう。

 そして、雪月さまに仕える私たちも無関係ではなく、連座させられることだろう。


「大丈夫よ。皇后さまが助けてくださるわ」


 何も心配はないと雪月さまは言った。


 その日の晩、私は眠ることができず、一晩中日記を狂ったように書いた。

 死にたくない。死にたくない。

 最後にはその言葉ばかり繰り返し、書いた。



 劉貴妃の自害が決まった。

 帝の子を身籠った曹貴人を殺害したとして。


 そして、雪月さまも死を賜ることとなった。

 遺体の場所がわかったのは、遺体の遺棄に関与していた証拠だとして。



 雪月さまが死ぬ日、皇后さまの訪問を受けた。

 皇后さま自ら、雪月さまに毒の杯を与えるため。


「お久しゅうございます」


 嬉しそうに雪月さまは言った。

 私は雪月さまの傍で黙って控えていた。雪月さま付きの宮女が数人逃亡した。私も逃げ出したかったが、当然捕縛されるのが明らかだったため堪えた。実際逃げた者はすぐに捕らえられ牢に入れられたという。


「変わらないわね、雪月」


 皇后さまは硬い表情に硬い声で答えた。


「あなた様も」

「最後だから、言いたいことがあれば言って頂戴」

「特にございませんが……ああ、わたくしに仕える者たちのことお願いしますね。決して連座させないように」


 え、と私は声を上げてしまった。

 それに雪月さまは微笑む。


「わたくし一人がやったことですもの。ねえ、娘娘にゃんにゃん?」

「……それがお前との約定だからな」


 不機嫌そうだが、当然だという口調で皇后さまは言った。


「なぜ……?」

 

 私は皇后さまと直答できる立場ではない。しかし思わずその言葉が口に出てしまった。

 慌てて口を押さえる。


「わたくしは娘娘にゃんにゃんと約束したのです。わたくしの一族を死に追いやったあの女を殺せば、わたくしが死ぬことを許してくださると」 



 五年前、わたくしは帝の子を腹に宿しておりました。

 皇太子がお生まれになる少し前のことです。

 そうです、わたくしと皇后さまは同じ時期に身籠っておりました。

 皇后さまが、まもなく臨月を迎える頃のことです。地方役人であったわたくしの父とその一族が帝に翻意ありという噂が流れました。もちろん偽りです。

 それを受けて、真偽も究明することなく、わたくしの一族は赤子に至るまで処刑されました。あの女の父親劉氏の圧力によって。

 大した名家でもない我が一族を潰すことは彼らには容易く、皇后派へのささやかな嫌がらせでした。

 わたくしは、帝の子を身籠っているために処刑を免れました。

 腹の子は流れてしまいました。一族の族滅の心労のためでした。加えてわたくしはその死産により、二度と子の産めない体になってしまいました。帝の寵もなくなりました。それは致し方ないことですから、いいのですが。


 けれども、わたくしはそのときから死した人々を見ることができるようになりました。

 

 わたくしが一番会いたい、我が一族は決して見ることはできませんでしたが。

 我が一族は後宮の外で死んだのですから、当たり前ですね。死者は強い思いが残る場所か、強く憎む相手の前にしか現れません。

 父も母も、兄や姉や、その子らもわたくしを憎んで恨んでくれたらどんなにかよかったのに。そうしたらせめて彼らに会えたでしょう。


 わたくしは死を望みました。

 けれども皇后さまが止めるのです。あの女が憎くないのか。一族の仇を放って、ただ後を追うのはあまりに親不孝であると。

 道理です。ですからわたくしはあの女を陥れたのです。

 あの女の一族を道連れに出来なかったのは残念ですが、贅沢を言っても仕方ありません。




「陥れた……?」


 雪月さまの長い独白を聞いた私は思わずそう呟いてしまった。


「雪月、私の女官とはいえ喋りすぎだ」

「娘娘、まだわたくしの女官ですわ。依依いまのことは忘れてくれると嬉しいわ」


 私は跪いて、はいと小さな声で答えた。


「雪月、もうよいか」

「待たせてごめんなさいね、娘娘。あと一つだけ依依に伝えればおしまいよ」


 雪月さまは立ち上がり、私のところまで来て、耳元で囁いた。


「もう亡者を恐れるのはおやめなさい。彼らには何も出来ないのだから」



 雪月さまは立ち上がると、皇后さまの足元で跪いた。

 皇后さまは部屋の入口近くに控えていた自分の女官に合図をした。すぐに女官が杯を載せた盆を持ってきた。それを受け取り、雪月さまに与えた。

 雪月さまはうつくしい玉でも受け取ったかのように、毒の杯をうっとりと眺めた。


 そして雪月さまは死を賜った。




 雪月さまが言ったように、私たちは連座を免れた。だから私も生きている。

 私は皇后さま付きに戻った。




「依依あんた何燃やしているの?」


 私が炭に千切った紙をくべていると、近寄ってきた鈴鈴が言った。


「よく燃えるでしょ」

「やだそれ、あんたの日記じゃない」

「いいのよ」


 私は微笑んでそう答えた。


 


 煙はたなびく。

 その煙は甍を越え、天に昇り、やがてこの宮城を見下ろすだろう。 


 やっと雪月さまの死を悼むことができた。そんな気がした。

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